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浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

得るものも失うものも無き我れに
何を恐れん我れ神の中

「独り言」より。

2015-09-15 00:14:49 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第一章 或る愚か者の生涯


         ◆織物業における成功と商売の極意◆


二十五歳の時に土地を買い、二十六歳の時には独立して織物業を創業しました。
昭和三十二年のことです。
はじめは賃織りといって、下請けの仕事でした。
その後、原料を仕入れて商売するようになります。
もちろん借金で始めました。
織物業をやめる昭和五十七年までの二十五年間にずいぶん儲けさせてもらいました。
商売は儲けることが大事で、失敗したらその事業は的を射ていなかったということです。
人生は的を射ることが大切です。
しかし、今から考えると、
この儲けは明らかに今日のご奉仕活動のために蓄えておかなくてはならない分として、
天より与えられたものだったようです。

というのも、考えられないような幸運なことが次々と続いたからです。
神様のお助けがあって、私の商売もいろいろな難事にもかかわらず、
成功に導かれたのでしょう。
日本がまださかんに新幹線や高速道路の工事をやっていた頃に、
建設現場の作業員の寝具を貸し出す地方のリース会社と御縁がありました。
布団、毛布、枕の一式を一日いくらで貸す会社ですが、
そこの営業部長が私の友達を通じて来てくれまして、商売の話を持ちかけてくれました。
当時は手形が常識でしたが、そこは現金で取引きしてくれるというのです。
夢のような話でした。

手形は短くて三カ月、お産手形といって長いものなら十月十日です。
私のところでは毛布の製造をしていたので、それを売るわけです。
手形商売とは百万円なら百万円の品物を売ると引き換えに手形をもらいます。
そこに期日が書いてあって、期日が来たら現金が入ってきます。
でも、資金繰りのことがありますから、
金利を支払って手形を割ってもらうことになります。
つまり、銀行からお金を借りて先に代金を受け取るということになります。
四分の金利でしたから、百万円から四万円が差し引かれ、
こちらに入るのは九十六万円になります。
ところが、現金取引をしてもらえば、それだけの金利を取られないですむわけです。
「こちらでは手形取引が常識になっていますから、私は買い上げていただいた全金額の
二分を部長さんに感謝の気持ちとして送らせていただきます」

そう言って、私は仕入れ部長さんに売り上げの二パーセントを還元させてもらう約束をしました。
売り上げが一億ならば二百万円ということになります。
これが政界の方なら賄賂の問題につながっていまいたいへんですが、
あくまでも商取引のうえでのことで、私の感謝の気持ちを表現したまでのことです。
さて、仕入れ部長さんと約束した後で見本の毛布二、三枚をさげて地方に赴きました。
いろいろな世間話をした後にそろそろ商売の話に入りましょうということになり、
私は地元で売っている原価で十分です。
ただし、送料と梱包代だけはおたくのほうでもってもらったら結構です。
と話しますと、わかりましたということで、話は一分か二分ですんでしまいました。
それで、以後二十年もその会社との取引は続きました。
なんの不都合もトラブルもありませんでした。
その件で地方に行ったのは、それ一回限りでした。
昭和四十八年にオイルショックで日本全国の物価が暴騰しました。
それで値段を倍に上げてもらいました。
それ以来、糸の原価は下がりましたが、その価格で買っていただいたため、
えらく儲けさせていただきました。


               ~ 感謝・合掌 ~




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「独り言」より。

2015-09-14 00:09:57 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第一章 或る愚か者の生涯


       ◆初めて世間の風に当たり、お金を稼ぐ◆


先の続き・・・

何年かして母親のほうから、それまで家に送っていた私の給料で
姉達の嫁入り道具をそろえたりして役に立てさせてもらったので、
これからは自分自身のために貯金してほしいと言ってきてくれました。
家のために使わせてもらってきて申し訳ないからとのことでした。
それでは貯金させてもらいますと言って、自分で貯金をしました。
当時、給料は六千円ほどでした。
すぐに十万円ほどできました。
自分の小使いなどほとんど使いませんでした。
でも、毎月給料をもらうと決まって、私は飲みませんが、
仲間に一杯やろうとタカラみりんとスルメを買ってきてみんなに飲んでもらいました。
その頃、私の二つ下の弟が近大に一年通い、それからいい先生がいるというので立命館に
移ろうとしましたが、そのためには入学金として当時五万円必要でした。
そのことを弟は長兄に言うとそんな大金はないと言われ、
どうしても行きたいと私のところに相談に来ました。

