越後妻有アートトリエンナーレ、次回は出展しよう。

2006-08-30 14:22:10 | Weblog

<写真1>

一週間ほど前(8月21,22日)、越後妻有アートトリエンナーレつまり越後妻有・大地ノ芸術祭・三年大祭(2000年から3年毎に開催。ことしで3回目)に行ってきました。7月23日~9月10日が開催期間です。早くから、行こう行こうと思いながら、やっとこさ、行ってきました。ものすごい数のモダン・アートの屋内外展開ということで、インターネットで調べても、どこへ行って、どんな風にまわったらいいのか。はっきりしないままに、息子の運転で愛車“Honda Airwave”は、上信越ハイウェイを走っていました。

ともかく、大元の事務局(総合案内)がありそうな十日町の“越後妻有交流館キナーレ”に行く。ここで、パスポート(3500円)を購入する。ガイドマップ(100円)を見ても、市役所から派遣されている職員と話しても、どこにいくべきなのかの問題は解決しない。3つか4つの市町村にわたって、360のアートが点在するのだ。

お昼に、名物“へぎそば”(小嶋屋総本店)を食べる。おそばについていた、“あさつき”という植物(!)の苦味と合わせて美味だった。ともかく、新聞やNHKで紹介されたものを訪ねてみよう。

 <写真2>

まず、川西地区のナカゴ・グリーンパークへ。作品109“グリーンヴィラ”(たほ りつこ)で、火・水・農・藝・天神の象形文字を刻印した地上絵が美しい空間を作っている(写真2)。

作品111“光の館”(ジェームス・タレル)は、宿泊可能なアート。ただし、いつも予約でいっぱいらしい。就寝することになるお座敷の天井から空を見上げて、幻想的な光空間に身をおくことになるんだそうだ。10人ぐらいで貸切宿泊したい。お風呂もある。自炊もできる。

近くの節黒城跡キャンプ場にある3つのコテージも2000年出展のアート作品。宿泊も可能だ。むし暑い、草いきれの中を上り下りして、小川のあたりに出る。そこで涼しいオアシスのような作品112“越後妻有レインボー・ハット(関口恒男)に出合う。作者としばし立ち話。アフリカ、インドを放浪し、ワラ小屋空間のイメージができた。周辺の浅い水中にカガミを置き、反射が虹の光となって、さしこむ。涼しい風が吹き込む作品。

<写真3>

田んぼの中の農協(ライスセンター)にある、作品“アース・ライス/大地の米”(塩澤徳子)は、テレビで紹介された。お米で作った立体世界地図だ。お米の色あいが真実の世界の色を感じさせてくれる。どうしてだろう(写真3)。

それから信濃川の対岸に渡って、車を山中に入れる。山田舎の細道をぐんぐん登っていって、ある古い民家がアートに改装されていた。名前はうぶすなの家(写真4)。陶芸グループの展示が3つ4つ。モダンな茶室も作られていた。

<写真4>

<写真5>

1日目の終わりに十日町の町中に戻る。あるお宮の境内に、作品82“妻有の家”(レアンドロ・エルリッヒ)があった。はしゃぐ子どもたちも一緒にする、じつに愉快な作品(写真5)。

宿泊は、松之山温泉“ひなの宿・千歳”。どっぷりと温泉の一夜。

翌、早朝散歩をかねて、宿から30分かけて上り、作品322“夢の家”(マリーナ・アブラモヴィッチ)へ。ここもまた、廃屋アート作品。宿泊も可能。その日も宿泊中で、周りを歩く。外から見るだけなら、どこにでもある廃屋だ。

<写真6>

さらに、雨模様の中をかなり走らせて、松代の西の端の山中に、作品289“脱皮する家”(日本大学芸術学部彫刻コース有志)。20日のNHK日曜美術館で紹介されて、家人が一番関心を寄せていた作品。廃屋の床板・柱・棟木・・・・あらゆる所を、彫刻刀で、彫っているのである。みんな同じ方向に。その結果、家全体が不思議な雰囲気を生んでいるのだ。指導した鞍掛純一さんと立ち話。“出来上がった結果は予想・着想どおりでしたか?”と私。“そうですよ”と、鞍掛さん。そうならば、すごい。アーチストなんだな、と思った(写真6)。

このあたりは、どこを見ても棚田、棚田。棚田の撮影ポイントという看板もあった。小雨で深い緑の棚田の中に、作品288“風のスクリーン”(杉浦康益)はあった。棚田の風景によくマッチしていた。

