八名川句会が開かれます
9月2日 午後3時~ 八名川小学校会議室にて
どうぞいらしてください。見学も歓迎です。
日航財団のN専務理事さんらが八名川小学校においでになった。
日航財団は、すでに40年にわたって、世界に俳句=HAIKUを広げる活動を行っている。
日本の子ども達の俳句を英訳し、また世界の子ども達のHAIKUを集め、出版している。
時には、世界の子ども達を集めてHAIKUキャンプを行ったとも言う。
アメリカでは、すでにHAIKUをカリキュラムの中に組み込み、英語の詩を書く手始めにHAIKUに取り組ませていると言うお話も伺った。
これまでの数十年間の活動から生まれた子ども達の俳句が載った御本もいただいた。
素晴らしい作品ばかりで圧倒される思いである。
いただいた御本の中に How to make HAIKU (日本語)と云うパンフレットがある。
このパンフレットが実にわかりやすい。 こんなパンフレットができればいいのだと思ってしまう。
構成だけ挙げれば次のようである。
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俳句ってな~に?
◆俳句のかたち
◆俳句のすばらしさ
◆いっしょに絵も描いてみましょう
ハイクの詠み方第一章
◆俳句の約束1 春夏秋冬
◆こんなところに気をつけて
ハイクの詠み方第二章
◆俳句の約束2 自分の世界や心を反射しよう
◆こんなところに気をつけて
ハイクの詠み方第三章
◆俳句の約束3 時をつかまえる
◆こんなところに気をつけて
いつでもハイクを詠んでみて
◆一日の中で
◆一週間の中で
◆一年間を通して
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こんな俳句が紹介されている。
とんぼの目アンドロメダを映してる
木の上であくびを一つあけびのみ
満月と一緒にビデオ借りにいく
句会「いちじはん」のホームページができたと北大路翼さんから連絡がありました。
いちじはん←クリックしてください。
中学生・高校生・大学生など若手の俳人がここを拠点に育ち、巣立ってくれればいいなあと思います。
次回の いちじはん は、9月27日(日) 1時半 清澄庭園集合です。
以下、発起人代表の北大路さんのメッセージです。
いちじはん宣言
発起人代表 北大路翼
社会以上に高齢化が問題となっている俳壇。
若手俳人の出現が渇望されて久しい。
でも僕たちは、俳壇のためじゃない。
自分たちが楽しめる俳句であるために集まるのだ。
年長者だって受け入れる。
若さとは年齢のことじゃない。
各々が自分の理念を信じ、自由に発言する
「いちじはん」とは一つの場である。
訪れた人々によって
次々と場は姿を変えていくだろう。
好きなときに来て、好きなときに帰ればいい。
みんなの足跡が「いちじはん」を作っていく。
山本健吉に「俳諧についての十八章」という文章がある。
50年以上前に書かれた文章だが、びんびんと伝わってくる。
俳句・俳諧とはどの様な文学かがこれを読むとわかる。
最も山本健吉が明解な主張をした裏には、その逆の考え方があっただろうからであり、それを読まなくては本当は、山本健吉の主張もしっかり理解したとは言えないかもしれないが・・・
ディアローグの芸術
山本健吉の言葉をいくつか書き抜いてみよう。 ディアローグとは、モノローグに対置されている言葉である。
「俳諧芸術は、もともとそれら現実に存在する連衆たちの共同詩作であり、・・・・」
「それら現実の談笑の相手がつくる限界線を破って、句に広汎な流通性を与えたものが正風俳諧であった。」
「「俳諧は、その制作過程の実際に即して考えても、ディアローグにおいて成り立つ芸術なのだ。」
「連俳から発句が独立するにつれて、それはディアローグからモノローグへ移る傾向をしめしてくた。発句が語りかけ笑み交わす対者の存在を意識しなくなってきたのだ。」
「俳句は、客観世界の一つの刻印であり、判断である。」
「いったん断定の形で提出されたものの次に、かならず"isn't it?"といった風の相手への問いかけを忘れないのが、本来的な俳句の在り方なのだ。」
「私は俳句のこの特殊な性格を挨拶と言うのである。」
「すぐれた古俳句はおのずから対者との間に談笑の場を開いているのだ。そのような性格ほど、今日の俳句から忘れさられているものはないのである。」
「モノローグの壁を突き破って、もう一度対者とのつき合いの場を開くことだ。」
このように書き抜いても山本健吉の主張を正確に示すものではないことはわかっている。
自分自身の覚書のための抜き書きにすぎない。
正確には、原文に当たってほしい。よんで損のない論考である事だけは確かだ。
