十分間俳句

発見・感動・創造! 子どもたちの感性を培い日本語力を高める十分間俳句

お勧め 夏休みの報告 変身俳句

2011-08-31 | ジュニア俳句

すでに、二学期が始まっている学校もあるが、全国的にはこれから二学期だろう。
そこで、夏休みの報告を五・七・五でやってみませんか。

誰でもできる「変身俳句」を使います。

原型は、

夏休み●●●●●●●がんばった

俳句は、十七音だが、上五と下五が決まっているから、真ん中の七音が決まれば、それでできる。
たとえば、

夏休み自由研究がんばった

夏休みあさくらけんじがんばった
  (あさくらけんじは名前)

夏休みプールの練習がんばった

こんな感じで作っていく。これならば、今まで俳句をやったことのない子どもでもできる。

しかし、ここで、俳句に読む核になる部分を確定することができる。何をテーマに読みたいかがはっきりするわけだ。

次は変身の第一段階だ。
「がんばった」をテーマにまつわる風景に変えてみるように子ども達に働きかける。
個々は難しい。頑張った→大変だ に変わっただけという子もでてくる。あまり追求はしない。
子ども達にとっては、もう俳句はできているから、少し気軽な気分で考えられるということだ。

→夏休み自由研究手が疲れ

→夏休みあさくらけんじ真っ黒だ

→夏休みプールの練習水しぶき

最後は、季語だ。黒板に季語をいろいろと板書する。
「全員、夏休み」というのではおもしろくないよね。自分の俳句に一番あった季語を入れてみよう。もちろん、夏休みのままでもいいよ。」

夏休み・・・・・・がんばった  の「がんばった」の代わりに「楽しいな」「おもしろい」「すてきだな」等をいれてもよい。すると、中核の部分が替わることになる。
時間があれば、いくつもやってみるといろいろな場面ができることにもなる。

ぜひ実践してみて下さい。

「これじゃあ、うまくいかない」とか、「ここをこうやった方がうまくいく」とか、

→蝉の声自由研究手が疲れ

→炎天やあさくらけんじ真っ黒だ

→夏の空プール練習水しぶき

もちろん、中には違う工夫をする子がでてくるので、それはとめないで評価することも大切である。




 

 

 

 

 

 


授業四時間

2011-08-30 | ジュニア俳句

きのうは、枝川小学校の三年生四クラスの授業を行った。
四時間授業すると、さすがに疲れた。
「としだなぁ」
と感じないこともない。
でも、楽しいからいいか。という感じである。
しかし、昨日は何となく達成感がなかった。
「なぜだろう」
と思ったら、句会をしなかったのだ。
昨日は、つくるだけ。その句を元に来週句会をすることになっている。
句会での子ども達のいい顔を見ることが出来なかったのが残念だ。
そういうことか。
臨場感のあるのは、その場で句会を行う事だ。
一週間時間をおいて、果たして同じだけの達成感があるか、不安にも思う。
出張授業の際には、俳句を作った高揚感の中で句会を行った方がいいような気もする。
俳句は「即興」であるのだから。
実際、低学年だと一週間経つと自分が作った句を忘れてしまうこともあるのだ。

疲れやすくなったことは確かだ。夏ばてもある。
自転車を「重いレベル」で漕ぐのが少々だがきつくなった。
夜、歩きにいこうという気にならない。
100万歩歩くのに、120日もかかっている。
しかし、全体としては健康だ。
最近病院で検査をしたら、ヘモグロビンナンタラは、0.3下がった。一応、だましだましやっているということだ。甘い物のコントロールがそれなりに出来たと言うことで,満足している。
最近、少し気をつけようと思っていることがある。
一つは、歩くとき、踵から足裏全体を使って歩くこと。
二つ目は、なるべくよく噛んで食べること。
こういうものは習慣だから、すぐに身につかなくとも、意識的に続ければ、そのうち・・・と言う期待もある。
少なくても,あと数年は、俳句の授業を続けたい。そのために、健康な身体を保持することも仮題だなあと思うわけである。

