はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

1955王将戦 升田の復活

2013年02月27日 | しょうぎ
 升田幸三の夫人升田静尾さんの語りによる『鬼手仏心』によれば、升田幸三はノコギリで木を切るのが大好きだったそうです。
 この頃の夫婦は、「○○ですか。」とか、「○○しなさい。」とか、敬語だったりするのがなんか、いいですね。その距離感が。(そういえば、『サザエさん』の波平さんとフネさんがそうか。)


 1955年第5期王将戦七番勝負第1局 升田幸三‐大山康晴戦

 対局日は1955年12月13・14日。王将は大山。挑戦者は升田。

 前年度1954年度の名人戦は升田幸三が挑戦者になりましたが、名人大山康晴が4-1で防衛。その年はその後升田はA級順位戦を病気休場。盲腸の手術で入院もしましたが、悪いのはそれだけではなく、いろいろあったようです。
 升田さんは1955年の順位戦には復帰して、しかし完調というわけではなく、体をいたわるように対局に臨んでいました。それまでの「全力で疾走するような将棋」ではなく、「マラソンのように相手についていくような将棋」を心がけました。
 それがうまくいったか、升田さんは、第5期王将戦の挑戦者になりました。(ちなみに第1期王将位のタイトル保持者は升田幸三です。)


初手より
▲7六歩 △8四歩 ▲2六歩 △8五歩 ▲2五歩 △3二金  ▲7七角 △3四歩 ▲8八銀


△7七角成 ▲同銀 △2二銀  ▲3八銀 △6二銀 ▲7八金 △3三銀
▲2七銀 △7四歩  ▲2六銀 △7三銀
 「角換わり(かくかわり)」の序盤。ここで後手から7七角成と換えるのが定跡だし、現代の常識なのだけど、戦前、つまり昭和初期とそれ以前の将棋指しは角交換をしない。どうも角交換は「本格派ではない」というような、素人将棋扱いだったのだと思います。みんな「角交換将棋」を避けていたのです。
 だから1945年以前の将棋指しを相手にこの序盤をやっても、「角交換」を後手はしてきません。そうすると先手は2四歩から2筋の歩が切れるので先手が得だ――というのが現代の考え方で、だから「7七角成」とするのだが、昔の人はそう考えない。「2筋の歩を切らせてもよいが、角交換は嫌だ」が主流なのです。

天野宗歩‐香川栄松 1836年
 これは先手が「棋聖」と称された天野宗歩の将棋。江戸時代の、幕末の時期の人です。
 天野宗歩はどうやら「角換わり(角交換)将棋」が好きだったようです。ところが図のように相手(後手番)が角を換えてこない。先手から角を換える(2二角成)は、いったん7七角としている以上、やりたくない(二手損になる)。ということで、先手の宗歩は6八角と引いて、次に7七銀として「矢倉」にするのです。先手番としては、2四歩から歩交換ができるので不満なしの序盤です。
 でも、「たまには換えて来いよ、角換わり将棋、指そうぜ」と思っていたのではないでしょうか。
 この形で天野宗歩が後手番のケースだと、角交換将棋になっていくのですが。

 こんな感じで、戦前までの将棋指しは「角換わり将棋」を避けていました。
 1917年の「土居市太郎‐坂田三吉戦」は、坂田三吉が強引に角を換えて、プロ棋士初の「後手一手損角換わり」となったわけですが、こうでもしないと、当時は「角換わり将棋」にはならないわけです。坂田さんは、定跡形から外れた変わった将棋を指したいということで、その対局では「角交換将棋」を望んで、そうなったのでした。


 戦後になって、木村義雄や升田幸三が積極的に「角交換将棋」を指し始めました。



▲1五銀 △5四角
 先手の升田幸三、「角換わり棒銀戦法」です。
 戦後すぐの時に升田幸三が得意としていたのは「角換わり腰掛銀」でしたが、1950年の順位戦の塚田正夫との対局で後手の塚田さんが「角換わり棒銀」をやってきました。それを見て升田は「俺にむかって、ヘボの棒銀できおったか」と言いましたら、塚田が「いや、最初は腰掛銀のつもりだったが、隣の高柳君の顔を見ているうちに気がかわった」と答えました。対局中の会話です。(真面目か!)
 その将棋は先手の升田が勝ちましたが、1か月後、木村義雄名人を相手にして、(今度は先手番ですが)升田が「角換わり棒銀」を使いました。塚田との対局の経験で、これ(棒銀)はものになる、と感じたようですね。それ以来、棒銀は升田の愛用戦法になっています。
 塚田、升田が指せば、流行りはじめます。皆、指すようになりました。
 その頃は同じ「角換わり将棋」でも「角換わり腰掛銀」が爆発的に大人気だったのですが、それがあまりに沢山指されすぎて飽きられてくると、’50年代半ばになって、こんどは「棒銀」が流行りました。特に「棒銀」を得意としている棋士として有名だったのは、松浦卓造さんです。

