ただし、こうした考え方は、物語や批評、詩がそれぞれ独立して存在しているか、あるいは存在できるという固定的な考え方に結び付く恐れがある。たとえば、批評には物語がないかといえば、そんなことはないのであって、ミシェル・フーコーが自著『性の歴史』について「それもまた虚構である」と言ったように、哲学的論考でさえ虚構の一種として捉えることができるのである。
私はこれまで批評だけを書き継いできたが、それが虚構であることを意識しないで書いたことはない。私は論理の筋道を〝物語〟のように構成してきたし、おそらく批評でさえそのように書かれざるを得ないのである。それが〝俗情との結託〟に陥るかどうかはまた別の問題である。
また、批評が詩を孕む一瞬ということもあり得る。批評の文章を書いていく過程で、ある一文が啓示のようにしてもたらされることがある。諏訪は林静一の項で「何度でも言うが、使途は情念である以上に技法(テクネー)であり、ゆえにそれだけが技術(アート)となる」と書いていて、詩の技術的側面を強調しようとするが、それだけでは測れない部分がある。批評から見てもそのことは言えるが、詩それ自体から見るとすれば、〝詩=技術〟という議論は十分なものとは言えない。
諏訪は横光利一の項で次のように書いている。
「内容だけを右から左へ伝達するもの、それが物語。これに飽き足らず、物語に変形・加工を施そうとする不断の革命精神が批評。批評の要請に応じて言葉を歪曲し、伝達にあえて迂路(うろ)を創り出す技術が詩だ。」
このようなことを言われたら、多くの作家は腹を立てるに違いない。物語が「内容だけを右から左へ伝達するもの」でしかないとするならば、人間の想像力・創造力が否定されてしまうことになるからだ。我々は多くの超自然的な物語を知っているが、それらが読者に与える驚異の感覚について、それを単に「内容だけを右から左へ伝達するもの」と呼ぶことができるだろうか。
また多くの詩人も腹を立てるに違いない。詩が批評を孕んでいるということは、ボードレールの時代から言われてきたことであり、小説だけが批評を要請するのでもなければ、批評が詩を要請するのでもない。ボードレールの詩が、彼の批評的営為によって支えられていたように、現代の詩人もまた世界に対する不断の批評的営為によって、初めて詩人たり得るのであって、彼が批評によって呼び出され、技術的要請によって存在意義を与えられると考えることは間違っている。
ということは、「詩」が独立して「技法」や「技術」に還元される行為なのではないということを意味している。諏訪は「物語」と「批評」と「詩」が分業体制を受け持っているかのような言い方をしているが、そうした考え方はおかしいのではないか。「詩」と言わず、「ポエジー」(詩性)と言わなければならない。ポエジーとはひとが世界に対峙する中で、ある一瞬啓示のようにもたらされるものであり、それを簡単に技術に還元してはいけない。
私の議論が不可知論的で、神秘主義的だと言うならば、ヴァルター・ベンヤミンの「言語一般および人間の言語について」を読んでみるとよい。そこには言語の本質が見事に捉えられていて、啓示ということが言語の本質的な在り方そのものによってもたらされるものであることが、示されているはずだ。ポエジーの発生する地点は恐らくそこにしかない。
(つづく)