 


「日本語と日本人の心」

2011-08-29 | ジュニア俳句

「日本語と日本人の心」(岩波書店)
この本は、「児童文学ファンタジー大賞創設記念第二回文化セミナー」の記録が中核になっている。講演やシンポジウムという「話し言葉」が中心なので読みやすい。
実は、このことが日本語の特徴として採り上げられている。
つまり、書き言葉と話し言葉の乖離が日本語の問題であると・・・・

これを谷川俊太郎は、次のように述べている。
「たとえば、小学校で子どもが友だち同士で騒いでいるときは、実に自由な言葉でいきいきとみんなやっていますよね。ところが、その同じ子どもが黒板の前に立って何か発表しなさいというと、もう大体からだつきからして違ってくるし、まったく違う言語で発表するわけ。それを教師の側も子ども達に要求する。・・・・・・子どもの言語が小学校の二年生や三年生ですら、そこで死んでしまう。これがたぶん話し言葉と書き言葉の乖離というものの一つの雛形だという感じがします。」

この事は、記憶によれば、井上ひさしも指摘をしている。
芝居を書くときはできるだけ「大和言葉で書く」と。
丸谷才一は、明治以降の圧倒的な西洋語の流入が日本語を変えたという。これも同じ事の別の表現かもしれないと思った。

いろいろおもしろいところはあったのだけど、忘れないためにここにメモをしておくとしたら次の点だろう。
①創造と普遍性の問題
河合隼雄は、クライアントとの会話の中に創造性があると言う。つまり場の文学だ。
谷川俊太郎は、一人でも多くの人に読んでもらって感動してもらえる創造性と一対一の人間関係の中での創造性というのはちょっと違うものだ。
この問題は、子どもの俳句をどう評価するかという問題とリンクしている。

②創造 みみをすます インスピレーションを待つ 日本人の言語以前の感性 山下清的文章の新しさ ・・・・・と適当に言葉を連ねたが、創造というものが、深層心理・感じとったものをどの様に言語化するかという問題
少なくても、「本音を書かなきゃ創造的になれない」 言語以前の現実に根ざした自分の言葉を見つける。

この文章の中には、七五調、俳句や短歌への言及が多くあるのだが、そして金子兜太さんの言葉を借りて「これからの俳句は子どもの時代だ」とも述べているが、それは、また別の機会にノートしたい。

 

 


二学期、最初の授業

2011-08-28 | ジュニア俳句

26日、金曜日。二学期に入って最初の授業をした。
もっとも、江東区は二学期制をとっているので、正確に言えば今は一学期の後半なのだが、二学期と言った方が余程わかりやすいだろう。
少し前までは、二学期と言えば9月から始まるのが常識であった。(東京近辺では)
その最初の日が、震災忌で引き取り訓練がある。
これが長い習慣になっていたが、「学力アップ」?を目指して、一週間二学期の開始を繰り上げる地区が多くなってきた。
東京都の東部地区、足立、葛飾、江戸川、江東は少なくても、25日始まりである。

26日、まだ二日目なのだ。しかしそんな感じはしない。
子ども達は、宿題ですでに句を用意している。

「夏休みどうでした?」
と聞いてまわる。
「楽しかった」
「おもしろかった」
中には、
「つまらなかった」
とたまにそんな答えが、
「そうだよね。学校に来てたほうがおもしろいよね。良いこと言うなあ。来年は、校長先生に頼んで夏休みをなくしてもらおう」

なんて言うと、そこはやっぱり子どもだ。
慌てて、首を横に振る。
宿題がやっと終わった
飛行機に乗った
などもある。

黒板に

おもしろい 楽しい つまらない

と板書して、
「こういうのを主観語というのです。」
本人の気持ちだ。
だけど、ほかの人はなぜおもしろいのか、楽しいのか、それは分からないね。

「主観の反対は何?」
「そうそう、よく知ってるね。客観だ」
宿題がやっと終わった
飛行機に乗った

こういうのは、客観的なこと。
「俳句を作るときは、主観語をなるべく遣わないようにするといいんだよ。」
この学級の俳句の指導は、五回目。ほぼ、主観語はなくなっているが、夏休みの後、自分で作った句にはそれらが紛れ込んでいる。
繰り返し、言った方がよい。
もう一度、自分の作ってきた句を確かめさせてから、句会に入る。

