日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

Appleが独立系アーティストを支援する。さて、日本の音楽業界は?

2021-05-12 11:42:51 | ビジネス

GW前に、Bloombergに気になる記事があった。
Bloomberg:アップル、独立系アーティストを支援するスタートアップに投資 (動画につき音声付)

この動画ニュースだけでは、Appleが投資する「ユナイテッドマスターズ」という企業が分からない。
詳しい情報はないか?と、調べてみると音楽関係のサイトではなく、技術系のサイトに情報があった。
TechCrunch Japan:Appleが独立系アーティストを支援する音楽配信プラットフォームUnited Mastersに出資

このUnitedMastersは、「独立系」と言われるミュージシャンの音楽を配信する、という事業を行っている。
いわゆる「大手レコード会社」に所属してないミュージシャンの楽曲を積極的に配信をするが、著作権などミュージシャンに帰属する権利などについては、管理をしないというのが、このUnitedMastersの大きな特徴ということになる。

このような事業が成り立つのは、ご存じのように生活者の音楽を聴くスタイルがレコードやCDという、「形」のある形態から、ダウンロードやストリーミングという「データ」という形態で、音楽を楽しむような変化によるところが大きいだろう。特にストリーミングはダウンロードとは違い、聴きたい時に配信サイトであるSpotifyやAppleMusicなどにアクセスをし、音楽を楽しむという方法だ。ストリーミングを普及させることができたのが、サブスプリクションと呼ばれる「定額利用」という課金システムである、ということは、ご存じの通りだと思う。

このUnitedMastersに出資しているのが、Appleだけではなくアルファベット(=Google)やTicTokなどのIT企業である、という点だ。
これらの企業に共通するのが、「配信事業」をしているという点だろう。
とすると、これからの音楽ビジネスの一つの形態として、UnitedMastersのように大手レコード会社に所属しないミュージシャンを世に出すことで、配信会社から利益を受け取り、配信会社側はミュージシャンが有名になる事でより多くの利益を得るという一つのビジネスモデルができるかもしれない。

このような音楽ビジネスが誕生する背景には、米国に根強く残る人種差別やラップミュージックのような、大手レコード会社が二の足を踏むような音楽分野があるからだろう(ラップミュージックの中心となるミュージシャンが黒人である、という点も大きいかもしれない)。
日本でも同じようなビジネスモデルが通用するのか?と言われれば、難しい点は多いと思う。
ただ、昨年メジャーデビューをした藤井風さんは、メジャーデビュー前からyoutubeなどの動画サイトを積極的に利用をし、メジャーデビューをした時には既に、数多くのファンがいた。
その意味では、大手レコード会社が積極的なプロモーションをする必要はなく、コアなファンによるSNS発信から新たなファン獲得をしてきた、という経緯がある。
それは藤井風さんに限らず、ここ2、3年メジャーデビューするミュージシャンやバンドに見られる傾向かもしれない。

まだまだ日本では、大手レコード会社と契約をしないと「プロのミュージシャン。プロのバンド」として認められないという傾向はあるが、配信サービスによる音楽の楽しみ方は軽々と国境を越えてしまう。
既に「日本だけを市場として考えれば良かった」という時代は終わり、UnitedMastersのような企業が登場したコトで、日本の無名ミュージシャンが、いきなり海外の音楽市場に登場する、という可能性もあるということを示しているのではないだろうか?
いち早くそのような動きをキャッチできる日本の企業は、どれだけあるのか?疑問に感じるところでもある。








「宝島社」の広告に見る、広告の役割

2021-05-11 17:57:23 | マーケティング

今朝、新聞を読んでいて驚いた。
新聞の中両面全てを使って、「宝島社」が広告を打っていたからだ。
単なる広告であれば、「はぁ~」と思いチラッと見て終わりなのだが、今回の「宝島社」の広告は、「わが意を得たり」という気がした広告だった。
Huffpost: 「タケヤリで戦えというのか」宝島社が意見広告で政府のコロナ対応を批判

記事のトップに今回の「宝島社」の広告があるので、すぐにわかると思う。
広告の真ん中に赤く突起物が出ている球体が、「新型コロナ」だ。
「コロナウイルス」の名前の由来通り、突起物の形が「太陽のコロナ」に似ている事から、「コロナウイルス」と名付けられている。
その「コロナウイルス」の新しいmRNA情報を持っているので、「新型コロナ」と名付けられた、ということになる。
海外での表記「COVIDー19」というのは、「コロナウイルスと発見された年号」の組み合わせだ。

