さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

稲葉ゼミ旅行奈良 一日目

2015-03-21 20:57:15 | 稲葉ゼミ
2014.11.26~27、古都奈良を歩く

□唐招提寺
奈良時代、聖武天皇は仏教で国を治めるべく、中国から、「鑑真」を招請、来日6年後、759年、新田部親王の邸宅を賜り研修道場を開設したことに始まる。律宗総本山。世界遺産。
金堂・・・南大門を入ると正面に見える建物、国宝。平成21年大修理。




講堂・・・正面9間、(16.2M)入母屋造、本瓦葺き。平城京の宮殿建築の名残をとどめている。


□薬師寺
680年、天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気回復を祈り建てたのが始まり。その7年後に完成を見ずに崩御、翌年、遺志を継いだ持統天皇が、藤原京に七堂伽藍を完成した。718年、平城遷都が行われた際、現在地に移転した。創建時の建物は、東塔のみとなった。(東塔は、現在改修中)




金堂・・・1528年に焼失、昭和51年に再建した。正面7間、側面4間、二重の入母屋造。
道内には、ご本尊の薬師如来。右に日光菩薩、左は月光菩薩。


大講堂・・・平成15年に再建、白鳳様式。朱色と白壁のコントラストが鮮やか。


西塔・・・昭和56年に再建、450年ぶりに両塔が揃った。


玄奘三蔵院・・・『西遊記』で知られる三蔵法師の遺徳を讃えて平成3年の建立された。平山郁夫画伯の壮大なシルクロードの壁画がある。


□坐禅と遍路から観えた釈尊の教えと釈尊が現代のわれわれに問いかけること
・・・四国八十八ヶ所の通し遍路を2回達成した山内庸行さん草稿より、・・・・・


序 私は、中学時代に“人は何の為に生きるのか?”、“生きる目的など在るのか?”という疑問に出くわしてしまいました。

高校時代から何故か坐禅に惹かれ、大学の専門課程で臨済宗妙心寺派末寺の祥龍寺に住まい、その縁で入ったクラブ活動を通じて、坐禅との付き合いが始まり、今日に至っています。この疑問は、私にとって、人生における卒論テーマのようなものです 

草稿の視点 

1.釈尊は一体何をわれわれに説かれようとされているのか? またどのようしてその教えを得られたのか? そもそもそれは何故当時のインドの人の支持を得ることが出来たのか?
2.釈尊は、現代のわれわれに何を問いかけているのか?
3.坐禅と遍路の体験との関わり?


1-1 釈尊は一体何をわれわれに説かれようとされているのか?遍路途中の寺は、例外なく現世利益を説いている。私が学生時代の二年ほどを過ごした祥龍寺でも、正月には、国家安泰を祈っていた。

しかし 国を捨て、家族や財産を捨て出家された釈尊が、現世利益や護国の道を求められた筈もなく、求められたのは、生きるとは何か?(己事究明)であろう。

その結論が『三法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)、“諸法空相・諸法実相”“色即是空・空即是色”、無常、無我、空、無』等の教えであり、日常の言葉で言うと、釈尊は、“生命の真実”と“自分の真実”の教えを説かれた:

① “生命の真実”とは ⇒(“諸行無常・諸法無我”、“諸法空相・諸法実相”、“色即是空・空即是色”)
・ひと続きの大きな生命が只生命を生きているだけ、自分なんて在るようでどこにも無く、無いようで仮に在るだけと(イ)、自分と言う意識は、“顛倒夢想”(錯覚)とまで言われた。

・例えるならば、自分は、手桶に汲まれた水のようなもので、手桶に汲んだから水が生じたのではなく、自然界の水が、手桶に汲みとられただけ、また手桶の水を撒いたら水が無くなるのではなく、あくまで自然界に戻るだけ。生命と自分の関係は、自然界の水と手桶の水のようなもの。

