大晦日にテレビを見ながら尾道の林芙美子を読む(2007.12.31)

2007-12-31 22:40:27 | Weblog

*亥(い)の年から子(ね)の年へ。旧庄和町の陶芸作家さんの作品。亥は山田さん。子は高沢さん。

私は新聞を後ろから見ます。日経の最終面(最大で48面)は、文化面です。そこにある“私の履歴書”欄をまず読みます。執筆者によって、さ~と流したり、じっくり読んだりです。12月は森光子さんの履歴書です。31日の今日が最終回です。まあ、丁寧に読んだ方でしょうか。

今日(最終回)は、文化勲章の話に続いて、こう書いて、(たぶん正確には、話して)おられました。

<“私たちの年代は戦争で青春が真っ暗になった。
戦争を知る人は、幸せの根底にあるのは平和だともっと大きな声で言うべきだといつも思っている。
平和でなければ、誰も幸せになれないのだから。>

 “放浪記”の森光子さんです。こう続きます。
<“放浪記”では、たくさんの役者さんと舞台に立った。尾道に帰った林芙美子は途方に暮れた行商人親子にご飯を食べさせる。ご飯をかきこむ女の子の初代は中山千夏さん。・・・・・「どうも有り難うありますの」。行商人の父親が言うせりふを聞くと、林芙美子役の私はいつも胸がツンとする。この一言だけで貧しい昔の暮らしがよみがえるからだ。>

林芙美子の尾道での少女時代のことを、私は、“風琴と魚の町”で読んでいます。芙美子は、ほんとに貧しい行商人の娘です。

私の育ったのは、岡山県と広島県の境あたりです。中学2年か3年、国語の女先生、たぶん教師になったばかりだったでしょう、が、宿題の私の読書感想文を照れくさいほど誉めてくれて、しばらくたった後、林芙美子と尾道のことを、放課後の教室で話してくれたのです。
尾道に行く度に、思いだしていました。

*文庫本に尾道の観光スタンプ。文庫本もって、尾道への旅。ちょっと少女趣味。この角川文庫本は、昭和39年発行、定価60円。

放浪記は読んでいません。林芙美子の“解説本”は、4,5冊読みました。
10年ぐらい前のこと。小さな庄和町にも男女共同参画というお上の政策方針が届いた頃のことです。庄和町出身の三上於兎吉、本妻・長谷川時雨、時雨が始めた<女が作る、女のための>“女人藝術”という文芸雑誌、そこに初めて登場し連載されたのが林芙美子の放浪記というつながり、なのです。このあたりは、どこかに書いたことがあります。

庄和町や春日部市で、三上於兎吉の企画展もありました。
今年の1月3日夜9時にあるNHKの正月時代劇<雪之丞変化>は、三上於兎吉の原作です。
庄和町出身といっても、お隣・杉戸町との間で、境界線の変更があって、どっちの町といっていいのか、よくわかりません。

それより私には、三上於兎吉は大流行作家なのですが、その生き方は好きではないのです。
林芙美子は、その後、長谷川時雨の<女人藝術>でデビューしたことを徹底的に消そうとした、といわれています。
その理由を解説をしているものはありませんが、私には、よくわかります。


わが愛しのカメラ・オリンパスPEN-Fの嫁入り(2007.12.30)

2007-12-30 19:29:14 | Weblog

*シリアル#166513です。取り扱い説明書もあります。

私が23か24の頃、初めて買ったカメラが、オリンパス・ペンFです。ハーフサイズの一眼レフ・カメラです。4,5日前に、修理を終え帰ってきました。

1963年春のカメラショーで初めて登場ということですから、たぶん発売は秋。私が仕事を始めたのが1964年だから、冬のボーナスで買ったのだろう。当時のカタログによると24,800円ですから、当時の私の月給より高い。

*当時のカタログによると、F1.8のレンズ付きで、24,800円、ボディだけなら、16,000円だったようだ。

それから、1971年に、ニコンF (ボディのみが48,500円)を買うことができるまでの、7年間使っていました。

山歩きに持っていくことが多かったのです。ザックに中にいれることなく、首にかけて登るにも支障がない小ささだった。私は、撮影のポリシーはシャッター・チャンスだと思っていましたから、つまり人の2倍3倍とシャッターを切っていたから、カメラがザックの中に入っていては困るのです。山を歩いている時は、普通、こ一時間、ザックを降ろすことは許されないのです。

よく使いました。ただ、私の給料で買えたカメラだった、ほんとうはニコンがほしかったのだという気持ちもあったのでしょう。
そのころ、写真はモノクロです。フィルム現像、引き伸ばし、印画紙への焼付けも自分でできました。だから写真を撮ることが好きだったのです。
1970年頃より、カラー写真が出てきて、次第に、いい写真だけプリントする時代から、写真屋で全部サービスサイズに、焼いてもらう時代になりました。

それでも、ニコンにカラーフィルムを、ペンFにモノクロ(トライX)フィルムを入れて、持ち歩いていたのです。
35ミリハーフサイズの写真は、フルサイズの写真には品質上、負けます。フルサイズカメラの小型化とともに、消えていきました。大ヒットだったオリンパス・ペン・シリーズのカメラも消えていきました。

デジタル・カメラの時代の今でも、フィルム・カメラの利用者はいます。
私の若い知人から、写真展の案内をもらって出かけ、作品にほのぼのとした思いを見ていたとき、ペンFを使っています、と聞いたのです。
前にブログに書きました。<ここです>

嬉しくなって、私のペンFを使ってもらいたくなったのです。
私のペンFを差し上げますよ、といったものの、錆びついていたのか動かなかったのです。3,4年前のことです。

ほんとに、ひょんなことから、私らバンドのステージ写真を撮ってくれていたアマチュア・カメラマンのTさんが、古いフィルム・カメラを集めたり、修理したりするのが趣味だと知ったのです。
修理を頼みました。一週間ほどで、直りましたよ、掃除もしておきました、と届けてもらったのです。

もっとも、若いカメラマンさんが、まだ、オリンパス・ペンFに愛着を持ちつづけているか、どうかはわからないのです。 どうも女性カメラマンには、結構ペンFの愛好者がいるらしいのです。もらってくれると嬉しいのですが。