「わが意を得たり」という気がしたのは、コピー文にある「タケヤリで戦え(広告では、わざわざ旧字体で表現している)というのか」というところだ。
昨年から、政府が「新型コロナ対策」として行ってきたことの多くは「善良なる市民による、良心的社会行動のお願い」だった。
それは「緊急事態宣言」による「自粛生活」というカタチになっているのだが、他に何をしたのか?と言えば「新しい生活様式」なるモノを発表し、生活スタイルを遵守するように、ということだった。
その一つが「マスクの着用」であったり「3密を避ける」なのだ。

その一方で、「効果があるのでは?」と期待された治療薬の治験や、「ワクチン開発」等への経済投資ということには積極的とは言えなかった。
3年ほど前に読んだ「遺伝子医療革命」という米国で出版され、日本語訳をされた本の中には「米国では、インフルエンザワクチンの研究開発を、常に行っている」という一節があった。
何故なら、「インフルエンザ・ウイルス」そのものが変異しやすいために、一種類のインフルエンザ・ワクチンだけでは、パンデミックに対応することができない、という考えがあるからだ。
米国の感染拡大の状況を見ると、「嘘だろ!」という気になるとは思うのだが、「ヒトゲノム」がすべて判明した時から、米国などでは、積極的に国が関与をしてこのような策をとってきていた(と言っても、トランプ政権下ではどのような状況だったのかは、不明)ということなのだ。

それに対して、日本の場合「ワクチン」に対する批判的意見などもあり、政府が予算面などで積極的に関わるということをしてこなかったのだ。
「基礎研究」が得意なはずの日本で、国産ワクチンを作れずにいる大きな理由は「ワクチンをつくる為の技術・研究の蓄積がされてこなかった」ということになるようなのだ。
讀賣新聞:「医療先進国」のはずの日本、なぜ遅れる国産ワクチン開発…技術育てず「蓄積」なし

このような状況下の中で、「Go Toキャンペーン」を展開する等政策のチグハグさが、国民の不信感となりそれが不満となっているのだ。
にもかかわらず、今だに政府から出てくる言葉の多くは、「気合と根性」のようなニュアンスの言葉ばかりだ。
そのような「気合と根性」を「タケヤリで戦う」という表現で、批判をしているのが今回の「宝島社」の広告だ。

「広告」の役目は、企業や商品時には自治体からの「お知らせ」という部分が大きく、生活者の多くは「お知らせ=広告」だと思っていると思う。
今回のような「自分の意見を述べる。あるいは生活者の気持ちや考えを代弁する」ということもまた、「広告」の大切な役割なのだ。

その意味で、今回の「宝島社」の広告は、今の生活者の気持ちや考えを掬い取り、表現しているのでは?と、考えている。


「東京2020オリンピック、パラリンピック」の開催と「新型コロナ」

2021-05-10 20:07:37 | スポーツ

今月に入り「東京オリンピック・パラリンピック」開催是非についての動きが、加速している。
「中止のデモが行われた」というニュースがある反面、「東京オリンピック」の模擬的な陸上イベントが行われたり、IOCと組織委員会は開催に向けての歩みを止める気配はない。
まさに「混沌」とした状態が、開催日を100日切ってから続いている、という状況だ。

IOCと組織委員会は「(新型コロナ感染の)危険性を排除し、開催をする」と言っているが、それが本当に実現できるのか?という、疑問は日本国内にあるはずだ。
何故なら「新型コロナ」の感染拡大に歯止めがかからず、昨年の今頃よりも日々状況が悪くなっているからだ。
だからこそ、感染拡大が急速に増え続けている自治体に対して、「緊急事態宣言」が発令され、飲食店や映画館、図書館などは営業時間の短縮要請や閉館の要請がされているのだ。

そのような状況の中で、IOCや組織委員会、日本政府の発言をみて「現実が見えていない」と、感じる生活者は多々いると思っているのだが、反面IOCや組織委員会、日本政府が「オリンピック・パラリンピック」というスポーツイベントに対して、見えている「風景」が違うために、このような意見の相違が起きるのでは?という気がしている。

