日時 2月4日(土) 午後1時半~4時半
場所 江東区立八名川小学校
(都営地下鉄 森下駅下車 A1出口より2分)
内容 講演 「俳句と子どもの未来」
現代俳句協会会長 宇多喜代子さん
模擬授業 俳句づくりと句会
俳句の授業の仕方がわかります
先日の日曜日は、寄り集まって、編集の最終段階にさしかかっています。普段はあまり気にならない字句の使い方、表記の統一、書体や字のポイントの大きさなど、慣れない仕事ですが、頭を寄せ集めてやっています。
突貫工事でやっていますが、まだまだ先は長そうです。「百里の道も九十九里を持って半ばとす」という言葉がわかるような気がします。
30人近い執筆者が、それぞれの俳句教育の実践を持ち寄ったこの本。読み返すたびに「授業に役立つアイデアが満載だなあと思います。
2月25日には、出版を記念し、また学校俳句研究会の設立を祝って「学校俳句の集い」が行われます。
ぜひ多くの方においでいただきたいと思いますので、出席してみたいとお考えの方は、oyamamasami@gmail.comまでご一報ください。
そうそう、その前に大イベントがあります。
2月4日(土)午後1時半から 学校俳句交流会です。
現代俳句協会会長の宇多喜代子さんのお話です。
ぜひお出かけください。場所は、江東区立八名川小学校です。
1月のはじめに授業した有明小学校の子ども達が感想文を届けてくれた。
こういう感想文は、思いがけず自分の授業を振り返る機会になる。
何を子ども達に残し、何を残さなかったのかがわかるからだ。
★私は小山先生の授業を楽しみにしていました。なぜなら、俳句について余り知らなかったからです。1月11日の授業でいろいろ知ることができました。たとえば、春夏秋冬だけでなく、新年の季語があるとことなどです。俳句大会みたいなのでは、一票しかなくて少し残念だったときに、小山先生にすごいと言われてものすごくうれしかったです。
その時作った「年賀状ポストの口に入れに行く」の俳句はぜったいに忘れません。
★五・七・五・季語・・・・。俳句のあたりまえのことをせんせいみたいに自由に使いこなせる人はステキです。
いゃー、やっぱり俳句は学べば学ぶほどやりたくなるものですね。あと百回授業してもたりないかもしれません。今回は楽しかったです。ありがとうございました。
★先日は、俳句の授業を教えに来てくださり,ありがとうございました。
「季語」は、食べ物や行事、天気など、生活のいろいろな場面で使う言葉がたくさんあることを授業を通して学びました。
また、どのような俳句が高く評価されるのかなどのポイントもおしえてもらうことができ、とても嬉しかったです。小山先生を見習い、すてきな俳句がつくれるように私もがんばろうと思います。また、三月に会えることを楽しみにしています!
などなど、楽しかったこと、三月にまた行くのを楽しみに待っていてくれることが伝わってきて、こちらも実に嬉しい。
俳句の様々な実践が広がっています。
先日、江東区砂町小学校の若い図工の先生から子どもたちの作品を見せていだきました。
ぜひ、皆さんにみていただきたいと許可を得て紹介します。
今度引っ越しをすると言うこともあって、本を整理している。かなり人にあげたり、古本屋に売ったり、そしてきのうはこれだけ本をゴミ捨て場に運んだ。
これまでも何度となく本の整理はしている。本棚二つ分ぐらいあった教育関係の図書は、今は本棚の一段にも満たない。小説の類もほとんどなくなった。新書類もかなりの程度減らした。
本を捨てるのは断腸の思いだ。
それは、本が自分の生きた証拠のようなもののように思えるからだ。
読んだ本は捨てられない。
持っていてももう一度読むかどうかわかりはしないが、捨てるには忍びない。なんだか自分自身を切り刻んでいるような気がするのだ。
では、読んでいない本はどうか。買ったのに10年も20年も読まない本を今後読むとは思えないが、いざ、目の前にすると捨てられない。買ったときは読みたいと思ったのだ。その時の気持ちが蘇ってくる。
これを捨てるのは、自分の未来の可能性を捨てるようなものだと思えてしまうのだ。
しかし、それらに目をつぶって捨ててしまっても生きるのに困るわけでは全くない。
人間が動物と違うのは、過去と未来を認識出来るからだ。その具体的な表れがモノや本になるわけで、未練があるのは非常に人間的な所作だとも言えるかもしれない。今の自分に自信があれば、相対的に過去と未来の位置は小さくなるかもしれないが・・・