②“自分の真実”とは ⇒(“涅槃寂静”、“色是色・空是空”)
・生命が生命しているだけで自分など無い(イ)と聞くだけでわれわれ
には青天の霹靂なのに、更に凄いのは、自分は、そんなひと続きの
大きな生命を、当の本人として、出逢う人・モノ・コト全てを自分の人
生の中身として、他人との比較の出来ない自分だけの世界を生きてい
る。自分が生きているから世界は在る。(ロ)』と、と言いきら
れ、自分の存在を100%完全に肯定された。つまり(イ)で錯覚とし
て否定されたのは、固定的なカチッとした自分、自他の分かれた世界と
いう意識であった。

・例えるならば、春と一輪の花の関係。春という環境が整わないと花は
咲けない、しかし春なんてどこを探してもどこにもなく、在るのは一輪
の花やそよ風だけ。ビッグバンと地球の誕生で生命が生れない限り自分
は存在し得ない、しかし自分が今ここで生きて初めて生命は、具体的に
その姿を表す事が出来る。

  ・『確かに全ては変化し流れているが、この一瞬以外には、生きる真実は無く、この一瞬に於いて全てが終わり、全てが始まるマッサラな今を生きている(ハ)。』と日ごろ、この今を生きていると信じているが、実際には、過去にひきずられ明日を心配しながら生きているだけの我々の事実を見せつけられた。

③縁起と言うこと

・教えの根本として、この自分も含め宇宙の存在は、全て、あくまで宇宙や生命の変化の流れの中にたまたま生じる渦のようなものであるとの縁起を説かれた。

[水素+酸素=水]の式を借りれば、説かれた縁起は、次のような教えと言える:

水なんて、ある意味どこにも存在しない。在るのは、水素と酸素だけ。しかし同時に水素とも酸素とも違う水が確かに存在している。しかし水は在るにはあるが、水素と酸素の結合が終われば無くなる、仮に在る存在!公式の内の水素+酸素の部分が、縁起の縁、水(自分)なんてどこを探しても無い、あるのは水素と酸素つまり(縁)だけ、それが“生命の真実”。

そしてその結果確かに出来た水(自分)が、縁起の起つまり 宇宙広しと言えども、たった一つだけの水(自分)がここに在る、これが“自分の真実”。

・余談ですが、私は、子供達に、“君たちは水で、さしずめ私と妻そしてご先祖の遺伝子が、水素と酸素。

君達は、私、妻、ご先祖の遺伝子以外の何モノでも無いのだ!”と説明しています。割りと効果的です。
1-2その教えは、どのようにして得られたのか?
釈尊は、この教えを、もちろん思い付きからではなく、概念と思考の積み上げである哲学や神の啓示でもなく、あくまで坐禅によって生じた[“見る・聞くそして思うの前に、目に・耳に入る”がある]との極めて単純な気付きをきっかけに得られた。

釈尊の教えとは、その気付きをきっかけに、坐禅によって生じた色々な気付きの数々の積み重ねを“演繹法的に整理し、帰納法的に活用”された。つまり“体験知”:

① “演繹法的に整理”したとは?

・6年間厳しい修業を続けたが、疑問は何一つ解消できなかった。そこで修業を諦め、疲れ果て失意の中たまたま出会った若い女性から乳粥の接待を受け、これを食しブッダガヤーの菩提樹の下で心静かに坐禅したところ、8日目の早朝、明けの明星がまるで自分が輝いているように感じ、疑問が一挙に融けた。

・考えると どうも 修業中は、何か今とは違う自分になりたいとの思いが頭を占めていたが、そんな思いも全て諦め、7日間只静かに坐禅していると、目の前に川が流れ、空には雲が生滅し、風が吹き、日が照り、雨が降り、色々な鳥や虫が鳴いているのが、確かに五官に伝わって来ていた。

今まで、自分が景色を見・自分が鳥の声を聞いているとしか理解してこなかったが、確かにそう言う側面はあるにはあるが、“自分が見る、聞く”以前に、“ただ目に入る、ただ耳に入る”という事実がある!そう言えば、寝ていても起きていても、修行中も修行に絶望した今も、心臓や呼吸などの身心の全てが働いてくれている。

どうも自分が生きているというのは、自分の頭がそう思っているだけで、本当はあくまで生命がただ生命を生きているだけではないのか!
⇒(イ)の気付きが、知らないうちに、何回と無く坐禅中に起きていたのではないでしょうか。

・また 坐禅していると色々な思いが勝手に浮かんでは消えていった、どうも“思い”すら、自分が思うと思う前に、頭に、勝手に浮かんでくるようだ。

静かに目や耳に入ってくることを只感じていると、思いが静まり、それにつれて、自と他の境目が、余り気にならなくなり、消えるみたいな“ひと続きの大きな生命”を生きていると実感していたようだ。

“他と区別された自分”というのは、頭が勝手に描いた概念に過ぎないようだ、坐禅中のあの実感が、真実の自分なのではないのか!

