玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

志村正雄編『現代アメリカ幻想小説』(2)

2015年06月24日 | ゴシック論
「カルカソンヌ」はたった5頁の極めて短い小説だが、ほとんど散文詩のようなリズムを持った密度の高い作品である。多くの散文詩がそうであるように、読んでもよく分からない。何が書かれていて、何が言いたいのかよく分からないが、この作品が“詩的”であることだけは感得される。
 シチュエーションは分かる。フォークナー自身と思われる「彼」が屋根裏部屋で屋根葺き用のタールを塗った紙の下に半睡状態で寝ていて、馬に乗っている自分自身の姿を夢見ているのである。いきなり次のような一節から始まる。
「ソシテオレワ鹿皮ノの色シタ小馬ノ背ニ、小馬ノ眼ワ青イ電気ノヨウ、タテガミワ縺レル炎ノヨウ、丘ヲ駈ケノボリソノママ、マッスグ空ノ高ミニ疾駆シテ
彼の体はじっとしていた。それはこんなことを考えていたのかもしれぬ」
原文は AND ME ON A BUCKSKIN PONY with eyes like blue electricity and a mane like tangled fire, galloping up the hill and right off into the high heaven of the world. His skeleton lay still. Perhaps it was thinking about this.
 この馬は「彼」の夢想の中で、十字軍の騎馬に変貌し、胴体を切られてもおのれが死んだとも知らずに走り続けるのである。その馬は走り続ける。
「今も疾駆して、馬は天翔る、今も疾駆して、天空の果てなき青山を走りつづけ、たてがみを振り乱し、金の炎の渦となる。人馬ともに走りつづけ、その轟音は微弱に消えて行く――無限の闇と沈黙にかかる臨終の星だ」
 原文はStill galloping, the horse soars outward; still galloping, it thunders up the long blue hill of heaven, its tossing mane in golden swirls like fire.
Steed and rider thunder on, thunder punily diminishing: a dying star upon the immensity of darkness and of silence
 小説の最後のくだりである。志村正雄によれば、フォークナーは本来小説家ではなく、詩人になりたかったのだそうで、この「カルカソンヌ」という作品はフォークナーの詩への強い願望を示しているのだという。だから「丘ヲ駈ケノボリソノママ、マッスグ空ノ高ミニ疾駆」する馬は空の高みにまで駈けのぼる詩の想像力を象徴しているのだ。
 また「うず高い銀の積雲の山をのぼり、ひづめの音も響かず、ひづめの跡も残らず、ひたすら未踏の青い絶壁を目指している部分、そういう部分を除いては彼のすべてが寝ていたのだ」とフォークナーは書く。
 つまり、夢想の精神は空を疾駆しているのに、それ以外の部分、肉体や骨(最初の引用で体と訳されているのはskeletonである)はだらしなく寝ているのである。ここには荘子の「胡蝶の夢」のような不可知論はなく、精神と肉体との二元論、西欧人特有の霊肉二元論が見て取れる。
 詩的想像力は肉体の桎梏を離れたところで、自由に羽ばたくのであり、アメリカにおいてもヨーロッパ流の霊肉二元論が健在であることをここに読み取ることができるだろう。
 フォークナーの「カルカソンヌ」はゴシック的である。まずは文体において、さらにはその夢想の形態において。そして夢想の空間を中心に据えていることにおいて、そのゴシック性は極めて精神的なものであると言うことができる。