十分間俳句

発見・感動・創造! 子どもたちの感性を培い日本語力を高める十分間俳句

平成の名句600

2012-07-31 | ジュニア俳句

俳句の総合月刊誌と言えば、角川学芸出版から発行されている「俳句」それに文学の森社から発行されている「俳句界」であろう。俳句界は、7月号で、子ども俳句を特集していた。これについての論評を書く方が先かもしれないが、今回は、「俳句」について採り上げたい。
特集は、「平成の名句600」という企画である。
この企画は、俳人20人が30句ずつ「平成の名句」を選ぶというものだ。
読んで気がついたことは、「平成の句」と言ったときのイメージがかなり重なっているということだ。選ばれている俳人、句もかなり重複している。評判になった句がすくないということかもしれないし、評価が定着してると見ることも出来る。
また、女性俳人が目立つということだ。しかも、そこに新しさがあるように感じる。

例えば次のような句だ。

初夢のなかをどんなに走つたやら  飯島晴子

春は曙そろそろ帰つてくれないか  櫂未知子

人類の旬の土偶のおっぱいよ  池田澄子

水の地球すこしはなれて春の月  正木ゆう子

死に未来あればこそ死ぬ百日紅  宇多喜代子

男の俳人で多く取り上げられているのは、

おおかみに螢が一つ付いていた  金子兜太

空へゆく階段のなし稲の花  田中裕明

車にも仰臥という死春の月  高野ムツオ

高野の句は、震災句として多く採り上げられている。

加藤楸邨もとりあげられているのだが、それが決まって

師走自問すだからどうしろと言ひたいのだ  加藤楸邨

なのである。ある意味、これが時代の空気なのかもしれない。


なんのための観察か

2012-07-18 | ジュニア俳句

理科の観察と俳句を作るときの観察はいったいどこが違うのか。
子どもたちの指導をしながらこのことを考えていた。

理科の観察が「説明」をするためだとしたら、俳句は「感動}するためである。
葉っぱの数を数えたり大きさを見たりしているうちに、「結構大きいなあ」と思ったり、「小さな葉っぱがたくさん出ているんだなあ」とか、細部を観察することによって、新たな気付きがあり、そこから感動が生まれるからだ。
観察から感動への水路をうまくつけてあげることも俳句指導の一つだと思う。

 


前橋、そして山本掌さん,鈴木伸一さん

2012-07-17 | ジュニア俳句

 写真は、先日の学校俳句交流会に講師でおいで下さった前橋の鈴木伸一さんが選をされている「上毛新聞」の実物である。言わば、トップ下の一番いい場所に子どもたちの俳句が掲載されている。これがずっと続いているのであるから、すごいものだと実物を見ながら改めて感心した。
群馬県の子どもたちの俳句の水準は、この鈴木さんの力、そして鈴木さんが選者をされている上毛新聞の力によって、ぐんと高められたに違いないと思う。
鈴木さんのホームページには、ジュニア俳句のヒントが一杯詰まっている。


前橋を訪れたのは二度目である。最初に行った時は、閑散とした駅前だけが印象だった。
今回は二度目。するといろいろな物が見えてきて、前橋の魅力が少しわかってきた。
駅前の並木の見事さ。そして、街中を流れる廣瀬川の渓流。水量の多さに圧倒された。廣瀬川沿いにはベンチがおかれ、この暑い夏もここでなら一日すごせそうである。
元祖ソースカツ丼の西洋亭がいい。そこはかとない文化がここにある。
もちろん、萩原朔太郎。前橋文学館。
この街でこそ、鈴木さんのジュニア俳句が息づくのだと思った。
この日、メゾソプラノ歌手の山本掌さんのコンサートが行われた。山本掌さんは芭蕉の歌を歌う歌手であると同時に俳人である。この日は、ギリシャ民謡や山田耕筰などこれまでになかった歌で、新しい発見であった。

 掌さんの俳句は不思議だ。

 きつねのぼたん闇に手首の二つ三つ    掌

 その鮎の骨美しき宇宙塵              掌

この感性は誰にもまねできない。

 山本掌さんのブログをぜひご覧下さい。

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日本学校俳句研究会のホームページはこちら→ 日本学校俳句研究会

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子どもの俳句は子どもの文学

2012-07-06 | ジュニア俳句

先日、ある新聞に素晴らしい子どもの俳句が掲載されていた。
言葉遣いといい、内容といい大人でもなかなかこうはできないだろうというような俳句なのだ。一種の天才だろう。
一瞬、言葉を失った。私が指導した中でこんな「レベルの高い」俳句を作った児童は一人としていないからだ。どう指導したらこんな俳句を作るようになるのだろうかと思った。
今、江東区には中学校俳句部というものがある。中学二年生が中心なのだが、昨年の秋くらいから句の様子が変わってきた感じを受けている。
これは、単に俳句が上手になったと言うことだけではなく,成長して大人に近づいたから、その分変わったのだと思う。
小学生には小学生の俳句があり、中学生にはその成長段階にふさわしい俳句がある。
児童文学は、大人が子どものために書いた文学である。
子どもが自分のことや自分の感性を示した文学があるかといえば、これがない。
子どもが小説を書くことには無理がある。その点、俳句は子どもでもできる。子ども独特のその時代にしか感じ得ないものを示すことができる。と思う。
そういう視点から、朝日新聞に掲載された「レベルの高い俳句」を見たときに少し違和感を感じる。
その俳句は、その子の独特の生活や環境の中で生まれたものであろうが、それは子どもの俳句が目指すものであるのかということだ。確かにそれは早熟な句であるし、非難する必要はもちろんないし、ほめるべきものではあるが、それをターゲットにする必要は無いのではないか。
結論から言えば、子どもが大人のような句を書くことを目指してはならないと思う。子どもの子どもらしい感性を花開かすべきで、それは子どもの独特の文学なのだという視点に立たなければならないと思うのだ。
何をもってすばらしいとし、何をもって「レベルが高い」というのか。これを考えなければならないと思った。


