外山滋比古の「俳句的」は、高柳克弘さんから紹介された基本文献の一つである。
この本の出版は、1998年であるから、10年以上前であるが、刺激になったことが沢山あった。
俳句は10年くらいでは簡単に変わらないから、ここに書かれていることはそのまま現代の問題と言えるかもしれない。
また、自分が俳句の事をあまり知らないので、基本的な事柄がわかったというず側面もある。
気がついたことを列記してみる。
1、文語と口語ということ。
本当の個性は通俗の中にあるはず。
俗語の詩化。ここで創造の火花が散る。
と言うものの通俗論の泣き所は、口語の腰が据わっていないことである。
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子どもの俳句は口語に決まっている。
子ども俳句が市民権を得るためには、口語表現を考えなければならない。
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2、俳句の特殊性のひとつは、作者と読者が未分化だという点にある。
この作読一如が可能であるには、一定の「共通の場」が条件になる。
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学級がその「共通の場」になるとすれば、学級だけで通用する出来事が句材に
なってもいいわけだ。俳句は、学級文化の担い手になり得る。
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3、われわれの詩は大きな岩石から彫刻をつくるような方法で詩をつくる。不要なところはぎりぎりのところまですてて、これだけはなくてはならないというところが詩になる。
旧い民話、伝説などがほとんど形容詞を欠いた表現になっている。
俳句は叙情の詩ではなくて、抑情の詩だと言うべきである。
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文章のうまい・下手ではなく、本質をいかについているかをいつも問題にするべきなのだろう。それことがいつもだいじなのだ。
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4、視覚と聴覚を合流させる感覚が大事だ。耳で味わう俳句
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確かに
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5、本来結びつかない経験か事象を詩人の心は化合させる
仮託する表現 個性は、自然の風物を結びつける触媒、編集として働くのをよしとするのが東洋的象徴である。花鳥風月のかげに隠れることによって、かえってするどく個性的あり得る。これが隠れ文化の生んだ詩学である。
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この事を子ども達に教えられるか。何年生なら理解できるのか。
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6、俳句には句読点をつけない。・・・だいたい日本人は句読点などというこちたきものをもっていなかった。耳のことばの時代から目のことば印刷文化の時代へ移って句読法は表現に不可欠のものと考えられるようになった。
7、添削や推敲は表現をより客観的にする加工である。
添削を拒否して小さい自我を振り回していても、「時」の添削を避けて通るわけにはいかない。・・・作品はひとりの手によって一時に完成することはむずかしい。
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この意味は大きい。民話はそうやって成立した。
添削は、小学生の発達段階では、主な課題にならない気がする。
しかし、それは本質的な問題なのだ。
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8日本語は豆腐のような言葉だ。
俳句は、切れがある。だから短い言葉で大きな世界を表現できる。
切れば、論理が乱れる。文法的には破格になる。しかし、それによってのみ短い詩は多元的世界への手がかりをもつことができる。
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俳句は切れによって「詩」になる。切れを教えなければならないが・・・・
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十分間俳句とは
この本の出版は、1998年であるから、10年以上前であるが、刺激になったことが沢山あった。
俳句は10年くらいでは簡単に変わらないから、ここに書かれていることはそのまま現代の問題と言えるかもしれない。
また、自分が俳句の事をあまり知らないので、基本的な事柄がわかったというず側面もある。
気がついたことを列記してみる。
1、文語と口語ということ。
本当の個性は通俗の中にあるはず。
俗語の詩化。ここで創造の火花が散る。
と言うものの通俗論の泣き所は、口語の腰が据わっていないことである。
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子どもの俳句は口語に決まっている。
子ども俳句が市民権を得るためには、口語表現を考えなければならない。
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2、俳句の特殊性のひとつは、作者と読者が未分化だという点にある。
この作読一如が可能であるには、一定の「共通の場」が条件になる。
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学級がその「共通の場」になるとすれば、学級だけで通用する出来事が句材に
なってもいいわけだ。俳句は、学級文化の担い手になり得る。
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3、われわれの詩は大きな岩石から彫刻をつくるような方法で詩をつくる。不要なところはぎりぎりのところまですてて、これだけはなくてはならないというところが詩になる。
旧い民話、伝説などがほとんど形容詞を欠いた表現になっている。
俳句は叙情の詩ではなくて、抑情の詩だと言うべきである。
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文章のうまい・下手ではなく、本質をいかについているかをいつも問題にするべきなのだろう。それことがいつもだいじなのだ。
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4、視覚と聴覚を合流させる感覚が大事だ。耳で味わう俳句
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確かに
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5、本来結びつかない経験か事象を詩人の心は化合させる
仮託する表現 個性は、自然の風物を結びつける触媒、編集として働くのをよしとするのが東洋的象徴である。花鳥風月のかげに隠れることによって、かえってするどく個性的あり得る。これが隠れ文化の生んだ詩学である。
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この事を子ども達に教えられるか。何年生なら理解できるのか。
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6、俳句には句読点をつけない。・・・だいたい日本人は句読点などというこちたきものをもっていなかった。耳のことばの時代から目のことば印刷文化の時代へ移って句読法は表現に不可欠のものと考えられるようになった。
7、添削や推敲は表現をより客観的にする加工である。
添削を拒否して小さい自我を振り回していても、「時」の添削を避けて通るわけにはいかない。・・・作品はひとりの手によって一時に完成することはむずかしい。
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この意味は大きい。民話はそうやって成立した。
添削は、小学生の発達段階では、主な課題にならない気がする。
しかし、それは本質的な問題なのだ。
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8日本語は豆腐のような言葉だ。
俳句は、切れがある。だから短い言葉で大きな世界を表現できる。
切れば、論理が乱れる。文法的には破格になる。しかし、それによってのみ短い詩は多元的世界への手がかりをもつことができる。
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俳句は切れによって「詩」になる。切れを教えなければならないが・・・・
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十分間俳句とは