IOCと組織員会の考えの中心に、「開催しないことで起きるリスク」があるのでは?という気がしたのだ。
「開催しないことで起きるリスク」というのは、テレビの放送権に対する違約金のようなものが中心だろう。
他にも、スポンサーへの違約金も発生するかもしれない。
とは言っても、スポーンサーへの違約金は、リオオリンピック終了直後から東京オリンピック・パラリンピック絡みでテレビCMなどを制作し、相当量のテレビCMを流し、「聖火リレー」でもスポンサー企業のAD広告をプリントしたトラックが、聖火ランナーを取り囲むように並走し、それがニュースとして流れれば「対費用効果」はあったのでは?と、判断されるかもしれない。

そしてもう一つ気になるのは、「万全な対策をすれば開催ができる」と考えているのでは?という点だ。
毎日新聞:世界陸連会長「五輪開催、厳しい状況だから意味がある」

世界陸連のセバスチャン・コ―会長の言葉の揚げ足取りをするつもりはないのだが、コー会長が言う「世界各国から300人が参加したした世界リレーで、陽性者が出なかった」というのは、選手とその関係者という限られた人たちのことを指しているのだと思う。
しかし、オリンピック・パラリンピックとなるとその規模も人数も、桁違いに多い。
それだけではなく、競技種目も多くメイン会場となる国立競技場には、常に人が入れ代わり立ち代わりし続けている。
その中には、ボランティアや報道メディアのような競技とは関係のない人たちも含まれている。
この報道メディアに対して、丸川五輪相は「海外の報道関係者は、決められて場所以外には行かない」と説明をしている。
朝日新聞:海外の五輪報道陣「うろうろ絶対ない」丸川氏が断言

現時点で「うろうろ絶対ないようにします」と、言い切ってしまうことに驚くのだが、選手を除くオリンピック・パラリンピック関係者の発言があまりにも楽観すぎて、逆に「本当にこの人達に任せて大丈夫なのだろうか?」と、不安を感じてしまうのだ。

イベントを主催する側にとって、何らかの事故が起きるということが、最大の懸念材料のはずだ。
だからこそ「最悪の状況を想定して、最善の対応策を練る」必要があるはずなのだ。
にもかかわらず「最善の対応策」となる具体性はなく、「最悪の状況」も想定していないように感じる「温度差」こそが、「東京オリンピック・パラリンピック中止」の声であり、「万全の体制で安心・安全なオリンピック・パラリンピック開催」の違いのような気がしているし、この違いの溝は埋まることが無いように感じている。


「本を読む」のは、何のため?フィクションを読めば「言語力」が身につく?

2021-05-08 20:02:40 | アラカルト

今朝、FMを何気なく聞いていたら、面白い話題があった。
何でも「読書でもフィクションを読むのか?ノンフィクションを読むのか?読む本によっては、語学力の身につく力が違う」というのだ。
もちろん、根拠なくこのような話をしているわけではない。
カナダにある、コンコルディア大学の調査で判明し、論文を発表している、という話だった。
TABI LABO: 「フィクション」を読むと「言語スキル」が磨かれる【研究結果】

おそらく拙ブログに来てくださる方の中には、「趣味・読書」という方々もいらっしゃると思う。
私も履歴書などの欄には、「趣味・読書」と書く事が多かったし、実際、ある程度子どもの頃から本には慣れ親しんだと、自負している。
だからこそ、「フィクション=言語スキルアップ」という繋がりを感じないのだ。

確かに子供の頃、楽しく読んだ本の多くは、「フィクション(=物語)」だったように思う。
それが大人になると「フィクション」から「ノンフィクション」へと読書が変わる、という傾向はあるのかな?という、自分の経験から感じてはいる。
感じてはいるのだが、だからと言って「言語スキル」に差があるのか?と、聞かれると「どうなのだろう?」と、思ってしまうのだ。

というのも、子どもの頃「フィクション」を読む過程で、物語の進行に合わせて頭の中で描く話もまた進行していった習慣が、「ノンフィクション」を読むようになっても、身についているからだ(あくまでも、個人的な感覚である点は、ご理解頂きたい)。
「フィクション」は頭の中で物語を想像する事だとすれば、「ノンフィクション」を読む時は、頭の中で自分に関係する事例を思いおこし、私ならどうするだろう?と、想像しながら読んでいるからだ。

随分前に拙ブログで書いたかもしれないのだが、「本を読む」ことと「文字を読む」ことは、別だと思っている。
幾人かの知人に、尋ねたことがあるのだが、「読書=文字を追って読むこと」だと思っている方が、案外多いことに驚いたことがある。
文字を追って読んでいるとすれば、それは「フィクション」であろうと「ノンフィクション」であろうと、物語や書いてある内容を追っていきながら、頭で想像することは難しいのではないだろうか?