  【おまけ】

*左;当時のPEN-Fのカタログ。中;4,5年後に出たTTL(露出計)のついたPEN-FTのカタログ、右;PEN-FTのガイドブック。

*その頃、アサヒカメラやkカメラ毎日といった写真雑誌の他、カメラやフィルムの技術雑誌に、写真工業があった。
左;写真工業1963年11月号<オリンパスペンF 詳報・デザイン、機構解説、テストレポート>、右1967年2月号<オリンパスペンFTの技術資料>


オスカー・ピーターソンを追悼するブログです(2007.12.28)

2007-12-28 21:17:52 | Weblog

*ロビンソン・デパートの新星堂で。

12月25日夕刊で、23日に死去したことを知りました。83歳。その後、新聞の文化面で追悼記事が続きました。

*左;日経、右;朝日(12月25日夕刊)

今日(28日)、年末年始(の暇!)に備えて、春日部市立図書館に出かけ、ついでにロビンソン・デパートのレコード屋(新星堂)をのぞきました。そこに、“オスカー・ピーターソン追悼”のメッセージがあったのです。普通なら、ずらーっと、オスカー・ピーターソンのCDが並んでいるところです。並んでいたら、1枚記念に買ったかもしれません。1枚のCDが立てかけてあるだけでした。

 *ヴァーヴレコードSMV-1006

オスカー・ピーターソン。レコード1枚を持っているだけです。
正確に覚えていませんが、1965年頃に買ったのでしょう。私が買った3枚目のジャズのレコードです。アート・ブレーキー、MJQ、そして、このオスカー・ピーターソンだったのです。その頃、超はやりのLPです。オスカー・ピーターソン・トリオ(Oscar Peterson Trio)がミュージカル映画、ウェスト・サイド・ストーリー(West Side Story)に流れた曲を演奏しています。田舎から大阪に出てきた頃(1960年代初)に、見た、酔いしれた映画<ウェスト・サイド・ストーリー>の余韻があったのです。

フォークやカントリーソングと違って、モダンジャズには、手の届かない、大人の世界、憧れのようなものがあったでしょう。梅田コマ劇場近くのジャズ喫茶“ファンキー”とか、“バンビ”にも、時々行っていました。お金がなかったから、ほんとうは、眠眠で、餃子ともやし炒め(コーテルとチャウトーヤ)の方がはるかに多かったでしょう。
しかし、その後、だんだんと、ジャズと離れていくのです。

この間(2007年10月)、春日部文化会館で、秋吉敏子さんのソロ・ピアノ・コンサートを聞いたばかりです。
50年も前に、秋吉敏子さんを見い出し、レコーディングをすすめたのが、オスカー・ピーターソンであることも知っています。1953年11月初め、オスカー・ピーターソン・トリオが、日劇で“日本人を対象に!!”演奏したときです。
秋吉敏子さん24歳、数日後、東京放送(現TBS)で録音され、米国ノーグラン・レーベルからレコードが出たのです。
そのレコード<トシコ>を、今聞くことができるのかどうかは、知りません。このあたりは、秋吉敏子さんの自伝<ジャズと生きる>岩波新書の感動的な部分です。<ここに少し書いています>

   【おまけ】

*ネットに流れるオスカー・ピーターソン

* 5,6年前のことです。庄和町に住んでおられるクラシック畑のピアニストさんをご自宅に、正風館でのコンサートのお願いにいったことがあります。私が、町のジャズ・バンドをやっていることを話したら、芸大生の頃、オスカー・ピーターソンのコンサートに感動して、楽屋に訪ねサインをもらったと、大事なレコードを見せてもらいました。
久しぶりに訪ねて、オスカー・ピーターソンのお話を伺ってみるのもいいな、と思っています。


一件一枚厳守の京大カードは、“知的生産の技術”の極意(2007.12.27)

2007-12-27 18:14:54 | Weblog

*右;知的生産の技術;岩波新書だから今でも買えるでしょう。

昨日(26日)に銀座・伊東屋にノートを買いに出かけて、“京大カード”が目に付いて買いました。このB6版のカードを、ちょこちょこと買っていて、今、不要不急のものではありませんが、京大式と書かれているのが目に入って買ったのです。原稿を書くことは少なくなったけど、京大カードは、いくらあっても邪魔になりません。

人生に、生き方に影響を与えた本、というほどではありませんが、岩波新書“知的生産の技術(梅棹忠夫/京都大学)”は、私にとって、それに近いのです。
カバーのハトロン紙がボロボロの“知的生産の技術”を出してみると、第1刷発行は69年7月21日です。私の持っている本は、70年3月30日発行の10刷です。“1970.4.19 from Kan” とペンで書き込んであります。岡山に住む次兄に“役立つよ”と、もらったのです。

まさに、私には、目から鱗の本でした。一気に読めました。その頃何度も読みました。私が思っていて、少しだけ実践していたことが書かれていました。

だいたいハウツー(How to)本が役立つことは、まずありません。<愛の手紙の書き方>、<結婚式のスピーチ>なんて、全く役立たない。それでも、お葬式のやり方、離婚の進め方、となると、私の経験と知識を越えるから・・・・、バカには、できません。

知的生産って、原稿の書き方です。ただし原稿用紙の使い方ではなく、原稿を書くことへの持っていき方です。ビジネス・レポートの書き方も同じです。当時、ベスト・セラーになったようです。

切り抜き、整理、読書、日記と記録・・・などの“やり方”です。一件一枚の厳守を説いています。新聞スクラップにしても、メモにしても、一件一枚を守るのです。学習のためには、ノートからカードへの変更を勧めたのです。カードはB6版、これが京大カードといわれたのです。
私も、B6版カードとA4レポート用紙の併用に統一しました。一件一枚は、後で、同じ内容、関連項目が出てくると探し出し、同じカードに書き込んだり貼ったりするのです。一件一枚に作っていくことが大事なのです。