最終的には、辞典だけもっていればよいということになるのだろうけれど、なかなか難しいことだ。断・捨・離は、流行だが、それには、一瞬心をシャットダウンすることが必要なようだ。
いつの間にか、俳句の本屋詩歌の本が本棚の半分近くを占めるようになってきた。
知らないうちに生きる方向が変わってきたということだろう。まあいいや。
このところ、どこの学校におじゃましても「お正月」の俳句を作らせている。
子ども達にとっては、お正月は印象深い行事なのだ。
実際のものを見て作ることは、俳句の基本なのだが、俳句づくりの観点を教えるには、お正月の俳句もいいなと思っている。
うまい、へたというよりも子どもの色々な姿がみえてうれしい。
今日は、富岡八幡宮の裏手にある数矢小学校で五年生の授業をした。数矢というこの学校の名前は、昔あった三十三間堂の通し矢にちなんでいる。歴史のある学校なのだ。
「冬休み」もいいが、雪が降ってきたら,子どもの関心は雪になる。
一つの学級では、雪をテーマにした。
雪にまつわる言葉を色々出させて、「六花亭」のチョコレートの話をして・・・・
それで、さあつくってごらん。ぐらいの話なんだけど・・・・たかだか10分間くらい。クラスのたがやしいいんだろうなあ。よくできる。推敲しなければいけないところはたくさんあるが、雪の話をして、句を作って句会をして、それで45分だから。
氷はる自分の顔と雪の顔
雪が降るぼくの願いは塾休み
風にのり雪という名の花がふる
いっしゅんでまわりはすべて雪景色
母さんは怒ると恐い雪女
雪合戦見たかったのはこの景色
みぞれ降る東北なみだもってくる
友人で詩人・俳人である高橋博夫さんから次の詩が送られてきた。
紹介したい。
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原発スクラップ 高橋博夫
■「チェレンコフの光」は核分裂の連鎖反応の際に、高いエネルギーを持った粒子が発する特殊な青い光。1999年9月30日、茨城県東海村の「JCO東海事業所」におけるウラン燃料の加工作業で、現場作業員がステンレス製のバケツの中で溶かした18.8%の濃縮ウラン235(天然ウランは0.7%)の溶液をヌッチェとよばれる濾過器に通し、それをステンレス製のビーカーで「沈殿槽」という大型の容器に移し替えていた(バケツを使ってウラン溶液を扱うのは違法作業)。パシッという音とともに青い光が走ったのは、その最中のことだった。臨界に達して核分裂反応を起こしたのは1000分の1グラムのウラン、零コンマ何秒かの出来事だった。閃光の発した中性子線は一瞬にして作業員の人体を貫き、遺伝子の染色体をばらばらに破壊した。以後、新しい細胞が作られない状態のままに35歳の作業員が被曝後83日目に、40歳の作業員は211日後に死亡した。後者の司法解剖の際、皮膚は鎧のように硬くなっていて、メスを入れると「ザザッ、ザザッ」という音を立てたという。
■1945年7月16日、アメリカのニューメキシコ州アラモゴードの砂漠に「チェレンコフの光」が出現した。1942年9月から本格的に始められた「マンハッタン計画」における人類初の原爆実験成功の瞬間だった。それからひと月足らずの1945年8月6日広島に原爆[ウラン235]リトルボーイが投下された際にも、同年8月9日長崎に原爆[プルトニウム239]ファットマンが投下された際にも、その青い閃光が走った……
■《原爆を知れるは広島と長崎にて日本といふ国にはあらず》、原爆歌人・竹山広(1920-2010)の短歌。
■反原発の市民科学者だった高木仁三郎(1938-2000)によれば、第二次世界大戦当時、戦争に勝つために、ナチスドイツに先がけて原爆を製造するという単純な目標で始まったのが「マンハッタン計画」であった。それは「官産軍学共同」の国家的な営為であり、労働者や環境の安全、経済性、「核」の社会的意味などはほとんど切り捨てられながら、大学や企業などから数百人の、広範な分野の多様な人材を組み込んで行われた。そうした巨大な国家的技術システムは、その後の国家目標となったエネルギー計画としての原子力開発でも踏襲されることとなった。