私も大学に行きたかったのですが、
兄が戦争から帰って来なければ自分が後を継がなくてはならないので、
上の学校に進むのを諦めて家の手伝いで農業をしていましたが、
戦後まもなく兄が帰って来たので、一粒の葡萄で家を出ることになったのでした。
弟には「よし、そんなら、今、十万貯金できてるから、これを持っていき。兄ちゃんの
代わりにしっかり勉強してや」と言って貯金の全部をあげました。
それから、また一からすべてやり直ししました。
ちょっと寂しい気もしましたし、すっとしたようなヘンな感じもしました。
後年、私の長女が結婚する時にこの弟が百万円もお祝をしてくれました。
「ぎょうさん祝いしてやってくれやなあ」と言って、ありがとうと受け取りましたが、
それを郵便局の(当時の金利で七分以上ありましたので)定期預金に入れて、十年は
出さないでほしいと言って、これをそのままその弟への祝いに返しました。
それが十年すると倍に増えて二百十万円になっていました。

船に乗る時にお世話してくれた人の家が事情があってとても貧乏になって年も越せぬほど
つらい生活をされていると聞いた時、まだ十代でしたが、当時のお金で二万円(当時の
月給が六千円ですから四カ月分ほどですが)を正月のお餅でも買ってくださいと送りました。
非常に喜んでくださいました。
その喜びはその方にとって亡くなるまで忘れられなかったようです。
もらうのはあまり好きではなく、
出してしまうのが好きというのは幼い頃から見てきた布施の習慣からも来ていたのでしょう。
布施の行いが自然に身につき、子供の頃からの積み重ねがあって、今日の私があります。
日銭を稼ぐという言葉がありますが、それも自分の生活のためというよりも、
気がついてみれば一生懸命働いて得たお金は結局は誰かのために役立ててもらったり、
また善い事に使ってもらったりして、そのこと自体に私は喜びを味わってきました。
人生を振り返ると、実に多くのお金の出入りがありました。
人に信用を裏切られたことはたくさんありまあした。
信用して貸したお金が反ってこなかったこと、人にお金を融通させてもらいながら、
なんの挨拶もなかったことなど挙げたらきりがありません。


            ~ 感謝・合掌 ~





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「独り言」より。

2015-09-13 00:17:19 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第一章 或る愚か者の生涯


        ◆初めて世間の風に当たり、お金を稼ぐ◆


十六歳と一か月の時から二十歳までの間は船に乗って、ただがむしゃらに働きました。
給料の封は切らずに故郷に送っていました。
その間、旅客船でしたからチップなどを結構いただいていたので、
お小遣いにも困りませんでした。
船を降りる時、当時の金で三万円ぐらいあった貯金も父母に全部差し上げました。
初めて故郷を後にして一般社会に出てみると、
それまでには考えられなかったような厳しい環境のもとで、
いろいろの体験が待っておりました。
親元にいたらなあと思うことがよくありました。
まず、メスルームボーイという船の下士官の身の回りの世話をする
見習いの仕事から入りました。

「メス!メス!」と呼ばれて人に使われました。
長崎の三菱造船所に、戦後まもなくの昭和二十三年にできた新造船で瑠璃丸と名付けられた
関西汽船の客船がありました。
その船を受け取りに行くのに、乗組員として乗船したのが最初でした。
船の中の狭い社会で上下の人間関係でずいぶん苦労をしている仲間の姿を見るにつけて、
たいへん同情させられたり、
また人の心というもののマイナス面を多く見せられる場面にも遭遇しました。
私はその頃より人生について人間について疑問を持ち始めました。
下船してから染物工場に住み込みで就職しました。
泉大津というところにあり、長姉の嫁ぎ先でした。
そして、姉の嫁ぎ先の染物工場に勤めるかたわら自然と覚えたラジオの組み立てのアルバイトでは、
給料以上のお金を得ました。
昭和二十七年の頃です。