講談社文芸文庫「俳句の世界」1350円
江東区教育振興会のSさんが見えた。
話をしているうちに、Sさんが
「区議会だよりに、俳句の事がでてましたよ」
と言う。
「えっ」
「教育長が答弁しているよ」
びっくり。
早速、区議会だよりを探してみる。
すると、今年の5月18日号に確かにある。
民主クラブの徳永議員の質問
「本区独自の日本語教育を。」
これに対する教育長の答弁。
「俳句教育等を推進し日本語の美しさ等の理解を深めていく」
ということである。
江東区は、確実に俳句の区なっていく。
先回は、吟行の様子をお伝えしたが、今日は肝心の俳句について報告しよう。
私が好きな句を三句。
ゆらゆらと伸ぶ朝顔の高さかな
今時は、朝顔が緑のカーテンとしての役割も果たしている。
朝顔市の朝顔の感覚だと、朝顔が自分よりも背が高くなることはなかなか考えられないが、
緑のカーテンになると、2階、3階まで伸びる。何となく頼りげがなくまさに
ゆらゆらと伸ぶ という表現がぴったりである。
秋の蝶電車に揺られて君のもと
こういう句は、若くなくてはできない。中学生・高校生の特権のような句だ。
秋の蝶は飛ぶ力も次第に衰えている。それでも君の元に行きたいのだ。
電車に乗ってまでも、君の元へという心が表れている。
然し、そう考えてみると、これは老人の恋の話かもしれない。
老境になって、初恋の人が忘れられずに一目会いたい。
俳句と言うのは、こんな風に自由に想像を広げられる。
それも俳句のおもしろさである。
雲間から声がれもんの色してる
よく考えてみると、雲間から声などしないし、しない声に更に色がついている。
そんなことも現実にはあり得ない。だからなんじゃいと言いたくなるが、
理屈を追求せずに何となく雰囲気がある。
中学生が、色々工夫し実験している様。完成形であるよりも、そうしたチャレンジ精神を買いたい。
1時半集合。 恒例のいちじはん句会。
今日は、八名川小学校に集まり、隅田川沿いを吟行。
隅田川の景色
対岸には、すでにこんなススキが!
苦吟する?北大路翼氏
そら庵
新しい常盤の名物「そら庵」 こう見えても、ブックカフェです。中は素敵!!
途中で、約1年前に常盤に開店した「そら庵」に寄る。この日は、3時から朗読のイベントがあり、
思い思いに、飲み物をいただき、退散。開店1周年を記念して、様々なイベントが行われる。
入口に立つと、ちょっと入ってよいかどうかとまどうが、どうぞどうぞ!
今後八名川の新しい文化の拠点になる場所と見た。
【今後の予定】
▽ひねもす朗読会
8月29日(土)12:00~17:00
mixiコミュ http://mixi.jp/view_community.pl?id=4309716
▽1周年記念イベント
8月30日(日) 15:00~
ポエトリーリィーディング、音楽ライブ、朗読劇を予定しています。
▽中国語教室
9月6日(日)11:00-12:30
未学者OKです。見学は無料。
▽Brasil Jazz
9月12日(土) 詳細追って
▽チョコリンガーズ・ライブ
10月18日(日) 詳細追って
そら庵のホームページです←クリックしてください。
句会風景
大学生と中学生等の新人を迎え、更に新鮮な句会となった。
近いうちに いちじはん のホームページも開設予定である。
次の句会は、9月27日(日) 午後1時半~ 集合は、清澄庭園
句会の場所は、3時から八名川小学校の予定です。
以下は、日本創造学会に提出しようと考えている「子どもの創造性を培う俳句教育の実践」のレポートの下書きである。ご意見をぜひ伺いたい。
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俳句は、5・7・5の音節で構成されている定型詩であり、世界で最も短い詩である。俳句の歴史は、室町時代に生まれた俳諧連歌に遡る。俳諧連歌は、正統派の連歌に対して遊技性を高めた集団文芸であった。松尾芭蕉の活躍した頃から、俳諧連歌の発句だけを独立させ、鑑賞することも多くなった。発句を完全に独立させ、「俳句」としたのは、正岡子規によるとされている。
本稿は、想像性高める俳句教育について、江東区立八名川小学校の実践に基づいて述べたものである。
1、俳句教育に取り組む4つのきっかけ
●アイデアマラソンとの出会い
アイデアマラソン研究会を主催する樋口健夫氏とは、十年来の知己である。氏より、アイデアマラソンを学校教育の中に取り入れるようにかつてから勧められていた。
(''アイデアマラソンとは、毎日、少しずつ思考し、オリジナルな発想を思いつき、ノートやPCに記録し、周りに話し、自然な思考の習慣を付ける方法''である。)