⇒坐禅中のこれらの気付きの積み重ねが、8日の早朝に、明けの明星を見て自分が光っていると感じるまでに深まり、(イ)の気付きにつながり、そしてまた気付きとは、実感であるが故に、二つと同じ実感はこの世に存在し得ないところから、そのひと続きの大きな生命を、当の本人として、出逢う処は、全て自分の人生の中身として生きているという気付きが、

更にまた実感である限りたった一回きりのものであり、この瞬間に終わると同時に始まっているマッサラな今を生きていると言わざるを得ないと言う気付きが一挙に産れ、それらの気付きを、(イ)(ロ)(ハ)と整理され、それらを演繹法的に整理され、三法印など上述の教えが、体験知として生まれたのではないでしょうか。

・また静かに坐禅していて、目にそして耳に入った色々なことを振りかえると、景色が目に入るのは、景色があるからであり、鳥の声が耳に入るのは鳥がなくからである。風は吹き、雲は生まれているが、これとて、大気や大空の言わば働きの結果に過ぎない。この自分も、両親や日々の食事の言わば結果・・。

⇒坐禅から得たこれらの気付きを演繹法的に整理され縁起と言う体験知を提示されたのだと思います。

確かにバラモン教の輪廻転生と類似性はあるものの、“生命が只生命しているだけで、自分は在るようでどこにも無く、無いようで仮に在るだけとの気付き”は、バラモン教の説く永遠不滅の我(アートマン)の考えとは、全く相いれないことから、縁起という考えを新たに提示されたと想像します。

⇒坐禅からの深い気付きが、ひと続きの大きな生命が生きているだけ、しかし同時に自分は比較や善し悪しを超えて在ることの気付きを生み、そう気付いてみると、なぁ~んだ、気付かなくても、人間とはもともとが、そんな存在だったのだ!と気付かれた釈尊は、“悉有仏性”を体験知として提示されたのではないでしょうか。

それでも生きている限り、比較や善し悪しの思いは、浮かんできます、そこで、坐禅の気付きを日常生活に出来るだけ守れるように、後述の四聖諦や戒などを示されたのだと思います。

⇒三法印などの体験知と縁起と言う2つの体験知が、またこの2つの体験知と坐禅という行が、相乗的に相互に深め合って行ったのではないかと想像しています。
② “帰納法的に活用”とは?

 釈尊は、坐禅の気付きを演繹法的に整理して得られた体験知を、次のように帰納法的に活用された:

1)苦集滅道(四聖諦)―“苦の発生”と“苦の消滅”の2つのメカニズムの提示

・苦集:イ・ロ・ハの真実に気付かずに、頭が描く兼ね合いと自他に分かれた概念に執り付かれていることつまり“集”が、“苦”つまり生き辛さの原因であるとの苦の発生のメカニズムの提示

・滅道:イ・ロ・ハの真実に気付き、頭が描く自他に分かれた概念を手放すつまり“滅”以外に、苦の解決の道は無いとの苦の消滅(解脱)のメカニズム この滅の考えは、即ち恨みや欲望は、追
求すればするほど充足されないとの凡人では思いつかない逆転の発想とも言える。

2)殺すな!盗むな!などの五戒や布施・持戒などの六波羅蜜など生きる規範としての“戒律”の提示

“戒律”は、極めて禁欲的なものとの心証があるが、事実は坐禅と体験知との好循環が生れると、その度合いに応じて自ずと心の内部から出て来るものである。たとえば五戒は:

・殺さない!⇒食物連鎖とは、殺し合うことが支え合うということであり、われわれの生命は、全て他の動植物の生命を殺すことでしか成り立たない。言わば他の生命のお陰で自分は、支えられている。全ては、全ての存在は、ひと続きの大きな生命を生きていると気づけば、自ずと殺生し難くなる。

・盗まない!⇒昔会社に入ってから東京のある坐禅会で“今の教育は盗人教育”と言う言葉を聞きました。

ひと続きの大きな生命の観点から言えば、確かに 自他を分けて、自分だけの能力向上を図る今の教育は、言わば盗人の養成教育のようなものと言える。こう気付くとモノを盗むどころではなくなる。

・酒を呑まない!⇒坐禅儀は、野の虎、水を得た龍のように坐れと、眠ることと考えごとを厳禁している。これは眠気や考えで,六根を曇らせては、坐禅にならないとの注意と理解できる、坐禅の心で日常生活を送る為には、眠気や考えごとは勿論飲酒で六根を曇らすわけにはいかない。

等々 戒律が、文字通りの意味での戒めでもあることも間違いないが、単に堅苦しい倫理基準を示そうとしたものではなく、あくまで坐禅の気付きの結論・エッセンスを日常語で表現してものである。

釈尊は、坐禅の気付きから得た自らの体験知のエッセンスを戒として示すことで、坐禅などに関心の無い人には、黙って実践さえすれば釈尊の追体験が出来る方法として、そして坐禅に関心の有る人には、日常生活においても、坐禅の気付きを維持する為の方法として“戒律”を提示された。
1-3 何故当時の一般のインドの人の支持を得ることが出来たのか?
① 思い付きや言葉で構築した哲学や不思議な神秘体験では無く坐禅の体験を、平易な言葉で説かれた。

釈尊の教えは、全て坐禅などの気付きから導かれた体験知であり、言葉の世界を超えている。従って、それを言葉で表現すると、例えば“生命の真実・自分の真実”とか“三法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)”とか“諸法空相・諸法実相”とか“色即是空・空即是色”となり、何か真実が2つ・3つと複数あるように聞こえるが、そうではなく、あくまで自分が生きている一つの真実を示したものであり、本当は無とか、空とか、一語で言いたいところだが、何も無いの無とか空と誤解されてもいけないので、言葉で説明するとどうしても、複数のしかも相互に矛盾した言葉の羅列となり、人間の頭には大変分かり難くいものとならざるを得ない。


そこで 釈尊は、教えを、一般のインドの人に説かれる時には、そんな難解な言葉を使わずに、体験談を、日常の平易な言葉で教えられたのではではないか。

何故ならばそうでない限り、釈尊の教えが、多くの当時のインドの一般の人々に受け入れられたとはとても信じられない。

釈尊は、こんな風に説法されたのでは:

・たとえば畑で働いているお百姓さんに出会った時⇒みなさん、お疲れ様、ところで皆さんは、当たり前のように日ごろ自分は・自分はと、常に自分を他と切り離して考えておられると思います。一度畑の大根を見て下さい。大地の泥に埋まり、栄養を貰い、太陽に照らされ、雨の恵みを受けて育っています!

畑から抜いてしまった大根は生きた大根と言えるでしょうか!大根は、泥や泥の中の栄養や水そして太陽や雨や大空などと一体であって初めて生きた大根なのではないですか。

言葉で表現するとまるで大根というものが単独で存在しているように思えますが、それは言葉が創りだした幻想に過ぎないのです。自分と他人の関係も同じなのです。

ところで一度大根を齧ってみて下さい・・。今“美味い!”と言われましたね。その美味さと大根と自分、この3つを別々にして美味さは成り立つでしょうか?今のあなたは存在するでしょうか?全ては、ひと続きのものなのです。生きているとはそういうことなのです。

概念や言葉でとらえてしまうと、分離されてしまい、そこには生きたナマの人生は在りません!

生きることに満足感が伴わないとすれば、それは社会だけのセイではありません!概念でとらえた自他分離と比較の世界を本当の世界と思い込み、他と一体として在る自分に気付いていない、つまり自分が自分になっていないからなのです! 