姉婿の弟がラジオをさわるのが好きでした。
近所の古いラジオを修繕するといって持ってきて、つぶしてしまったのです。
どうにかならへんかというので、大阪の日本橋の電機の問屋に行って、ラジオのキットを
買ってくることにしました。
組み立て図や説明書も付いていました。
当時は千円程でした。
幼い頃、鉱石ラジオを作ったことがありましたので、簡単に組み立てられました。
そのキットを利用して壊れたラジオをもとに戻すと、すばらしい音が出るようになったので、
その噂を聞き付けて近所から次々とラジオを組み立ててくれという依頼が来るようになったのです。
箱に入れて千五百円ぐらいで組むことができて、それが三千円で売れ、
口コミで注文が殺到しました。
儲かってしようがなかったのです。
一か月の給料よりもこのアルバイト収入の方が余計に入りました。
蓄音器を組めば一万円以上にはなり、さらに高い収入に結び付きました。
何年間かはそんなことをしていましたが、そのうちナショナルや日立などのメーカーから
完成品のラジオが店にでてきたので、きれいさっぱりやめました。
もう少し頭がよかったらテレビの世界に入って電気関係で儲けていたかもしれません。


              ~ 感謝・合掌 ~




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「独り言」より。

2015-09-12 01:55:14 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


              第一章 或る愚か者の生涯


              ◆念力から祈りへの転換◆


先の続き・・・

十歳の時には太平洋戦争が始まりますが、
兄が出征兵として戦地に赴いてからというもの、
兄の無事の帰還を祈願するため、
両親の代参として一キロほど離れた山のお宮さんに日参するようになりました。
雨が降っても雪が降っても、
山の中腹にあるお社にお参りすることを欠かした日は一日もありませんでした。
そうして、六年の歳月が流れ、ついに兄は無事に中支から帰還いたしました。
やっとそれが成就した喜びで足が地につかず、天にも昇ったような気持ちでした。
ありがたさに身を置く所もないほど嬉しかったものです。
六年間毎日一生懸命に兄の無事を祈りながら、自分と兄とは一体だと感じていました。

ところが、無事帰還した兄は自分が運がよかったんだと、
六年間の祈りなどすべて知らなかったために、なんとも言えぬ淋しさを味わったものです。
結局、幼い六年の経験を通じて私が学んだことは、「祈りは人のため」という一事でした。
つまり、相手が喜んでも喜ばなくても、ただその人のために祈るということです。
愛の祈りであれば、神様に聞いていただけます。
我が事に関して祈れば、そこに必ず自我の欲望が入ってくるスキが生じます。
そして、いつしか祈りというよりも念力でもって願望を成就させようということになりかねません。
しかし、大切なのは神様の御心を自分の生活に現わしていくということでなくてはなりません。

これは現在でも私の神癒の根底に生きていると思います。
でなければ、奇蹟的な治癒が起きるわけがありません。
神は真の祈りに感応して力をお与えになるからです。
念力で願望を成就しても、決して幸せにはなれません。
愛のまごころとは、すべてを神様に託していくという、
神の子としての素直さということにもつながります。
祈りが純粋なほど、自我がなく無私であるほど、
天の神様は聞き届けてくださいます。
みんなが念力を使って自分の思いどおりになどしようとしたら、
この社会は念力合戦みたいなことになり、不調和になってしまいます。
やはり、自分を忘れて他を活かすという精神こそが美しく、尊いまことの祈り、
真祈りに通じるものだと言えましょう。
己を忘れて他を利する。
これが神の御心だと思います。


            ~ 感謝・合掌 ~



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「独り言」より。

2015-09-11 01:56:06 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


             第一章 或る愚か者の生涯


            ◆念力から祈りへの転換◆


ある夏の日に村の中の道を、
金魚売りのおじさんがタライを下げた天秤棒をかついて歩いていました。
「金魚ぉ――え、金魚っ」と、調子よく声をあげながら、ゆっくり歩いています。
それを後ろから眺めていた私の悪戯(いたずら)心がムクムクと夏雲のように湧いて
きました。
私は面白半分に自分の思いであのおじさんを動かせないものかと実験を試みる気になりました。
「よし、ひとつぼくの力であのおじさんの進む方向を変えてやろう」と、私は念をこらしました。
最初は真直ぐに歩いていた金魚売りのおじさんも、私がその後ろから歩きながら「右右右」
と思うと、だんだん右斜めに歩むようになり、「次は左左左」と思うと、左へ歩き、
右に行ったり左に行ったりし始めました。

これは面白いぞ、と私はさらに念の集中を続けながら、歩行の乱れを見守りました。
すると、だんだんと左右の往復は穏やかなカーブからきつい曲線を描き、
ついには振り子のように直線的に道幅と同じく左右に行ったり来たりするようになっています。
それなのに本人はまったく気付いていません。
私はその光景を見てなんとなく満足し、愉快でもありました。
考えてみれば恐ろしいことです。
明らかに私の心は間違った方向に行こうとする一歩手前でした。
人の心、人の念は恐ろしい力を持っているということを幼い頃から自然と教えられていたようです。