*私のカードも一件一枚です。

*歩き回る旅には、カードは使い難いのでB6版のノートを使っています。

と、偉そうに言っても、お母さんは、とっくにお料理カード、ケーキのレシピ・カードで、実践済みです。

こうすることで、原稿にしても、人前でしゃべることがあっても、カードを重ねて、順番を考えれば、骨格は容易にできあがります。なんて、さらさらとは、うまくいきませんが、やってないより、はるかに効率的です。
ただ、一度作ったB6判カードやA4用紙は、貯まる一方で、捨てがたいのです。紙の山の中に暮らすことになります。私には、“捨てる技術”が必要です。

*藤本ますみさんは、京都大学人文科学研究所梅棹忠夫研究室の秘書さんだった人。84年2月6日講談社発行。実に楽しい本、研究の進め方はこちらの方が役立つ。今、入手は不可能でしょう。

パソコン、データベースの今、ツールは変わっても、30年前の、この古い本の思想は、まだ色あせないのです。

    【おまけ】

*ウチの家族アルバム。1年1冊です。

* 写真アルバムでも、同じ形式のアルバムを何年も、買い足し、増やしていきながら使っている人は多いでしょう。そして、ファイル式のファイルを加減ができるアルバムが人気です。出産祝いに“豪華アルバム”をもらっても使わないのです。

* とはいえ、10年を越えて、同じ形式のアルバムを使っていると、追加補充用紙の製造中止を宣告され、立ち往生することがでてきます。

* そもそも、デジタル・カメラ時代になって、アルバムそのものが消えつつあります。結局、過去の写真を見ること自体がなくなりそうです。アルバムは、古い友人、成長した子どもらと会話に不可欠なツールだったのですが、ここでも、親子の会話の足がかりを失うのです。


今の時代、来年の家計簿ノートは銀座にしか売っていない(2007.12.26)

2007-12-26 21:12:29 | Weblog

*ここに、わが家の10冊(10年分)の家計簿ノート

クリスマスが終わると年末です。年賀状は買うだけ買いましたが、手をつける気分ではありません。1週間ほど前から、家人が“家計簿”用のノート買わなければ、と聞いていたのです。

わが家人は、家庭を持ってから、欠かさず家計簿つけている人間国宝みたいな方です。30年以上も、B5版の統計ノートにつけているのです。
この統計ノートは、小中学生相手の文房具屋さんでは、手に入らないのです。私が、現役で東京・大手町にいた時代には、会社相手の文房具屋さんで買っていました。

旧庄和町の100円ショップにはない、春日部市の文房具屋さんのいくつかをたずねたが、ありません。たかがノートを買うのに、お取り寄せはないでしょう、と思っていたら、もう新年までには、間に合わなくなりました。

*この統計ノートがないのです。

東京まで出かけて買うしかないでしょう。
日本橋の丸善に行こうか、銀座の伊東屋に行こうか、と迷いました。どちらも、文房具売り場をぐんと縮小しています。

今日、ノートを買うためだけに、銀座に出かけたのです。
伊東屋の5階。そこは、手帳、システム・ノート、ビジネス・ダイアリーのオン・パレードでした。会社の仕事じまいも近い今日は、来年のために買いにきたお客さんで、ごったがえしていました。ノートは片隅に追いやられていました。
それでも、メーカー違いだったけど、B5版の統計ノートを3冊(3年分)を買うことができました。

ビジネスで、統計ノートを使っているような会社は、もうないでしょう。
売れないノートなんか、なくなるでしょう。なくなる前に、わが家の家計簿のコンピュータ化しなければならないようです。
まてよ、ノートを10冊、10年分も買っておけば、それ以上はいらないかもしれません。はるかに経済的です。なんでもIT化がいいということでもなさそうです。

そもそも今、家計簿なんかつけている世帯・家庭も、ほとんどないでしょう。
その昔、日本が貧しかった時代には、婦人雑誌の新年号の付録は、どの雑誌も、家計簿だったように思います。今、家計簿を付録につける婦人雑誌なんて、ないのです。いやいや婦人雑誌、そのものが廃れて、しまっているのです。
主婦と生活、主婦の友なんて、タイトルの雑誌は、誰も買わないでしょうね。

若い人の世帯の、生活の苦しさは、どうも、今も昔も同じ、という、いやな時代になってしまいました。
また、家計簿つけなければならない時代に戻りそうです。


クリスマス・ラッピングされた庄和町のEM石けんとEM石けん活動(2007.12.25)

2007-12-25 17:13:27 | Weblog

*まるで、クリスマス・プレゼントです。

先週末、土曜の夜に、私のウチでお茶会。除夜釜という茶の湯の行事を思う家人と、ちょっと早いけど、この町の蕎麦うち名人さんのお蕎麦で年越しを思う私の思いを重ねてのお茶会です。今年で2回目。

“今日は冬至だから、柚子湯でしょう”と庭から“もいで”きましたと、どさっと柚子の山を持ってきて下さったmさん。mさんは、わが庄和町で“EM石けん”で名のしれた水野知子さんです。

私と目が合ったら、何も言わないのに“持ってきましたよ・・・・・”と。
可愛いクリスマス・プレゼントのような、石けんが、どさっと。

EM石けんと、EM石けんで町の浄化をすすめる水野さんらを知ったのは、5,6年前のことです。今では、この町には、みゅーこさんをはじめ、何人もEM石けんで行動する人たちがいます。
町のコミュニティ活動の意味合いもあるようにも思えるのです。

私は、外野席の応援団です。サポーターだったのです。
が、今年ついに、わが家人と隣町に住む娘が、水野さんと横川七江さんの石けん作りの講習に参加しました。2度もです。しっかり、わが家の台所と洗面所にも進出してきました。
EM石けんは、わが家をせっけん(席捲)したのです。

身体と環境にやさしいEM石けん、です。
学校給食の残りのご飯と給食センターの廃油から作り始めた、この町のEM石けん作りも、しっかり地位を確保しているように思います。

いつもは、ちょっと色黒のEM石けんでしたが、今日のEM石けんの可愛らしさは、ラッピングだけでありませんでした。
クリーム色で、EM石けん自身が、みごとに可愛らしく仕上がっていました。

   【おまけ】
* EM石けん活動の応援団の私ですから、今日のブログはEM石けん広報に徹します。プレゼントに同封されていた冊子を貼り付けます。


 

 