「言語力」というのは、「数多くの場面に合わせて、適切な言葉を選ぶ力」だとすると、「フィクション」のほうが「ノンフィクション」よりも優位な要素は多いとは思う。
思うのだが、「ノンフィクション」を読みながら、自分に置き換えて「この時、自分はどうするだろう?」と考える事は、自分の頭の中で違う内容を組み立てるという作業をしている、ということになる。
当然、自分の頭の中で違う内容を組み立てるためには、それなりの「適切な言葉を選ぶ」ということを必要としている、ということにもなるのでは?

むしろ、子どもの頃から「文字を追っていく読書」ではなく、「自分で物語を組み立てていく読書」を身につけさせる事が、重要なのではないだろうか?
そのような中から「場面に合わせた言葉を選ぶ力=言語力」が、身についていくような気がするのだ。
そのためには「課題図書(を読んで感想文を書く)」などという「強制される読書」ではない、読書をすることが大切な気がするのだ。


歴史ある建物や街並みの売却先に、規制が必要なのでは?

2021-05-07 19:35:54 | アラカルト

朝日新聞のWebサイトに、「歴史ある建造物」についての記事があった。
朝日新聞:大阪の「太閤園」、跡地に創価学会が講堂建設へ

記事にある「太閤園」というのは、藤田観光の創業者藤田傳三郎男爵が明治43年に子息の為に建てた邸宅らしい。
第二次世界大戦などの戦火を潜り抜け、現在では広い邸宅をレストランや結婚式場などとして使っている。
もちろん、広大な日本庭園などは、レストランや結婚式場の利用者の散策路となっているようだ。
公式:太閤園

これだけの施設を維持することは、とても大変だと思う。
まして「コロナ禍」の中で、収益の中心となっているであろうレストランや結婚式場などは、集客が難しいという状況が続いてきたはずだ。
それでなくとも、「太閤園」を所有している藤田観光そのものも厳しい経営を迫られてきたはずだ。
だからこそ、売却ということになったのだと思う。
その売却先が、創価学会だった、ということなのだ。

来月末まで営業をする、ということなので今でもレストランや結婚式場となっている、邸宅は現存しているはずだが、記事の書き方が「跡地」ということになっている点が、引っかかる。
これらの建物や庭を取り壊し、更地にし「講堂」を建設する、ということのように読み取れるからだ。
古い仏閣や教会等はともかく、創価学会のような宗教法人が新しく建物を建てるとなると、その外観は全国統一された建物になる事が多い。
とすれば、「跡地に講堂建設」ということも、一旦更地にして新たに全国統一された「講堂」が建つ、と考えてしまうのだ。
これだけの素晴らしい庭園に趣のある建物を壊してしまうのは、「文化的損失」のような気がしてならないのだ。

何もこのような「歴史ある建物」の売却に絡むのは、「太閤園」だけの問題ではない。
先日も京都の不動産に国内外の富裕層が注目している、という記事があった。
京都新聞:国内外富裕層、京都の不動産に熱視線「割安」、コロナでも投資マネー流入

という記事があった。
「コロナ禍」だけではないが、富裕層を中心に「金余り」という現象が続いている、と言われている。
それが色濃く反映されているのが、「株価」ということになる。
これまでの様に、実体経済と株価が連動しなくなっている、という状況下の中で、京都(だけではないと思うのだが)の不動産投資に国内外の富裕層が目をつけている、ということの様なのだ。

とすると、投資した富裕層がどのような思いでその土地を買い、新たな資産を生み出すようにするのか?という点が、気になる。
何故なら、京都には京都らしい町並みがあり、その街並みそのものが「京都の文化」の一部であり、「京都の資産」でもあるからだ。
そのような場所で、投資目的で京都に似つかわしくない建物が建ったり、壊して更地にしたりすれば、「京都の文化」が失われることになる。
それはとりもなおさず「京都の資産を失う」ということにもなるのだ。