念力を使うと自分の心のエネルギーは減ってしまいます。
人の心の自由を奪い、肉体にまで影響します。
しかし、重要なのは人の心を動かすことは誰にも許されないということです。
それができるのは神様のみです。
基本的には人間の自由意思は神でさえも尊重しておられます。
以後、こういうことはしてはならないと、
自分の力を誤まった心で用いないことを自分自身に堅く誓いました。
それから、あることがきっかけとなり、
真剣な祈りというものを捧げることになっていきました。


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「独り言」より。

2015-09-10 01:09:51 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


                第一章 或る愚か者の生涯


               ◆催眠術をかけて遊ぶ◆


先の続き・・・

両親は信仰心の厚い人だったからでしょうか、
その頃から畑に連れていかれると、私は田圃の土で仏様をこしらえて拝んでいました。
まだ幼くて遊び仲間との交わりもなく、親との関係だけだった三歳の頃のことです。
それから、それよりもすこし後になった四歳の頃でしょうか、畑に行くと子供の仕事と
して雑草取りなどを言われるままにやっていましたが、なかにはできない所もあります。
そうした時には、畑で遊びます。
たとえば、自分の気に入った枝を決め、飛んでいる蝶々とか蜻蛉などに「ここに止まれ!」
と心の中で命ずると、指定した木の枝に止まってくれるのです。
また、「東へ飛んで行け!」「西のほうへ行け!」と言うと、やはり言うことを聞いて、
そのとおりにしてくれます。

小鳥、蜻蛉、蝶々となんでも私の思いどおりに動いてくれました。
ちょうど、心曇っていない幼少期のことです。
先までフワフワしたものがついている穂のような草を、その先の部分と茎だけを残して、
あとはしごいてしまい、それでカエルを釣っていたことも思い出します。
ギジ餌のようなものですが、
草の先にとびついて引き上げられたカエルを手足を伸ばしたままのかっこうで仰向けに寝かせますと、
おとなしく寝てしまいます。
次々に釣ってきたカエルを何十匹も並べると、
今まで先に寝かせられていたカエルが起き上ってきますので、またもとのように寝かせます。
こうしていると面白くて時のたつのを忘れて遊びに耽ったものです。
蟻なども「止まれ、止まれ」と念じていると、止まってしまって、やがてコロンところげてしまいます。
川のほとりに行き、岩の上から呼んだら魚が寄ってくるということもありました。
小学校に入るまでの私は本当に清らかな仏のような心を持っていたと思います。

しかし、或る時、友達と遊んでいて竹藪の急斜面を登りますと、
眼前に見たこともない広大な畑が広がっています。
すると、私は「うちの畑けやでえ」とみんなに嘘をついていました。
もう所有欲とよいかっこうをしたいという思い芽生え始めていたのだと思います。
十歳を過ぎてからは、友達に催眠術をかけて遊ぶようになっていきます。
竹藪の日陰に友達を連れていって、十人くらい一度に飛行機に乗った気分にさせたりしたものです。
六十歳近くになってから、父の法事の席で幼なじみと会った折に、あの時に飛行機に
乗せてもらって楽しかったことは今でも忘れられないみんな言っている、
と話していました。
この小学校高学年から、心の持つ力をはっきりと自覚するようになります。
蟻に「右に行け!左に行け!」というと、その通りに動いたり、いろいろなものを
思いで動かすことができました。


                 ~ 感謝・合掌 ~





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「独り言」より。

2015-09-09 00:19:51 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第一章 或る愚か者の生涯


           ◆催眠術をかけて遊ぶ◆


私は昭和六年に大阪と奈良の県境に位置する
南河内郡(現在は柏原市)国分町に生まれました。
大和川の上流で河内嵐山と呼ぶくらい風光明媚なところであり、
頼山陽ゆかりの歴史ある土地柄でもあります。
農家に生まれ、男の兄弟が四人、女の姉妹が四人おりました。
十一歳上の長姉、十歳上の長兄、それから二人の姉をはさみ、
私は五番目、その下には弟二人、いちばん末が妹でした。
昔は、子供がよちよち歩きができるようになるまで成長すると、
どこへ行くかわからず危ないので、
倒れないように底の四方に足がついている木製の箱に子供は入れられていました。
箱の外には小さなおやつ入れのやはり箱状の入れ物が付けられています。
この子守り箱の中に私も誕生一年前後には入れられて遊ばされていました。