ホクホク線まつだい駅前には、作品251“花咲ける妻有”(草間彌生)。草間さんのいつもの水玉の巨大な花。豪雪の中にたくましく咲き続ける花だそうだ。駅前には、“まつだい雪国農耕文化村センター(農舞台)”があって、センターの内外に、数多くの作品がある。そこで食事をしながら、ガラス越しに、作品249“棚田”(イリア&エミリア・カバコフ)を見る(写真7)。

<写真7>

もういいか、帰ろう、と思いながらも、テレビ紹介されたブランコの家に行きたいと、今度は北へ。確かに、過疎になっていくのだろうなと思わせる山の中に、どんどん入っていく。作品216“TIRAMI SU3持ち上げてー行ったり来たり”(マーリア・ヴィルッカラ)。私らが育った岡山県後月郡の田舎の家と同じ。何にもしないのに、それがアート。作品217“BankART妻有”(MIKAN+BankART1929)は、庭に湯をためて、若者の遊び。 

これが、ほんとに最後。私が行きたいと思っていた作品58“こころの花―あの頃へ”(菊池歩)。里山をしばらく歩き、突然、緑の下草に、むらさきや白の小さなはなの群生。里びとたちも協力して作ったビーズの花だ。雨上がりのしっとりした雰囲気の作品だった(写真1、8)。

<写真8>

パスポートの裏に、押したスタンプは、1泊2日で34個。全展示の1/10にすぎない。それでも、いい気持ちが残った。これを企画・運営している地域の人たちの心意気に感動する。市町村合併もあって、よくわからないが、その地の行政と職員のモチベーションの高さに敬意を表したい。そして、見てまわるより、やはり出展参加することにこそ意味がある。若いアーティストにそう思わせるイベントのように思った。

次回までに、3年あるからやってみないか、と声をかけてみようと思っていた。


冥王星発見のローウェル天文台

2006-08-26 13:37:21 | Weblog

太陽系惑星9個の中から、冥王星をはずすことになったと、新聞やテレビの報道がにぎやかです。

氷の塊で、同じような星は、無数にありそうだ、という最近研究から、惑星の定義を整えた結果、削除されたらしい。

ちょっとだけ天文少年だった私が寂しさを感ずるのは、冥王星の発見につながる天文台、アメリカ・アリゾナ州フラッグスタッフにある“ローウェル天文台”に少し思いいれあるからです。4年前に、大学生だった私の息子が、ユースホステルとグレイハウンド・バスでアメリカ横断すなわち貧乏旅行の計画をしたおり、グランド・キャニオン近くのフラッグスタッフには、冥王星発見のローウェル天文台があるよ、と話し、息子が見学してきたのです。2002年8月22日のことです。

正直に言って今日まで、この天文台を作ったローウェル(Percival Lowell)さんが、発見したと思っていたのだが、公式には、この天文台の研究者Clyde Tombaugh (クライド・トンバー)さんの発見だった。息子のおみやげの、天文台説明資料や絵はがき(トップ写真)を読み返してみると、最初の名前は、Percival Lowell’s hypothesized planet X。後に、Pluto (プルート)と名付けられた。1930年2月18日に、冥王星の光が、ここの13インチ望遠鏡(トップ写真)をとおして、写真乾板に焼き付けられたという。昭和5年、36年前の発見である。

ローウェルさんは、アメリカ名家の人で、外交官、数学者、作家、天文学者の顔をもち、明治時代の中ごろには、外交官として、日本に駐在し、日本の神道や占いに興味を持って“極東の魂”などの本を書いている。日本においても、火星を観測スケッチし、火星には運河があると発表した人でもある。そして、1894年(明治27年)、私財を投げ打って天文台を作り、ゆうゆうと、天をみて生きた人なのです。

今日の朝日新聞・天声人語によると、日本語で、冥王星と名付けた人は、野尻抱影さん。辞書をひいてみると、“冥”は、くらい、光がない、目にみえないもの、神仏の作用などと、出てくる。冥土の旅の、“冥”である。とすると、ちょっと印象がよくない。

冥王星は、太陽のまわりを、248年197日5.5時間かけて一周する。だから、発見されてから、まだ一周もしていないのだ。

今年1月に米国によって打ち上げられた“冥王星探査機(ニューホライゾン)”が、冥王星に接近するのは、9年後だそうだ。接近のその日にも、冥にいかずに、ブログに、この星のことを書きたい。