   【おまけのおまけ】
*EMって何?
Effective(有用) Microorganisms(微生物群)=有用微生物群昔から世界各地にある発酵食品、例えばパンやヨーグルト、納豆、味噌、しょうゆ、酒などは微生物(こうじ菌・乳酸菌・酵母など)を利用して作られています。
このように自然界に多く存在する微生物の中には、人間を助けるものも多く、とても身近な存在といえるのです。
有用微生物とは、人間の腸内に住むビフィズス菌のように、環境を良くし、動植物の細胞を活性化する働きを持つ酵素や生成物を作り出す微生物のことで、人間や自然環境にも役立つものをいいます。
そしてもっとも重要なのは、条件を整えれば微生物同士はお互い有用な共同作業ができるということです。こうした複数の役に立つ微生物を組み合わせたものがEM(有用微生物群)なのです。
EM(有用微生物群)は、 琉球大学の比嘉教授が発見し、長年にわたって開発・研究されたものです。


大好きな角田健一さんビッグバンドが芸術祭優秀賞(2007.12.23)

2007-12-23 22:43:21 | Weblog

久しぶりに、ジャズの話をします。昨日の新聞(12月22日付け朝日新聞)の小さな記事。“石川さゆりさんが今年度芸術祭大賞”。他には誰?と見たわけではありません。あまり関係ない、興味のない話です。

ところが、角田健一ビッグバンドが目に入ったのです。大衆音楽部門で芸術祭優秀賞だったのです。
とすると話が違います。今日は、芸術祭優秀賞の、いや角田健一さんの話です。

ただ武満徹さんとなると、素晴らしい世界的な、作曲家、音楽家なんですが、聞いたり、読んだりしていません。現代音楽という、少し気高い音楽家のように思っていたのです。もっとも、意識せずに映画の音楽を聞いたりしていたかもしれません。
お亡くなりになって、たくさん称える言葉を読んだり、本の出版を知ったりしたのですが。
武満徹さんの“死んだ男の残したものは”を、反戦フォークのように歌っていたことがあります。1960年代の最後、大阪での ことです。

今年度文化庁芸術祭参加公演“角田健一ビッグバンド=もうひとつの武満徹”のチラシを、角田事務所から送ってもらっていました。
公演日10月15日が、私らスウィング・ベアーズのジョイント・コンサート“swing swing swing”の本番直前ということもあって、出かけなかったのです。今思うに残念でした。

私らスウィング・ベアーズは、来年(2008年)で結成20年になります。
10年前の結成10周年の時、5年前の結成5周年の時、2度、私らの記念行事として、角田健一ビッグバンドに、庄和町正風館に来てもらったのです。

*5年前です。
*10年前です。

夕方の角田健一ビッグバンド・コンサートをメインに、お昼過ぎから、スウィング・ベアーズの指導してもらい。町のふたつの中学校吹奏楽部と一般のジャズ好きの皆さんに集まってもらって、角田バンドのメンバーに楽器別のクリニックをやってもらいました。無料クリニック付コンサート、楽器をもって集ろうコンサートをだったのです。
町の中学生吹奏楽部員の完全招待も実現できたし、スウィング・ベアーズとしては、楽しく充実した企画実現になったのです。

一回目の時、コンサートの一番初めに、角田さんの作曲の、武満徹に捧ぐ(for Takemitsu)の演奏がありました。私は、踊るようなスウィング・ジャズを楽しみにしていて、静かな、いかにも武満徹らしい曲で、“私らにはできないな”と思ったのです。
この曲は、CD“サバンナ”に入っています。

角田さんは、“ビッグバンドを永遠に”を合言葉に、私らアマチュア・バンドにとてもやさしい人です。私らの周辺には、“おっかけおじさん”が何人もいます。私らのバンドも、角田さん編曲のジャズのスタンダードナンバーをよく演奏します。

さあ、新年は、スウィング・ベアーズ結成20年の年。
20年記念のコンサートをやるとして、地域の皆さんに喜んでもらえる“何か”を考えよう。角田健一ビッグバンドに来てもらうのもいいなあ。

  【おまけ】

*いっとき、暮れには、新宿ピット・インで、角田健一ビッグバンドの年忘れコンサートに出かけていました。年末を、ベートーベンの第九<歓喜の歌>で締めくくっていたのです。

*この頃やってないみたいです。一番近い、ピットインへの出演は、1月22日です。ホームページに、<ここです> 公演日程があります。

*芸術祭優秀賞記念公演“スイングから武満徹まで” の予定が決まっているようです。6月15日(日)紀尾井ホールです。


春日部・葛飾中学グランドで大鍋会、心あたたかく冬休みに(2007.12.21)

2007-12-21 18:59:15 | Weblog

地域の小・中学校は、今日(21日)が2学期の終了式です。葛飾中学では、恒例の大鍋会トン汁で生徒たちが、暖かい気持ちで冬休みに入っていきました。

大鍋会の模様を、カメラ・レポートします。今日のブログ最後にある、生徒たちが空き缶回収で、正風館に車椅子を贈ったという、読売新聞の小さな記事もお見逃しなく。なんと、5台目の車椅子なのです。

この大鍋会は、7年前に始まりました。準備の主役は、もちろんPTAのお母さんです。
ちょっと来ませんかとPTAさんに誘われて、私が顔を出したのは、9時30分。
校庭には、大きな鍋が3つ、ぐらぐらと豚汁が出来上がり中でした。調理された野菜をドドッと入れます。畑の野菜を提供して下さるオウチもあるらしい。旧庄和町のこの学区は農家がたくさんあります。20人ほどのお母さん、てなれています。てきぱきです。1000人分、豚汁なんて軽く出来あがります。
やってるお母さんたちも楽しそうです。喜んで食べる子どもたちの顔をよく知っているからでしょう。

*生徒たちを待つ間に、ちょっと並んで。

2学期の終了式を終えた生徒たちは、帰り支度して出てきます。10時40分頃です。

*空は晴れ渡り、暖かな日です。

*配置について、生徒たちを待ちます。

*手伝ってくれる生徒たちも。

*女子生徒も。

*男子生徒も。

*2杯3杯、ある限り食べよう。

*開始後1時間でカラッポに。11時30分頃です。さあ、冬休みです。

  【おまけ】

*読売新聞12月21日付け朝刊。

 


