以下は、日本創造学会に提出しようと考えている「子どもの創造性を培う俳句教育の実践」のレポートの下書きである。ご意見をぜひ伺いたい。
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俳句は、5・7・5の音節で構成されている定型詩であり、世界で最も短い詩である。俳句の歴史は、室町時代に生まれた俳諧連歌に遡る。俳諧連歌は、正統派の連歌に対して遊技性を高めた集団文芸であった。松尾芭蕉の活躍した頃から、俳諧連歌の発句だけを独立させ、鑑賞することも多くなった。発句を完全に独立させ、「俳句」としたのは、正岡子規によるとされている。
本稿は、想像性高める俳句教育について、江東区立八名川小学校の実践に基づいて述べたものである。
1、俳句教育に取り組む4つのきっかけ
●アイデアマラソンとの出会い
アイデアマラソン研究会を主催する樋口健夫氏とは、十年来の知己である。氏より、アイデアマラソンを学校教育の中に取り入れるようにかつてから勧められていた。
(''アイデアマラソンとは、毎日、少しずつ思考し、オリジナルな発想を思いつき、ノートやPCに記録し、周りに話し、自然な思考の習慣を付ける方法''である。)
これからの日本が、世界に伍していくためには、子ども達の発想力-創造力-を鍛えなければならないことは自明であり、氏の提案をどの様に学校教育の中に具現化するかを探っていた。
●江東区芭蕉記念館
2003年4月、私は江東区立八名川小学校に赴任した。八名川小学校は、江東区の西北の隅に位置する小規模な学校であるが、その学区域には、俳聖と言われた松尾芭蕉が棲んだ芭蕉庵があり、現在は江東区芭蕉記念館がある。この地域性を生かした特色ある教育を行うためには、俳句を採り上げ教育活動に組み込むことが適切であると考えた。
●日本語力の向上
折しも、齋藤孝「声に出して読みたい日本語」(2001年)がベストセラーになり、世田谷区が日本語教育特区になるなど、「日本語ブーム」が起こった。この背景には、学力低下論争や各地での学力テストの実施がある。さらに、2011年度から本格実施される文部科学省の新指導楊柳に「俳句」が採り上げられる等の事情が背中を押した。
●十分間俳句の考案
現教科書でも俳句は小学校6年で採り上げられているが、鑑賞のみであり創作はない。
小学校教育の中で、俳句の創作に日常的に取り組むには、教育課程に負担のかからない無理のない計画が立てられなければならない。私は、2005年度小学校4年生を対象に3ヶ月間の実験を行い、小学生が日常的・継続的に俳句に取り組むことが可能であることを確認した。また、その経験をもとに「十分間俳句」という指導法を紡ぎ出すことが出来た。
(※ 十分間俳句とは、十分間という時間を区切り、俳句の種見つけ→俳句作り を行い、簡易的な句会と組み合わせる短時間で俳句に取り組む指導法である)
2、創造と俳句
例えば、比嘉佑典(東洋大学)氏は、創造を次のように定義している。(日本創造学会ホームページより)
「創造とは、個人の中に、事物の中にある古い結びつきを解体し、新しい結びつきにつくりかえることである」
俳句に於ける「創造」も同様である。
古池やかわず飛び込む水の音 松尾芭蕉
日本人であれば誰でもが知っているこの句がなぜ名句と言われるのか。それは、この句が古い結びつきを解体し、新しい結びつきにつくりかえ、「新機軸」を示したからである。
この時代、鳴き声を愛でるものであった蛙をのその声ではなく、飛び込む音をとりあげた点、また、蛙につきものの「山吹」を排して、あえて「古池」を採り上げたことがその理由とされる。
俳句を創作すると言うことは、こうした「創造」をし続けると言うことを意味する。この事は、子どもの句でも同様である。
鯉幟たきへ行かずに空のぼる 陽希
さすがに芭蕉の句というわけにはいかないが、揚げ句も「鯉幟の鯉は、世間で言うように滝を登るんのではなく、空に登って行くではないか。」と「鯉は滝登りをするもの」とする「古い結びつき」を否定して見せている。
俳句は、創作の過程で自分の目で物事を見極め、新しい視点を作りだし表現する作業であり、絶え間ない創造の過程であると考える。従って、子ども達に日常的・継続的に俳句に取り組ませることは、創造の積み重ねによる創造性を高める教育になると信じる。
3、創造力を支える4つの力
●発見力
物事を自分の目でリアルに見る力は、すべての基本になる力である。芭蕉の句に「よく見れば薺花咲く垣根かな」がある。このよく見るということが、俳句作りの基本ということができよう。
ざりがにのおしりに一本黒い線 元春
グッピーも人間みたいに母になる 亜美
自然観察ばかりではなく、まわりの社会や自分自身の発見にも繋がる
ラジオ体操いつも同じ人に会う 珠代
芝生にねねっころがったらぼくみどり 裕樹
●表現力
当然のことだが、発見したことや自分の考えを人に伝わるように適切に表現できることも創造力を支える大きな力である。俳句は、十七音という短い表現形式であるが故に一言一言が極めて重い意味をもつ。
ポップコーンパンパンパーンと春あらし 亮佑