富士山に登って見えるもの

2006-08-25 19:38:04 | Weblog

富士山、行ってきました。
途中、高山病大変だったけど、なんとかみんな頂上までたどり着きました。

不思議な話、ホントに手足がしびれて動けなかったんだけど、
その場で御来光を見たとたん元気になって、いっきに頂上まで行けました。
やっぱり人間、日の光を浴びなきゃ、ですね。

金剛杖ありがとう。大いに助かりました。焼き印増えたよ。

写真貼付します。
頂上の一番高いところでまで行きました。
5人で行って、ここまで来たのは2人だけ。
そこから見た空です。湖みたいに見える不思議な空です。

(Hokuto)

 8月19、20日に、今、家を離れている息子が、富士山に行ったと、メールが来ました。わが家は、けっこう家族で山に登ってきました。北アルプスには行っても、富士山に行こうという話しにはならなかったのですが。

友だち5人と一緒で、いい時が持てたのでしょう。友だちと一緒に行くことが一番だ。仕事の締め切りで、行けないかもしれないと言っていて、寝不足で行ったんでしょうか。富士山は、8合目か、9合目の小屋に泊まって、翌朝、2時ごろから起きて頂上を目指すのが普通の行き方。頂上か頂上直前で、日の出を迎えるわけ。頂上のお宮に参って、祝登頂成功となるのだが、正確には、最高峰の剣が峰(3778m)には、もう少し登る必要だ。そこには、今使われていない気象用レーダー・ドームがある。ほんの少しだけど、そこが、けっこうきついのだ。酸素は地上の1/3という影響なのかもしれない。

なんとなく、毎日の生活、あるいは人生に、目標のようなものが見えない。富士山に限らず、登山には、目標が実に明確に見える。ただ何も考えずに歩くだけで、確実に目標に到達できるのだ。その道中は、苦しいばかりなのだけど。ただ頂上では、そのことを忘れてしまうのだ。そして帰ってくると、また行きたくなってしまう。

オヤジの私も、富士山に登っている。私のオヤジもまた、登っている。たぶん、昭和9年頃と聞いたように思う。下の絵はがきは、その時買ってきたものと伝わっています。右側の写真は、剣が峰への最後の登り、鉄はしごがかかっている。一番上の写真は、現在の剣が峰。さて、今の富士山登山は、金剛杖に、焼印を小屋ごとに押してもらい(1回500円だ)ながら登り、頂上のお宮で最後の焼印になるのだが、その昔にも、焼印があったのかどうか、聞いたことはありませんね。(f)


首都圏大停電・日経平均株価

2006-08-15 09:57:13 | Weblog

 

昨日(2006.8.14)の朝7時半頃から2,3時間、東京都心に大きな停電があった。むろん私の家に何の異変もない。朝からテレビをつけっぱなしの習慣がないから、日々5時には起きるのだが、私の習慣であるNHKの“純情きらり”の後の8時半のニュースで初めて知った。

 “在職”中なら、常にアンテナをたてていただろうが、この“ていたらく”。それでも、テレビを消さず、高校野球を流しながら、9時半頃の、ほとんど快復の報道で一件落着を感じていた。

そして、3時頃だったか、停電の影響で“日経平均株価の更新”がなされていないと、NHKが報じたのだ。こりゃ……大変だ、と思った、いや、ぞっとしたというのが正直なところ。あわてて日経ネットを開く。流れていない。“お詫び”があった。

そして、今日(15日)日経本紙一面にお詫びの社告と三面には経過説明があった。

もう昔の話になるのか。9・11米国集中テロのとき、ニューヨーク現場近くのネットワーク・センター停電、自家発電切り替え、発電機用備蓄油の枯渇、補充のタンクローリーが規制で現場に入れない、という対応の日々が、鮮烈に思い出された。

今、自分の生きている空間はごく狭い。危機管理なんて関係なさそうである。天災には必ず人災を伴うのだが、都市インフラの弱さを思う気持ちも薄らいでいる。わが家の電気・水・食料・トイレットペーパーの対応はどうか、と思いながら、ネットワーク環境が使えなくなるなと思った。

