複雑な「こころ」の世界 という題名の宗教学者の人のコラム
河合隼雄さんのことが語られていたので心に残っていた。
コラムの内容は、複雑な「こころ」の世界を「可視化」しようとするかのような言葉の増加を憂いている。
例えば「やばい」という言葉は、①あぶない・②まずいという意味のほかに、③すばらしいという意味もあって、21世紀になって広まった言い方という解説までついて、意味は反転・逆転して使われるようになっている。
「やばい」という一言で、複雑な「こころ」を言い表そうとしていると。
2004年に開催された国際アルツハイマー病協会の国際会議で故河合隼雄さんが特別講演の中で
「患者は物語をもって病院へ行き、診断名だけをもらって帰る」と語ったそうだ。
ここで批判的に語られたのが、「可視化」された病名だ。
病名をつけるだけで、診断名を下すだけで、機械的で画一的な治療に流れる危険性が生じる。
・・・
患者も年寄りも、それぞれが様々で唯一無二の物語の人生を生きている。
だれも、その人生の中の大切な「こころ」を知る由もない。
その独自の人生を、疾患のみによって判断され、治療の対象者としてしか見られない、そんな簡単なものであるはずがない。
その「こころ」のありかとゆくえは、簡単に他の人に想像できるものではないだろう。
全てを可視化しようとすると、複雑なこころは、曖昧な解釈にたどり着いてしまうに違いない。
病気の診断を下すことと、適切な治療を行うことと、物語を生きる人を続ける「人」を知ろうとすること、その人の生きる物語の先を想像することは、決して無関係ではないはず。
人のこころは複雑。
決して簡単に可視化できるものではないと思う。
「やばい」という簡単で薄っぺらな言葉にできるはずもない。
そんなふうに感じたこのコラム。
人を人として考えてない場所があったり、どうでもいい扱いされた人がいたり、ただの利用者でしかなかったり、訳の分からん年寄り扱いだったり、そんな場面に遭遇することがいっぱいで、心が痛くなることが多い。
人のこころは複雑だし、短い言葉になんかならないはずなのに。
でも、簡単な言葉に置き換えて、数値だけにこだわって、効率だけを追いかけて、機械のように介護する、そんなもんじゃないはず・・・なのに、現実は、そんな方向へと向かっている。
5月ももうすぐ終わる。
楽しみにしていたサクランボは、気候のせいか今年全滅。
麦の借り入れのコンバインの音が毎日聞こえ、目の前の麦秋は田植えの準備に変わっていく。
温暖化の影響か、昔とは違うけれど、季節の変化は、それでも変わらずにやってくる。
どんな時も。