日本での(そして北欧・北アメリカ人の)イタリア人に対するステレオタイプのイメージの背景には、「悪いことを外部に見せない、楽しいことだけを見せる」というイタリア人の特徴があり、その根底にあるイタリア人の心性を描こうとする本です。
僕としては今まで読んだことのない切り口の本で楽しめました。
著者のランベッリ氏はイタリアで東洋研究で博士号を取得し、アメリカで教鞭をとった後、現在は札幌大学の比較宗教論、文化記号論、日本宗教・思想史の教授をしている人です。
著者曰く、イタリア人には「途上国のエートス」があり、現代にあってもなお多くのイタリア人は精神的には貧しく権威主義的な社会、植民地化された途上国に生きている、といいます。
それが能動的な不信、イタリア語でフルビツィア(furbizia)と言われる権威、権力への不信の文化・生活の知恵につながります。
家族や友人という「身内」のネットワークの外にいる人も不信の対象であり、イタリア人の特徴とされる「明るさ」はそれらを操り、利用するための武器でといいます(イタリア人同士だと文化的コードを知っているのである程度信用できる明るさとできない明るさの区別がつくそうです。)。
また著者はイタリアのマルクス主義思想家であるアントニオ・グラムシの
理性の悲観・意志の楽天
という言葉を引いてイタリア人の悲観主義には「受動的運命論の拒否」という特徴があり、イタリア人は悲観主義者なのに(だからこそ)自分の人生や社会を絶えず変えようとする「変化への憧れ」があるといいます。
そしてタフな状況を生き抜く知恵、イタリア語でいうarte di arrangiarsi(直訳すれば「うまく切り抜ける技術」)、外部から見たズルさにつながるといいます。
著者はイタリアサッカーの象徴する「カテナッチョ」もイタリア人の悲観主義の象徴として説明します。
1950~60年代にはイタリア人選手は栄養が低い食事しか取れず、背が低く、北欧や南米の強豪チームとは体格的にも技術的にも劣位で、それを乗り越えるためにカテナッチョという方法が工夫されました。
カテナッチョは本来厳しい守備だけではない。勢い込んで攻撃する相手に対して、相手が気づかないうちに逆襲するのがポイントである。つまりサッカー場における「狡猾さ(フルビツィア)」そのものである。(中略)相手が強くて対等には闘えないので、自分の仲間を守りながら相手の弱点を利用してやっつけるという方法。この意味でカテナッチョもまた、先述した社会的レベルでの当局や権力に対する不信と家族主義、国際関係上でのイタリアの途上国の意識と同様に、「無力な人の力」のひとつの表象と言っていだろう。
戦前、イタリアはサッカーワールドカップを二連覇したが、そのときは上述した身体的な劣等感と同時に精神的な優越感が働いていた。(中略)
しかし、現在イタリアは明らかに途上国ではない。そこにまさに今のイタリアの大きな問題の一つがある。時代遅れの心性や社会の幻想がそれを生んだ状況が克服された後にも生き残り、現在の状況に合わなくなってしまっているのである。サッカーもそうである。80年代以降イタリアはサッカー大国になり、他国の代表の方がイタリア代表に対して劣勢を感じだした。そして彼らがイタリアに対して行うカテナッチョに、イタリア代表はうまく対応ができなくなってしまった。チームのメンバーはそれぞれチャンピオン選手だが、チーム全体としての考え方にはおそらくなんらかの形で昔の劣位感が残り、今なおサッカー場での力関係の逆転を追及し続けているようである。この場合もイタリアの「狡猾さ」は自己破壊に結びつく。
現代イタリア社会の問題をサッカーの代表に託してかたるあたり(そしてサッカー代表のほうをより心配しているように見えるあたり)はさすがイタリア人ですねと言ったら怒られそうですが(笑)
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