これからの日本が、世界に伍していくためには、子ども達の発想力-創造力-を鍛えなければならないことは自明であり、氏の提案をどの様に学校教育の中に具現化するかを探っていた。
●江東区芭蕉記念館
2003年4月、私は江東区立八名川小学校に赴任した。八名川小学校は、江東区の西北の隅に位置する小規模な学校であるが、その学区域には、俳聖と言われた松尾芭蕉が棲んだ芭蕉庵があり、現在は江東区芭蕉記念館がある。この地域性を生かした特色ある教育を行うためには、俳句を採り上げ教育活動に組み込むことが適切であると考えた。
●日本語力の向上
折しも、齋藤孝「声に出して読みたい日本語」(2001年)がベストセラーになり、世田谷区が日本語教育特区になるなど、「日本語ブーム」が起こった。この背景には、学力低下論争や各地での学力テストの実施がある。さらに、2011年度から本格実施される文部科学省の新指導楊柳に「俳句」が採り上げられる等の事情が背中を押した。
●十分間俳句の考案
現教科書でも俳句は小学校6年で採り上げられているが、鑑賞のみであり創作はない。
小学校教育の中で、俳句の創作に日常的に取り組むには、教育課程に負担のかからない無理のない計画が立てられなければならない。私は、2005年度小学校4年生を対象に3ヶ月間の実験を行い、小学生が日常的・継続的に俳句に取り組むことが可能であることを確認した。また、その経験をもとに「十分間俳句」という指導法を紡ぎ出すことが出来た。
(※ 十分間俳句とは、十分間という時間を区切り、俳句の種見つけ→俳句作り を行い、簡易的な句会と組み合わせる短時間で俳句に取り組む指導法である)
2、創造と俳句
例えば、比嘉佑典(東洋大学)氏は、創造を次のように定義している。(日本創造学会ホームページより)
「創造とは、個人の中に、事物の中にある古い結びつきを解体し、新しい結びつきにつくりかえることである」
俳句に於ける「創造」も同様である。
古池やかわず飛び込む水の音 松尾芭蕉
日本人であれば誰でもが知っているこの句がなぜ名句と言われるのか。それは、この句が古い結びつきを解体し、新しい結びつきにつくりかえ、「新機軸」を示したからである。
この時代、鳴き声を愛でるものであった蛙をのその声ではなく、飛び込む音をとりあげた点、また、蛙につきものの「山吹」を排して、あえて「古池」を採り上げたことがその理由とされる。
俳句を創作すると言うことは、こうした「創造」をし続けると言うことを意味する。この事は、子どもの句でも同様である。
鯉幟たきへ行かずに空のぼる 陽希
さすがに芭蕉の句というわけにはいかないが、揚げ句も「鯉幟の鯉は、世間で言うように滝を登るんのではなく、空に登って行くではないか。」と「鯉は滝登りをするもの」とする「古い結びつき」を否定して見せている。
俳句は、創作の過程で自分の目で物事を見極め、新しい視点を作りだし表現する作業であり、絶え間ない創造の過程であると考える。従って、子ども達に日常的・継続的に俳句に取り組ませることは、創造の積み重ねによる創造性を高める教育になると信じる。
3、創造力を支える4つの力
●発見力
物事を自分の目でリアルに見る力は、すべての基本になる力である。芭蕉の句に「よく見れば薺花咲く垣根かな」がある。このよく見るということが、俳句作りの基本ということができよう。
ざりがにのおしりに一本黒い線 元春
グッピーも人間みたいに母になる 亜美
自然観察ばかりではなく、まわりの社会や自分自身の発見にも繋がる
ラジオ体操いつも同じ人に会う 珠代
芝生にねねっころがったらぼくみどり 裕樹
●表現力
当然のことだが、発見したことや自分の考えを人に伝わるように適切に表現できることも創造力を支える大きな力である。俳句は、十七音という短い表現形式であるが故に一言一言が極めて重い意味をもつ。
ポップコーンパンパンパーンと春あらし 亮佑
比喩としての「春あらし」が決まっている。小学生にあっては、事象を違う言葉に置き換える事から始まるがもちろんそれだけではない。
一週間雨雨雨だ春の空 元紀
雨を3回重ねたところが工夫である。早く晴れてほしいという子どもの気持ちが伝わってくる。
雛あられ一つ食べるとまた一つ 智子
際限なく食べたくなる気もちが見事に伝わってくる。これも表現の力である。
●結合力
異なった二つの物事を結びつける。俳句では、このことを「二物衝撃」とか「取り合わせ」などと言う。俳句においては、この二つの結びつきは極めて感覚的であり、論理的でないところに特徴がある。芭蕉は、「発句は取り合物也。二ツとり合て、よくとりはやすを上手と云也」と述べている。