三つの壁を感じた。
どの子も二つや三つ俳句を作るようになってきたし、おもしろいと感じる子が増えてきた。
最初の壁は突破しているわけだが、次の段階はこれだ。

① 実体験や実際のことに即した句よりも きれいに頭でまとめられている句を好む。

② 筋道を立てて説明しないと気が済まない。どうしても説明的な俳句になる。

③ 季語の意識が薄い。

これは、これまでの自分の指導の結果でもある。どうこの壁を突破するか、(自分の俳句をよそにおいて)実践的な課題であると感じた。


新涼や牛丼喰らう昼休み

2011-08-26 | ジュニア俳句

 

  夏の果女人禁制の牛丼屋
 
 
久しぶりに牛丼を食べたいと思った。江東区役所の近くには、牛丼屋がそろっている。吉野屋。これは一寸遠い。一番近いのがすきや。それに松屋もある。
野菜がないのもなんだから、牛丼にサラダをつけて食べよう。
そう思い定めて、昼休み一人で出かけた。
すきやの前に行ったら、そのすきやがない。
朝、通勤で,この道を通るがその時には気がつかなかった。
工事中なのだ。 そこには、「改装中」とあるが、窓に貼ってある紙を見ると、「閉店」とある。
随分人が入っているように見えたのだが、それでも経営は厳しいのだろう。
東陽町の駅の近くにもう一軒すきやがある。チェーンの地域エリア戦略あるのかもしれない。
「じゃあ、どうしようか。」
次に近いのは松屋だ。
牛めし320円という宣伝が店の前に貼ってある。
牛丼と牛めしは、何処が違うか。違うところがないが、商標登録でもされているのだろうか。それとも、対抗上、松屋の判断で牛めしとしているのか、そんなことが頭をよぎる。
確か、牛めしサラダセットと言うのがあったはずだ。それだと、単品で買うよりも10円安くなる。
自動販売機を端から端まで眺めてもそれがない。
後ろに行列ができはじめた。
「どうぞおさきに」
と次の人に順番を譲って、もう一回見回した。やっぱりない。
そして、わかった。
「牛めし+サラダ+生卵」
のセットに変わっているのだ。
もう、牛めし+サラダの10円引きは存在しない。
10円引いてもらいたかったら、生卵付きを買いなさいというわけだ。

順番を譲った後ろの青年は迷わず、 豚めし280円のぼたんを押した。
節約しているのだろうなと思った。
体格のよい青年なのにかわいそうな気がする。
僕みたいにサラダくらいつけろよという気になったが、これが今の青年の現実なのかも知れない。
店に入ってから、空いている席を待ち、注文をし、食べ、店を出るまで、女性の客は一人も入ってこなかった。
見事に男だけだ。
牛丼屋は女人禁制なのだ。

もう、七年前になる。俳句教育に取り組みたいと思った頃だ。
誘われて、現代俳句協会のIT部の主催する講演会に参加したことがある。
その時の講師が清水哲夫だった。増殖する俳句歳時記で有名な方だ。
その時に、妙に耳に残っていることは、職場の俳句がない 誰が職場の俳句を作ようというひとはいないのかという言葉だった。
今から考えると、句材を拡げるということなのだろう。
この牛丼屋の風景も句材になるのだろうか。
そんなことをいろいろ考える昨日の昼休みであった。
 