私も自作の真空管アンプでレコードを聴いてはいたのですが(2007.12.19)

2007-12-20 13:02:19 | Weblog

*ほこりまみれの私のアンプ、鳴るかなあ。

昨日(18日)の午後ずっと、オーディオ・マニアさんのオウチにいました。
私らのジャズ・コンサート(Swing Swing Swing<ここにも>)をお聞きになって電話いただいていたのです。隣町の関宿にお住まいで、すっと行けば20分ぐらいでしょうか。江戸川を渡って利根川近くです。

オーディオ・ルームにお邪魔したとたんに、こりゃあすごい、声も出ません。
予想はしていたのですが、私のラジオ歴なんて話す状況ではありません。

*いい音、楽しいお話、珈琲、ありがとうございました。

私は、中学時代からラジオ少年でもあったのですが、その後は買えないから作っていました。買えるようになったら、買える程度のものを買っていたのです。
今日訪ねたOさんは、メーカーが作れない音の再生実現を目指して、自作を今日まで続けられたのです。いうならば、メーカー以上の技術のようです。

もう恥ずかしくていえませんが、私も、真空管でアンプを作って聞いていました。
“三極管だぞ、2A3だぞ”と、ひとりほくそ笑んでいたこともありました。私が使っているギターアンプも、フェンダー製で、初段は真空管のものを選んでいます。とはいっても、真空管の音色(おんしょく)がほんとにわかっているかというと、どうでしょうか。

*この美しさに思いを感じます。

ここでOさんのオーディを機器についての解説はできません。もう専門誌・MJ誌(私らの時代は、無線と実験と言っていた)などで紹介されたことのあるラインアップです。それに、ずっとCDを聴かせていただいていたのですが、その“音”を文字にすることも出来ません。ただただ息を呑む迫力と見事さでした。

帰りの夜道で、わが家で植木鉢の台になっているスピーカーを鳴らしてみようと思いました。まだ耳に余韻が残っているうちにです。先ほど、とりあえず、メインアンプを出してみました。この町に引っ越してきたときには、並べていましたが、25年間は“火”を入れていないのです。コンデンサーの容量も抜けているでしょう。直し始めたらボロボロでしょう。

と書いてきて、私の使っているギターアンプも、もう20年使っているなと思いました。
コンサート、本番の時には、予備の真空管を持っていかなけれなならなかったのです。スペアなんてあったかなあ。

    【おまけ】

*次から次に出てくるオーディオ雑誌などなど。正直落ち込みながらも楽しい一日でした。

*一関のジャズ喫茶ベーシーは、全国的に評判のジャズを聞かせる店です。10回以上も出かけられ、マスターともねんごろとのお話も聞きました。一度ジャズ喫茶ベーシーに行ってみたいと書いた私のブログのURLを、ここに書く気もおきないのです。


そろそろ浦和レッズのファンになるかなあ(2007.12.18)

2007-12-18 20:21:58 | Weblog

昨日今日と、浦和(今は、さいたま市)でセミナーがあって、わが町から通いました。久しぶりの通勤感覚が新鮮でした。セミナーは、2日間みっちり、私の今後の生き方に直接関わるものなのです。黙って聞いてきました。

夕暮れの浦和駅前ロータリーで、イルミネーションに気がつきました。
<ああ、ここは、レッズの浦和だ>と思ったのです。この頃テレビで熱狂的な応援をみせられていたので、<ここが浦和か>と、ある種の感動だったのです。

私は、30年も埼玉県に住んでいますが、埼玉県の一番大きな市、県庁所在地である浦和市に行ったことがないのです。これはウソです。3回ぐらいは行きました。でも、考えてみれば、これも不思議なことです。

私は、岡山県の郡部で育ちましたが、都会・中央に行くのは、県庁所在地である岡山市でした。小学校の日帰り旅行も、見学する新聞社や放送局のある、あるいは岡山城のある岡山市だったのです。

浦和に何の用事もないのです。パスポートの申請は大宮だった(今は春日部でOKです)。埼玉県は東京から放射状に広がる三本の、鉄道あるいは道路沿いに活動圏が限定されるといっていいでしょう。東京で勤務する県民(埼玉都民)には、特にそうなのです。
このことには、首都圏の一員である埼玉県の課題が含まれているのかも知れません。県下が一体となる感覚はないでしょう。国体の埼玉県選手を地元の代表とは、そんなに思わないでしょう。

私の住む、埼玉県の東の端(旧庄和町、現春日部市)は、千葉県の県境近くです。この地に住み始めた頃、役場の職員が“このあたりには県の施設が何にもないのです”と言ったことを今でもよく覚えています。県庁所在地の浦和からみれば、僻地なのです。

人生をリセットして、東京に縁が薄くなると、急に埼玉県民であることを意識することが多くなってきました。埼玉県****という行事に参加することが多くなったのです。それに、通勤定期券がなくなって、東京・新宿あたりに飲みに行くのも、いったん大宮に出て行くようになりました。

さて、サッカーJリーグは、柏レイソルズを応援してきました。といっても、車で30分の柏市の“柏の葉スタジアム”に応援にいくほどのことはありません。千葉県の県庁所在地の距離から、県民がこぞって、レイソルズを応援する環境にはありません。柏市も、千葉市からみれば千葉県の僻地なのです。

近ごろ、私に、隣の越谷市に住む知人も増えました。彼らは熱狂的なレッズ・ファンです。“埼玉スタジアム”が越谷市から近く、毎試合でかけることも容易なのです。さらに、私が読んでいる朝日新聞は、レッズも記事が大きく、定期的なレッズ広報の折込広告があって、応援バスの情報も手近なのです。

来シーズンから、浦和レッズのファンに変わろうかと、思っているのです。

 【おまけ】

*ついでに、私の長兄が三菱重工につとめていた関係から、Jリーグになる前には、三菱・ダイアモンズの応援にいったことがあります。三菱のマークが、スリー・ダイアモンドと呼ばれていた頃の話です。
だから、わたしゃ、昔から浦和レッズの縁者だった、と新年から言うことにしよう。


