第一編は議論展開のための準備作業に費やされる。バークは「苦と快」という概念を最初に提示し“苦”は“快”の除去によるものではないし、“快”もまた“苦”の除去によるものではなく、まったく別のものだと主張する。
さらに苦は「個人の維持」に関係する情念であって、「あらゆる情念の中で最も強力なもの」とされる。確かに“苦”は個人に対して危険を知らせ「個人の維持」に貢献する重要な感覚である。
一方“快”は「社交一般」に関わる感覚であり、「特定な社交の慣行にかかわる最も強力な感覚」とされる。そして社交には二つの種類があって、一つは男女間のそれであり、それを“愛”と呼ぶ。もう一つは「人間および他の各種の動物との間の大規模な社交」(よく分からない表現だが、男女間のそれ以外の一切ということか)であり、その対象は“美”だという。
また社交の内部には共感sympathy、模倣imitation、大望ambitionの三つの環が組み込まれているという。そして模倣こそが「絵画その他の様々な快適な芸術のもつ力の主要な基盤の一つ」とされるのである。
さて、バークはこの第一編ですでに、崇高と恐怖とを次のように結びつけている。
「如何なる仕方によってであれ、この種の苦と危険の観念を生み出すに適したもの、換言すれば何らかの意味において恐ろしい感じを与えるか、恐るべき対象物とかかわり合って恐怖に類似した仕方で作用するものは、何によらず崇高(the sublime)の源泉であり、それ故に心が感じうる最も強力な情緒を生み出すものに他ならない」
これこそがゴシック小説を論ずるときに持ち出されるテーゼであり、ゴシックの“崇高の美学”を打ち立てるために援用される部分なのである。ここにはゴシック小説の論者のエドマンド・バークの理論への過剰な依拠があるとしか考えられない。
初めて恐怖というものと崇高という概念とを結びつけた功績は確かに大きいとはいえ、それがそのままゴシック小説に当てはまるとは私は思わない。バークもまたそんなことを想定していなかった。
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