半年ほど前、なぜか僕の頭の中に、「カッテンディーケ」という言葉が何度かふいに浮かんできた。
「んー? …だれだっけ?」
それが幕末に日本に来た外国の人物で、それを僕は若いときに司馬遼太郎氏の本で読んだということ、それはわかっていた。しかし、その人、カッテンディーケがどこの国からきたどういう人物だったのか、まるで思い出せない。それで調べてみた。幕末に、勝海舟に洋式軍艦の操舵を教えた人物、それがカッテンディーケだった。
なるほど…。 うーん、…でも、だから?? だから、どうした?
この司馬遼太郎『オランダ紀行』は20代の時に僕は一度読んでいる。だが、その細部までは憶えていないし、それほどオランダや歴史に興味があったわけではない。
つい最近、『オランダ紀行』を再読して(きっかけはゴッホだった)、さきの咸臨丸とキンデルダイクとそこに伝わる「赤ちゃんと猫の伝説」のはなし(前回ブログ記事に書いた)を偶然に見つけた。「ああ、これか!」 それで、納得した。僕はきっと、これを見つけたかったのだ。この話を見つけて、なぜかとてもうれしくなったのだ。
アメリカのペリーの「黒船」が日本にやってきたのは、1853年7月。その蒸気船を観て、「あのような洋式の軍艦が欲しいのだが…」と徳川幕府はオランダに相談した。するとオランダは、気前良くタダで1隻それをくれた。スムービング号である。これは「観光丸」と改名された。日本(幕府)が初めて持った洋式軍艦である。オランダ国としては、それをプレゼントすることによって、日本国が軍艦の良さを知り、新しい軍艦を注文してくてることを期待してのことだったようである。その期待どおり、幕府はオランダに2隻の軍艦の建造を頼んだ。そのうちの1隻が、キンデルダイクで建造された「咸臨丸」である。(もう1隻は朝陽丸で、完成は1858年。)
ただし、キンデルダイクで造られたのは船体だけのようだ。出来あがった咸臨丸(このとき名前はヤーパン号)の船体は、ライン川を下って、北海に面したヘルフットスライスという港で蒸気機関や艦載砲などが載せられた。「ヘルフットスライス」を無理矢理日本語になおすと「地獄への第一歩の水門」となるのだそうだ。
完成した咸臨丸(ヤーパン号)は1857年、ヘルフットスライスを出港し、注文先の日本に向けて出港した。艦長は、オランダ海軍少佐ファン・カッテンディーケである。
カッテンディーケは、Kattendijkeと書くのだが、katは「猫」、dijkeは「堤」である。(dijkeは、地名ではダイク、人名ではディーケと読むらしい。)
つまりカッテンディーケは、「猫堤」となる。
〔 咸臨丸は「赤ちゃん堤」で誕生し、「地獄への第一歩の水門」港から、「猫堤さん」に操艦されて日本へきたことをおもうと、童話に似ている。 〕
(司馬遼太郎 『オランダ紀行』)
「猫堤」さん、ファン・カッテンディーケが、欧州から大西洋、インド洋をまわり、咸臨丸(ヤーパン号)とともに長崎に入港するのは1857年9月。
2年間、彼は長崎に留まり、軍艦の操舵法を幕府の生徒たちに教えた。勝海舟、榎本武揚らが、その生徒である。咸臨丸はかれらの練習艦であった。
カッテンディーケ「猫堤」先生は2年後、オランダへ帰国。
軍艦としては小型の、その練習艦でもって勝海舟らが太平洋を横断してアメリカまでゆくのは1860年のことである。咸臨丸は荒波に揉まれ、艦長の勝海舟はじめ幕府の船員はずっと船酔いだったという。同乗していたアメリカ船員に助けられたらしい。ムチャな航海だったが、なんとか無事成功した。
「んー? …だれだっけ?」
それが幕末に日本に来た外国の人物で、それを僕は若いときに司馬遼太郎氏の本で読んだということ、それはわかっていた。しかし、その人、カッテンディーケがどこの国からきたどういう人物だったのか、まるで思い出せない。それで調べてみた。幕末に、勝海舟に洋式軍艦の操舵を教えた人物、それがカッテンディーケだった。
なるほど…。 うーん、…でも、だから?? だから、どうした?
この司馬遼太郎『オランダ紀行』は20代の時に僕は一度読んでいる。だが、その細部までは憶えていないし、それほどオランダや歴史に興味があったわけではない。
つい最近、『オランダ紀行』を再読して(きっかけはゴッホだった)、さきの咸臨丸とキンデルダイクとそこに伝わる「赤ちゃんと猫の伝説」のはなし(前回ブログ記事に書いた)を偶然に見つけた。「ああ、これか!」 それで、納得した。僕はきっと、これを見つけたかったのだ。この話を見つけて、なぜかとてもうれしくなったのだ。
アメリカのペリーの「黒船」が日本にやってきたのは、1853年7月。その蒸気船を観て、「あのような洋式の軍艦が欲しいのだが…」と徳川幕府はオランダに相談した。するとオランダは、気前良くタダで1隻それをくれた。スムービング号である。これは「観光丸」と改名された。日本(幕府)が初めて持った洋式軍艦である。オランダ国としては、それをプレゼントすることによって、日本国が軍艦の良さを知り、新しい軍艦を注文してくてることを期待してのことだったようである。その期待どおり、幕府はオランダに2隻の軍艦の建造を頼んだ。そのうちの1隻が、キンデルダイクで建造された「咸臨丸」である。(もう1隻は朝陽丸で、完成は1858年。)
ただし、キンデルダイクで造られたのは船体だけのようだ。出来あがった咸臨丸(このとき名前はヤーパン号)の船体は、ライン川を下って、北海に面したヘルフットスライスという港で蒸気機関や艦載砲などが載せられた。「ヘルフットスライス」を無理矢理日本語になおすと「地獄への第一歩の水門」となるのだそうだ。
完成した咸臨丸(ヤーパン号)は1857年、ヘルフットスライスを出港し、注文先の日本に向けて出港した。艦長は、オランダ海軍少佐ファン・カッテンディーケである。
カッテンディーケは、Kattendijkeと書くのだが、katは「猫」、dijkeは「堤」である。(dijkeは、地名ではダイク、人名ではディーケと読むらしい。)
つまりカッテンディーケは、「猫堤」となる。
〔 咸臨丸は「赤ちゃん堤」で誕生し、「地獄への第一歩の水門」港から、「猫堤さん」に操艦されて日本へきたことをおもうと、童話に似ている。 〕
(司馬遼太郎 『オランダ紀行』)
「猫堤」さん、ファン・カッテンディーケが、欧州から大西洋、インド洋をまわり、咸臨丸(ヤーパン号)とともに長崎に入港するのは1857年9月。
2年間、彼は長崎に留まり、軍艦の操舵法を幕府の生徒たちに教えた。勝海舟、榎本武揚らが、その生徒である。咸臨丸はかれらの練習艦であった。
カッテンディーケ「猫堤」先生は2年後、オランダへ帰国。
軍艦としては小型の、その練習艦でもって勝海舟らが太平洋を横断してアメリカまでゆくのは1860年のことである。咸臨丸は荒波に揉まれ、艦長の勝海舟はじめ幕府の船員はずっと船酔いだったという。同乗していたアメリカ船員に助けられたらしい。ムチャな航海だったが、なんとか無事成功した。