しかし、実践してわかったことだが、この二つ取り合わせの微妙な感覚を会得するのは、小学生の発達段階では、なかなか難しい。
寝たふりで宿題ごまかす春うらら 朝子
●視点の転換力
多様な観点から物事を見る力も創造力を支える力の一つと考える。
あじさいをハチと一緒に見る私 あゆみ
「あじさい」を題材に詠んだ時、作者は、あじさい→私 と視点を転換させている。
赤虫がやごに命をとられちゃう 拓斗
この句は、教室でやごの飼育をしている時の句である。ヤゴが餌の赤虫を食べて早くトンボになってほしいと多くの子どもがヤゴの側に立っている中で、彼は餌の赤虫の立場から述べている。これも視点転換力と言ってよいのではないか。
5、十分間俳句の実践-四つのひらめき-
俳句と創造力の関係について述べてきたが、ここでは八名川小学校における十分間俳句の実践について説明する。十分間俳句とは、創作時間を十分に限った俳句作り方法である。
十分に限るのは、次の三つの理由による。
○日常的に教育課程に取り入れることを可能にする。
○時間を区切ることによって、集中的に取り組むことができる。
○反対にひらめかない時は無理をしないことで継続できる。
●俳句の種を見つける
十分間俳句の実践では、まず最初に見つけたことや感じたことを簡単な文章で記述する。時には、「直ぐ俳句に作っていいですか」という子どももいる。十七音が直ぐにひらめいたのだろう。しかし、見つけたことがいつも十七音になるとは限らない。習慣として、じっくり見ることが大切なので、直ぐ出来ることを「よし」としない。
例えば、花瓶に挿した木瓜の花を題材にして俳句を作る場面を考えてみよう。目に映った映像としての木瓜の花の情報量は、どのくらいであろうか。一枚の写真に撮ったと考えてみる。仮に100キロバイト(実際はその写真が何枚も何十枚も撮られるのが目で見る観察だが・・・)とする。一方、ノートに書かれる俳句の種はせいぜい50字。100バイトにすぎない。千分の一の情報量に落とすのである。しかし、わずかな情報量しかもたない文章が千倍の情報量をもつ写真を凌駕するのだから驚きだ。
目に映った情報の中の何をこそ記録(俳句の種)に留めるか、そこには大いなるひらめきがある。
俳句の種 木瓜の花には、とげがある
↓
俳句 木瓜の花守るとげさんガードマン 日路
●俳句の種から俳句をつくる
前掲の句を例にとれば、とげ→ガードマン というかわいらしい発想の飛躍がある。種だけでは俳句作品と言うわけにはいかない。
部屋を片付けてさっぱりしたけれど、 カレンダーだけめくり忘れていた
→ カレンダー五月のまんま動かない 紗希
空にいろいろな形の雲がいっぱいあって動物園みたいだった
→ 夏の空ぼくの真上にくじら雲 新之介
言葉のひらめきがあって作品が出来る。
● 俳句を捻る(ブラッシュアップする)
いつも、直ぐに素敵な俳句が出来ればそれに越したことはないが、通常それはまれである。俳句は少しずつ進化するのだ。
夏休み自由研究できるかな
これが最初に出来た作品である。どんな作品も零からの創作である。私はどんな創作物も価値があると考える。しかし価値を高める努力は必要だ。それが捻るということだ。
日焼け顔自由研究できるかな
捻る前よりも数段よくなっていることだけは確かだ。たとえよくならなくても、捻ることはひらめきを導く手段であり、これを繰り返すことによって俳句はブラッシュアップされる。
十分間俳句は、俳句づくりを種の段階から作品を捻る段階まで三段階のスモールステップに分けることによって、ひらめきを導き子ども達の創造力の向上を目指している。
●句会もひらめきの場である
句会というのは、みんなの句を読み合い評価する場である。たった十七音の俳句は、各人のもっているイメージに依存して作品が成り立っている。だから、復元作業が必要なのだ。それは、一枚の建築のイメージ写真から実際の建物を復元することに似ている。この復元作業こそ俳句の鑑賞であり、句会の目的である。
そうなると、句会も創作と同じく大いなるひらめきが求められる場ということになる。ここでも創造性は鍛えられる。
小学校教育のほとんどは、知識を覚えたり、技術を習得することに充てられている。ひらめきや発想を訓練する時間はほとんどとられていないのが現状である。
私は俳句という日本の伝統的な文芸への取り組みを通して、ひらめき・発想力を日常的に鍛え、日本文化の担い手を育てるだけでなく、現代社会が求めている創造力を高めることが出来ると確信している。
八月の句会「いちじはん」 は、
時 八月二十三日(日) 午後一時半~
場所 江東区立八名川小学校にて
隅田川河岸及びその周辺を吟行してから 句会を行います。
自称若者であれば誰でも参加可
ふるってご参加下さい。