「こいのぼり」は、子どもたちが俳句に詠みやすい題材である。
特に、学校で大きな鯉のぼりを飾っているときは格別である。
子どもたちに親しみやすい題材で、しかも動きがダイナミックである。
この動きのダイナミックさをよませればいいし、絡まって垂れ下がっていても、それなりに俳句に詠むことができ味が出る。
校庭に出て観察すればリアルな句ができる。時間の無いときは、教室の窓からでもよく見えるというのがみそである。
この「鯉のぼり」、連休が過ぎると仕舞われてしまうところが多いから、連休の狭間の5月2日までに取り組むことが鍵である。
10分間俳句の要領でぜひ取り組んでいただきたい。
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近代秀歌 (岩波新書) |
永田和宏 | |
岩波書店 |
先日、この永田和宏の「近代秀歌」について紹介したが、その中でかれは、「写生」について述べており、とても心開かれたことがあったので、これだけは紹介しておくことにする。
斎藤茂吉は、「写生」という方法について
「実相に観入して自然・自己一元の生を写す。これが短歌上の写生である。」
弟子の佐藤佐太郎は、
「「写生」ということはつきつめれば物を正確に直接に見るということである。他人の借物でなしに自分の眼で現実を見る」ということだと述べる。
それに対して、永田は、
「結論だけ言うと、私は、写生というのは、目にしたすべての事象のなかから、ただ一点だけを残して、他はすべて消し去る作業であると考えている。・・・・・すべてをリアルに写し取ろうとするのではなく、その場の自分の感情にもっとも訴えてきた、たった一つの事象、対象だけを残し、あとは表現の背後に隠してしまおうとする態度、表現法、あるいは手法、それを私は写生呼びたいと考えるのだ。」
この永田の言説は、実に示唆的である。
子どもに 「よく見る」 ことを教えたときに、理科の観察とどう違うかを教える。俳句の観察は、感情に残る一点だけを探るための観察なのだ。
初めて俳句指導をする場合、どんな題材を取り上げてどのようにすればよいか。
一つの方法だけではないが、年度末に4年生の教室で行った実践を元にして考えてみたい。
まず、題材である。
俳句の指導には、「もの」を題材にする場合と「こと」を題材にする場合がある。
ものというのは、例えば、桜だったり、チューリップだったりする。
それらを観察して俳句を作るという方法だ。
「こと」というのは、自分の生活や行事に題材を撮って俳句をつくると言うやり方だ。
4年生の教室で行ったのは、「こと」俳句である。
テーマは「春の朝」である。つまり、今日の朝君はどんなことをしたのか、起きるときから学校に来るまでのことを思い出して考えてみようというのだ。
起きた時のことから考えてみよう。
ねえちゃんに起こされちゃった春の朝
ねむたくて二度三度ね春の朝
朝食はどんなものを食べたの? これだって俳句になるよ
トーストにジャムをたっぷり春の朝
夕飯の残りのカレー春の朝
朝の登校の時はどうでしたか。
班長のうしろついてく春の朝
1年生あぶないあぶない春の朝
学校に来てからは?
先生とまずはあいさつ春の朝
教室にだあれもいない春の朝
こんな風にして、30分ぐらい俳句づくりをする。(こんなに時間を撮る必要はない。せいぜい10分程度でかまわない。)
この結果できた句の数は、以下のようです。
1組 2組
1~3句 0人 1人
4~6句 17人 10人
7~9句 8人 8人
10句以上 3人 10人
生活を題材とすることで、誰でも俳句が出来る。数多くできるということが、子ども達に「俳句取り組みやすい」「むずかしくない」という気持ちを育む一つの要因になります。
また、たくさんできることで、成就感をもつようになります。
指導する際には、できるだけ詳しく具体的にということを心がけます。
朝食食べた→朝食はきのうの残り
たまごやき→ふっくらやいたたまごやき
→卵焼き三つも食べた
春の朝のあとは、 春の夜 春の空のもとで などと広げていく。
先日書いたものと似ていますが、ぜひ取り組んでみて下さい。
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近代秀歌 (岩波新書) |
著者 永田和宏 | |
岩波書店 |
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永田和宏著 「近代秀歌」。俳句はアンソロジーなどである程度読んでいるが、短歌はまるで知らない。せいぜい俵万智と河野裕子ぐらいだ。永田和宏は、その河野裕子の夫である。
河野と家族との壮絶な闘病生活を描いた「歌に私は泣くだろう」を、連載されていた新潮社の宣伝雑誌「波」で読んだが、ここまで書いていいのかというほど衝撃的な本だった。
手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が 河野裕子
臨終に際しての河野裕子のこの歌は、涙なしには読めない。
元に戻ろう。岩波新書のこの本の帯には、「日本人ならこれだけは知っておきたい 近代の歌100首」とある。
俳句もいいが、歌もいい。俳句は言いたいことを隠すが、歌は、これでもかと言うぐらいに絶唱する。
斎藤茂吉の『赤光』の連作「死にたまふ母よ」
みちのくの母のいのちを一目見む一目見むとぞただにいそげる 斎藤茂吉
のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて垂乳根の母は死にたまふなり 斎藤茂吉
まさに絶唱である。
遺棄死体数百といひ数千といふいのちふたつもちしものなし 土岐善麿
この歌は、日中戦争の報道写真を見て作られたものという。ただの一人も命を二つ持つものはないという至極当然のことなのだが、この事が実に重い。
やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君 与謝野晶子
この歌の意味は、「若い乙女のやわらかい肌にみなぎっている熱い血汐に触れることもなく、ただ世の道を私に説いているあなた、それではお寂しくはありませんか」ということであるる何とも挑発的で情熱的。これぞ与謝野晶子だ。
こういう歌を読んでいると、ここに心を奪われそうである。
「近代の秀歌」に続いて、「現代の秀歌」も発行予定らしい。