月に一度の団地掃除だから、エリック・クラプトン(2007.12.16)

2007-12-16 18:02:06 | Weblog

*朝日新聞12月2日15面

第3日曜は、ウチの団地の掃除とリサイクルの日です。だから私は、夕べから新聞のスクラップをしていました。その中に、全面広告のでっかいセピア色の渋いエリック・クラプトンがあったのです。
朝日新聞12月2日15面です。 「ライフタイム・ベスト」というタイトルのCD(3480円)、2007年12月5日発売の広告です。
CDの発売に、朝日に(たぶん他の新聞にも)カラー全面広告をうつなんて、凄いなあ。原盤のタイトルは、コンプリート クラプトン(Complete Clapton)のようです。

*日本盤は、WPCR-12775/76

 その男の人生は、
  ある日、彼はギターを手にした。
  ある日、彼は伝説となるバンドを組んだ。
  ある日、彼は愛息を失った。
  ある日、彼はアルコール依存症になった。
  ある日、彼は音楽を再びはじめた。
  ある日、彼はギターの神様と呼ばれるようになった。

    ・・・・以上、宣伝文のまる写しの手抜きブログです。

たまたま、2,3日前に、知人のmixi上で、エリック・クラプトンの“ティアーズ・イン・ヘヴン(息子の不慮の死を悲しんだ)”と“いとしのレイラ(ジョージ・ハリスンの奥さんが好きになった)”の話をしたばかりだったのです。

WEB<ここです>に入って、久しぶりに聞いてみました。ほんのさわりです。
私は、英国・クリーム時代はよく知らないのです。アメリカに来てから、ボブ・ディランの周辺にあらわれるようになってから聞くようになったのです。だから今日も、WEBの中では、まずディランの“天国の扉”を聞きました。

*これは、RSOレコードの18MW 0045  です。

クラプトンのレコードで一番初めに買ったのは、これ<バックレス>です。ディランの線から買ったのです。1978年です。

ギターの神様とは、たぶん誰も言っていないでしょう。
私も人前でギターを持つことがあるので、“好きなギタリストはだれですか?”と聞かれることがあります。ごくまれに、です。めんどくさいから“エリック・クラプトン”ということがあります”。若い人でも、私と同世代でも、会話が続いていきます。
だからギターの神様かもしれません。
私が、ほんとうに好きなのは、<ここに書いています>

 【おまけ】

*午前8時30分ごろです。

*これでお正月が迎えられます。もうお正月です。また1年たってしまいました。


沢野ひとしさんの小さな絵を買って、しんみり(2007.12.15)

2007-12-15 11:43:15 | Weblog

*わかる・・・のです、この絵。

12月になったばかりの頃、飲み会に東京に出かけた日に、時間があったので青山の画廊に寄って買ってしまったのです。昨日(13日)、宅急便で送られてきました。

*スペースユイ(南青山)で。

もう5,6年前、まだまだ元気だった頃に、買おうとして出かけて、全部売れていたことがあったのです。この日は初日です。リベンジみたいな気持ちがありました。もうちょっと大きな、しっかり描きこんであるのが欲しかったのですが、初日の夕方なのに、おおかた売れていました。

ぽつんとひとつだけのテント、わかるのです。私は好きなのですが、他の人にはどうでしょうか。
沢野ひとしさんは同世代です。同じ時代を生きてくると、気持ちの重なるものを感じます。
私は、どうも単行本では1980年代中ごろから読み出しているようですから、24、5年の間、付き合ってきたことになります。むろん本の上だけの話です。

お茶ノ水駅の西口(水道橋口)すぐに、茗渓堂という本屋さんがありました。
私が通っていた頃は、1階が一般書、2階が芸術・文化、そして3階が山岳書でした。3階によく行きました。外国遠征隊の報告書、大学山岳部の遭難報告書もありました。私には関係なかったのですが外国版の山のガイドブックもありました。山の絵も売っていて、とても感じのいいご夫婦がレジに座っておられました。
1階には、椎名誠さんらグループの本が平積みされているコーナーがあって、沢野ひろしさんの本もあったのです。タイミングよくいけば、サイン本がありました。
茗渓堂のブックカバーやしおりは、沢野ひろしさんが描いたものです。

*たまたま、あったサイン本です。

いつ頃からか、1階がギター屋、しかも、その中を通って3階に上がっていくときに、極めてよくない雰囲気を感じるギター屋さんになってしまいました。お茶の水のギター屋めぐりも好きなのですが、ここは入る気がしません。
いい本屋さん・茗渓堂さんも持ちこたえられなかったのでしょう。今、2階、3階の茗渓堂はないかもしれません。

沢野ひさしさんは、もともと椎名誠さんの友人でエッセイのカットを描いていた人のようです。椎名誠さんの大人気には比べようもありませんが、私も、けっこう読んでいるのです。むろん出版されている全部ではありません。
まあ好みの問題ですが、持っている椎名誠さんの著作は、3冊ぐらいでしょうか。

沢野ひさしさんが書かれたものは、読んでいて気持ちがやすらぐのです。優しい気持ちになれるのです。それでいて、なんにも心に残らないのです。
この時代、ラッシュの通勤電車の中での、“辛い(!)会社勤めの癒し”に、読んでいたのでしょう。
山に登る、ヒマラヤに行きたいと思い続け、出かける。カントリー・バンドでスチール・ギターを弾く。思考が似ているからかもしれません。

*初めは、山の画文集です。

左は、東京ラブシック・ブルース。沢野ひさしさんは、ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズにいました。日本の第一線のカントリー・ウェスタン(C&W)バンドです。このバンドには、いかりや長介(ベース)、寺内たけし(ギター)もいました。腰巻にこう書いてあるのです。
<懐かしの60年代を舞台に、少年の夢と挫折、そして恋と旅立ちを描いた長編青春小説>、<高校を中退したぼくは、カントリー音楽の世界へ飛び込んだ。ぼくの楽器はスティール・ギター。米軍キャンプ、ライブハウス、そしてナッシュビルへーーー>1994年12月、マガジンハウス。

