十分間俳句

発見・感動・創造! 子どもたちの感性を培い日本語力を高める十分間俳句

俳諧についての十八章

2009-08-29 | ジュニア俳句

山本健吉に「俳諧についての十八章」という文章がある。


50年以上前に書かれた文章だが、びんびんと伝わってくる。


俳句・俳諧とはどの様な文学かがこれを読むとわかる。


最も山本健吉が明解な主張をした裏には、その逆の考え方があっただろうからであり、それを読まなくては本当は、山本健吉の主張もしっかり理解したとは言えないかもしれないが・・・


ディアローグの芸術


山本健吉の言葉をいくつか書き抜いてみよう。 ディアローグとは、モノローグに対置されている言葉である。


「俳諧芸術は、もともとそれら現実に存在する連衆たちの共同詩作であり、・・・・」


「それら現実の談笑の相手がつくる限界線を破って、句に広汎な流通性を与えたものが正風俳諧であった。」


「「俳諧は、その制作過程の実際に即して考えても、ディアローグにおいて成り立つ芸術なのだ。」


「連俳から発句が独立するにつれて、それはディアローグからモノローグへ移る傾向をしめしてくた。発句が語りかけ笑み交わす対者の存在を意識しなくなってきたのだ。」


「俳句は、客観世界の一つの刻印であり、判断である。」


「いったん断定の形で提出されたものの次に、かならず"isn't it?"といった風の相手への問いかけを忘れないのが、本来的な俳句の在り方なのだ。」


「私は俳句のこの特殊な性格を挨拶と言うのである。」


「すぐれた古俳句はおのずから対者との間に談笑の場を開いているのだ。そのような性格ほど、今日の俳句から忘れさられているものはないのである。」


「モノローグの壁を突き破って、もう一度対者とのつき合いの場を開くことだ。」


このように書き抜いても山本健吉の主張を正確に示すものではないことはわかっている。


自分自身の覚書のための抜き書きにすぎない。


正確には、原文に当たってほしい。よんで損のない論考である事だけは確かだ。


講談社文芸文庫「俳句の世界」1350円


 


 


 


 


 


 


 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。