・たとえば商店で働いている人と出会った時⇒みなさん、ご家族のために毎日商売に精を出しておられますね、働くことは本当に大変なことですね。しかし、実はそこに不幸への落とし穴もあるのです。

振り返ってみて下さい。一日に何回となくお茶を呑まれると思いますが、今まで本当にお茶を呑んだことがありましたか? お茶を呑みながら、いつも商売や家族の明日を心配し・過去を考えておられませんでしたか!

生きる為には止む得ないことです。しかし、明日も過去も全て頭の描く世界なのです。生きる真実はこの今にしかありません。

生きていることに満足感が伴わないとすれば、それは忙しさや商売の大変さだけが原因ではないのです!頭が描く明日や昨日が事実あるように思いこんで、今がマッサラな今になっていない、つまり今が今になっていないからなのです!

・そして釈尊は、いつも、話しの最後には、いつもこう付け加えられたと想像します。

でもみなさん!安心して下さい!みなさんが、気付かなくとも、生まれてこのかた、いつでもひと続きの大きな生命を、マッサラな今、生きているのです!これらのことを法と名付けてみましょう。法に気付かずに、頭が描くままに、我を張ったり、過去や未来にしばられたりするから苦しみが生れています。

どうか頭の思いのありのままではなく、生命のありのままに自分を生きて下さい!釈尊が死ぬ前に遺された自帰依・法帰依(自燈明・法燈明)も、こんな風に生前は説かれたのでは無いでしょうか!

・インド人もビックリではありませんが、このくらいの話なら、農民でも商売のことしか頭に無い商人でも、“生命の真実”とか“自分の真実”とか“縁起”とか聞かなくても、ましてや三法印や諸法空相・諸法実相などの専門語や唯識や中論などを理解できなくても、自分の真実が良く分かったのではないかと想像します!

②公案を解いたり、厳しい修行を求めることなく、釈尊が、勧められた坐禅は、シンプルであった。

・釈尊の坐禅の勧めは、次のような感じでは、無かったでしょうか
生命のありのままに生きて下さいと言いましたが、それはそんなに難しいことではありません!

言葉以前の世界で生きていることに気付くだけで良いのです!それも難しくありません!

“背筋を正して、体の力は一切抜いて、ゆったり・どっしりと”、“ごく普通の呼吸”を心がけて、但しこれらの心がけも全て忘れて、只坐ってみて下さい、

そしたら自分が見る・聞くの前に、目に・耳に入るということが、そして自分が思っていると信じていた思いが、実は勝手に頭に浮かんで来るということに、つまり、生命がただ働いているだけとしか言いようがない自分がそこに現れているのです。

概念が分断した世界が薄れて、全てのことが自分と繋がっていて隔てが無い、全てのことは自分の中身であり、今・今と時間は在るとの実感にまで深まるかも知れません。比較を司るあなたの頭は戸惑うか知れませんが、坐禅中のこの実感こそ、あなたの実像なのです。

他人とは共有できない、言わばあなただけの世界、出逢う処は全てあなたの人生の中身、一瞬の今だけが在るとの実感これがあなたの実像なのです。

あなたは、その時、 “生きた大根”のように、“今のお茶を今呑む”ように、生命のままに在るのです!

これなら仏教用語抜きでも、簡単に、坐禅を通じて、釈尊の追体験ができたのではないでしょうか!また 、生きた大根・今のお茶を今呑むことの体験知が、生れてくれば、五戒や六波羅蜜などの戒律は、ごく素直に受け入れられたのではないでしょうか。

・ただ釈尊は、坐禅の心得として、いつもこう付け加えることをお忘れにはならなかったとも想像します:

◎目に・耳に入ると言っても、決して眠ったりしたり、また逆に考え事をしたりして、五官を曇らせては、決してなりません! 五官は、常にその働きのままに、イキイキさせておいて下さい!

◎ ただし、五官を曇らせないと言っても、それを作為的に求めてはいけません。いついかなる時もあなたの意思や状態と無関係に、五官はイキイキと働いてくれているのですから。真実の自分は、あなたの作為が止んだ時、自然に観えてくるものです。
                      
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