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玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ジュリアン・グリーン『モイラ』(3)

2015年02月24日 | ゴシック論
 後味のわるい小説である。『アドリエンヌ・ムジュラ』もそうだった。アドリエンヌにも魅力はないが、ジョゼフにはもっと魅力がない。まるでグリーンは自分の中の否定的な部分を主人公に仮託し、主人公を裁く事を目的としているようにさえ思われる。
 小説を書くことそのものがグリーンにとって内心の罪への処罰の行為であるかのように、グリーンは主人公たちを破局に向かって追いつめていく。ただし、グリーンはアドリエンヌに対しては同情的であるが、ジョゼフに対しては必ずしもそうではない。
 アドリエンヌは戯画化されてはいないがジョゼフは明らかに戯画化されている。グリーンはカトリックの作家である。『モイラ』にはピューリタニズムへの批判の姿勢が明瞭に見て取れる。カトリックは歴史的に宗教的寛容を獲得していったが、ピューリタニズムはそうではなかった。
 アメリカでは未だに宗教的不寛容が大きな力を持っている。「ダーウィニズムを学校で教えてはならない」などという圧力を州や国にかけている団体さえある。無神論への不寛容がその理由である。グリーンが『モイラ』でアメリカを舞台にしたのはそのような理由があったはずだ。
 ところで、ゴシック小説としてほとんど忘れられかけているジェイムズ・ホッグという作家の『悪の誘惑』という作品もまた、ピューリタニズム(この小説ではカルヴィニストの一派の思想)の不寛容、おのれの信仰に従わぬ異端の徒は殺してもかまわぬのだという狂信的な思想への批判の書でもある(後日取り上げることになる)。
 宗教の持つ不寛容についてはイスラム教だけが責めを負っているのではない。キリスト教もまた宗教的不寛容の歴史を積み重ねてきたのであった。ピューリタニズムの禁欲的不寛容はそのひとつの現れである。
『モイラ』のあともう一冊グリーンの小説を読んだ。1971年に書かれた『他者』である。この作品もまた〈性〉をテーマとし、男女の性の行き違いあるいは信仰の行き違いを描いている。第2次世界大戦を背景としているが、歴史的な掘り下げはない。ひたすら性と信仰をめぐる物語で、これもまた後味のわるい小説である。詳しくは書かない。
「ジュリアン・グリーン全集」第6巻(人文書院・1979)山崎 庸一郎訳
(この項おわり)




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ジュリアン・グリーン『モイラ』(2)

2015年02月24日 | ゴシック論
 ジョゼフがいかに教条的な禁欲主義を振りかざそうが、彼自身性の誘惑に勝つことは出来ない。自分が住む下宿の部屋にこの間まで住んでいたモイラという娘が近日中に帰ってくるので、部屋を明け渡してくれといわれ、ジョゼフが行う行為はどういうものか? ベッドのシーツに残された若い娘の匂いを嗅ぎまくって妄想にふけることでしかない。
 第2部になってモイラという魅惑的な娘が登場する。開放的なアメリカ娘とその肉体はジョゼフにとって悪魔の誘い以外のものではない。最も禁じられているものが〈性〉であるとき、女性の肉体は悪魔の誘いであり、闘うべき対象そのものである。
 このようにして禁欲的な宗教思想は、女性の肉体の中に悪魔を造形するのである。悪魔の発生する場所は女性の肉体であり、禁じられた〈性〉そのものである。悪魔を生んだのは神ではない。神による〈禁止〉こそが、人間の中に悪魔を生むのである。
 たとえば、禁欲の空間としての修道院こそが悪魔の温床となる。それこそがゴシック小説が執拗に描いた悪魔の住む本来の場所なのだ。修道士が悪魔と契約して禁じられた欲望を果たしていくというようなゴシック的ストーリーを、我々はマシュー・グレゴリー・ルイスの『マンク』やチャールズ・ロバート・マチューリンの『放浪者メルモス』、H・T・A・ホフマンの『悪魔の霊酒』など多くの小説にみることが出来る。
 そのような意味で、ジョゼフが住む下宿の部屋こそがゴシック的空間となる。新しい部屋にモイラが尋ねてきたとき(それは学友たちのいたずらに過ぎなかったのだが)ジョゼフはモイラの肉体の魅力に必死で抵抗するが、結局抵抗むなしくモイラを犯してしまう。そして翌朝目覚めたとき、自らの禁忌への侵犯を罰するかのようにモイラを絞め殺す。
 ジョゼフは自らのうちに潜む悪魔を殺害したのである。

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ジュリアン・グリーン『モイラ』(1)