 塚田正夫が口にした「高柳君」とは、高柳敏夫さんのことで、後に中原誠十六世名人や島朗(元竜王)さんの師匠になる人として、今では“名師匠”のイメージですが、その将棋は“異常感覚”などと当時は仲間内では呼ばれていました。戦後、「棒銀」を最初に指し始めたのがだれかは判りませんが、高柳さんがよく「棒銀」を使っていたことは確かです。プロの将棋で「棒銀」を用いることがそれまでは少なかったということです。高柳敏夫が“異常感覚”と呼ばれたのは、たとえば相掛りの「浮き飛車棒銀」が周囲を驚かせたのです。

高柳敏夫‐灘蓮照 1953年
 高柳さんのこういう手が“異常感覚”と周囲に呼ばせた。「相掛り浮き飛車棒銀」は高柳敏夫の創始。

丸田祐三‐高柳敏夫 1950年
 これは始めは「角換わり」の将棋で、8三銀と棒銀に出ると見せてそのまま動かさず。自陣角をお互いに打ち合って、ここで後手高柳5二金。こんなのが“異常感覚”の高柳将棋。



▲3八角
 棒銀対策はいろいろある。定跡の本によく書かれているのが図の「5四角」の手。
 これは先手が「2四歩」なら、同歩、同銀、2七歩で飛車先を止める。先手の棒銀戦法を逆手にとろうという作戦。と同時に、6四銀から7五歩の攻めもあって、この攻めも強力な攻めだ。
 この「5四角」、だれが最初に指したのだろう?

塚田正夫‐高柳敏夫 1950年
 僕の探した内では、この将棋が一番古い。先後が逆で一手ずれているが、先手の塚田正夫が「5六角」(5四角)を指している。

 さて、ここで「升田新手」が出ました。



△2二銀  ▲2四歩 △同歩 ▲同銀 △2三歩 ▲1五銀 △6四銀
▲4六歩 △7五歩 ▲同歩 △同銀 ▲7六歩
 「3八角」が、1955年度王将戦第1局で升田幸三が指した新手。この手はもう有名ですね。
 これなら、2四歩、同歩、同銀、2七歩を、「同角」と取って先手が優勢になる。
 この「3八角」では、他にも手はあるかもしれないが(たとえば5六歩と突いて後手の角をいじめにいくとか)、2六飛は指さない方がよい。2六飛には、2二銀で、次に1四歩で銀が死ぬので、また飛車を動かさなければいけなくなる。(2二銀に2四歩は、同歩、同銀、2三歩、1五銀、1四歩でやはり銀損になる。)実は筆者もうっかりこれをやって失敗した経験あり。経験は偉大なり。

参考図
 「5四角」に、この参考図のように「3六角」という手もある。
 僕はネット将棋で後手番を持って「5四角」と打ったときに、この「3六角」という手に何度も遭遇している。初めに見た時は「こんな手があったか!」と驚いて、5四角、3六角、同角、同歩、6四角、3七角、同角成、同桂、5四角と進んで、その後勝負には負けて、どう指すのが正解だったかとモヤモヤしたが、その対応は“正解の一つ”だったようだ。
 もう一つ、“正解手”があって、それは「3六同角、同歩、1四歩」。 これは先手も2六銀とバックするしかない。2四歩は、同歩、同銀、同銀、同飛、1五角で、王手飛車がかかる。
 どちらの“正解手”でも、一局の将棋。
 元々は、この「3六角」の方がよく採用されていた手だったようです。それが「升田新手3八角」がインパクトが強く、その後よく指され、将棋の教科書本にも載るようになったので立場が逆になり、以前は“平凡手”だった「3六角」のほうが、“秘手”のようになって使われているというのは、面白いことです。
 僕は今まで「3六角」を説明したものを読んだことがありませんでしたが、『升田幸三選集』の本局の解説には書いてありました。