母が用事をしている間は、
ときどきここに置き去りにされて泣いてしまうこともありました。
兄弟はみんなこの箱の中で大きくなったのでした。
これが最初の記憶です。
その次の記憶の糸をたぐると、こんな光景が脳裏浮かびます。
二つ年下の弟が母の背中におんぶされ、私は母の温かな大きな手に引かれています。
父が畑仕事から帰る夕刻になると、
私の家から五~六00メートルほど離れた山のお宮さんの下の竹藪がおおいかぶさって
昼なお暗い道を歩いて父を迎えに行くのです。
もうあたりは薄闇が降りている時分です。
その怖い道を、「お父ちゃん、帰っといで。
山のケンケンなっこるで」と何度も繰り返し
歌を口ずさみながら、母は私たちを連れて父を迎えに行くのです。
ケンケンとは狐のことです。
「お父さん早く帰ってきてください。
もう山の狐が鳴きますよ」という意味です。
よちよち歩きの頃です。


                ~ 感謝・合掌 ~








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「独り言」より。

2015-09-08 00:06:00 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第一章 或る愚か者の生涯


         ◆葡萄一粒で故郷を捨てた少年時代◆


先の続き・・・

それ以来、良心の呵責に耐えられなくて、
とうとう生まれた故郷をあとにすることに決めました。
もちろん、親は反対しました。
田を私にも譲り、家を建て、いなかで分家してほしかったと思います。
それから、関西汽船に入社し、別府航路の船に乗ることになりました。
そして、はじめて他人のつくった飯を食い、親から離れて世間というものを知って、
親の有難さを知りました。

葡萄を一粒かすめようとして見咎められたくらいで、故郷を去るなどとは、
ずいぶん潔癖という変わった子だったと思われる方も多いかと思うのですが、
たしかに私という人間は幼少の頃よりふつうの子とは変わったところがありました。
たとえば、両親が野良仕事に行くと、私も田畑についていって、
そこでおとなしく遊んでいます。
泥をこねて仏様をつくったりしていました。

仏様に象るなどというのは、あまり子どもらしくないかもしれませんが、
なぜか私はそんな遊びをしました。
そして、できあがった泥仏に向かい手を合わせていました。
また、昆虫や魚も自分の想念で自由に動いてくれました。
小学校の友達に催眠術をかけたりということが自然にできてしまうのでした。
これなどもどう見ても風変わりなふるまいです。
今から思えば、かなりヘンな子だったようです。


             ~ 感謝・合掌 ~



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「独り言」より。

2015-09-07 00:05:57 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


             第一章 或る愚か者の生涯


           ◆葡萄一粒で故郷を捨てた少年時代◆


先の続き・・・

さて、大和川と石川の支流にはさまれて広々とした平地がありました。
大和川と平行した堤防の内側に大きくUの字形をした農道が小さな堤防のようにして
走っています。
大和川から小さな堤防の農道までの間はよその葡萄畑でした。
農道を隔てて反対側に私の家の田圃がありました。
堤防を降りて、自分の家の稲を見て回ってから再び堤防へ上がってほっとした時、
反対側の畑の柵が目に入りました。
堤防の上に上がった私は、その畑の柵に下がったたわわに実を実らせている葡萄を見て、
思わずつまんでみたくなりました。
そこで、そこに降りてこっそり一粒だけ失敬いたしました。

まだ朝早くて朝露が皮の表面に光る葡萄の実は、冷えていることもあって、
大阪弁で言えば、「ゴッツイ」おいしかったのです。
私はその実を房からそっとちぎり、口に入れました。
口の中で甘酸っぱい汁が広がっていきます。
禁断の木の実を人知れず食べているかのようなうしろめたい気分と、十六歳の少年の
胸をときめかすに十分な、今まさに独りで冒険しているのだというドキドキするスリル感
とを味わう、悪の愉しみの瞬間を体験しておりました。

ところが、二粒目をちぎった次の瞬間です。
何か人の気配がするなと思って、上の方を見上げると、堤防の上からどこかのおじさんが
見降ろし歩き去っていきました。
私はもう恥ずかしくて恥ずかしくて、自転車に飛び乗って一目散に逃げました。
その人と反対の方向に逃げたのですが、四角い田を回っていくうちに、
ちょうど向こうから来る人とさっき葡萄をとった現場を目撃された人と
立ち話をしているのが見えて冷や汗をかきました。
あの子がさっきの葡萄泥棒だという目で私を見て話しているのが感じられました。