2015年02月24日 | ゴシック論
『アドリエンヌ・ムジュラ』があまりにも素晴らしかったので、グリーンを続けて読もうと思い、候補に高橋たか子訳の『ヴァルーナ』と私の嫌いな福永武彦訳の『モイラ』の2作を挙げてみたが、全集の月報で私の好きな加賀乙彦が『モイラ』をドストエフスキー的な作品として評価していたので、まず『モイラ』を読むことにした。
『モイラ』は第1部と第2部に分かれているが、表題のモイラは第2部にしか出てこない。いささか身持ちの悪い魅惑的な若い娘の名で主人公ではない。主人公はジョゼフ・デイという色白の美男子だが、髪は赤毛で差別の対象ともなる。根っからの求道者であり、そこがこの小説のキーポイントとなる。アメリカの大学の下宿街を舞台にしている。
 ジョゼフの頑迷な禁欲的思想を中心に、彼の周りにホモセクシュアルや自由思想の持ち主、彼を差別する謎の学生ブルース・プレーローなどの登場人物が配置されている。ジョゼフの周辺はことごとく彼の偏狭な禁欲思想の攻撃の的とされる。
 ジョゼフは決して魅力的な人物として描かれない。彼の禁欲的なピューリタニズムは周囲の嘲笑の的ともなるが、彼は動じない。ジョゼフは下宿生たちに対し酒を飲んだと言っては攻撃し、女遊びに興じたと言っては責め立てる。時には暴力行為にまで及ぶいささか滑稽で危険な人物として描かれる。ジョゼフはグリーンの分身ではない。
 アメリカの大学が舞台だが、そういえばジュリアン・グリーンの両親はアメリカ人であり、グリーンなどというフランス人らしくない名前はそのためだったのだ。彼はだからアメリカ流のピューリタニズムについて知悉していたに違いない。
 グリーンのテーマはいつでも〈性〉である。『アドリエンヌ・ムジュラ』でもそうだが、禁じられているのはいつでも〈性〉そのものであって、それはグリーンが性欲というものに罪の意識を持っていたためだとされている。しかもグリーンはホモセクシュアルに対する強い願望を持っていた。
 主人公ジョゼフに恋するが、ジョゼフの冷酷な扱いに絶望して死ぬホモのサイモン・デマスにはグリーンの欲望が投影されているようだ。
「ジュリアン・グリーン全集」第4巻(人文書院・1980)福永武彦訳。
 
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ジュリアン・グリーン『アドリエンヌ・ムジュラ』(3)

2015年02月24日 | ゴシック論
 出口裕弘は何故にこの作品を“幻想小説”と位置づけたのだろうか? この小説には幽霊や悪魔など出ては来ないし、超常現象が起きるわけでもない。
 もともとフランスは知性の国というだけあって、幻想文学の歴史の薄い国である。出口が挙げている10作品の中で純粋に幻想小説と言えるのはシュペルヴィエルの『沖の小娘』くらいのものではないだろうか。バタイユやブルトンの作品を幻想文学と規定するのはいかがなものかという気がするし、ボレルの作品は残酷文学ではあっても幻想文学ではない。デュカスもボードレールも幻想的な資質を持った人ではない。
 ボードレールはアメリカのエドガー・アラン・ポーのゴシック小説をこよなく愛し、自ら翻訳を行うほどの偏愛ぶりだったが、本人は極めて明晰な詩作品と評論を書いた人だった。『悪の華』は確かに背徳的な詩集であるが、幻想的というよりも古典的な枠組みをはずれない。
 戦後の日本にゴシック小説あるいは怪奇小説を本格的に紹介した平井呈一編集の「怪奇小説傑作集」全5巻(創元推理文庫)の中にフランス編1巻が含まれているが、他の巻、イギリス編2巻、アメリカ編、ドイツ・ロシア編とはいかにも趣が違うのである。そこに収録された作品をみれば誰でもそう思うだろう。フランスにはゴシック小説と呼べるようなものが存在しないのである。
 ではなぜ出口は『アドリエンヌ・ムジュラ』を選んだのか。それはこの作品が心理に於いてゴシックであるからだと私は思う。舞台はムジュラ家のお屋敷、そこで父と娘との確執があり、父は娘に対し愛を禁じ、娘もまたそれに抵抗しながらも自らに愛を禁じていく。
 禁じられた愛がアドリエンヌを奇矯な行動に導いていき、その行動故に愛は破綻し、アドリエンヌは狂気に陥っていく。この作品は『閉ざされた庭』The Closed Gardenという題名で英訳されているが、このClosedという言葉がゴシックの閉ざされた空間をよく表現している。
『アドリエンヌ・ムジュラ』にあっては、心理そのものが閉ざされた空間でゴシック風に展開されるのである。閉ざされた空間は閉ざされた心理のゴシック的隠喩なのである。
 新庄嘉章による翻訳は極めつけの名訳であることを付け加えておく。
(この項おわり)
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