△6四銀  ▲2六銀 △4四歩 ▲2五銀 △4三角 ▲5八金 △1四歩
▲3六銀 △3三銀 ▲6六歩 △4二玉 ▲6七金右 △5二金 ▲6八玉 △3一玉 ▲4五歩
 升田の「3八角」は、単に2七に利かせただけではなく、4六歩とすれば左方面に働くのが升田の自慢。図の7六歩を、同銀は、同銀、同角、6五銀で角が死ぬ。8六歩、同歩、7六銀は、同銀、同角、8三銀と指す。
 大山の銀は6四にバックするしかない。しかし一歩を手にした。


△5五銀 ▲4四歩 △同銀引  ▲4五歩 △5五銀 ▲4七銀 △4二金右
▲5六歩 △6四銀  ▲4六銀 △7五歩 ▲同歩 △同銀 ▲7六歩 △8六歩
▲同歩 △同銀 ▲同銀 △同飛 ▲8七歩 △8四飛
 4五歩と升田は仕掛けた。同歩なら、5六金と出るのだという。5六金、5四歩、4四歩、同銀、4五銀で先手させるが升田の読み。
 大山は5五銀。4四歩、同銀。
 次の4五歩が、「まずかった」と升田。ここは、5六金、5四歩、4五歩、5三銀と指すところだったと。
 以下、先手の5六歩から4六銀は次に5五銀と出る予定だったが…


▲2七角 △4七歩
 大山に7五歩~8六歩と銀交換をされてみると、先手の銀は取り残され、角道は止まっている。後手は三歩を手にしている。大山が良くなった。
 升田は2七角から角を使おうとする。
 大山の4七歩がまたうまい手で、次に3九銀~4八歩成がある。


▲4四歩 △5二角 ▲5七銀 △4四飛  ▲5五銀 △8四飛 ▲6五歩 △4一角
▲6四歩 △5二金
 それを防いで5七銀だが、その前に4四歩としたのがまた軽率だった。この歩は取られてしまう。
 しかし大山も間違える。4四飛ではなく、4四銀が正解だった。4四飛に、5五銀と先手で飛車を追い、6五歩で6筋をねらう。こうなってみると、今度は先手が優位に立っている。


▲3六角 △3五歩 ▲4五角 △3四銀打 ▲2七角 △5四歩  ▲同角 △5三金
▲2七角 △4八歩成
 悪くなったら悪くなったでなんとかするのが大山将棋。


▲6三歩成 △同金  ▲6四歩 △7三金 ▲4八飛 △4五歩 ▲6六銀上 △6四金
▲同銀 △同飛 ▲7五銀 △6二飛 ▲6四歩
 図の4八歩成は、先手が同飛なら、4五歩と飛角をおさえるねらい。そうなっては後手のペースになるので、先に6三歩成。6四歩に、5三金なら、7二角成、4七と、6六銀、5七歩、7五銀、5八歩成、7七玉で先手良し。


△7四歩  ▲5一金
 「ここで後手7四歩なら、先手はどう指すのか?、6三金か」と僕は棋譜を並べつつ考えていました。“答え”を見ると、「5一金」。なるほど!


△7五歩 ▲4一金 △同玉 ▲6三歩成 △9二飛  ▲5三角 △6六歩
▲同金 △6二歩 ▲2二歩
 他の手を後手が指した時には5一金は8五角と逃げられるが、7四歩と打った瞬間は角の逃げ場がない。
 4一金、同玉となれば、敵玉を危ない場所に誘導できる。それが大きい。
 6三歩成を同飛ならば、9六角の王手飛車がある。


△6三歩  ▲2一歩成 △5九銀 ▲同玉 △5七銀 ▲7五角成 △4八銀不成
▲同玉 △6九飛 ▲6四歩
 2二歩が、玉をそちらへ逃がさない手。同銀なら、4五角から攻める。
 大山名人、5九銀と捨て、5七銀。受け一方では可能性がないとみた。


△6四同歩 ▲7四馬 △4二玉  ▲5五金 △5四歩 ▲9二馬 △同香
▲8二飛 △5二金  ▲5三銀
 こういう、ここで6四歩のような手が、なかなか私らには浮かびません。(僕ならこの局面で逆転されている可能性大です。)

