私たちは、今まで何人もの人を看取ってきた。
初めて看取りをしたのが、井上夫婦のみよちゃんだった。
次第に老いてゆくみよちゃんと共に暮らしながら、いつかきっとその時がくると覚悟をしながら、それでも、諦めていくことが辛くて辛くてたまらなかった。
命の終わりが目の前にあることを、自分自身が認めることが怖くて、逃げ出したいような気がしていた。
いよいよ終わりに近づいた時、はっきりともうダメなのだと理解できた時、それでもどうにかならないかと、もう一度生きようと思ってもらえないものかとジタバタし、それでもどうにもならないのだと自分自身に言い聞かせながら、最期の時を迎えた。
見送った後、涙が溢れて止まらなかった。
寂しくて、悲しくて、身体の一部をもがれたように感じて、立ち直るまでに時間が必要だった。
けれども、不思議とこれでよかったのだと、いつか思えるようになった。時間が経つほどに、心が満たされていくのを感じるようになった。そして、その気持ちはご家族も一緒だった。私たちは命日のたびに逢い、温かい思い出を語り合うようになった。
みよちゃんを看取った後、じいちゃんを看取り、由美子さんを看取り、フミちゃんやヨッシーを看取り・・・タツエさんや敏子さんやまあちゃんを見送った。
多くの人を見送った今、私たちはこうして看取ることの意味をはっきりと知ることができた様な気がしている。大切な人を失う悲しみよりも、もっと大きな意味。
それは、こうして自然に迎える死がもたらしてくれる満ち足りた温かい気持ちとその意味を、知ることができたから。悲しくないはずはないけれど、そうした気持ちよりももっと大きな大事なことがあると知ることができたからだ。
悔いのない温かい穏やかな時間を過ごすことは、旅立ってゆく人に対する記憶を、見送る人たちにとって満足できるものにかえてくれることを知った。
「悔いのない、いい人生を送ったのだろう」と。
負の記憶さえも温かい記憶に変えてくれると。
残された家族は、満ち足りた記憶を支えに、これからの人生を生きてゆくことができるだろう。
看取った私たちと家族は、最後となる大切な同じ時間を生きたことで、これから先も繋がってゆくことができるのだ。
明日はフミちゃんの命日。
日曜日、離れた町に住むご家族が一年ぶりに池さんに来てくれた。
離れていても、遠くにいても、ご家族は私たちのことを想ってくれている。
私たちも、ご家族のことを想う。
フミちゃんはいなくても、こうして繋がっていくことができる。
この絆こそが、フミちゃんが与えてくれたもの。
フミちゃんの命は、新しい絆を私たちに与えてくれている。
みよちゃんやじいちゃんのご家族や・・・すべての家族が、今でもずっとここを支えてくれ、私たちの力になってくれる。
その力こそが、私たちのこれからの道を示してくれている。
この大きな力を糧に、私たちは又前に進むことができるのだ。
看取ることは、人生の最期の時(人生の一番大事な時)を、死にゆく人と「一緒に生きること」だと思える。
一緒に生きるからこそ、命を終えた人が教えてくれる大切で大きなメッセージを、はっきりと心に刻むことができるかけがえのない瞬間となる。
その大きなメッセージは、私たち自身がこれから先の人生を生きる指針となりうるのだとはっきりと言える。
フミちゃんのご家族から頂いたお手紙は、これから先の私の心の宝物になるに違いない。
胸を張って生きてゆくために、大切な宝物になると思っている。
与えてもらった道しるべを、生きる糧にできる私自身でありたいと素直に思える今宵。
冷えた空気の中で輝く夜空に浮かぶ小さな星のように、迷える時の指針になってくれるだろう。
おっと・・・
夜空の星が多すぎて、余計に道に迷うのではないか・・・という突っ込みは、この際却下します(笑)
あしからず
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