後味のわるい小説である。『アドリエンヌ・ムジュラ』もそうだった。アドリエンヌにも魅力はないが、ジョゼフにはもっと魅力がない。まるでグリーンは自分の中の否定的な部分を主人公に仮託し、主人公を裁く事を目的としているようにさえ思われる。
小説を書くことそのものがグリーンにとって内心の罪への処罰の行為であるかのように、グリーンは主人公たちを破局に向かって追いつめていく。ただし、グリーンはアドリエンヌに対しては同情的であるが、ジョゼフに対しては必ずしもそうではない。
アドリエンヌは戯画化されてはいないがジョゼフは明らかに戯画化されている。グリーンはカトリックの作家である。『モイラ』にはピューリタニズムへの批判の姿勢が明瞭に見て取れる。カトリックは歴史的に宗教的寛容を獲得していったが、ピューリタニズムはそうではなかった。
アメリカでは未だに宗教的不寛容が大きな力を持っている。「ダーウィニズムを学校で教えてはならない」などという圧力を州や国にかけている団体さえある。無神論への不寛容がその理由である。グリーンが『モイラ』でアメリカを舞台にしたのはそのような理由があったはずだ。
ところで、ゴシック小説としてほとんど忘れられかけているジェイムズ・ホッグという作家の『悪の誘惑』という作品もまた、ピューリタニズム(この小説ではカルヴィニストの一派の思想)の不寛容、おのれの信仰に従わぬ異端の徒は殺してもかまわぬのだという狂信的な思想への批判の書でもある(後日取り上げることになる)。
宗教の持つ不寛容についてはイスラム教だけが責めを負っているのではない。キリスト教もまた宗教的不寛容の歴史を積み重ねてきたのであった。ピューリタニズムの禁欲的不寛容はそのひとつの現れである。
『モイラ』のあともう一冊グリーンの小説を読んだ。1971年に書かれた『他者』である。この作品もまた〈性〉をテーマとし、男女の性の行き違いあるいは信仰の行き違いを描いている。第2次世界大戦を背景としているが、歴史的な掘り下げはない。ひたすら性と信仰をめぐる物語で、これもまた後味のわるい小説である。詳しくは書かない。
「ジュリアン・グリーン全集」第6巻(人文書院・1979)山崎 庸一郎訳
(この項おわり)
小説を書くことそのものがグリーンにとって内心の罪への処罰の行為であるかのように、グリーンは主人公たちを破局に向かって追いつめていく。ただし、グリーンはアドリエンヌに対しては同情的であるが、ジョゼフに対しては必ずしもそうではない。
アドリエンヌは戯画化されてはいないがジョゼフは明らかに戯画化されている。グリーンはカトリックの作家である。『モイラ』にはピューリタニズムへの批判の姿勢が明瞭に見て取れる。カトリックは歴史的に宗教的寛容を獲得していったが、ピューリタニズムはそうではなかった。
アメリカでは未だに宗教的不寛容が大きな力を持っている。「ダーウィニズムを学校で教えてはならない」などという圧力を州や国にかけている団体さえある。無神論への不寛容がその理由である。グリーンが『モイラ』でアメリカを舞台にしたのはそのような理由があったはずだ。
ところで、ゴシック小説としてほとんど忘れられかけているジェイムズ・ホッグという作家の『悪の誘惑』という作品もまた、ピューリタニズム(この小説ではカルヴィニストの一派の思想)の不寛容、おのれの信仰に従わぬ異端の徒は殺してもかまわぬのだという狂信的な思想への批判の書でもある(後日取り上げることになる)。
宗教の持つ不寛容についてはイスラム教だけが責めを負っているのではない。キリスト教もまた宗教的不寛容の歴史を積み重ねてきたのであった。ピューリタニズムの禁欲的不寛容はそのひとつの現れである。
『モイラ』のあともう一冊グリーンの小説を読んだ。1971年に書かれた『他者』である。この作品もまた〈性〉をテーマとし、男女の性の行き違いあるいは信仰の行き違いを描いている。第2次世界大戦を背景としているが、歴史的な掘り下げはない。ひたすら性と信仰をめぐる物語で、これもまた後味のわるい小説である。詳しくは書かない。
「ジュリアン・グリーン全集」第6巻(人文書院・1979)山崎 庸一郎訳
(この項おわり)