〔 …先ず手初めに吾輩を写生しつつあるのである。吾輩は既に十分寝た。欠伸がしたくて堪らない。然し切角主人が熱心に筆を執っているのを動いては気の毒だと思うて、じっと心棒しておった。彼は今吾輩の輪郭をかき上げて顔のあたりを色彩っている。
…
…これは仕様がないと思った。然しその熱心さには感服せざるを得ない。なるべくなら動かずにおってやりたいと思ったが、さっきから小便が催している。身内の筋肉はむずむずする。最早一分も猶予が出来ぬ仕儀となったから、やむをえず失敬して両足を前へ存分のして、首を低く押し出してあーあと大なる欠伸をした。さてこうなると大人しくしていても仕方がない。
…
すると主人は失望と怒りを掻き交ぜた様な声をして、座敷の中から「この馬鹿野郎」と怒鳴った。この主人は人を罵るときは必ず馬鹿野郎というのが癖である。外に悪口の言い様を知らないのだから仕方がないが、今まで辛棒した人の気も知らないで、無暗に馬鹿野郎とは失敬だと思う。
それも平生吾輩が彼の背中へ乗る時に少しは好い顔でもするのならこの漫罵も甘んじて受けるが… 〕
( 夏目漱石 『吾輩は猫である』 )
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…これは仕様がないと思った。然しその熱心さには感服せざるを得ない。なるべくなら動かずにおってやりたいと思ったが、さっきから小便が催している。身内の筋肉はむずむずする。最早一分も猶予が出来ぬ仕儀となったから、やむをえず失敬して両足を前へ存分のして、首を低く押し出してあーあと大なる欠伸をした。さてこうなると大人しくしていても仕方がない。
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すると主人は失望と怒りを掻き交ぜた様な声をして、座敷の中から「この馬鹿野郎」と怒鳴った。この主人は人を罵るときは必ず馬鹿野郎というのが癖である。外に悪口の言い様を知らないのだから仕方がないが、今まで辛棒した人の気も知らないで、無暗に馬鹿野郎とは失敬だと思う。
それも平生吾輩が彼の背中へ乗る時に少しは好い顔でもするのならこの漫罵も甘んじて受けるが… 〕
( 夏目漱石 『吾輩は猫である』 )