28日の日曜日に、大岡まこと研究会で俳人の高柳克弘さんが「折々の歌」の大岡信の解説について話をされた。
その話の中で興味深かったのは、「創造的誤解」という言葉だった。
この創造的誤読という言葉は、もともと萩原朔太郎の「郷愁の詩人 与謝蕪村」について、山下一海という人の評に現れる言葉と言う。
朔太郎は、蕪村の俳句を普遍的な詩と受け取り、その詩の中に没入する。少し引用する。
「朔太郎のような解釈・批評の前では、もともとの句意など、小さな問題であるように思われる。もちろん、もとの句意をないがしろにするわけではない。もとの句意を承知した上で、そこに加えられた朔太郎の蕪村理解の自由な膨らみを味わいたいものである。・・・・それがいかに蕪村の世界を膨らませているかと、創造的に読み取る込みとが、朔太郎の蕪村讃歌を理解するためには必要なのである。」
大岡信の読みにもこれと通じる点があると高柳さんは語る。
こどもたちに求める読みは正にこれである。
正確な正しい読みを求めるのではなく、その子が作品に没入し、自分の物語として句を語ることが、こどもの創造性を育むのだと考える。
したがって、授業においては、
「この俳句の良いところはどこか?」
と問うのではなく、
「これはどんなお話なのか、作者に代わって話してください」
と問うべきなのである。
俳句は、世の中を十七音に凝縮するが、それを解凍するのが読みの作業である。