          ~ 感謝・合掌 ~




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「独り言」より。

2015-09-06 00:21:05 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第一章 或る愚か者の生涯


         ◆葡萄一粒で故郷を捨てた少年時代◆


私はずいぶん変わった子だったのではないかと思います。
それは、後になって思ったことです。
「忘却は神の愛である」ということが言えると、つくづく感じます。
何から何まで覚えていたら苦しいことが多いでしょう。
人間がもし完璧であれば、過去をふりかえって反省する意味もないわけです。
年に一回、開催する富士宮市での反省研修会では、
自主的に参加される皆さんにそれぞれの過去へと溯っていただいて、
自分自身というものを深く知っていただきます。
自分の人生に影響している過去の過ちや心の傷というのは、
潜在意識の深いところに隠され、埋もれたまま、
なかなか思いだすことができないようになっています。
それを思いだそうと皆さんずいぶん苦しい思いをされます。
しかし、心の誤りがわかった時には素直に神様にお詫びして、
その償いを行為に表していくことが、
結局は自分のこの世の人生もあの世の暮らしも幸せに導くことになります。

或る時、
反省した折りにそれまでは埋もれていた幼年期から少年期にかけての記憶が
鮮明に戻ってまいりました。
四十何歳まで忘れていた幼い時から少年期にかけての記憶がよみがえってきました。
それまでは十七歳以前のことは記憶にありませんでした。
その年齢を境に家を出ました。
十六歳の時のことです。
大和川に沿ったその地域には四枚の田があって、
早朝その見回りをするのが私のつとめでした。
というのは、秋になりますと稲穂の実る収穫期に入りますが、
雀が集まってきてこれをついばんでしまうと
お米が実らなくなってしまうからです。
雀が田を荒らしていないかどうかを自転車で見て回るのが、
学校に登校する時刻までの私の役目です。


              ~ 感謝・合掌 ~








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「独り言」より。

2015-09-05 01:01:57 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


                第一章 或る愚か者の生涯


               ◆親孝行ができたと思うこと◆


先の続き・・・

         四六時中 休むことなし 我が行は
                 父との誓い有ればこそなり

この歌について、「父との誓いというのはなんですか?」と質問される方がよくあります。
しかし、この父というのは肉体の父ではなく、霊の父、つまり神様のことです。
私たちはこの肉体を世に出してくださる父と母なしには、この世に生まれ出ることも、
この世で活躍することもできません。
確かに父母は最大の恩人ではあります。
しかし、その父母にとってもやはり親があり、その親の親にとっても親があり、
と限りなくさかのぼっていきますと、結局最後はすべてを創造された神様にたどりつきます。
そして、今日一日、空気や太陽や水の恵みを与えて私たちの命を維持させていただいているのも
神様のお陰以外の何ものでもありません。

そうしてみると、やはり誰にとっても共通の親は神様ですし、
人類全体のたった一つの親もこの神様ということになります。
人類はさまざまな人種や民族や国家に分かれて今でも戦争や紛争を起こしていますが、
この神様のもとでは人類はまったく一つです。
今の状態に対して、神様は嘆いておれれることでしょう。
だから、宇宙の運行や自然の法則とも一つになるために、また親子兄弟、社会、国家、地球が
一つに調和して仲良く助け合って生きていくためにも、神の御心に沿った生活ができればいいのです。
それがいちばんの親孝行にもなっていきます。
世間の尺度だけではあまりに型にはまった生き方になりがちです。
そこからはみ出せば、親不孝というレッテルを貼られてしまい、本人も悩むことが多いでしょうが、
本来は天地自然が多様な働きを示しているごとく、その人その人の個性に合った生き方、
各人の天命にかなった生き方が世間常識とはまた別にあるはずです。

それを見出すためにも心の反省をしながら、神様の御心にかなう真実の生き方を模索して
いきたいと思います。
人から教えてもらうのではなく、誰にも肩代わりのできない自分の人生を自らの力で
切り開いていく以外に道はありません。
親孝行の話をするつもりがずいぶんと話が広がってしまいました。
しかし、親は私たちにとっては最も大切な存在であり、中国にも古くから「孝は百行の本」という、
親孝行はすべての善なる行いの基本であるという意味の諺もあり、
これも必然としなくてはなりません。


