3月23日(火) 大学芋と水あめ
昨年秋、茨城の知人が、自分の畑で作ったサツマイモ(紅あずま)を、沢山送って寄越した。特大の芋が一本、最後に残ったので、先日、大学芋を作った。大学芋を作るのは何度目かだが、ネットで仕入れたレシピが、先生役だ。
サツマイモは、暫く置くと、通常、黒いヤニが出たり、腐ったりするのだが、幸にこの芋は、何とも無かった。皮を剥いて、正四面体のような、角切りにして水にさらし、水気をとる。先ず、160度位の低温の油で、ゆっくり素揚げし、一旦取り上げる。 次に、180度位の高温でサッと揚げる。一方、絡める蜜の方は、材料の、水あめ・砂糖・水を、1:2:1の割合で、鍋に入れ、温めて溶かしながら作る。この蜜を、狐色に揚がったサツマイモにかけて絡め、ごま塩を振れば、大学芋の出来あがり、である。
出来立ては、かりっとしていて、香りも良く、程よい甘さで、3時のお茶などには、もってこいだ。一晩経つと、しっとりと軟らかくなるが、又違った食感になる。それにしても、何で、大学芋などという、変なネーミングなのかな?
以前は、大学芋を売っている店は、結構目に付いたものだが、最近は、トンと見かけない。昨年、近くのJRの駅前通りにある、老舗の和菓子屋(本店は、浅草のようだ)で、大学芋を売っているのを発見?! プロの出来栄えと味を調査するために、この店で買ってきたことがある。揚げといい、蜜と言い、流石に、プロの出来栄えだった。大学芋は、お菓子類の少なかった、少し前の時代までは、貴重なお八つ等として重宝した。
物の本等によれば、水あめは、液状の飴、と言うことで、昔の、特にまだ砂糖が無かった時代には、その代わりとして、和菓子などの重要な甘味料だったようだ。製造法は、古くは、玄米を発酵させて作られ、その後、麦芽水あめになり、現在は、各種澱粉から、作ることが出来る。スーパーでは、今も、ちゃんと売られてはいるのだが、砂糖に押されて、料理や菓子作りなどで使われる頻度は、ごく少ないようだ。
この水あめで思い出すのが、野口雨情作詞 中山晋平作曲の「黄金むし」の唄である。
次に、引用させてもらう。
1 黄金むしは 金持ちだ
かねぐらたてた くらたてた(金蔵建てた 蔵建てた)
あめやで 水あめ 買ってきた(飴屋で 水あめ 買ってきた)
2 黄金むしは 金持ちだ
かねぐらたてた くらたてた
こどもに 水あめ なめさせた(子供に 水あめ 舐めさせた)
1番、2番とも、前半で、黄金むしの金持ちぶりを繰り返して歌い、それぞれの後半で、水あめを買ってきて、子供に舐めさせた、と歌う。解りやすい歌詞であり、素直に歌えるメロディである。
黄金むしは、その煌びやかに輝く色や整った形から、古来、慕われてきた昆虫である。作詞者は、その素晴らしさに、まず、素直に感動し、金持ちだ、金蔵を建てたようだ、と讃えているようだ。ところが、後半で、取ってつけたように、突然、水あめの話が登場するのが、実に興味深い。
金持ちの黄金むしが、水あめを買い、子供に舐めさせる、という。昆虫は、一般に、花の蜜など、甘いものを好む。黄金むしも、同様で、作詞者は、花に集まる様をみて、それを表現したのかもしれない。が、自分には、そうではなく、虫の世界の話から、人間の世界の話になっている、ように思われるのだ。
昔の田舎には、「あめや」があり、葬式饅頭やお菓子などを作っていたが、水あめは、貴重なものであったようだ。この水あめは、黄金むしに喩えられる、金持ちにしか買えず、その金持ちの子供だけが、水あめを舐められた、のだろう。水あめが、そんなにも貴重品だったのか、と驚くのだが、庶民の切ない羨望の思いが、歌詞に込められている、と感じるのは、自分だけだろうか?(水あめは、当時、庶民の甘味で、金持ちなのに水あめを買う、という、野口雨情の庶民性が現れている、という解釈もあるようだがーーー)
この童謡が作られた経緯や、歌詞の意味するところについて、余り詮索すると、折角の情感が無くなってしまうのだが、この歌の背景となる大正期の日本は、こういう時代だったのかと思うと、少し、いとおしく、切ない気持ちになる。
物が溢れている飽食の現代、大学芋と水あめは、質素で慎ましい暮らしを、静かに思い起こさせてくれるのである。
昨年秋、茨城の知人が、自分の畑で作ったサツマイモ(紅あずま)を、沢山送って寄越した。特大の芋が一本、最後に残ったので、先日、大学芋を作った。大学芋を作るのは何度目かだが、ネットで仕入れたレシピが、先生役だ。
サツマイモは、暫く置くと、通常、黒いヤニが出たり、腐ったりするのだが、幸にこの芋は、何とも無かった。皮を剥いて、正四面体のような、角切りにして水にさらし、水気をとる。先ず、160度位の低温の油で、ゆっくり素揚げし、一旦取り上げる。 次に、180度位の高温でサッと揚げる。一方、絡める蜜の方は、材料の、水あめ・砂糖・水を、1:2:1の割合で、鍋に入れ、温めて溶かしながら作る。この蜜を、狐色に揚がったサツマイモにかけて絡め、ごま塩を振れば、大学芋の出来あがり、である。
出来立ては、かりっとしていて、香りも良く、程よい甘さで、3時のお茶などには、もってこいだ。一晩経つと、しっとりと軟らかくなるが、又違った食感になる。それにしても、何で、大学芋などという、変なネーミングなのかな?