比喩としての「春あらし」が決まっている。小学生にあっては、事象を違う言葉に置き換える事から始まるがもちろんそれだけではない。
一週間雨雨雨だ春の空 元紀
雨を3回重ねたところが工夫である。早く晴れてほしいという子どもの気持ちが伝わってくる。
雛あられ一つ食べるとまた一つ 智子
際限なく食べたくなる気もちが見事に伝わってくる。これも表現の力である。
●結合力
異なった二つの物事を結びつける。俳句では、このことを「二物衝撃」とか「取り合わせ」などと言う。俳句においては、この二つの結びつきは極めて感覚的であり、論理的でないところに特徴がある。芭蕉は、「発句は取り合物也。二ツとり合て、よくとりはやすを上手と云也」と述べている。
しかし、実践してわかったことだが、この二つ取り合わせの微妙な感覚を会得するのは、小学生の発達段階では、なかなか難しい。
寝たふりで宿題ごまかす春うらら 朝子
●視点の転換力
多様な観点から物事を見る力も創造力を支える力の一つと考える。
あじさいをハチと一緒に見る私 あゆみ
「あじさい」を題材に詠んだ時、作者は、あじさい→私 と視点を転換させている。
赤虫がやごに命をとられちゃう 拓斗
この句は、教室でやごの飼育をしている時の句である。ヤゴが餌の赤虫を食べて早くトンボになってほしいと多くの子どもがヤゴの側に立っている中で、彼は餌の赤虫の立場から述べている。これも視点転換力と言ってよいのではないか。
5、十分間俳句の実践-四つのひらめき-
俳句と創造力の関係について述べてきたが、ここでは八名川小学校における十分間俳句の実践について説明する。十分間俳句とは、創作時間を十分に限った俳句作り方法である。
十分に限るのは、次の三つの理由による。
○日常的に教育課程に取り入れることを可能にする。
○時間を区切ることによって、集中的に取り組むことができる。
○反対にひらめかない時は無理をしないことで継続できる。
●俳句の種を見つける
十分間俳句の実践では、まず最初に見つけたことや感じたことを簡単な文章で記述する。時には、「直ぐ俳句に作っていいですか」という子どももいる。十七音が直ぐにひらめいたのだろう。しかし、見つけたことがいつも十七音になるとは限らない。習慣として、じっくり見ることが大切なので、直ぐ出来ることを「よし」としない。
例えば、花瓶に挿した木瓜の花を題材にして俳句を作る場面を考えてみよう。目に映った映像としての木瓜の花の情報量は、どのくらいであろうか。一枚の写真に撮ったと考えてみる。仮に100キロバイト(実際はその写真が何枚も何十枚も撮られるのが目で見る観察だが・・・)とする。一方、ノートに書かれる俳句の種はせいぜい50字。100バイトにすぎない。千分の一の情報量に落とすのである。しかし、わずかな情報量しかもたない文章が千倍の情報量をもつ写真を凌駕するのだから驚きだ。
目に映った情報の中の何をこそ記録(俳句の種)に留めるか、そこには大いなるひらめきがある。
俳句の種 木瓜の花には、とげがある
↓
俳句 木瓜の花守るとげさんガードマン 日路
●俳句の種から俳句をつくる
前掲の句を例にとれば、とげ→ガードマン というかわいらしい発想の飛躍がある。種だけでは俳句作品と言うわけにはいかない。
部屋を片付けてさっぱりしたけれど、 カレンダーだけめくり忘れていた
→ カレンダー五月のまんま動かない 紗希
空にいろいろな形の雲がいっぱいあって動物園みたいだった
→ 夏の空ぼくの真上にくじら雲 新之介
言葉のひらめきがあって作品が出来る。
● 俳句を捻る(ブラッシュアップする)
いつも、直ぐに素敵な俳句が出来ればそれに越したことはないが、通常それはまれである。俳句は少しずつ進化するのだ。
夏休み自由研究できるかな
これが最初に出来た作品である。どんな作品も零からの創作である。私はどんな創作物も価値があると考える。しかし価値を高める努力は必要だ。それが捻るということだ。
日焼け顔自由研究できるかな
捻る前よりも数段よくなっていることだけは確かだ。たとえよくならなくても、捻ることはひらめきを導く手段であり、これを繰り返すことによって俳句はブラッシュアップされる。
十分間俳句は、俳句づくりを種の段階から作品を捻る段階まで三段階のスモールステップに分けることによって、ひらめきを導き子ども達の創造力の向上を目指している。
●句会もひらめきの場である
句会というのは、みんなの句を読み合い評価する場である。たった十七音の俳句は、各人のもっているイメージに依存して作品が成り立っている。だから、復元作業が必要なのだ。それは、一枚の建築のイメージ写真から実際の建物を復元することに似ている。この復元作業こそ俳句の鑑賞であり、句会の目的である。
そうなると、句会も創作と同じく大いなるひらめきが求められる場ということになる。ここでも創造性は鍛えられる。
小学校教育のほとんどは、知識を覚えたり、技術を習得することに充てられている。ひらめきや発想を訓練する時間はほとんどとられていないのが現状である。
私は俳句という日本の伝統的な文芸への取り組みを通して、ひらめき・発想力を日常的に鍛え、日本文化の担い手を育てるだけでなく、現代社会が求めている創造力を高めることが出来ると確信している。