俳句の授業のポイント

2012-07-05 | ジュニア俳句

俳句の授業を続けている中で、すでに当たり前になってしまったことについて、もう一度その意味を見直してみる必要を感じている。そうして、俳句の授業のスタンダードを作り上げていくことだ。
これらについては、「楽しい俳句の授業アイデア50」(学事出版)でかなり整理されている。
その前に出した「発見・感動・創造 どの子もできる10分間俳句」の中でもかなり説明してきた。わかりよい本だと思う。
しかし、その後の発展もある。その多くは、これまでの本に書いてあることだが、それであっても、認識を新たにした。

1、単に俳句づくりではなく、俳句教育という視点であるということ。
授業としてどう構築するか,どんな力を育てるのかということを頭にしっかりとめておくこと。

2、テーマを決め、実物をできる限り見てつくる
学校の授業では、全員が,できる限り全員が参加をして「できる」ところまでもっていくことが大切だ。一つはそのための教育技法であるということ。
●そのためには、まずテーマを決めて、何について俳句をつくればよいかを明示してあげることだ。その上でテーマを拡大するという方法をとった方がよい。
「俳句の種さがしてごらん」と言うことも大切だが、何を種にするかを決めるのに時間のほとんどを使ってしまう児童もいるということだ。
●頭の中でつくると概念的な俳句になる。そのことは、最終的には必要となるので,ここに戻るのだが、実物を見ることによって、詩因が触発されやすいし、実感に基づく俳句を作る事が可能になる。大人は様々な知識をすでにもっており、それに基づいて句作りをするが、子どもは、俳句づくりを通して様々なことを知っていくという側面が大きくここに教育的な価値があると考える。
●ものを見る視点を確認すること 見る→発見へ
これについは、前に述べた。
・大きさ、形、匂い 手触り など五感を使って対象に向かうこと
・見方を変えること 近寄ってみる、遠くから見る、、比較してみる、上から見る、
 裏から見る、等々

3,俳句は詩である
●しかし、以上の点だけでは説明になってしまいがちだ。そこで、思い出してみるという視点が大切だ。思い出すという言葉は必ずしも適切ではないかもしれない。
・何々のようだ。過去の自分の知識とぶつけて考える
・このテーマにまつわる思い出 ひらめい言葉 できごと 空想 
●気付きを表す適切な言葉を選ぶこと
俳句は、詩であり、その元には感動や気付きがある。それがなんだったのか、を個々の児童が認識出来れば最高であるが、言葉を選び出す過程がその感動(気付き)の内容を自覚する過程なのである。
●詩としてのリズムを整える
上五と下五をかえてみる。同じ意味の言葉でもどの言葉を使えばよいかを検討する。

4,句会の重要性
句会が学校俳句のへそである。句会を行う事によって、俳句は教育的なツールとしての大きな役割を果たすことができる。
先生が評価するだけでなく、子ども同士が評価し合うことの意味は大きい。
・このことを通して、以上のことをお互いに学ぶことができる。
・子ども相互の児童理解に通じていく。
・この際、教師は子どもと違う立場に立つ。そのことによって,子どもとは違う視点を与えることができる。子どもとは別に教師が評価することで子どもの句は伸びていく。
・俳句を選ぶ視点を学ばせていく。それを身につけることによって、俳句づくりの視点を子どもたちが獲得することができる。また、句会の際に視点を「生活共感」から脱却させる指導も必要である。

相当に乱暴に書き進めてきたが、とりあえず以上のような点に触れておく。これらのことを整理して、分かり易く伝える。これができれば、俳句指導の簡単なパンフレットができ、活用することが可能になると思う。

 

 


写生俳句の指導 続き

2012-07-03 | ジュニア俳句

その一」と書いたり,「続き」と書いたり、その時の気分で書くのは悪い癖だ。統一して書くとわかりやすい。
俳句の授業も整理するとわかりよくなるはずだ。最近、一緒に授業に言って下さるAさんが授業の記録をとってくれたり、いろいろ意見を話していただけるそのお陰でだいぶ授業が整理されてきたように自分でも思う。Aさんのお陰だ。深く感謝。

亀高小学校の5年生の授業。この学校には、森がある。「わんぱくの森」というのだ。
ここに大きな紫陽花がある。この紫陽花をテーマにして俳句をつくる。

「よく見れば薺花咲く垣根かな」
よく見て、観察しその中から自分なりの発見をする。この発見が俳句の種だ。
授業の最初に観察する視点についていろいろ意見を出してもらった。
実におもしろかっちた。
形、色、数、大きさ、長さ、高さ、手触り、音、・・・・・付属物 これは今までに出なかった視点だ。虫がついていたりそういうことを意味するという。おもしろい。
前から見る。横から、上から、下から,奥から、反対側から見る。見る視点も出てくる。
「景色」これは、離れてみるということだ。そうするとまわりのものも見える。比較ができる。そんなことだ。
もう一つ「思ったこと」も出た。これが重要だ。これは、「~のよう」を含む。
いろいろな経験や全く違うことと見たことを結びつけること。これが俳句を大きくする。
よく見て発見すること、そこから新たな発想をえることが勝負だなあと思う。
観察し、教室に戻ってから

「紫陽花はむらさき色できれいだな」

を示して、何が問題かを話し合い、「ひねる」指導をしてから、最終的に自分の俳句を作る。
やってみれば当たり前の事だが、この流れが明確になった授業だった。
俳句も紹介したいが、コンクールへの応募をするので、残念ながら割愛する。