おそらく、今の日本の経済状況を考えると、京都だけの問題ではないような気がするのだ。
事実「太閤園」のような例もある。
これまで、「土地=資産価値」という発想はあっても、「建物や街並み=文化」という考えは無かったような気がする。
しかし、京町家にしても「太閤園」にしても、一度壊してしまえば再建築する事自体が難しい建物でもあるのだ。
単なる「中古住宅の売買ではない」場合、売買契約には「建物の価値とその建物を維持する」等の項目を入れる必要があるのではないだろうか?
一度失った「地域社会の文化」を取り戻すことは、できない。
だからこそ、失う前に「文化を守る」という発想が、土地や建物、街並みにも必要になってきているように思う。



 


いまだに「気合と根性」でオリ・パラ開催を目指すのは何故?

2021-05-06 18:36:27 | スポーツ

このGW中に「いまだに、気合と根性でオリ・パラが、開催できる」と、信じている人がいるのだな~と、驚いた。
産経新聞:安倍前首相、東京五輪「オールジャパンで対応すれば開催できる」

掲載しているのが産経新聞なので、おそらく安倍前首相の言葉は本当だろう。
そして「オールジャパンで対応すれば開催できる」という趣旨の記事を見た時、いまだに「気合と根性で乗り切れる」という発想なのか?!と、唖然とした。

おそらくこの発言は、その前にあった菅首相の「オリ・パラ開催時には、休んでいる看護師の方々に協力してもらえば、500人位は集まると考えている」という趣旨の発言をしたコトを受けての話だろう。
オリ・パラに関する医療者の協力というのは、このほかにもスポーツドクター200人のボランティア要請、という話もあった。
そのような経緯があったからこそ、安倍前首相の口から「オールジャパン」という言葉が出たのだと思う。

それにしても、いつの頃から日本の政治家は「第二次世界大戦末期のような思考」に、なってしまったのだろう?
今日本の政治を動かしている人たちの言葉は、「欲しがりません、勝つまでは」に近いような気がしている。
とにかく具体的な手立てを示すことなく、昨年から一貫して口にしている言葉は「自粛のお願い」だ。
やっとワクチンの話も出てきているが、何故か?国産ワクチン製造を推し進めるような事も無いまま、海外の製薬メーカーのワクチンを輸入する事になっている。
そして、ワクチン接種に関しては、各自治体に丸投げ状態だ。

元々基礎研究に強みを持つ日本であれば、製薬会社の垣根を超えた体制で「国産ワクチン」の製造を目指すと同時に「治療薬」の研究開発に資金提供をしたほうが、遥かに有益だったと思うのだ。
それを「Go To キャンペーン」に1兆を超える予算をつけ、「新型コロナ」の感染拡大を推進してしまった。

どう考えても、今政府が積極的に予算を投入すべきは、医療現場と医薬品産業のはずだ。
にもかかわらず、国民に向け発せられる言葉は「良心的社会行動」と「気合と根性」のような印象を受ける。
しかし、その「良心的社会行動」と「気合と根性」も、1年続けば我慢の限界を超えてしまうし、政府の失策が続けば、政府に対する信頼は無くなっていく。

そもそも、「仕事をしていない看護師が、数多くいる」ということと、「オリ・パラでボランティア活動ができる看護師が、数多くいる」は、同じ意味ではない。
深く考えなくても分かりそうなことを、首相たる人物が分からない、ということが不思議なのだ。
周囲にいるはずの官僚の方々も、そのことに気づかなかった、ということだろうか?

これらの発言から感じ取れるのは、「国民の事など考えてはいない」ということだろう。
そして開催にこだわる理由があるとすれば、「自分がオリ・パラを開催した時の首相である」という、自己満足のような気がしてくるのだ。





我慢できなくなった人達、それでも我慢したGW

2021-05-05 18:27:19 | 徒然

今日でGWが終わる。
一昨年までは、今日のニュースのトップは「成田空港では、GWを海外で過ごした人たちで混みあっています」というリポーターの報告からだった。
それが、昨年からは「新型コロナウイルス感染拡大防止のため、緊急事態宣言が発令されたGW。混雑しあう駅などは閑散としています」という内容に変ってしまったようだ。

とはいうものの、昨年と大きな違いは「緊急事態宣言」が発令されても、「1年以上外出を控えてきたが、もう我慢の限界」という気持ちが勝り、近隣の観光地へと出かけた人達が多かった、ということだろう。
特に、お天気が良かった一昨日・昨日などはBBQなどを近くの公園や河原(もちろん「火器使用可」の場所)で楽しんだ人達も多かったのではないだろうか?