■1970年、哲学者・森有正(1911-1976)を訪ねてきたフランスの若い女性は「第三発目の原子爆弾はまた日本の上へ落ちると思います」と告げた。即座にその言葉を否定できなかったことについて、「ただ私は、このうら若い外人の女性が、何百、何千の外人が日本で暮していて感じていて口に出さないでいることを、口に出してしまったのだ、ということが余りにもはっきり分ったからである。(略)胸を掻きむしりたくなるようなことがこの日本で起り、そして進行しているのである」と森は書いている(「木々は光を浴びて、……」)。
■2011年3月11日14:46頃、宮城県牡鹿半島の東南東130㎞付近の太平洋プレートを震源とするマグニチュード「9.0」の巨大地震が発生。東京電力福島第一原子力発電所も地震と津波に襲われ、その8時間後には原子炉を冷却するために必要な電源が全て失われる「ステーション・ブラックアウト」に至る。12日15:36、1号機建屋で水素爆発。14日11:01、3号機建屋で水素爆発。15日06:10、2号機格納容器で爆発音。同日09:38、4号機使用済み核燃料プールで水素爆発が原因と見られる火災発生……(茨城県の東海第二原発、宮城県の女川原発、青森県の東通原発と六ケ所再処理工場、いずれでも一時、電源喪失の危機にあった)
■長年にわたり反原発の論陣を展開している広瀬隆(1943- )は、2011年3月11日の東日本大震災のマグニチュード「9.0」に疑義を呈している。これまでの日本の地震では「気象台マグニチュード」という計算法が採用されてきたが、東日本大震災では特殊な「モーメントマグニチュード」という計算式でやり直して発表されている。大地震当初に発表されたのはマグニチュード「8.4」、それは静岡県の浜岡原子力発電所の耐震指針であり、東日本大震災が「8.4」のままでは福島の原発事故は「想定内」の天災だったということになりかねない。東日本大震災が「異常に巨大な天災地変」(原子力損害賠償法の免責事項)であるとするために、「8.4」は「9.0」に訂正されたのではないかという。原子力を推進してきた政府や専門家らの責任、および東京電力自体の損害賠償の「コスト」をできるだけ小さくしたかったのではないか、と広瀬は書いている。
■《こはれたるものをこはしぬ鳥曇》、高橋博夫(1957- )の俳句。
■地震テクトニクスの研究者・石橋克彦(1944- )は、大地震の被害という通常の震災と原発事故による放射能災害が複合・増幅し合う破局的災害を「原発震災」と名付け、1977年以来「たかが発電施設にすぎないのに、非常な危険を内包する原発を大津波のおそれがある場所で運転しようとするのは、正気の沙汰ではない」と警告を発している。日本列島にある原発は「地震付き原発」であるとして、全原発と実験炉、核燃料施設の全廃を訴えている。
■原発の作りだす熱エネルギーは1/3しか電気エネルギーにならない。日本の標準的な原発(発電量100万kw)において、その残り2/3は、毎秒約70tでひき込まれた海水の温度を7℃上げた温排水として海へ捨てられている。日本の原発54基によって毎日捨てられる総排熱は約1億kw、広島に投下された原爆100発分に相当する。また、その温排水の年間総量は約1000億t、国土全体の河川流量の1/4に相当する。温排水は日本全土の海を加熱し、沿岸生物の生息に多大な影響を与えている。
■福島県南相馬市に住む詩人・若松丈太郎(1935- )の1992年発表の詩「みなみ風吹く日 1」の一節―「一九八〇年一月報告/福島第一原子力発電所一号炉南放水口から八百メートル/海岸土砂ホッキ貝 オンメブンブクからコバルト60を検出」「一九八〇年六月採取/福島第一原子力発電所から北へ八キロ/福島県双葉郡浪江町幾世橋/小学校校庭の空気中からコバルト60を検出」「一九八八年九月/福島第一原子力発電所から北へ二十五キロ/福島県原町栄町/わたしの頭髪や体毛がいっき抜け落ちた/いちどの洗髪でごはん茶碗ひとつ分もの頭髪が抜け落ちた」(朝日新聞2011.9.4付には、9月2日に地上1mの空間放射線量が毎時0.54マイクロシーベルトの「町立幾世橋小学校の校庭は、草がひざの高さを超え、牧草地のようだ」と報じられている)。また、1991年の文章には「原子力発電所周辺に住んでいることで感じる背筋に刃物を突きつけられているような感覚は理解してもらえるだろうか」と書いている。2006年の文章には「地域経済への波及効果と人口増大とを期待して原発の建設が誘致された。しかし、地元で調達する労働力は限られ、また、原発の近辺に進出する企業はなく、地域の経済振興には結びつかなかった。建設工事が終了す
