東京での「新型コロナウイルス」の感染者が181人、大阪では90人を超える状況になってきた。
今週に入り、感染者数が急激に増えている、という気がしている。
ということは「新型コロナウイルス」の潜伏期間が約2週間と考えると、やはり3月の連休以降に花見など「3密」状況の中で、感染した人達が症状となって表れ始めた、と考えたほうがよさそうだ。
日本では、客船「ダイヤモンド・プリンセス号」の船内で感染者が発生し、PCR検査が始まったのが2月18日。
このころから日本では「新型コロナウイルス」についての報道が、一気に増え多くの市民が「戦々恐々」とする日々が始まった、ということになる。
とすると、既に1ヵ月半以上この「戦々恐々」とした日々が続いており、その間には「臨時一斉学校休校」があったかと思えば、いきなり「休校解除」のような指示があったりと、混乱の日々も続いているというのが現状だろう。
そのような状況の中で「コロナ疎開」とか「コロナ疲れ解消お出かけ」と言われる、人の移動が起き始めている。
人の移動と言っても、多くは「緊急事態宣言」が出された地域から、感染者が少ない地域への移動という場合ばかりだ。
もちろん政府をはじめ医療関係者が、声を大にして「人の移動が、感染拡大を招くのでやめて欲しい」と言っても、移動する人は、移動してしまう。
「自己中心的」等と言われても、「新型コロナ感染から逃れる為」という理由で、移動してしまう。
そこには「自分がウイルスの保有者かもしれない」という意識ではなく、「新型コロナから逃れたい」という、気持ちの方が優先された結果の行動なのだ。
ところで、これほど「人の移動」がたやすくなったのは、56年ほど前からなのだ。
56年前=1964年の東京オリンピックが開催されても、東名高速はまだ開通していない(東名高速の開通は1968年)。
おそらく1964年までに開通していた高速道路は、名神高速だけだったはずだ(名神高速の開通は1963年)。
当然、自家用車そのものも普及しておらず、政府肝いりで生産された「国産自動車」の代名詞となったトヨタ自動車の「パプリカ」等は庶民にとって高嶺の花のような存在だった。
この時の「パプリカ」のキャッチフレーズは「ファミリーカーのトヨタ」だったのだ。
まだまだ「ファミリーカー」という存在が、庶民には手が届くものではなかった、ということをよく表していると思う。
当然、新幹線の開通は1964年なのはご存じの通りだが、当時「新幹線に乗車する」こと自体が、憧れのようなものであり、電車というよりも汽車での移動には相当な時間が必要だった。
ということは、1964年の東京オリンピックの頃の生活者にとっての遠出とは、今よりももっと身近な場所に限られていたのだ。
今のように高速道路や新幹線を使って、移動するということ自体出来なかった時代が、半世紀前には当たり前のようにあったのだ。
だからと言って、当時の人たちが「生活を楽しんでいなかった」というわけではない。
遠出ができなくても、「近所で過ごす。家の中で過ごす楽しみ」を持っていたのだ。
ゲームやインターネットなどが無くても、工夫をして楽しむという「創造性」を力にしていたのだ。
「コロナ疲れ」というのであれば、この時こそ親子で読書を楽しむとか、一緒に家の中でローテックな遊びにチャレンジする等、50年余り前まで時計の針を戻して、その当時の暮らしを想像してみてはいかがだろう。
あくまでも個人的なことだが「一人でいる」ことが苦痛だと思う人は、「孤独」の楽しさをもっと知ってもらいたいと思っている。
「孤独」は辛いものではなく、自分の好きなことを思う存分、誰に気兼ねする必要もなく楽しめる時間だからだ。