「緊急事態宣言」発令直後であったため、予定されていた野外音楽フェスを中止することができなかった為、約1万人の人たちが集まり、地元の人たちを困惑させた、という記事もあった。
もちろん、主催者側は万全の対策を取り開催にこぎつけた訳だが、人が集まれば自然に「3密」が形成されるようになり、それを地元の人たちは懸念している、ということになる。

昨年であれば、このような野外音楽フェスなどの開催があれば、主催者側は当然参加人たちに対しても、相当厳しいコトがいわれたはずだ。厳しいコトというよりも「糾弾された」と言ったほうが良いと思うほど、世間の目は厳しかったはずだ。
それが、昨年ほどではない、という理由はいくつかあるはずだが、一番の要因は「東京オリンピック・パラリンピック」の開催に向け、東京都だけではなく政府が突き進んでいるからだろう。

愛媛県だったと思うのだが、「新型コロナ」の感染拡大で「聖火リレー」を止む無く中止をしたり、規模を縮小して開催、予定していたタレントや俳優の辞退が続く中でも、「聖火リレー」は進んでいる。
このような状況であれば、多くの市民は「オリ・パラをする気なんだから、自分たちだけが『不急不要』の我慢をするのが、バカバカしい」と感じても仕方ないのかもしれない。

他にも「感染防止」の本丸である厚労省職員が、大人数で歓送迎会をしていた、などのニュースは「これまで我慢してきたのは、何だったの?」という気持ちにさせるには十分だったはずだ。
人の気持ちというのは、「あの人がOKで、自分が✖という理由が分からない」と感じた時、「我慢の限界」を簡単に超えてしまうのだ。

それでも多くの人たちは、「我慢をしたGW」だったと思う。
その「我慢の限界にきているGW」だったのでは、ないだろうか?
だからこそ、オリ・パラ開催の為に「根性論」や「気合で乗り切る」的な政治家や関係者の発言は、生活者の心に響かないし、共感も得られないのだ。
この1年で、生活者の意識が大きく変ったのにもかからず、政治家の意識は変わっていない、そんなコトを実感したGWだった。



Amazonが、衣料品販売のトップシェアであった、という事実

2021-05-02 21:05:35 | ビジネス

タイトルの「Amazonが衣料売でトップシェアを獲った」というのは、実はアメリカでの話だ。
WWD Japan:アマゾンが衣料品販売で「全米トップシェア」の衝撃

世界的に「新型コロナ」の感染拡大する前から、アメリカのアパレル販売に関して厳しい状況が続いていた。
だが、大手衣料品販売店が相次いで破たんしたのは、昨年の春頃のことだった。
時事通信社:米小売り、コロナで深まる苦境 破綻続く恐れも

米国では、衣料品のJクルーが昨年春に破綻し、百貨店のニーマン・マーカスグループやJCペニーなどが破産申告の準備に入っている、と言われていた。
日本と米国の百貨店の大きな違いは、日本の百貨店がその名の通り「百貨=食品から家具、衣料品に至るまで様々な商品を扱っている」のに対して、米国の百貨店は衣料品などのアパレル関連商品が中心で、食品などの取扱がほとんどない、という点だろう。
その衣料品の売り上げが、「新型コロナ」の感染拡大によって決定的な落ち込みとなってしまった、ということだ。

もちろん、日本の百貨店でも婦人服などの売り上げが百貨店の収益を左右する、と言っても過言ではないのだが、その一方で「デパ地下」という言葉があるように、「百貨店グルメ」という独特な市場を創り出してきたのが、日本の百貨店でもある。

日本と米国とでは、アパレル商品の売り場となる場所が違っている、ということもあるだろうし、元々米国では通販で買い物をする、という行為自体は昔からあった。
百貨店のメイシーズなどは、通販が事業の始まりだったということ知れば、米国における通販の歴史の長さが分かるだろう(JCペニー同様、メイシーズも実店舗は苦戦を強いられているのが、現状だ)。
そのような「買い物文化」の違いと今回の「新型コロナ」の感染拡大により、Amazonで商品を購入する人が増え、特にアパレル商品においては、全米でのシェアがトップになった、ということなのだ。

