十分間俳句

発見・感動・創造! 子どもたちの感性を培い日本語力を高める十分間俳句

作り続けるということ

2011-09-29 | ジュニア俳句

今日は、古巣の八名川小学校で授業をした。
四年生、五年生の一クラスずつと二年生二クラスだ。
1日四時間の授業は、この歳になるとさすがに疲れるが、子ども達もよく知っているし、知らないうちに力が入る。

四十五分のうちに、句をつくり、句会までやる。
八名川小ならば、これができる。
句作りに要した時間はわずかに10分である。
まさに、10分間俳句を地で行く感じだ。
彼等は、入学してから俳句を作り続けている。
続けるとここまでできるようになるのか!
妙に感動した1日だった。

俳句づくりを通して語彙が豊富になるだけでなく、感性も磨かれていくということを子ども達と接して感じ、とてもうれしかった。

 


「赤のまんま」か「赤まんま」か

2011-09-27 | ジュニア俳句

「赤のまんま」という季語がある。
これを小学校の授業で使うとなると難しい。
理由は簡単。六音だからだ。そのままだと、上五にも下五でも字余りになってしまう。
ところが、この場合は、「赤のまま」「赤まんま」という呼び名があるので、そちらを子ども達に提示すればよい。

ゴーヤの時にどうするか。

子ども達は、「ゴーヤはね」という風に五音にするために工夫する。
三音の言葉に「はね」をつけるという苦肉の策だ。
「よく考えるものだ」
と感心して良い。

詠む題材が決まっていれば、授業の何処かの段階(見に行く前、句を作る前など)で、別の呼び名を提示してあげるというやり方もある。

例えば、ごーやのことを別名「にがうり」とか「つるれいし」と言うんだよ。

という具合である。これを板書して見えるようにしておくことも大切だ。

「にがうり」なら、四音。「つるれいし」なら五音になる。

ゴーヤだけの場合も例示すると良い。

ゴーヤの実、ゴーヤの葉、

こうすると、上五、下五にそのまま使えるようになり、句が作りやすい。
(句作としてこの方法が良いかどうかは、また別の問題だが、こうした例示によって作りやすくなることは確かである。)

 

 


句会 いちじはん

2011-09-26 | ジュニア俳句

北大路翼さんを中心とする句会 いちじはん は、最近好調である。
若いメンバーがたくさん加わり、和気藹々だ。
これまで、俳句を作った経験がないという人もいるが、そういう人がまた熱心なのである。

今日の句会は、芭蕉記念館と隅田川沿いを吟行し、そして句会。


芭蕉記念館や芭蕉史跡公園には、はじめて来た方も多い。
史跡公園の芭蕉像は「夜になると動くんだよ」と知って驚いていたメンバーもいる。
句会では、全部で55句が出された。



さて、句会で高点をとり話題になった句。

 魚が逃げた2秒だけ引力忘れた

この句は、季語がない。しかし、発想がおもしろい。
「引力に思い至ったところがすごい。」
「そういう感覚っておもしろい」

その時に、「これには季語がない」ということを指摘しても、
「この句は季語がないからだめだ」
と誰も言わないところがいい。
季語を入れるなんていうことは、何回か句会に来ればわかることだ。
少し経験すればわかることを言うよりも、句の良さを語った方がいい。

このことは、子ども俳句の指導に通じることだと思う。

「作者は誰ですか」
と司会をしている高校生のYさんが聞いた。

作者は、なんと、外国人のBさんだった。

みんなが喝采の拍手を送った。

 

 


子どもの句の変化

2011-09-23 | ジュニア俳句

ある学校の五年生で夏休みの俳句の指導をしたときのことである。
初めての俳句の授業ということで、

 夏休み○○○○○○○がんばった(楽しいな)

を基本形にして、それを変形させて句をつくることを基本に指導した。

Aさんのノートを見ると、句の変遷がわかる

① 夏休み家族で旅行楽しいな

これが原型である。Aさんはここから旅行のことを思い出している。そして、

② 夏休みトロッコ電車おもしろい

旅行でトロッコ電車に乗ったというわけだ。どこで乗ったのだろう。

③ 夏休みはく力いっぱい黒部ダム

そうか黒部ダムに行ったんだ。黒部ダムを思い出したからそれがわっと大きくなって、「はく力いっぱい黒部ダム」という表現になったのだろう。

④虹かかりはく力いっぱい黒部ダム

そして、最後に

⑤虹かかり日本一の黒部ダム

となる。

指導の問題としていえば、  おもしろい→黒部ダムへの転換が必然でないということ。
つまり、突然変異として現れているということだ。
もし、最初から黒部ダムという表現を引き出すとすれば、
「一番印象に残った場所やことは何でしたか」
という質問から
「黒部ダム」を引き出し、それを形容する形で「迫力満点黒部ダム」につなげるという指導になるのではないか。
この順序での指導をしてみることにしよう。