ると交付金が減少し、交付金で建てた公共施設の維持管理が困難になった。結局、原発立地自治体は、さらなる増設を誘致しなければならないという悪循環に陥っている」とある。2010年の文章には「(福島)第一原発五・六号炉が立地する双葉町は原発の固定資産税や交付金の収入に依存して事業を拡大した結果、二〇〇七年度実質公債費比率が三〇・一%で全国ワースト六位で、財政破綻のレッドカードともいうべき《早期健全化団体》となって、地方交付税の交付を受けている。そこで、このレッドカードを返上するために、七・八号炉の増設を望んでいる」と書かれている。
■ウラン鉱石の採掘にも、それが核燃料となるまでの精錬・転換・濃縮・再転換・成形加工・燃料組立の製造過程でも、核燃料を日本に輸送するにも、また原発等施設の建設にも、放射性廃棄物の処分・管理にも、大量に石油が使われている。原子力は石油資源に依存したシステムであり、石油文明の一形態に他ならない。
■これまでに日本の原発が生み出してきた「死の灰(放射性生成物・高レベル放射性廃棄物)」の量は広島原爆の約120万発分に達する。放射能の減衰を考慮しても、現在の量は80万発分を超える。使用済み核燃料は再処理・再利用の計画があるものの、施設設備の相次ぐトラブルによりその目途は立っていない。また、原子炉で生み出される200種類以上の放射性物質である「高レベル放射性廃棄物」も、原子炉周辺で使われて汚染された用具・器具や機材などの「低・中レベル放射性廃棄物」も、それらを無害化・無毒化する技術は確立されていない。また、それらの最終の処理や処分、保管の場所も方法も決まってはいない。少なくとも、それらの放射線量を天然のウラン鉱石程度にするには100万年の安定した保管が必要であるという。(また、福島第一原発の廃炉処理の目途も、半年を経た現在においても全く立っていない)
■哲学者・ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)は、絶筆「歴史の概念について(歴史哲学テーゼ)」のなかで、「歴史」をカタストローフ(破局)の連鎖とみなし、「過去」に顔を向けた「歴史の天使」が「進歩」という強風に両翼を煽られて後退する中で、その眼前の足許には「廃墟の山」が天へと積み上げられていく光景を描き出している。「歴史の天使」は、彼が若き日に購入し、常に座右にあったパウル・クレー(1879-1940)の絵「新しい天使」から着想されたと思われる。第二次世界大戦のさなか、ベンヤミンはフランスからスペインへの亡命中に国境の町で力尽き、モルヒネ二五錠を嚥んで自殺したが、携行していたトランクにはその絵が入っていたという。
■放射線の被曝には、この線量以下の被曝なら安全だという基準値、つまり「閾値(しきいち)」はない。京都大学原子炉実験所助教の小出裕章(1949- )は「被曝はどんなに低線量であっても、何らかの健康被害が出ると考えられるのが、現在まで一〇〇年を超える放射線被曝の悲惨な歴史から人類が学び取ってきた、学問的な到達点」であるとしている。また、高線量よりも低線量での被曝の方が単位線量あたりの危険度が高まり、がん発生率が増すという研究結果もあるという。
■〔私信〕……僕の住んでいる鳩山町(埼玉県)は福島第一原発から直線距離にしてほぼ200㎞にあって、やはり放射能汚染が懸念されます(最近買った「2011年4月20日発行」の地図には既に福島第一原発は存在しません。「元福島第一原発」と言えばいいでしょうか)。息子は今、小学校6年生なのですが、被曝によって受ける放射線被害は年齢が若ければ若いほど強くなると言われています。子どもは大人の4倍も放射線に対する感受性が強い、若いほど身体の細胞分裂が活発なので、放射線によって傷ついた遺伝情報は成長と共にそのまま活発に複製され、やがて様々な病気になるおそれがあると聞きました。先日、小学校から今年もプール学習がはじまるという連絡がありました。そこで野外プールは放射能汚染が心配されますので、その測定や検査をして安全が確認されてから実施してほしいと学校長に申し入れました。しかし、教育委員会からの指示とかでプールは計画どおりに始まり、結局、検査を実施したのはプールがはじまって二週間後のこと、その結果通知は更に一週間後の七月上旬のことでした。安全が確認されるまでプールに入らなかったのは僕の息子だけだったようで、みんなが泳いでいる間はひとり図書室で過ごしたそうです(プ