子ども俳句の素材

2011-08-25 | ジュニア俳句

この夏休みの間、山本健吉の「現代俳句」を読んで学び,示唆を受けたことは多い。

その一つは素材の拡大ということだ。
185ページ
「誓子の言うところによると、ずっと以前に秋桜子が「後藤夜半論」を書いた時、夜半は誓子よりも取材の範囲が広いという結論が出ていたのに発奮し、作品の門口を拡げ、素材を開拓しようと決意したという。これが、彼の近代俳句浅間となり、彼はせっせと都会風景の中から近代的な素材を掘り起こした。昭和五年ごろからこの傾向は激しさを加え、宝塚ホテル、海浜幕営、捕鯨船、ダンスホール、ドック、看護婦養成所、・・・・・スケートリンク、マドロスの悲哀、ラグビー、資本、メーデー、大原社会問題研究所などの連作が、次々と試みられた。だから、誓子における近代俳句の確立は何よりもまず素材的な意味においてであり、青年俳人はは喜んでこれに追従し、彼は新興俳句の旗手となったのである。」

では、ひるがえって子どもの俳句の素材とは何かと言うことなのだ。

教室で子ども達に俳句の指導をするときに、何を素材にして俳句を読ませてきたか。

①一つは、ミニ吟行をして、自然を詠ませる。
②もう一つは、印象的な学校行事を詠ませる。
③七夕、お正月などの伝統行事を詠む。

確かにこのことは外すことは出来ないが、更に拡大できないか。

今回私達が発行した
「10分間俳句ノート」(学事出版)には、最後に「言葉のポケット」が掲載されている。



ここには、学校や子ども達の生活に密着した言葉が多数載っている。これらの言葉は子共の生活に独特のものであり、大人の俳句のまねではない。
これらは、足立区の山本先生たちが中心になって開発したものであり、子ども俳句の分野に一つのエポックを作ったと言って過言ではないと私は思っている。

これからの課題は、

①これらの語を使った具体的な指導の姿を示すこと。(これは、2月発行予定の仮題「俳句の授業アイデア50」の中で実現させたい)
②実践を通して、さらに素材の拡大を図り,その有効性を確かめること。

であると考えている。
子ども達に取り組ませゐテーマ、素材について、実践やご意見があればぜひ寄せてほしい。

 

 


夏休み

2011-08-24 | ジュニア俳句

この夏休み、いろいろな休暇などをかき集めて、10日ほど休んだ。こんに続けて休んだのは、現役時代にはなかったことだ。
本当は、田舎の避暑地に行く予定だったが、懐具合も含めて、それが無理になってしまった。
そこで、毎日近くの避暑地に行くことにした。
本を読んだり、居眠りをしたり、俳句を作ってみたり、一週間、ほとんど誰にも会わずにこんな生活を送ったのは、人生初めてのことかもしれない。

その中で、一番印象が強かったのが、山本健吉の「現代俳句」である。
「定本 現代俳句」角川選書2400円 
まだすべてを読み終えているわけではないが、正岡子規をはじめ五十人の明治以降の俳人を取り上げたこの本は、近代の俳句史を俯瞰する上でも絶好の入門書である。
また、山本健吉の俳句観が具体的な句に即して、余すところなく表されている。

内容についての紹介(自分の覚え書き)は時間があればしたいが、たとえば、俳句の近代化が、季題の発見という形でなされていく。(そのことに山本健吉の意識が注がれている)このことが印象に残った。

179ページ 「流氷」は近代俳句において開拓された季語である。古い歳時記には、「氷流るる」という季の詞が挙げてあるが、これは内地の川や沼などの小さな景観に過ぎない。

287ページ(金尾梅の門)・・・歳時記に記載されていない鳥が、それだけの理由で俳人の注意を惹かないのはずいぶん滑稽な話である。だから私は俳人の自然を愛するとか、季節現象をだいじにするとか、花鳥風月に親しむとかいう言葉を,口先だけだと思うのである。・・・・
私は、これまでの俳人に見落とされていた生物や風土現象を、句にする意欲を大いに尊重する。「季節のひとつも探し出したらんは、後世によき賜」(去来抄)  とは芭蕉の言葉である。

山本健吉を詠むと、俳句というものが、実に柔軟であり、時代と共に発展していくものだということがよくわかる。

 