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「独り言」より。

2015-09-04 00:08:30 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


             第一章、 或る愚か者の生涯


             ◆親孝行ができたと思うこと◆


先の続き・・・

いい学校に入り、豊かな暮らしをするために子供の頃から塾に行かされ、
親子の対話、
家庭での躾等についてはほとんど熱心ではないのが昨日今日の社会の有り様です。
そこで、親孝行というとせいぜいいい学校に入るとか、いいところに勤めてお金持ちになったり、
出世したりして、親にいい思いをさせてあげるくらいしか思いつかないのも無理からぬことです。
しかし、本来の親孝行とは親のエゴを満たすことでも、
自分の欲のままに生きて何かこの世で成功することだけでもありません。
そうではなく、正しい生き方を貫いた時に、人のためになり、同時に世の中のためになる
ように生かせていただくことが一番の親孝行です。
せっかく生んでも、その子が悪いことをして世間に迷惑をかけたならば、
親は子を生まなければよかったと思います。
また、いくら偉いお役人になっても、有名になっても、その末路が哀れだったらどうでしょう。
悪いことがばれてしまったり、自殺したり、人に殺されたりなどしたら、
それまでの地位や名誉もなんにもなりません。

もちろん、本人がいくらエリートとして成功しても、また商売が繁盛しても、
心の中に不満や寂しさを抱えて悶々としていたとしたら、その顔を見て親は、
「この子はこの頃ちっとも幸せそうではないな」と、子供の頃の元気で屈託のない顔が
まなこの裏に焼き付いているだけに、余計に寂しいことと思います。
先ず、心を正しく生きて自らが心の底から幸せになること、
本当にうれしそうな笑顔を親にも見せられるようになることです。
もちろん、物心両面においてですが、
そうなるために私たちは神の御心にかなった生き方をしなくてはならないと思います。
地位がなくとも、そんなにお金がなくても、子が幸せそうなら、親は生んでよかったと思います。
それが真の親孝行だと思います。
ところで、心が幸せであるとは他人の幸せも喜べるような、
また人や世の中のためにもなれるような心になっていることです。
心に陰りがあってはなりなせん。
太陽のように明るい心になるためには心にお荷物や未解決の問題があってはなれません。
なんの波風も立たない人生ではなく、
困難な問題が来ても、いつも乗り切っていけるだけの自信が持てることです。
その自信とは、やはりいつも神様と共に道を歩んでいるのだという確信から来ると思います。


                 ~ 感謝・合掌 ~



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「独り言」より。

2015-09-03 00:48:15 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第一章、或る愚か者の生涯


          ◆親孝行ができたと思うこと◆


先の続き・・・

本当の親孝行とは何かと改めて考えてみます。
今の世の中は戦前の「教育勅語」の精神も消し去られ、
人の生きる道さえ失っております。
縦横の秩序や忠節、感謝や友愛の心も失われて、その結果、
学校や家庭において子供がいろいろな問題を起こしています。
もちろん、子供だけでなく、
大人の世界でもいちいち例を挙げるまでもないほど毎日のように
新聞をにぎわせるおぞましい事件が起きています。
戦前の教育勅語の、君に忠にという言葉が君主主義につながるからいけないと、
日本の国から消し去られました。
しかし、「親に孝に 兄弟に優に 夫婦相和し 朋友相信じ 博愛衆に及ぼし 
強健己を持すべし」の精神こそは、人の生きる基本であるとおもいます。

御義を受けた方に忠義を尽くすべく、
再び日本国民が目覚めなければならないと思います。
世界を歩きますと、どんな小さな国にも国旗が立っていますが、
日本の国際空港で日の丸の国旗を見たことがないのは不思議なことです。
世の識者たち、指導者たちは、自国を愛してはいけないと思っているのでしょうか。
自然の草木を見ても、生まれた土地に根を張って、
生まれた土地から栄養を吸収して生きています。
あの鮭を見ても何年も大海を回遊し、やがては生まれたふるさとの川へ帰り、
産卵をします。

そして、新しい生命を生んで育んでいきます。
悲しいかな、人間は自然の掟を破りつつあり、
やがてクローン人間をつくる日が来るかもしれません。
しかし、絶対にいけません。
自然の掟を破れば、神に逆らうことになるからです。
その時、必ず自然の反動が来ます。
そして、人類は人類を滅ぼすでしょう。
科学とは尊いものではありますが、一つ間違えば、
人類を滅ぼす恐ろしいものでもあります。
つまり、自分の命のもとを考え、自然の恵みの中で生かされているお陰、
生み育ててくれた親への感謝に目覚めなくてはなりません。


