玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズの「夜のみだらな鳥」(3)

2015年06月21日 | ゴシック論
 それにしても素晴らしい文章である。自分の子供にこのような文章を書き送ることのできる父親はそうはいないだろう。ところで鼓直は「ラテンアメリカの文学」に『夜のみだらな鳥』を収載するにあたって、この父ヘンリーの文章を訳し直している。こちらの方が日本語としてこなれているのでこれも紹介しておこう。
「分別のつく十代に達した者ならば誰でも疑い始めるものだ。人生は道化芝居ではないし、お上品な喜劇でもない。それどころか人生は、それを生きる者が根を下ろしている本質的な空虚という、いと深い悲劇の地の底で花を開き、実を結ぶのではないかと。精神生活の可能なすべての人間が生まれながらに受け継いでいるのは、狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森なのだ」
 父ヘンリーがどのような人物であったかは、これまで日本で翻訳されてきた息子ヘンリー・ジェイムズの数々の作品につけられた解説によって少しは窺うことができる。父ヘンリーはアイルランドからの移住者であるその父(作家ヘンリーの祖父)に、プロテスタント流の厳しい教育を受けた。
 その反動もあったのだろうか、父ヘンリーは職業にも就かず、「書斎における思索の生活に終始し」て、神学と哲学の分野で一家をなしたという。また父ヘンリーは息子ヘンリーを、よくヨーロッパ旅行に連れて行くというような自由な教育を施したようだ。
 父ヘンリーの手紙の文章には深い絶望の色が窺えるが、それがどこから来ているのかについては知りようがない。事故による片足切断という不幸もあったようだが、それだけの理由にしては、あまりにもこの手紙に刻まれた絶望の淵は深すぎる。
 しかしその深い絶望が、人間の精神生活についての普遍的な認識に結びついているところ、つまり「精神生活の可能なすべての人間が生まれながらに受け継いでいるのは、狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森なのだ」という驚くべき認識には、文学的なものを感じないではいられない。
 ホセ・ドノソがこの手紙をどこで見つけたのかも分からない。父ヘンリーの書簡集など出ていないはずだから、息子ヘンリーの文章の中で見つけたのに違いない。ドノソはこの“夜のみだらな鳥”という言葉に驚喜したであろう。ドノソの最高傑作のタイトルとして、この言葉以上に相応しいものはありそうもないからである。