玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『アスパンの恋文』(4)

2015年06月18日 | ゴシック論
 ジュリアーナ・ボルドローの願望とはいったい何だったのか? それはジュリアーナの死後、姪のティータによって明らかにされる。世の中との交渉を絶ってひっそりと暮らすジュリアーナにとって大切なのは姪であって、姪のティータにたくさんのお金を残し、幸せな結婚をさせることが彼女の唯一の願望であった。
 ジュリアーナは「出版ごろ!」と罵るように、他人のプライバシーに土足で踏み込もうとする研究者としての「私」をまったく認めていない。だから決してアスパンの恋文を見せようとはしないのである。しかし、ジュリアーナは「私」を姪の結婚相手としては認めているのであって、だから「私」が姪と結婚し、アスパンの恋文を共有することは許そうと考えていたのである。
 ティータは叔母の願望に従って「私」に求婚するが、「私」は迷う。いったんは“ハイミス”であるティータを美しいとさえ思い、結婚を決断しかかるが、結局は撤退する。その拒絶によってティータは「私」がのどから手が出るほど欲しがっていたアスパンの恋文を焼き捨てるのである。
 思わずあらすじを書いてしまったが(基本的にあらすじは時間の無駄なので書きたくない)、それほどに『アスパンの恋文』のストーリーはよくできている。岩波文庫のカバーには「精緻な心理描写で、ストーリーテラーとしてのジェイムズの才能が遺憾なく発揮された中篇の傑作」と書かれているが、おそらくそのとおりだろう。
 しかし私にはもの足りない。この作品には『ねじの回転』に見るような、閉鎖空間における妄想を謎のまま引っ張っていく不可解さもないし、『聖なる泉』のような心理分析的な記述だけで読者を狂気の世界に引きずり込んでいくような実験性もない。
 やはり“読みやすさ”はヘンリー・ジェイムズの作品の美質ではあり得ない。ジェイムズの作品は晦渋で、不可解でなければならない。それこそがジェイムズが人間を見るときの哲学的視点であったであろうから。
 また“ストーリーテラーとしての才能”などをジェイムズに求める気はさらさらない。私にとってジェイムズは本家フランスにおける心理小説よりもさらに徹底した心理小説を書いた作家として偉大であり、イギリスのゴシック小説を継承しながらも、そこに古色蒼然たる意匠をではなく、現代に通じる問題を提起した作家として偉大なのであるから。
(この項おわり)