ールサイドや周りの植栽は線量が高い場合があると聞きましたので)。プールに入れるかどうか、その安全を確認する放射能検査をプール開きの後に行う、これをどう思われますか。今回の原発事故をめぐる政府や東電の発表と同じように、安全であってほしいという彼らの希望的観測が根拠のないままに、あたかも事実であるかのように伝えられ、信じさせられる。幸いにも息子の小学校のプールからは放射性物質は検出されませんでしたが、たとえ汚染の可能性がごくわずかであっても安全を最優先にして対処する、それが当然なのではないでしょうか。
■1963年10月26日、東海村の動力試験炉JPDRにおいて日本で初めての原子力発電に成功した(2000kw。その日を「原子力の日」とする)。1966年、東海原子力発電所で日本初の営業運転を開始(1998年、廃止措置)。1970年には「人類の進歩と調和」をテーマとした大阪万博の会場へ、初発電に成功した福井県の美浜原発から送電された。日本の商業用の実用発電炉は現在54基(内、福島第一原発の1~4号機の4基は廃炉)、日本は世界第3位の原発大国である(全世界の原発は432基。第1位はアメリカの104基、第2位はフランスの59基)。今日、日本の原子力関連施設では年間7万人を超える人たちが業務に携わっているという。これまで原発で働く中で被曝によって罹患し、死亡する作業員(非社員である下請け労働者)が存在している。放射線と病気の因果関係を証明することは難しいというが、「一定の人が死んでいくことを前提として初めて成り立つ産業、それが原発である」と慶應義塾大学講師(憲法学)の竹田恒泰(1975- )は書いている。また、ウラン鉱山で採掘作業に従事するのは、その多くがアメリカのネイティブアメリカンやオーストラリアのアボリジニであり、そうした社会的弱者も同様に被曝し、命を落としていると竹田は指摘する。
■「四十年来一回首(四十年来 ひとたび首をめぐらせば)/世移軽靡信如馳(世は軽靡に移り まことに馳するが如し)」「凡物自微至顕亦尋常(およそ物は微より顕に至ることまた尋常)/這回災禍猶似遅(このたびの災禍なお遅きに似たり)」―過ぎこし四十年をいま振り返れば、世の中は実に駈けるような勢いで軽薄へと流れた。すべて物事は見えぬところから、見えるようになるのがやはり常。この度の災禍は、これでも遅いくらいのものだ。1828年(文政11年)旧暦11月12日、越後一帯で発生した、マグニチュード6.9と推定される「三条大地震」に際会して、良寛(1758-1832)が詠んだ漢詩「地震後作(土波後作)」の一節である。記録には、死者1413名、負傷者1749名、家屋全壊9880戸、半壊7076戸とある。知人には《うちつけに死なば死なずてながらへてかかる憂き目を見るが侘しさ》と地震を見舞う歌を書き送る一方で、漢詩には激しい慨世の情が看て取れる。既に自然災
害と世情の「軽靡」とを結びつけるのは迷妄だが、類を絶する放射能の脅威という「災禍」は人災に他ならない。
■《あやまちはくりかへします秋の暮》、三橋敏雄(1920-2001)の俳句。
〔参考文献〕NHK「東海村臨界事故」取材班『朽ちていった命―被曝治療83日間の記録―』(新潮文庫。2006.10)/高木仁三郎
『プルトニウムの恐怖』(岩波新書。1981.11)/高木仁三郎『原発事故はなぜくりかえすのか』(岩波新書。2000.12)/竹山広『地
の世』(角川学芸出版。2010.12)/『森有正エッセー集成 5』(ちくま学芸文庫。1999.10)/広瀬隆『原子炉時限爆弾―大地震に
おびえる日本列島』(ダイヤモンド社。2010.8)/広瀬隆『FUKUSHIMA 福島原発メルトダウン』(朝日新書。2011.5)/小出裕章『原
発のウソ』(扶桑社新書。2011.6)/小出裕章『原発はいらない』(幻冬舎ルネッサンス新書。2011.7)/竹田恒泰『原発はなぜ日
本にふさわしくないのか』(小学館。2011.6)/石橋克彦編『原発を終わらせる』(岩波新書。2011.7)/山口裕之編訳『ベンヤミ
ン・アンソロジー』(河出文庫。2011.1)/野村修『ベンヤミンの生涯』(平凡社ライブラリー。1993.8)/アラン・ワイズマン『人
類が消えた世界』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫。2009.7)/若松丈太郎『詩集 北緯37度25分の風とカナリア』(弦書房。2010.1)