 

 


ネットに書評も。日本教育新聞社のページ

2011-08-23 | ジュニア俳句

 

ネットでも日本教育新聞社のページに書評が出ていましたので、ちょっと宣伝です。

 


日本教育新聞社のページ

「日本語力養成」時宜を得て

 
 全面実施となった小学校の学習指導要領では、3・4年生の伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項として短歌、俳句の音読や暗
唱、5・6年生では経験や想像を基に詩や短
歌、俳句を書くことなどが位置付く。
 子どもの発見力や集中思考力、ひらめき力、日本語力の育成につながる「10分間俳句」をテーマにした本書の刊行は、時宜を得たものだ。
  5分で着想を練り、次の5分で俳句を作る。「10分経過したら、俳句ができなくてもやめる」といった手順や、俳句のタネから実際に作品へと変化していくよ うなノートの書き方など、実際に子どもたちが俳句を作る際のアイデアやノウハウがたくさん詰まっている。また、随所にハッとさせられるような子どもたちの 作品が掲載されていて、楽しい。
 教科学習で学んだことを俳句に詠むことで定着させたり、今までの知識の蓄積などに関係なく、子どもたちが同じスタートラインに立てる句作の活動は学級づくりにも活用できることが分かる。
 著者は小学校の校長時代、自ら実践して成果を挙げてきた。今は、教育委員会に籍を置き、俳句教育推進担当というユニークな役割を果たす。10分間俳句は教師による添削の時間がかからず、負担が少ないなど現場的な発想の上に構築されているのが良い。(矢)
 
発見!感動!創造!どの子もできる10分間俳句
小山 正見 著 学事出版
1680円
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NHK俳句9月号 子ども達の句をぜひ投稿してください。

2011-08-21 | ジュニア俳句

子ども達の句をぜひ投句して下さい。

「俳句であそぼ」 テーマは 虫の音を聞いて俳句を作ろう です。

送り先  〒1580-8081 NHK出版

 「NHK俳句」編集部「俳句であそぼ」係

年齢 五歳から中学生まで

はがき一枚につき二句まで

住所、お名前(ふりがな)、年齢(学年)、電話番号をご明記下さい

作品は未発表のものに限ります

掲載分には記念品を贈呈します

 


吟行

2011-08-15 | ジュニア俳句

暑い日が続く。
朝になると、首のまわりにぐっしょり汗をかく。
体重を計ってみると、一晩で1.3㎏も減っている。

昨日は、小石川の後楽園の吟行だった。
球場の後楽園は何度も行ったことがあるのに、本家の後楽園に来たのは、初めてだった。
暑いことには変わりはないが、その暑さは、外界とは違う。爽やかな暑さだ。
人が少ない。お盆で東京から人が消えていることもあるだろうし、この暑さで外出を控えていることもあるかもしれない。
しかし、コミケ(コミックマーケット)が3日間で54万人の人出というのだから、何を楽しむかが違うと言うことだろう。
外国人の姿が目につく。
回りは蝉時雨だけの静かな世界。
句会では、ちっとも点が入らなかったが、良い一日だった。

ところで、吟行というやり方は、いつから始まったのだろうか。
誰かから、そんなに古い話ではないと聞いた覚えがある。

先日、山本健吉の「現代俳句」を読んでいたら、こんな記述があった。

「俳諧というものは、元来何人かの仲間が一間に集まって応酬する室内芸術として発展してきた・・・・」

教養があり、自然のことも知っている教養人が集まって句会を行う。
元々、文学的な伝統に基づく、頭の中の文学的な想像の世界、これが、本来の俳句の姿だったのだろう。
ところが、俳句の大衆化が始まったとき、季語の何たるかを知らない輩がたくさん入ってくると、そういうわけにはいかなくなる。
そこで、実物を見て俳句を作るとい吟行が生まれたのではないか。
もちろん、これは「写生」という考え方と軌を一にしている。

この辺りのことは、季語をどの様に考えるのかという問題とも微妙に交差している。