投了図
まで139手で先手の勝ち。
 後手玉は詰み。升田幸三、初戦で白星を挙げました。

 この将棋は「3八角」の新手を升田幸三が出したのですが、これはもう「角換わり棒銀」を指す人ならば、今では誰もがよく知っている手です。ただし、これで先手が優勢というわけではありません。
 先手は「棒銀」から飛車先の「一歩」を手にしたわけですが、後手も7五歩からの歩交換をしていますから、その点の条件は互角です。あとはお互いの「角」と「右銀」とが、どれだけ相手よりよく働くかという、中盤の勝負になります。
 この将棋、先手の升田さんは4五歩から仕掛けたのですが、後手が同歩なら、「5六金」と出る予定だったという。僕は盤上に出なかったこの「5六金」という手が、自分で指していたらまったく考えない手だったので、印象に残りました。大山さんもそれを読んでいて、それを実現させないようにしていたのです。木村、升田、大山の時代の棋士は、こういう金銀が中央へ出てくる将棋が得意です。
 この将棋を見ても、結果的に、大山さんの「4四飛」に、升田さんが「5五銀」と打てたことがこの将棋を勝ちへと傾けました。「やっぱり中央の制覇は大事なんだなあ、5六金のような手を指してでも中央を取ることがいいんだ」と勉強になりました。
 駒落ち時代の人はこういう金銀のせめぎ合いが本当に強い。だから50歳を過ぎてもA級で頑張れたのだと感じます。



 この1955年度の王将戦は、3連勝で升田が「王将位」を奪取。しかしまだこの七番勝負は終わりません。3つ勝ち越すと「王将位」の行方がそこで決まり、そこから「指し込み将棋」が始まる、そういう規定なのです。そういう特殊な「指し込み」七番勝負なのです。
 1952年に世間を騒がせた「陣屋騒動」も、王将位を4―1で手にした升田幸三が、さらに木村名人を相手に「指し込む」ことになり、その香落ちの対局を指すのが嫌で対局拒否をしたということが、本当の理由と考えられています。(表向きには「旅館の対応が悪かったのが…」となっている。)

 要するに、升田幸三は、再び大山名人を相手に、「香落ち」での第4局を行うのです。
 その将棋に勝ち、升田幸三は、伝説の「名人に香車を落とした男」となったわけでした。

伝説の男~♪ 伝説の男~♪



 さて、この1955年度の第5期の王将戦の挑戦者を決めるリーグは、升田幸三、花村元司、丸田祐三の三者が同率となり、三人での決戦が行われました。升田‐花村戦は升田勝ち、升田‐丸田戦も升田が勝って、この王将戦に挑戦者として出場したのでした。
 どんな将棋だったのか、その内容を、ちょっと見てみましょう。

花村元司‐升田幸三 1955年
 1950年代、「ひねり飛車」を指していたのは、A級では花村元司だけでした。(丸田祐三が指し始めたのはもっとずっと後年のこと。)
 7四歩、同歩、同飛に、7三金と後手の升田が指したところ。
 「7三金は当然で、7三歩では後手がわるい」そうだ。
 ここで花村は、7三飛成、同桂、7四歩。こういう“素人のような攻め”が花村の本領。升田はわかっていてそれを誘った。
 この場合、7三飛成も「当然」なのだそうだ。7六飛では、7四歩で後手が良い。
 本譜は、以下、7六飛、7七金、7四飛、7五歩、同飛、9七角。
 

 持ち時間はたっぷりある。各7時間だ。
 にもかかわらず、「昼食休憩」にもなっていないというのに、早くも優劣の別れそうな決戦になっている。
 元々花村は早指しだ。気合だろうか、それに合わせて升田も同じように早指しで駒をすすめ、それでこうなった。
 「昼までには終わりそうだなァ」と花村はこの時思ったそうだ。もちろん自分の勝ちだ。
 9七角に、7四飛、7五金で飛車を取る。飛車を取れば、後手の玉はひとたまりもないだろう。
 そんなことはない、まだいい勝負、と思っていたのが升田。
 升田、8六歩。
 同角、同飛、同歩、5五歩。


 花村、4七銀。
 しかしこの手では、先に7二飛と打つところだった。7二飛、4二銀、6七銀なら、後手は7三の桂馬を跳ぶことができず、花村が良かった。


 一直線の攻め合いの速度計算は、升田幸三の得意とするところ。
 2四玉と逃げて、2五香で、先手は参っている。歩がないので、どうにもならない。
 図以下、5一角、3三桂、2三金、同銀、2七歩と粘ってみたが、後手の勝ちは動かない。升田幸三の勝ち。