/若松丈太郎『福島原発難民 南相馬市・一詩人の警告 1971~2011』(コールサック社。2011.5)/堀江邦夫『原発労働記』(講談
社文庫。2011.5)/『週間朝日臨時増刊 朝日ジャーナル 原発と人間』(朝日新聞出版。2011.6)/東郷豊治編著『良寛全集 下巻』
(東京創元社。1959.12)/入矢義高訳注『良寛詩集』(平凡社 東洋文庫。2001.12)/三橋敏雄『畳の上』(立風書房。1988.12)
掲載:文芸同人誌『孤帆』第34号(2011.11刊)
2月4日に第7回の学校俳句交流会が行われます。
2年前から始まったこの会、もう7回になるんですね。この間、教科書の改訂などもあり、学校俳句の進展は、相当なものだったと思います。
俳句の学習の仕方にしても各学校で創意工夫が行われ、2月には、「俳句の授業アイデア50」として、まとめられ出版される所まで来ています。
今回の学校俳句交流会は、現代俳句協会会長の宇多喜代子さんにおいでいただき、「俳句と子どもたちの未来」と題して講演をしていただく予定です。
また、模擬授業として、俳句を作り句会を体験します。
東京23区の各学校には案内が届く手はずになっていますが、参加を希望される方は、小山までoyamamasami@gmail.com 連絡いただければそれでもかまいません。よろしくお願いいたします。
日時 2月4日(土) 午後1時半~4時半
場所 江東区立八名川小学校
(都営地下鉄 森下駅下車 A1出口より2分)
内容 講演 「俳句と子どもの未来」
現代俳句協会会長 宇多喜代子さん
模擬授業 俳句づくりと句会
俳句の授業の仕方がわかります
どうぞお出かけ下さい。
この本は、ブックオフで買った。値段はなんと105円である。
一度読んでみたかった。
これまで、ほとんどブックオフに足を運んだことはなかった。漫画本の古本屋のようなイメージがあったからだ。
駅から離れた位置にあるブックオフに足を踏み入れて驚いた。一つは、客の多さである。こんな不便な場所にあるのに、駅のそばの本屋よりもよほど客が入っている。郊外にあるアウトレットのような賑わいである。もう一つは、本の品揃えの多さだ。なまじっかな本屋よりもずっと多い。さすがに新刊本に近い物は、105円とはいかないが、それでも新刊を買うことを考えれば安い。
これだったら、図書館で何十人も順番を待つよりもとてもよいと考える人がいるのも理解ができる。
昔、話題になった「ソフィの世界」という本があった。いつか読みたいと自分の本棚の隅に眠っているのだが、この本も105円だった。自分で本を持っている時代ではないのかもしれない。
本の再販制度は著作権の問題?ともからみ、問題になっている。安く本が流通し始めたら、出版社も著作者も売り上げが減って、正当なその権利が守れなくなる。確かにそのことは言える。
図書館の本にしても、これだけ図書館が整備され、便利に借りることができるようになると、その分だけ、著作者の権利が制限される。もっとも本によっては、全部の図書館に入ればペイできるものもあるし、個人では買えないような高額の書籍は、図書館に整備してもらえば出版社も助かるという面もあるのだろう。
聞いた話だが、ブックオフで商売している人もいるらしい。
ブックオフの買い取りの基準は、本の内容にあるのではなく、きれいかどうか、新しいかどうかという点にあるらしい。そこで、本来は古本市場では価値のある本がそれこそ105円で売りに出されるケースもまれではないらしい。目利きは、それらの本をブックオフで購入し、古本市場で売る。なるほど、そう言う手もあるのか!という感じである。
2月の出版に向けて、この正月は、この本の検討にかかりきりだった。
25名を超える執筆者。本の内容も多岐にわたる。
原稿にはそれぞれ個性があり、1冊の本にまとめるのはなかなか困難なところもある。
方向性の異なる部分は調整し、議論が必要な部分もある。
全体をどう組み立てるか、一つ一つの原稿に間違いがないか、検討していく。
昨日は、執筆者の中心メンバーが集まり、一日かけて内容を検討した。
15日までには、第一次原稿を完成させ、出版社に渡すことになる。
その後、2~3回の校正作業を行い、印刷・出版にこぎ着けるという算段だ。
乗り越えなければいけない山はあるが、様々な角度からの様々な実践は、俳句教育の枠を広げてくれるに違いない。
楽しみな一冊になりそうである。