右は、哀しい人。腰巻の宣伝文は、“もう、僕は若くないない”だけなのです。1996年10月、本の雑誌社。
もう、僕は若くないのです。

  【おまけ】

*私は、本屋がつけてくれるカバーは、帰りの電車の中ではずしてしまいます。最近は、いりませんといいます。長いこと、カバーをつけっぱなしの本もないわけではありません。よほど大事にしたいか、タイトルを知られたくないかのどちらかです。

*“帰らぬ日々(角川書店)

この本は、どちらでしょう。腰巻にある、大きな“父の愛人”の活字のせいでしょう。
<きっと誰かが傷つく。でも誰も傷つけたくない。私はみんなが幸せになる方法をさがす。自分が傷ついていることも知らずに・・・・>、<さまざまな恋、家族、大人へと移りゆく少女のみずみずしい視点で描く長編恋愛小説>
発行は、平成11年7月となっています。8年前のことになってしまった。


若かったらバイオミミクリ(生物に学ぶ技術)の研究をやりたい(2007.12.14)

2007-12-14 19:20:34 | Weblog

*図の引用は、Time&Space 2007.12 から。

先日、KDDIの広報誌(Time&Space 2007.12)が送られてきました。
表紙に、特集バイオミミクリ(Biomimicry)とあったのです。この頃、日々ぼーっ、と過ごしていると、カタカナ語があふれていて、わけのわからないことが多いのです。
バイオミミクリは、何のことか、わからなかったのです。

<数億年、数十億年という進化を経てきた生物には、私たちには、思いもよらない優れた能力を持つものが数多く存在する>
<その秘密を探り、ヒントにしようとする「バイオミミクリ」は、これまでにない技術を生み出すのみならず、自然とより調和する技術をも志向している>、
と書いてありました。
わかったような、わからないような。でも、自然とより調和する技術という、響きがいい感じです。

「生物に学ぶ」技術なのです。生物の形や行動に学ぶというのです。
ここで、信州の虫好きの知人を思い出すのです。子どものころから、山野で虫とあそんできた知人です。虫の動きから、新技術の着想をえるなんて、ぴったりの話なのです。
古くは、芋虫の動きが、キャタピラを生んだように、生物から学んだ技術は、たくさんあったでしょう。

*MITが開発した6本足走行ロボット

今、ミクロの世界で生物の謎が研究されて、生物のもつ“ハイテク”を応用しようとするのです。
ヤモリの足先が、10億個の毛先(接触点)を持つことの観察から、万能接着テープの研究がされ、南米アマゾン川流域の、生きた宝石“モルフォ蝶”の発色を再現した繊維「モルフォテックス」ができました、などなど、たくさん実例があるようです。

 *ヤモリロボットの足(指の面積は431μ㎡)

*モルフォ蝶とモルフォテックス

そこにいる虫、昆虫や生物を観察することで、生物の持つ神の仕業としか思えない技術を、人間世界で使おうとするのです。現代の最先端技術世界なのです。

生物の観察は、小学校の理科の世界です。理科の時間と同じでしょう。
なんか痛快と思うのです。小学校からやり直したら、私にでもできそうに思うのです。

  【おまけ】
*水玉(露)ができる紙皿

2,3ヶ月前に、息子(下の息子)が、紙のお皿を持ち帰ってきました。“おもしろいよ”というのです。お皿に水をたらすと、水玉になるのです。確かに不思議です。
<超撥水(はっすい)皿>と書いてあります。息子は、水玉からアートを感じ、あるいはアート作品を創造させよう、あるいは、どこかで見てきたようでした。
特殊な塗料が塗ってあるのだろうと思っていましたが、ナノ技術で特殊加工していると書いてありました。これも“バイオミミクリ”だったのです。

 【おまけのおまけ】
*ハスの葉の水玉

*ハスの葉の上をコロコロ転がる水滴。なぜハスの葉があんなにも水を弾くのだろうか。本当の理由は長くわかっていなかったのです。電子顕微鏡で見ると、ハスの葉の表面には、数μm(1μm=100万分の1m)の突起が多数あって、その突起の表面により小さな突起で覆われています。葉のナノメートルの突起が、ハスの葉の撥水性の原因だったのです。葉は滑らかな表面ではなかったのです。微小な突起の間にある微小な突起の間にある空気のために、水は葉の上に軽く乗った状態になるため、コロコロと転がり落ちてしまうのです。

*生物を模倣するという意味で、
バイオミメテイックス(Biomimetics)、バイオミミクリ(Biomimicry)
*生物をヒントにするという意味で、
バイオインスパイアード(Bioinspireed)

 


息子のハワイ・マラソンは2度目だから30分短縮でも静かに(2007.12.13)

2007-12-13 12:52:32 | Weblog

その昔のアジビラ調で、ブログを書いたら、アクセス数がグーンとあがりました。きっと<このブログ認知>も増えたでしょう。
もういいでしょう。上書きします。元のファジイな、どうでもいいブログに戻します。

昨夜(12月12日)、息子が、ホノルル・マラソンに出走(競馬用語?)して帰ってきました。風邪ひいたといって、お茶漬け食べて、お風呂に入って、何もしゃべらず、すぐに寝ました。今朝は、定時に出社です。

デジカメには、わずか10カットほどの写真がありました。ブログのカットに使えそうな美しいワイキキの浜辺の写真はありません。スタート前に、ビニールのコートを着ている写真があります。雨のレースになったらしい。

置いていったパンフレットなどの入った袋(レース前に衣類を入れて預かってもらう袋)の中に“FINISHER”(完走証)があった、完走はしたらしい。
3時間56分41秒。初めてフルマラソンを走った昨年より、30分短縮している。たぶん、4時間切ることを目標にしていたのでしょう。

総参加数2万693人中、1360位です。25~29歳男性、1130人中、115位です。
(来年3時間30分で走れば、471位です、と親ばかが始まります。日曜ランナーの目標、サブ・スリー(3時間をきれば)なら、89位です)

国内のレースに出ているわけじゃありませんから、まさに“ただの観光マラソン・ランナー”です。
こういう行き方も悪くない、世界中の国々の観光マラソンに出ようなんてのも、買い物、物見遊山より若者らしくていい、と思っています。 といいながら、以前どこかに、若い時代の世界中の物見遊山こそ大切とかいたことがあります。

