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YOASOBIの「夜を駆ける」がYouTube で見られなくなった。嫌な社会空気感

2021-05-30 20:38:45 | 徒然

小説を音楽にするユニット・YOASOBIのヒット曲「夜に駆ける」のMVが、youtubeで閲覧禁止になっているようだ。
日刊スポーツ:YOASOBI「夜に駆ける」MVがYouTubeで視聴できず、公式が謝罪

このニュースを知った時、「1年以上も前のヒット曲が、何故に今更?」という、疑問があった。
YOASOBIがこの曲をリリースしたのは、2019年で昨年のNHK紅白歌合戦にもこの楽曲で出場している。
ストリーミングの再生回数も3億回を超えるほどの、人気楽曲でもある。
そのような楽曲がなぜ、今になって?という点で、疑問なのだ。

どうやらYouTubeで見られなくなった理由として、YouTubeコミュニティーから「内容に問題がある(どうやら自殺などを思い浮かべる内容ということのようだ)」という指摘があり、視聴することができなくなったようなのだが、以前MVを見てもそのような印象が無かった私としては「???」でしかない。

というのもこの「夜に駆ける」という作品だけではなく、YOASOBIの楽曲が上述したように「小説を音楽化する」というユニットだからだ。
元々この「夜に駆ける」という楽曲にも、原作となる小説があり星野舞夜さんの「タナトリスの誘惑」という作品をベースに作られているからだ。
「タナトリスの誘惑」という短編小説を読んだことが無いので、その内容が自殺を扱っているものであるのか?という点は、分からないのだが、少なくとも歌詞を読む限りは、そのような印象を受けない。

MVそのものは、楽曲のイメージに合わせてつくられるものであり、YOASOBIの場合音楽ユニットということからアニメーションのMVになっている。
何となくだが、今年の始めに話題になったAdoの「うっせいわ」と、同じような感覚で「見せたくないMV」という大人の判断があったのでは?という、気がしている。

そしてこのような「規制」がされる事に、とても嫌な社会的空気感を感じるのだ。
「うっせいわ」という楽曲は、親が子どもに聞かせたくない、という理由があった。
しかし、子どもたちからすれば「うっせいわ」と連呼される事で、その意味よりもリズム感などで人気となった。
もちろん、思春期の若者たちにとって「大人の言うこと」に「うっせいわ!」と、言いたくなることも多々あると思う。
まして今の様に、国の権力者と言われるような人たちの様に「自分の都合」ばかりを主張して、「責任の取り方も知らない」ような態度や、フラフラと言い逃ればかりするような姿を見ていれば、「大人なんか信用できない。うっせいわ」と言いたくもなるだろう。
その意味で、ヒット曲というものは社会の空気感を表す存在である、ともいえる。

もしYOASOBIの「夜に駆ける」が、何らかの問題があると考えるのであれば、YouTubeコミュニティーという限られた中ではなく、多角的な考えを基にこのMVを考えれば良いだけだ。
そのような「考える」ことを止めさせ、誰か一部の人達が「(過剰に)危険だから」と判断することのほうが、問題なのだと思う。

確かに「不快に感じること」を見せつけることは、社会全体にとって「負の要素」かもしれない。
だが「負の要素」を排除し続けることは、「負の要素とは何か?」ということを考えないようにしてしまう、というより深い問題をはらんでいる。
それが時には、生活者を思考停止をさせ、「全体主義的」な社会を創ることにもつながる、ということを歴史が教えてくれている。
YOASOBIの「夜を駆ける」MV視聴停止が、全体主義へ突き進むその一つのような気がして、ならないのだ。