日本では、以前からアパレルを中心とした通販会社のサイトがあり、平行してカタログなどを顧客に提供し、オリジナル商品の開発などに力を入れてきた、ということもあり、米国のようなAmazon一人勝ちのような状況にはなってはいないが、百貨店という実店舗での売り上げが著しく落ち込んでいることとには、変わりない。
それだけではなく、「バブル経済崩壊後」から日本の百貨店は売り上げが回復している、と言えない状況が続いている。
代わりに伸びてきたのが、イオンモールやららぽーとのような買い物だけではなく、遊びの部分もある郊外型ショッピングモールだ。
「家族で1日安価に過ごせる場所」として、人気があるのだ。

上述したように、米国と日本とでは生活者と小売店の関係が違う。
そのため、アパレル関連の売り上げでAmazonがトップシェアを勝ち獲るとは思えないのだが、Amazonが生活者に支持された結果として、日本の通販サイトなどは危機感とサイト運営など分析する必要がある、ということだと思うのだ。

 


「100均ショップ」が変わろうとしている

2021-05-01 19:59:23 | ビジネス

ファッション専門誌・WWDJapanのサイトに、少し驚くような記事があった。
WWDJapan:ダイソーがフランス製ネイル2ブランドを展開 ジェルネイル風の豊富な86色や除光液不要のネイル

ダイソーというのは、100均ショップの先駆けとなった大創のことだ。
これまでダイソーをはじめ、100均ショップを展開している企業の多くは、オリジナル商品の開発をし製造は中国やアジア諸国の新興国で行ってきた。
新興国で製造する理由は、ご存じの通り「人件費が安い」からだ。
もちろん、日本国内で製造されている文具などもあるが、ほとんどの商品は新興国で生産されている。
「100均」で商品が提供できるのは、そのような「人件費」が安いところで製造しているからなのだ。

それが「フランス製のネイルを販売する」というニュースは、驚きと共に意外な印象を持ってしまう。
確かにダイソーは今年に入ってから「100均ショップ」ではない、新しい業態の小売店の展開を始めた。
ダイソー:新業態「Standard Products」オープンのお知らせ

この新業態のショップが開店した時には、「無印良品そっくり」等と言われた。
価格的には、もちろん無印良品よりも安価とはなるが、既に「3Coins」という「300円均一ショップ」やデンマークの雑貨店「フライングタイガーコペンハーゲン」が、ライバルショップということになるだろう。

確かに「シンプルな商品」をコンセプトに展開をする、という点では「無印良品」に近い気がするのだが、今回のフランス製のカラフルなネイルを取り扱うということを考えると、「フライングタイガーコペンハーゲン」に近いような気がする。
何故なら「フライングタイガーコペンハーゲン」の主な客層は、高校生~大学生、OLという若い層だ。
そしてオシャレにも敏感で、カワイイ・カラフルと言ったココロがウキウキするようなコトが、大好きな層でもある。
とは言っても、お金をかけるわけにはいかないので、価格が手ごろで様々な商品が気軽に楽しめる、ということが購入の動機となる場合が多い。

これまでの「100均ショップ」では、取扱商品そのものは多い反面客層を絞るという点では、難しかったはずだ。
それは他の「100均ショップ」でも同じなのだが、他社に比べ「様々な客層に対応できる品ぞろえ」という点が、ダイソーの強みだったように思う。
そのような客層はダイソーにとって大切な客層なのだと思うのだが、ここ2,3年で試してきた「女子学生(女子高校生か?)と考えた商品企画」のヒットがあり、それを自信に「脱100均ショップ」というイメージを打ち出したいのでは?というの様に感じるのだ。
そして「フランス製ネイル」そのものは、ドラッグストアーなどで販売されているネイルよりも安価にするために、量などは少ないかもしれない。
その「量が少ない」というのも、「色々試してみたい」という高校生や大学生、OLの需要を見込んでの展開であろう。

新しい顧客層の獲得と旧来の顧客との棲み分け、これまでの「100均ショップ」では体験できないオシャレさ…100均ショップそのものが、変わろうとしているように思えるのだ。