さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

バギオ慰霊碑

2023-01-16 15:25:18 | 海外旅行
●バギオ
バギオはマニラから北へ車で約8時間、標高1500mに位置する人口約23万人の松原の多い高原都市。
年間の平均気温20℃、最高気温26℃以下の過ごしやすい日本の「軽井沢」のような所。フィリピン戦線において、米軍の砲爆撃で犠牲者3万人、廃墟と化した。
別名「夏の首都Summer Capital」とも呼ばれ、マニラ政府も夏の間(3~5月頃)だけ一時的にバギオに移動してくる。


●バギオ英霊追悼碑 FILIPINO-JAPANESE FRIENDSHIP MEMORIAL SHRINE
バギオ・ライオンズクラブの発起により、日比両国の戦没英霊を慰めるとともに日比親善、平和のシンボルとして、昭和48年2月11日建立。
この碑は、茨城県筑波山のふもとから掘り出された花崗岩で作られている。
・・・ここに、我らの恩讐を絶する日比両国の戦友百数十万の霊を慰めるための記念塔を建てる。悲しき歴史の運命について我らは今日言うべき言葉もない。・・・愛情の最後の一滴を捧げつくして、滅びいった同胞の御霊よ。・・・(尾崎士郎)


キャンプ3(旭歩兵第71聯隊 慰霊碑は十字架のない日本式。昭和57年に鹿児島の遺族会が建立した。)
キャンプ3~キャンプ4;
旭(第23師団・熊本編成)歩兵第71聯隊と工兵第23聯隊が50日にわたり米軍のバギオへの侵攻を阻止し、バギオの司令部の転出を可能にした激戦地。


キャンプ7 展望台からベンゲット道(ケノン道)を眺望
〈ベンゲット道の開削〉
1898(明治31)年、フィリピンを領有した米国は、ブエド川沿いに避暑地バギオに通ずる道路の建設プロジェクトを開始。当初、現地人、次いで支那人を使用したが失敗。1905(明治38)年、勤勉な日本人労働者1500人を雇って、8箇所のキャンプ(宿所)を道路沿いに作り全長35Km、標高差1200mの道路を完成させた。(過酷な労働条件と疫病で約半数700名が死亡した。)
(敗戦後の再建)
ベンゲット道は、明治時代に日本人が作り、戦争で日本軍が破壊。戦後再び戦時賠償で日本人の手で修復した。




ボタニカルガーデン
第14方面軍・山下泰文大将が一時使用した洞穴。


マンション・ハウス
昔は、マルコス別館と言われた。大統領が夏の公務を行うオフィス。




トライシクル
オートバイにサイドカーを付けた3輪車。サイドカー部と運転手の後部にぎっしり人が乗っている。料金は20P~40P位より、相乗りは一人約7P(1ペソは約2円)


マッサージ店
全身オイルマッサージ 60分 198P(1ペソ=2円)


昼食(ウルダネタ ショッピングモール)






バギオ PRINCE PLAZA HOTEL


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