 


第二大島小学校

2011-09-21 | ジュニア俳句

週、今週の二回にわたって、第二大島小学校で俳句の授業をおこなった。


三年生と四年生である。この学校は、小規模で、三年生、四年生は単学級。
しかし、子ども達は素直だし、担任の先生の力量が高いと感じた。
学級の雰囲気がとてもいいのだ。
先生はやさしそうだが、学級の規律がとてもよい。
話をきちんと聞き、前向きに学習しようとする姿勢が気持ちよい。
校長先生もやる気満々だ。
本当に江東区にはいい学校が多いと感じる。

さて、授業である。学校の植物園にあるねこじゃらしやゴーヤを観察して俳句を作る事にした。

 

 

実際に見る。そして感じる。

これが、子ども達が俳句を作るときのとても大きな要件である。
そして、ただ観察するだけでなく、そこであそんだり、一緒にいる友だちも観察する。
このことが句の幅を広げる。
ねこじゃらしで実際に遊んでみればいいのだ。

教室に帰ってから

ねこじゃらし先はむらさききれいだな

つるれいし黄色の花がきれいだな

ねこじゃらしくちゅくちゅしてておもしろい

にがうりの実はごつごつでおもしろい

を提示して、「きれいだな」「おもしろい」の問題点を学習する。3分間、この問答をするだけで、こうした主観語を5割以上削減することができる。

最後は句会。やはり、句会が俳句学習のポイントだ。

句会によって、俳句学習は楽しく完結する。

 

 

 

 

 


NHK俳句11月号 子ども達に投句をぜひ勧めて下さい

2011-09-18 | ジュニア俳句

 

子ども達の句をぜひ投句して下さい。

「俳句であそぼ」 テーマは 秋の花を詠んでみよう  です。

送り先  〒1580-8081 NHK出版

 「NHK俳句」編集部「俳句であそぼ」係

年齢 五歳から中学生まで

はがき一枚につき二句まで

住所、お名前(ふりがな)、年齢(学年)、電話番号をご明記下さい

作品は未発表のものに限ります

掲載分には記念品を贈呈します


第10回りんり俳句大賞

2011-09-15 | ジュニア俳句

先日、上廣倫理財団の担当者の方がお見えになった。
上廣倫理財団というのは、昭和62年に設立された倫理教育やその周辺分野の振興を目的とした研究、助成、御指教育事業を行っている公益法人である。
(もっぱら文化事業を推進している団体で宗教団体では亡いので、念のため。)
学校における俳句教育の現状について、いろいろ意見を交換した。
熱心さが伝わってくる。いろいろな形での連携が必要な事を強く感じる。

この上廣倫理財団は、文化庁の後援を得て、俳句コンクールを行っている。
今回で10回目になる。
この「りんり俳句大賞」のユニークなところは、生徒5人と先生1人の組み合わせで応募するという点にある。

 「先生も一緒に俳句を作って下さい」

ハードルが高いとも言えるが、よく考えてみれば至極当然のことだ。先生も一緒になって、俳句づくりをするところから、俳句文化が大きく花開くからだ。
年間3回実施され、継続参加校には図書カード5千円分が贈られる。

詳しくは、ホームページを参照。応募用紙は、ホームページからダウンロード出来る。

  第10回りんり俳句大賞クリックして下さい。

 

 


俳句の授業 亀高小学校

2011-09-13 | ジュニア俳句

お世話になった方が亡くなられたり、なにやらで精神的に少々もやもやしている。
近年あまりなかったことだが、長い人生、そういうこともあるだろう。

それでも俳句の授業はいい。
子ども達の声を聞き、丁々発止とやっているといやなことはすべて忘れる。

先回も書いたことだが、今までの「俳句への取り組み」は、俳句を作らせ、コンクールなどに応募する。こうした活動だった。
それを根本的に変えなければならないと感じている。
つまり、俳句を作り、皆で読みあい、評価し合うことだ。このことによって、俳句も子どもも生きてくる。簡単に言えば、俳句づくりと句会がセットになって俳句の授業は成り立つと言うことだ。



先日は、俳人の堀本裕樹さんと一緒に江東区の亀高小学校の5年生の授業を行った。
亀高小には、「わくぱくの森」がある。

 

中国原産のふうの木というのがあって、ふうの実を落とす。見事な稲田があり、収穫間近だ。草むらにはバッタ、さつまいも畑、コスモスの花・・・・また、校長の田中先生は、専門が理科で植物についてめちゃくちゃ詳しい。校長室の前には、わんぱくの森の植物の解説コーナーまである。


俳句作りも実物を見て作るのか、頭の中だけで作るのかによって、随分様相が異なる。

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このような句は、実物を見なければ決してつくることができない。こうした細かな観察や実体験の言語化こそ、大切なのだと思う。