高校では、陸上競技部だったようですが、インターハイ級だったわけじゃありません。
(私もそうです。広島県は、県体でなく総体といっていましたが、5000mに出ました。インターハイ出場は、ひとりだけです。代表者はインターハイ本大会でも優勝しました。何しろ当時は“駅伝の広島県”です。彼の名前は忘れません。私のタイムも覚えていますが、恥ずかしくて書けません)

ホノルル・マラソンも2回目となると、本人も私もさめています、もう普通です。
昨年は、たくさん書きましたが<ここ12月15日>とか<ここ12月20日>、今年は、もうネタ切れです。
すべてのランナーの写真を撮って、ネットで売るサービスがありますが、レース終了後72時間後に開始され、まだ、今日は使えません。

 【おまけ】

*レース前の無料(?)のミールのようです。成田を、土曜の夜6時50分にたって、ホノルルに現地土曜朝6時30分着。6時間の飛行機で寝たらいけません。土曜、午前中ブラブラしていて、3時にホテルチェックイン。そろそろ眠いはずです。深夜、(日曜)2時頃に起きて、食べて、5時スタートです。8時30分には、ゴールで、おしまいです。

*それから、日曜、月曜と、自由行動。現地火曜のお昼12時45分にたって、帰りは9時間20分かかります。成田に着くと、日本の水曜夕方5時5分です。映画でもみていると、眠いはずです。

*今年も、ただのメタルのメダル。走りきらなければもらえません。

*おみやげは、定番です。ナッツと、ハワイ<コナ>のコーヒーです。おみやげを考えたり、探したりすることもないでしょう。


春日部市立図書館の廃棄本を旧庄和町民に。庄和をなめたらあかんぞ(2007.12.11)

2007-12-11 18:53:50 | Weblog

*誰もが期待してしまうポスターです(庄和総合支所)

私の住む旧庄和町は、埼玉県で数少ない図書館のない町でした。図書館もなくて文化を語る町にはなれません。
町民にも行政にも悲願でした。節約してお金をためてきました。ようやく2億円たまりました。そこにきて、2年前、春日部市との合併です。持参金的に2億円をさしだして、合併時に図書館が作るとの約束ができました。ただし、私ら末端町民には、<らしい>としかいえません。

合併後、図書館=2億円の話が立ち消えそうになりました。旧庄和町の前・元教育長、教育委員長さんら、町内のえらいさんたちが発起人になって、図書館早期実現の署名活動がはじまったのです。しもじもが起した署名活動とは、わけが違うのです。<去年、ここに書いています>

議会請願・受理はされました。・・・・・・・その後、またまたその話は静かに消え入りそうなのです。図書館の候補場所であった、旧庄和町役場(現庄和総合支所)の新しい跡地(?)利用も聞こえてきます。
やはり、あかんのだなあ・・・・もう町民の誰もそう思いはじめていました。だまされたのかなあ。

11月28日に、私のブログに、コメントがまいこんできました。
<近々、総合支所にブックサロンなるスペースができます。図書館設置への布石でしょうか。>、ごくたまに、コメント下さる(い)さんからです。役所のことをよく知っている知人です。
私は返信しました。<―――だから、ブックサロンの話があるとすれば、図書館設置の布石でなくて、町民の反撃をかわすためかなあ~>
跡地(?)利用の具体案がいくつか聞こえていたのです。そもそも図書館を作る気持ちはなさそうだし、2億円のことがあるから、かっこだけでも図書コーナーでも作るのだろうか、と思ったのです。

それでも、わたしゃ、根が善人です。本好きです。読書サロンに期待してしまったのです。

<緑豊かな庄和総合公園を望む快適な環境で、本を読んだり勉強をしながら、ゆったりとした時間を過ごしてみませんか?>

12月3日仮オープンから一週間たった、今日12月11日にでかけました。 ひどいもんでした。あきれました。これが行政かと思いました。
いかに1月4日オープン前の試験的な開放とはいえ、チラシをだして、看板だして、町民によびかけるには、いかにもお粗末でした。 できないなら、やらなけりゃいいのです。
子どもづれの若いお母さんが来ていました。二度とこないでしょう。

*すべてに廃棄本(リサイクル本)のシール

*5年前のガイドブックを読ませるのか。

怒りがおさまらないのは、そこに並んでいる本を見たときでした。
こりゃ古本以下だ、と思ったのです。めくってみると、リサイクル本のワッペンが貼ってあるのです。全部そうなのです。春日部市立図書館の廃棄本を、こちらに持ってきたのです。 春日部の中央では、ご自由にお持ち帰り下さい、としている本です。司書さんが価値がないと判断したから廃棄するのでしょう。

旧庄和町民をバカにする姿勢です。春日部“本”市職員が、旧庄和町関係者を見下す話はよく聞いていましたが、なるほど、これは、ひどい。これほどひどい仕打ちはありません。職員の中で、誰もおかしいと思わなかったのか、言えなかったのだろうか。

本棚を蹴飛ばしたい心境でした。ぶつけるにも職員は誰もいません。
署名請願を無視するより、まだひどいと思うのです。
旧庄和町民は、反旗を翻そうではありませんか。

 【おまけ】



* こう書きながら、持ち帰ったチラシを読んでみると、<中央図書館のリサイクル本を配架しますので>とちゃんと書いてあるのです。余計にひどい。1月4日の正式稼動時には、よくなるだろうという希望も消えました。

* どうして春日部中央図書館は、ほんの一部でも出せないのだろう。いらない、捨てる本を“庄和町”に押し付けて、議会で、<庄和地区の皆さんにも読書の機会を作りました>と答弁されるのだろうな。
どうせ、そのうち他のことに使われるのなら、2億円取り戻して、本を買おうじゃないですか。

* <緑豊かな庄和総合公園を望む快適な環境で、本を読んだり勉強をしながら、ゆったりとした時間を過ごしてみませんか?>、いったい誰が、こんな文を書いたのだろう。どの本を読めというのだろうか。よくこんな文章が書けるなあ、職員として、はずかしくないのだろうか。図書館なんて、いったことがない職員さんでしょうね。