以前は、大学芋を売っている店は、結構目に付いたものだが、最近は、トンと見かけない。昨年、近くのJRの駅前通りにある、老舗の和菓子屋(本店は、浅草のようだ)で、大学芋を売っているのを発見?! プロの出来栄えと味を調査するために、この店で買ってきたことがある。揚げといい、蜜と言い、流石に、プロの出来栄えだった。大学芋は、お菓子類の少なかった、少し前の時代までは、貴重なお八つ等として重宝した。
物の本等によれば、水あめは、液状の飴、と言うことで、昔の、特にまだ砂糖が無かった時代には、その代わりとして、和菓子などの重要な甘味料だったようだ。製造法は、古くは、玄米を発酵させて作られ、その後、麦芽水あめになり、現在は、各種澱粉から、作ることが出来る。スーパーでは、今も、ちゃんと売られてはいるのだが、砂糖に押されて、料理や菓子作りなどで使われる頻度は、ごく少ないようだ。
この水あめで思い出すのが、野口雨情作詞 中山晋平作曲の「黄金むし」の唄である。
次に、引用させてもらう。
1 黄金むしは 金持ちだ
かねぐらたてた くらたてた(金蔵建てた 蔵建てた)
あめやで 水あめ 買ってきた(飴屋で 水あめ 買ってきた)
2 黄金むしは 金持ちだ
かねぐらたてた くらたてた
こどもに 水あめ なめさせた(子供に 水あめ 舐めさせた)
1番、2番とも、前半で、黄金むしの金持ちぶりを繰り返して歌い、それぞれの後半で、水あめを買ってきて、子供に舐めさせた、と歌う。解りやすい歌詞であり、素直に歌えるメロディである。
黄金むしは、その煌びやかに輝く色や整った形から、古来、慕われてきた昆虫である。作詞者は、その素晴らしさに、まず、素直に感動し、金持ちだ、金蔵を建てたようだ、と讃えているようだ。ところが、後半で、取ってつけたように、突然、水あめの話が登場するのが、実に興味深い。
金持ちの黄金むしが、水あめを買い、子供に舐めさせる、という。昆虫は、一般に、花の蜜など、甘いものを好む。黄金むしも、同様で、作詞者は、花に集まる様をみて、それを表現したのかもしれない。が、自分には、そうではなく、虫の世界の話から、人間の世界の話になっている、ように思われるのだ。
昔の田舎には、「あめや」があり、葬式饅頭やお菓子などを作っていたが、水あめは、貴重なものであったようだ。この水あめは、黄金むしに喩えられる、金持ちにしか買えず、その金持ちの子供だけが、水あめを舐められた、のだろう。水あめが、そんなにも貴重品だったのか、と驚くのだが、庶民の切ない羨望の思いが、歌詞に込められている、と感じるのは、自分だけだろうか?(水あめは、当時、庶民の甘味で、金持ちなのに水あめを買う、という、野口雨情の庶民性が現れている、という解釈もあるようだがーーー)
この童謡が作られた経緯や、歌詞の意味するところについて、余り詮索すると、折角の情感が無くなってしまうのだが、この歌の背景となる大正期の日本は、こういう時代だったのかと思うと、少し、いとおしく、切ない気持ちになる。
物が溢れている飽食の現代、大学芋と水あめは、質素で慎ましい暮らしを、静かに思い起こさせてくれるのである。