              ~ 感謝・合掌 ~





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「独り言」より。

2015-09-02 00:08:25 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


              第一章 或る愚か者の生涯


             ◆親孝行ができたと思うこと◆


私は八人兄弟の五番目として生まれました。
長じて独立し、親も老いてから、私の家に遊びに来てくれる度に、
「八人も子がいるけれど、
おまえのところに来るといちばん気持ちが安らぐ」と父母から言われておりました。
それだけに兄弟から嫉妬、反感を受けていたようです。
しかし、それも現在ではすっかり調和しています。
母は私がお腹にいる時に、たいへん重く感じたそうです。
体重が四キロ近くあったから重いということではなく、ひどく重く感じたそうです。
しかも、誕生が七月二十五日でしたから、
「おまえは親不孝や」とよく言われたものです。
暑い最中に生まれ、おまけにえらく重くてしんどい目に遭わせたから、
そのように言われるのは当然と思っていました。
ところが、私が稼業の織物業をやめて、人さまのためにあちこち飛び回るようになりますと、
寸暇を惜しんで我が身も顧みずに東奔西走する倅の姿を見て、
自分の身は過ぎたる方に宿っていただいたためにあのように身が重く感じたのだと
思うようになったそうです。


      我が如き 者の腹より よくぞこそ
                   尊き方と 母の言葉や


母はよく浄心庵に来られる方に対して、「私のようなもんの腹からよくこんな尊い方が
生まれてくれはったこっちゃ」と話しておりましたが、私は「それだけは言わんといてください。
それを聞いた人は親バカと思いますから」と言ってお願いしたものです。
しかし、母は自分の腹を痛めた子でも自分の所有物のようには考えていなかったのです。
子は神様からの授かりもと言われますが、この言葉は子宝に恵まれることを祈り、
子が授かれば感謝する心を示しています。
ところが、とかく子を育てる苦労を経ながら、
私たち凡夫はいつしか本当の親バカになっていきがちです。


      母言わる 我れ一人の 子にあらず
                  数多の子故 身を大切にせよ


                 ~ 感謝・合掌 ~



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「独り言」より。

2015-09-02 00:08:25 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


              第一章 或る愚か者の生涯


             ◆親孝行ができたと思うこと◆


私は八人兄弟の五番目として生まれました。
長じて独立し、親も老いてから、私の家に遊びに来てくれる度に、
「八人も子がいるけれど、
おまえのところに来るといちばん気持ちが安らぐ」と父母から言われておりました。
それだけに兄弟から嫉妬、反感を受けていたようです。
しかし、それも現在ではすっかり調和しています。
母は私がお腹にいる時に、たいへん重く感じたそうです。
体重が四キロ近くあったから重いということではなく、ひどく重く感じたそうです。
しかも、誕生が七月二十五日でしたから、
「おまえは親不孝や」とよく言われたものです。
暑い最中に生まれ、おまけにえらく重くてしんどい目に遭わせたから、
そのように言われるのは当然と思っていました。
ところが、私が稼業の織物業をやめて、人さまのためにあちこち飛び回るようになりますと、
寸暇を惜しんで我が身も顧みずに東奔西走する倅の姿を見て、
自分の身は過ぎたる方に宿っていただいたためにあのように身が重く感じたのだと
思うようになったそうです。


      我が如き 者の腹より よくぞこそ
                   尊き方と 母の言葉や


母はよく浄心庵に来られる方に対して、「私のようなもんの腹からよくこんな尊い方が
生まれてくれはったこっちゃ」と話しておりましたが、私は「それだけは言わんといてください。
それを聞いた人は親バカと思いますから」と言ってお願いしたものです。
しかし、母は自分の腹を痛めた子でも自分の所有物のようには考えていなかったのです。
子は神様からの授かりもと言われますが、この言葉は子宝に恵まれることを祈り、
子が授かれば感謝する心を示しています。
ところが、とかく子を育てる苦労を経ながら、
私たち凡夫はいつしか本当の親バカになっていきがちです。


      母言わる 我れ一人の 子にあらず
                  数多の子故 身を大切にせよ


                 ~ 感謝・合掌 ~



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