はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

“それ”は、戦争中に佐瀬勇次が発見した

2013年02月21日 | 横歩取りスタディ
 佐瀬勇次(させゆうじ、1919-1994)、千葉県出身、石井秀吉門下 


 “横歩取り8二飛戦法”は、佐瀬勇次さんが発見しました。
 戦争中、華北での4年間の軍隊生活中に思いついたんですって。実戦で初めて指したのは、1944年(まだ戦時中ですね)の奨励会での加藤博二戦。

 佐瀬さんは、先々月亡くなられた米長邦雄元名人の師匠ですが、上の棋士系統図を見ればわかるように、高橋道雄、丸山忠久、木村一基らたくさんの有名棋士の師匠でもあります。藤井猛、三浦弘行も佐瀬一門ですし、この図には載っていませんが、女流の中井広恵も佐瀬勇次の弟子です。
 「藤井システム」も「中座流8五飛」も、佐瀬一門から生まれ出たのですね!

 佐瀬勇次の順位戦の最高位はB1クラスで、1952年の1年間のみ。どうやら、B1に昇る原動力になったのが“佐瀬流8二飛”かもしれません。佐瀬さんは“8二飛”で5勝2敗と、加藤治郎氏の本には記されています。年齢は、升田幸三の1つ下となります。
 残念ながら佐瀬勇次の指した“8二飛戦法”の棋譜はみつかりません。


 ところでこの棋士系統図、佐瀬勇次の師匠の石井秀吉の師匠は、川井房郷という人物なのですが、この人がどういう人なのか気になります。ネットで調べても、わからないのです。わかったのは、名古屋生まれだということくらい。
 今の棋士は東京の棋士は3分の2が「関根金次郎一門」に属することになるのですが、この「川井房郷一門」は別系統ということになります。もとをたどれば、あるいは川井房郷氏も関根金次郎と同じ伊藤宗印(十一世名人)の門徒かもしれませんが。



 「二上達也‐熊谷達人戦」 1955年 順位戦(B1)

 今日の棋譜はこれ。
 二上23歳、熊谷24歳。“達達対決”ですね。この若さでB1クラスという前途有望な二人の一戦。

二上達也‐熊谷達人 1955年
 熊谷達人(くまがいみちひと)の“横歩取り佐瀬流8二飛戦法”となりました。

 〔 熊谷君は現役の指し盛りに顔面の奇病にとりつかれ、昭和五十二年の四月に四十六歳の若さで亡くなった人だ。大阪の旧制天王寺中学を出た秀才で、努力家でもあった。いつもにこやかな人で「極楽鳥」のあだ名があった。長考型の粘っこい将棋を指した。 〕(升田幸三 『升田幸三選集』から)
 升田と熊谷とは、とても仲が良かったらしい。
 

 先手二上達也(ふたかみたつや)は8三歩から8四飛。8四飛に、8八角成なら、「同飛」と取って、後手からの“王手飛車”の狙いは空振りになる。

 〔 二上君は攻めの鋭い棋風で“攻めの二上”と言われたが、その後どういうわけか“受け”に変わって伸び悩んだ。 〕(升田幸三 『升田幸三選集』から)
 二上のタイトル戦登場回数は26。(これは升田幸三、加藤一二三よりも多い。) 

 
 8筋は、後手から「8二歩」と歩を合わせて、図のような形になった。
 後手熊谷、ここで持駒の角を3一に打つ。
 7六飛、8四歩、3六歩、5四飛。
 3一角で7六飛とさせて、8四歩。次に8三銀とするねらい。


 5四飛の形はかっこいい。意味としては、先手の3五歩からの3筋の攻めに備えた手。
 ここから、3七桂、2四飛、2五歩、3四飛、2七金、5三角、3五歩と進む。
 後手の2四飛~3四飛がどうだっただろうか。ここはせっかくその前に8四歩としたのだから、8三銀と指すべきだったかもしれない。後手の玉はこのままでは危うい。金銀が左右に分裂しているから。


 二上は相手の動きに乗じて右金を前進させたが、これが機敏だった。
 図から、3五同角、3六金、6二角、3五歩、1四飛、4五桂。
 金が自由に動けるのも、後手が「角」を手離したため。相手の「角打ち」を怖れ心配する必要がない。それどころか二上は、熊谷の「角」を目標に攻めをスピードアップ。


 4五同桂、同金、2六歩、同飛、3四銀、2四角。
 後手熊谷も2六歩から3四銀と、技を繰り出す。この銀を同歩と取ると、2六角で後手は飛車を取れる。


 しかし二上、2四角。王手。この手があった。後手が玉を逃げれば、3四金で銀がただ取りできる。
 実戦は、2四同飛、同歩、4五銀、2三歩成、3一金、2五歩、6六飛。
 後手駒得だが…、ここからの先手二上の攻めが冴えていた。


