自由には、銃より新聞・・・・映画“リバティ・バランスを射った男”(2006.9.17)

2006-09-17 20:31:15 | Weblog

昨日のブログに、“自由と民主主義には、銃より新聞・・・・でもほんとうは・・・・”という “リバティ・バランスを射った男”という映画が好き、と書いてしまって、ちょっと考え込んでしまった。

私らの若い時代には、娯楽の中心は映画だった。どんな小さな町にも、2つや3つの映画館があった。ありとあらゆるジャンルの映画があった。映画は娯楽だけでなく、教養の役割、たぶん恋愛指南も果していた。
アメリカに憧れのようなものを感じていた私ども世代。西部劇、中でもジョン・フォード監督 ジョン・ウェイン主演の西部劇には、大ヒットする映画が多かった。ジョン・フォード映画の根底に、アメリカの持つ建国以来の“自由”、“自由を尊重する考え”が背景にあるといわれ、私も映画を見ながら、そう感じてきた。

この映画を見た状況を明確に覚えている。1962年夏、広島で見た。“昼下がりの決闘”との2本立て。待ち合わせの時間調整のためだった。

“リバティ・バランスを射った男”は、1961年、フォード67歳の作品。モノクロ映画。問答無用の銃の役割の大きかった“西部劇の時代(開拓の西部の時代)”が終わりに向かい、自由を尊ぶ、法律・市民の声・新聞の時代に変わりつつある頃(1910年代)の話である。

無法者の町に、銃をもたない若い弁護士(ジェームス・スチュワート)、市民の声をまとめる新聞を作っていく。無法者リバティ・バランス(リー・マービン)と、最後の最後には、銃での決闘となる。無法者の銃が火を噴く、その瞬間、無法者が倒れる。市民の皆が怖がり、嫌がっていた無法者を倒した弁護士は、もてはやされる。
30年ほどたって、上院議員になった弁護士が、その町に、西部男の葬儀に帰ってくる。そして新聞記者に、リバティ・バランスをほんとうに射ったのは、今日の葬儀の男だと語りはじめる。その西部男が、ジョン・ウェインである。ジョン・ウェインが影から射ち倒したのだ。
ここからのラスト・シーンが、私は好きなのだ。“新聞に真実をのせるのだろうね”。聞かれた新聞記者は、メモを引き裂いて、“伝説と真実が違った時には、伝説を残すべきです。ここは西部ですから”。・・・・・ジーンとくるのだ。

自由と民主主義を守るのは、銃でなく・・・・法律そして、市民の声、新聞・・・・そういう時代になった、とフォードは、言っているのだが、それらを守るためには、“やはり銃、銃が必要だ”と言っているのだろうか。
正義のため銃。それが、アメリカの伝統なのだろうか。9.11米国集中テロの後の、アメリカの動きを見ながら、そんなことを思っていた。この映画が作られた1961年は、ベトナム戦争の直前である。 そこから映画は、テーマも、描き方も大きく変わっていく。

【おまけ】
*カットの写真左は、映画館で買ったプログラム。まあ、プログラムの買えるのは、ロードショー館(封切館)、ほとんどの映画はプログラム無関係な、場末の3本立て館で見た。最初にプログラムを買ったのは、ジョン・ウェインの“アラモ”。高3の時。これは、2冊目。
*写真右は、主題歌の楽譜(スコア)。この時代、映画音楽といわれる世界があって大ヒット曲も多い。この頃、映画音楽というジャンルが、わが町(旧庄和町・現春日部市)のTSUTAYAのCD売り場にもない。
*映画の印象・記憶は、プログラムと映画音楽(サウンド・トラック)からしか持ち続けることができなかった。つまり、文学・小説の世界には、古典という分野があるが、映画には、それがなかった。今は、それがある。