 この将棋を紹介したのは、『選集』に書いてあった、花村の「昼までには終わりそうだなァ」のエピソードを伝えたかったから。


 花村さんは、この1955年度、「九段位」の挑戦者になっています。
 もしもこの対局で、花村さんが升田さんに勝利していたら、この王将戦も挑戦者に――ということもありえたわけです。
 さらにはA級順位戦も好成績で、花村元司8勝2敗、これは升田幸三と同星。花村さんは、プレーオフ挑戦者決定戦三番勝負を升田さんと戦い、これに2―1で勝利して’56年の名人挑戦者は花村元司が名乗りを挙げたのでした。
 要するにこの時期、「花村元司は絶好調だった」と僕は言いたいわけです。



丸田祐三‐升田幸三 1955年
 先手升田幸三の「筋違い角戦法」。
 「筋違い角」は、アマでは割と指す人がいますが、プロではほとんどいません。でも木村名人は得意としていて、しかも重要な対局でこれを用いてだいたい勝っていた。
 この当時もこれは“素人戦法”とされていた。
 丸田祐三さんは1950年頃、王将戦のタイトル挑戦をするなど、目立つ活躍をしています。升田幸三より1つ年下。


 3四角で「一歩」を取り、5六に下がり、さらに3八角。
 その角を追いかけつつ後手は左銀をくり出す。
 升田は4六の一歩をすんなり取らせた。この発想はすぐには浮かばない。そもそも「一歩」の得を主張するために「角」を打ったのに、これではその「得」が消えて、角を打って目標にされるという不利だけが残るではないか。
 升田の狙いは、ここで「8六歩」。


 攻め合いに。先手は8筋を攻める。後手は5七。これは先手の玉頭が怖すぎる!


 しかし升田の読み切りらしい。先手は大丈夫のようだ。
 5五銀と下がらせて、2四歩、同歩、2三歩。

投了図
 升田の勝ち。
 相手の攻めを引っ張り込んで勝つ。大勝負に、こんな勝ち方ができるなんて、よほど読みに自信があるんだなあ。相手の攻めを読み切っていないと、これは怖くて指せない。そう感じました。


 この将棋は『升田幸三選集』にないんですが、なぜ選ばなかったのだろう、こういう一直線の迫力ある勝局は升田さんの好みだろうに――。
 そう思って調べたら、わかりました。類似局をこの前にすでに升田さんは3局経験しているんです。升田さんは先手で1局、後手で2局経験しています。
 そういうこともあって、読みに自信があったんですね。

升田幸三‐木村義雄 1951年
 これが、この形の1号局。4六歩を取らせるこの指し方は升田さんのアイデアでした。
 しかし、アマで「筋違い角」をやってくる相手は多いけれど、僕はこの形は見たことがないですね。
 これは1951年の第10期名人戦。これは例の舌戦「ゴミハエ問答」で有名な、そのときの名人戦です。
 升田幸三はこれが名人戦に初登場で、その七番勝負第4局の将棋です。ここまで木村名人の2勝、升田八段1勝。
 図の8四歩が好手で、升田さんが優勢に。8四同飛、8五銀、8二飛、8四銀、8三歩、7五銀となって、後手の飛車は使えなくなりました。


 ところがこの将棋は逆転で、木村義雄名人の勝ちとなります。
 図の、「5八と」を升田さんは完全に見落としていました。同玉なら、5九金で寄り。
 実戦は、5八同金、7七銀で、逆転。先手はもう、勝てません。
 この図の前に、升田さんはこれで勝ちだとばかり、7七の桂馬を跳ねて6五桂と指したのですが、この手で他の攻め、たとえば3四金ならば升田優位の形勢が続いていました。桂馬を跳ねたので、後手の7七銀が生じたのです。

 これで升田の1勝3敗。この3敗はすべて「筋違い角」で、そのうちの2局は木村名人が先手で打った「筋違い角」でした。この3つの将棋すべてに優勢を築きながら、いずれも勝ちきれなかったのが、升田にとって痛かった。
 この第4局を勝っていたら、ここで升田新名人が誕生したかもしれません。(この半年後から始まった王将戦では升田が木村に勝ってタイトルを手にしています。)
 結局この1951年第10期の名人戦は2勝4敗で、升田、名人位奪取成らず。

 つまり、木村義雄の「名人位」は、「筋違い角」に守られていた、と。
 

 翌1952年は大山康晴が名人戦挑戦者となり(升田は挑戦者決定戦で大山に敗れた)、大山が勝って新名人誕生。木村義雄は引退を発表しました。
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