 5二玉、3七桂、5四銀、3四飛、4四角、4三と、同銀、3一飛成、4一金、2一竜、1二角。 


 1二角。攻防の角。
 2五竜、5六歩、同飛、同角、同歩、6二玉、4五桂、7一玉。


 こうしてみると、後手の右辺の“コリ形”が痛い。
 2一龍、3二銀、4三角。

 
 4三角という手があった。(6一金の詰めろ)
 4三同銀、4一竜、6一桂、4三竜、3五角、5二金、8三銀、6一金、8二玉、3二竜、2六角打、5三桂成、同角、同桂成、同角、6五桂。

投了図
 先手は最後、左の桂馬まで寄せに参加させて、熊谷たまらず投了。 106手、二上達也の勝ち。
 この将棋は、先手の二上の攻めが俊敏だった。後手の角打ちを逆用して快勝。

 二上達也はこの年、10勝1敗で昇級、新A級八段となりました。
 一方の熊谷達人は3勝8敗、本来なら降級の星でしたが、運よく免れました。そして3年後にはやはりA級八段になりました。



 “佐瀬流8二飛戦法”は、先手の8三歩に5二飛として中飛車になりますが、すると「中住まい」に囲うことはできませんね。では玉をどう囲うか、また、2筋、8筋の歩をいつどこに打つか、それが大変にむつかしい。それを考えるのがこの後手の戦法の“楽しみ”でもあるのですけれど。




『平手相懸定跡集』の中にある“横歩取り8二飛戦法”

▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩  ▲7八金 △3二金
▲2四歩 △同歩 ▲同飛 △8六歩  ▲同歩 △同飛 ▲3四飛


 この図で、先手が3四飛と横歩を取ったとき、1800年頃は、(1)3三角、(2)4一玉、(3)8八角成~4五角、(4)8八角成~3八歩、(5)8八角成~7六飛などがすでに指されていたようで、この『定跡集』に載っています。(『平手相懸定跡集』は江戸時代の将棋定跡書)
 「佐瀬流」の指し方、すなわち図ですぐに8二飛という手はこの本にはありませんが、ちょっと違う「8八角成、同銀、8二飛」の指し方は研究されているようですので、それを見てみましょう。

 図より、△8八角成 ▲同銀 △8二飛


▲8三歩 △同飛 ▲2四歩
 佐瀬流と違って、8三歩を「同飛」と取れる。
 (8三歩に5二飛の変化は後で記す。)


△3三歩 ▲3六飛 △2七角
 「2四歩」が定跡手なんですね。してみると、前回記事で紹介した「升田幸三‐塚田正夫戦」の升田2四歩は、これを知ってのものだったかもしれませんね。


▲5六角 △8八飛成
 後手の2七角に、5六角と打つ。飛車取りと同時に、2三歩成がある。


▲8八同金 △3六角成  ▲同歩 △7九飛
 後手は飛車を切って攻める。


▲6九飛 △7六飛成 ▲2三歩成 △5六龍 ▲同歩 △2三金  ▲4五角
 7九飛には、6九飛と先手で受け、2三歩成。

 これにて先手よし、だという。なるほど。



 さて、先手の8三歩に、5二飛とするとどうなるか。その変化についても考慮されています。
 △5二飛 ▲2四歩

変化図1
△3三歩 ▲3六飛 △2七角  ▲2六飛 △4五角成
 やはり「2四歩」と打つらしい。

変化図2
▲3六角 △3五馬 ▲2八飛 △2二歩

変化図3
▲6三角成 △7二金 ▲5二馬 △同玉 ▲4八銀

変化図4
 これにて先手良し



 後手にもまだ変化の余地はありそうですが、一応、1817年に出版された『平手相懸定跡集』にはこういう定跡が書かれています。
 この書物は、「大橋宗英(九世名人)の定跡書」とされていますが、実際に書いたのは宗英の門人の藤田桂立だとか。
 明治、大正、昭和初期の将棋指しはこの定跡書をよく参考にしていたようです。それで、この、先手が「3四飛」と横歩を取る将棋は、そこで後手から様々な手段があるのですが、しかしどの手段も概ね「先手良し」の変化が出てくる。そういう認識になって、昭和初期(戦前)には、もう、この型で後手が「8六歩、同歩、同飛」とすることも少なくなっていたようですね。20年とか30年とか指されなくなると、みんな忘れてしまうんですね。

 戦後、横歩取りの“佐瀬流”の発見は、先手が横歩を取ったところで、そこで「8六歩、同歩、同飛」もあるのではないか、と戦後の新しいプロ棋士たちに再考させるきっかけになったところに、おおいに意義があったのではないかと、僕は思います。


 
 1955年の広告。 新製品のラジオ、¥17,800。 超高級品だったでしょね。1960年代でさえ、サラリーマンの初任給は2万円以下だったといいますから。ちなみに、同じ1955年の広告でテレビの値段(シャープ)をみると、¥84,500になっています。 


 「横歩取り佐瀬流8二飛戦法」の本ブログ内の記事
  『“横歩取り8二飛戦法”を指してみた
  『創始者はだれなのか “8二飛戦法”
  『“それ”は、戦争中に佐瀬勇次が発見した
  『1955年 プロレスごっこ、将棋、李承晩ライン
  『“佐瀬流”vs郷田新手2四飛
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