玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

Ann Radcliffe The Mysteries of Udolpho(8)

2016年03月11日 | ゴシック論

 忙しさに紛れてしばらく間を空けてしまったが、第17章、18章、19章まで進んできて、第1巻もあと5章を残すのみとなった。
 この間英宝社から出ている『古典ゴシック小説を読む』を参照することができた。この『ユドルフォの謎』のあらすじや人物相関図が載っている。人物相関図には登場人物の日本語読みがなされていて、おおむね私の読みが正しいことが分かった。
 ただし、Quesnelを"ケスネル"と呼んだのは間違いで、フランス語読みだと"ケネル"となるらしい。sは発音しないのだ。ところで登場人物の名前を完全に英語読みしている解説書もあり、Valancourtは"ヴァランコート"などと読まれている。
 当時の英国人の読者はどう読んでいたのだろうか。タイトルからしてユドルフォ城はイタリア人モントーニの城なので、イタリア語で"ウードルフォ"と読むことになりそうだが、どう読んでいたのだろう。"ユードルフォ"と読むのが英語的なのだろうが、私は慣例に従って"ユドルフォ"としておく。。
 17章ではもはやエミリーとモラーノ伯爵の結婚は一刻の猶予もならぬ、明日の朝教会で結婚式を執り行うというモントーニの命令が下ったのに、翌朝モントーニは突然、ヴェニスを離れると言い出す。向かう先はアペニンにある彼のユドルフォ城である。
 しかもこの旅にモラーノ伯爵は同行しない。いったい何があったのだろう。二人の結婚の話はどうなったのだろう。ラドクリフはここでは一切その理由を説明しない。この小説がエミリーの視点から書かれているため、彼女がそれを知るまでは作者も知らない振りを続けるということなのだろうか。
実はその理由についてはエミリーが知っているかどうかに拘わらず、第20章で語られるのであるが、こうした小説の視点の一貫性のなさはラドクリフの小説の大きな欠陥である。なんとしてでも謎を膨らませ、その解決を一時でも遅らせることによって読者の興味を引きとどめておこうという、通俗的な手法であるからだ。
 急転直下、エミリーはモントーニ夫妻と共にユドルフォ城へ急ぐ。ここがこの小説の主要な舞台となることはタイトルからも明白であり、ここからこの作品は典型的なゴシック小説としての性格を強めていくのである。
 城に到着したエミリーはまずユドルフォ城の威圧的な外貌に圧倒される。以下のような描写が延々と続いていく。

Emily gazed with melancholy awe upon the castle, which she understood to be Montoni's; for, though it was now lighted up by the setting sun, Gothic greatness of its features, and its mouldering walls of dark grey stone, rendered it a gloomy and sublime object.

 ここにsublimeという言葉が出てくることに注意してもよい。古色蒼然たるゴシックの城もまた、ピレネーやアルプスの荘厳な美しさが喚起するものと同じsublimeなものを喚起するのである。ピクチャレスクと呼ばれる感性の本質がここにある。
 多くの謎がさらに積み重ねられていく。かつてユドルフォ城はローレンティーニという若い女性が城主であったらしいが、ある日彼女は忽然と姿を消してしまったという。そのことにモントーニが絡んでいるらしく、彼はローレンティーニが行方不明になった後、城の所有権を主張して城主に納まったと言われている。
 さらにこのローレンティーニと思われる女性の姿が、時々城の周辺で目撃されるという超自然的な謎も付け加えられる。モントーニ夫人の召使いアネットはそれをspirit(霊)と呼んで恐怖におののくのである。
 エミリーはアネットと共に、自分の居室を探して場内を彷徨ううちに、多くの絵が飾られた部屋に迷い込む。そこでかつての城主に関係しているらしいヴェールの掛かった絵を発見する。エミリーはそのヴェールを上げて、それが絵ではないことを発見して驚愕することになるが、それが何であったのかはまたしても書かれない。
 この部分は作者による意図的な隠蔽である。エミリーの視点から書くのであれば、それが何であったのかについて書かれなければならないのに、作者はそれを書かない。謎を深めるためのアンフェアーな仕掛けである。
 ところで、これまでこれほど多くの謎を仕掛けておいて、後できちんと処理できるのかについて心配な気持にならざるを得ない。読者の興味を引っ張っていくのはいいとしても、謎は過不足なくきちんと解明されなければならない。そうでなければいい加減な小説というそしりを受けかねないからである。

『古典ゴシック小説を読む―ウォルポールからホッグまで 』(2000,英宝社)杉山洋子,長尾知子,惣谷美智子,神崎ゆかり,小山明子他著


 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