玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

諏訪哲史『偏愛蔵書室』(3)

2023年01月16日 | 読書ノート

 以上、諏訪哲史の小説における「物語」「批評」「詩」の要素についての議論を、批判的に検証してきたが、私は諏訪の考え方を完全否定しているわけではない。彼がレーモン・ルーセルの項で言っていることは、あくまでも正しいと私は思う。

「物語は普通、我々の物語元型への既知を巧みに利用し、それを模倣・再生する。つまるところ、すべての物語とは、既知の物語なのだ。」

 物語が既成の文学を補完するものでしかなく、制度としての文学を延命させるものでしかない、という考え方がここでは示されている。その意味で諏訪の言葉は正しい。しかし、〝未知の物語〟というものは存在し得ないのだろうか。想像力を全開にした驚異の物語は、未知の物語であり得るのであり、否定すべき物語の範疇を超え出ていくものとして評価できるのではないだろうか。それを物語と呼ばず、批評と呼ぶのだとすれば話は違ってくるが。ただ、既知の物語を超えていく営為がそのまま批評であると、私には言うことができない。
 諏訪哲史は芥川賞作家であり、小説家としてデビューした人だが、根っからの小説家は彼のようには考えない。虚構と物語はイコールではないかもしれないが、もっと虚構の可能性に賭けようとする姿勢を見せるのが普通の小説家である。ノーベル賞作家バルガス=リョサならば、小説における虚構というものを現実の世界に対する〝もう一つの現実〟として提起し、虚構が現実を乗り越えていく可能性に賭けるに違いない。
 そういう意味で諏訪の位置は、小説家よりも批評家に近いと言うことができる。ウラジーミル・ナボコフの項の冒頭にある次のような一節は、小説家の文章とはかなり異質なものがある。

「文学とは言語の病、倒錯である。優れた創作は優れた倒錯、優れた作者は優れた倒錯者、」芸術は闇に咲く、目映い倒錯の徒花である。」

 私はかつて、「批評と逡巡あるいは「批評」と「倒錯」」という文章を書いたことがあり、批評という行為を性的倒錯をも含んだ倒錯と同一視しようとしたことがある。というよりもむしろ、性的倒錯と表現論的倒錯とを意識的に同一化させて、批評という行為と対峙させたのであった。
 性的倒錯が人間の「内部」と呼ばれるものの空間的・時間的肥大とともに発生するのであるならば(このことについて詳述することはこの場ではできない。拙文を読んでいただくしかない)、表現論的倒錯と同じ発生源を持っていると思われたからである。私は別の「離反の融合」という文章で、次のように書いた。

「だから、「性的倒錯」なるものが独立に存在することはないし、「表現論的倒錯」なるものもまた、自律的に存在できるものではない。存在するのは、性的理解に限定されない、精神の運動としての「倒錯」そのものだけである。」

 私はその時、倒錯というものと批評というものを結び付けて考えたのだったが、諏訪はナボコフの項で、倒錯を文学一般あるいは小説そのものと結び付けて考えているのである。私にとっての批評は、倒錯の後ろめたさと強く結び付いたものであったし、諏訪にとってもそうであったであろうことは、「言葉の病」という後ろ向きの言葉や「倒錯の徒花」という否定的な言葉によって明らかである。
 しかし、そのような後ろめたさは克服されなければならない。諏訪の文章は倒錯を前向きに肯定する方向へと進んでいく。「ロリータ・コンプレックス(ロリコン)」の語源となった『ロリータ』を書いたナボコフは、「優れた倒錯者」であり、「優れた作者」でなければならないのである。ここにも性的倒錯と表現論的倒錯を、戦略的に同一化しようという姿勢が窺える。
 私もまた「倒錯とは倒錯からの快癒の運動である」というテーゼを立てて、開き直ることで後ろめたさを払拭することができたのだったし、諏訪もそうであったに違いない。
(つづく)