玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(1)

2015年03月13日 | ゴシック論
 ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』をそれだけ読む体験と、彼の主要な長編小説をあわせて読む体験とでは、結果は違ったものになるだろう。『ねじの回転』にも確かに心理小説的な要素は色濃くあるが、『ねじの回転』だけを読んですますのでは、ジェイムズの本当の凄さが分からないのではないか。
 ヘンリー・ジェイムズの心理描写は、はっきりものを言わない“ほのめかし”と、互いの腹のさぐり合いによって構成されているということは『鳩の翼』の項でも書いた。『ねじの回転』もまたそのような叙述に満ちているが、そうした技法が恐怖を喚起するために稼働されているという点で違っている。ジェイムズの『ねじの回転』を真に味わうためには、やはり彼の長編を読み、その方法について知っておく必要があるだろう。
 ところで、ジェイムズ・ホッグの項でアンドレ・ジッドが『ねじの回転』について「超自然的なものに頼らずとも、すべて心理的に説明できる」と言っていることを紹介したが、ジッドはそれを『ねじの回転』を3回読んで初めて理解したことを告白してもいる。確かに最初読んだときよりも、2回目に読んだときの方が心理的な解釈に傾いてくる。しかも『鳩の翼』を読んだあとではなおさらだろう。
 しかし、『ねじの回転』は形式的にはほとんどゴシック小説の伝統をはずれていないと言ってもいいだろう。何よりも導入部である「序章」がそうだ。そこで『ねじの回転』の本編が、“わたし”の友人ダグラスがある家庭教師の女性に託された手記によるものだということが明かされている。
 多くのゴシック小説にみられる特徴は、その物語が古い時代のものであり、紆余曲折を経て奇跡的にその物語の草稿が今日にまで伝えられているといったような導入部を持っていることである。
 ゴシック小説はそうすることで物語の信憑性を仮構するのだが、一方で物語を今の時代から遠いところに置く。フィクションの有効性を高めるゴシック小説ならではの工夫となっている。
ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(2005・創元推理文庫)南條竹則・坂本あおい訳


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