高速ネット(光)への切り替えを考えているのだが、停電時には電話も使えないだろう。今使っているメタル線ADSLなら、電話機を直接モジュラーに差し込めば電話は使える。ADSLモデムも、電話にいつも使っているFAXも、停電時には用をなさない。“古い電話機はどうした?” と家人に話したら、“あるよ”と出てきたのが、ダイアル式の電話機。NTT設備の、この電話機を“ちょっといいね”と、切替え時になかば強引にもらっていたのである。“・・・・・・これは、使えない。プッシュホンの電話機は?”“たぶん、捨てた”と。

わが家でも、自家発電を考える必要もありそうだ。屋根の上のソーラーパネルはどうだろうか。エンジンかけると車も使えるだろうか。ぐるぐると手回しする発電機がついているラジオとライトに携帯電話充電も可能な防災グッズの広告をこの頃よく見かける。買っておくかなあ。

用意したとしても、いざという時にさっと使えることが一番重要なことは、どのような設備も同じである。ただし、うちの家人は携帯電話が嫌いといって持っていない。


いちご白書(2006.8.12)

2006-08-12 10:52:22 | Weblog

3,4日前、新聞に青木日出夫さんの訃報が載った(朝日2006年8月8日付、日経8日夕刊)。すぐに“いちご白書”の翻訳者だとわかった。記事に他の業績は載っていない。70歳とのことで、逆算して、翻訳は35歳の仕事になる。

1ヶ月ほど前に、時間つぶしに入った越谷の本屋で、“いちご白書”の文庫本を買っていた。昔読んで、今でもその文庫本を持っているのだが、また買ってしまった。すぐに読むわけでもない。そういうことが、私には、よくある。

いちごの表紙の1冊目は、角川文庫・昭和46(1971)年5月20日初版発行。鳩と反戦マークをデザインした表紙の2冊目は、角川文庫・平成18(2006)年2月25日改版初版発行。71年版にあったサブタイトル“ある大学革命家のノート”が削除されている。このサブタイトル、当時から違和感を覚えていた。作者ジェームス・クネンは、当時19歳、ニューヨークのコロンビア大学の学生だった。ただの学生であった。

1960年代、公民権運動からヴェトナム反戦運動にひろがりをみせていた米国。1968年4月、コロンビア大学では、軍事体制につながる大学批判が起り、黒人居住区を圧迫する体育館建設をきっかけに、学生たちが大学を占拠した。大学当局は、警察に出動を要請、1000人の警察官で奪回したのである。

いちご白書(The Strawberry Statement ;by James S.Kuenen. 1968,1969) は、この一連の日々が日記体でかかれ、いかにも普通の若者のメモからはじまっている。

70年の映画いちご白書では、講堂に集まった学生たちが、催涙ガスと棍棒の嵐の中に、無抵抗の中に、ごぼう抜きに逮捕されていく。バックには、皆で歌い続ける “ギブ・ピース・ア・チャンス(give peace a chance ; 平和を我等に;ジョン・レノンとポール・マッカトニー) が流れる。涙があふれるラスト・シーンがあった。

“青春の光と影”の ジョニー・ミッチェル の作で、バフィ・セント・メリーが歌う“サークル・ゲーム(circle game)も印象的に流れる。

映画は、映画館を出たら、記憶・印象でしか残らない時代だった。当時、追体験できるのは、LPレコードのサウンド・トラック盤だけであった。ずっと後になって、映画“いちご白書”のサントラ盤を、懸命に探した頃があった。今でも、古レコード屋によると、無意識に探していたりする。

この頃、映画はすぐに、DVD化し販売されるが、この“いちご白書”は、過去に、ビデオでもDVDでも発売されたことはない。テレビ放映(96年6月29日 02時45分~TBS)されたときビデオ録画しているから、どこかにあるだろう。探してみよう。 

*映画「いちご白書」 米MGM 70年制作、スチュアート・ハグマン監督作品。カンヌ映画祭審査委員特別賞受賞。


キッコーマンのジャズバンドと一緒に(2006.8.6)

2006-08-10 14:08:13 | Weblog

昨夜(8月5日)は、野田の夏まつり・七夕おどりの会場にいました。

15年ちょっとの間、ローカルなビッグバンド・スウィング・ベアーズにいます。昨夜45分ほど演奏してきました。いつもお世話になっている”キッコーマン・ニュー・スウィング・ジャズ・オーケストラ“の応援です。

はなやかな七夕飾りが、夜の風にゆれ、今年もまた、古い町、野田の伝統を感じるにぎわいがありました。

私が、吉祥寺からしょうわ町に越してきたのは、1973年、つまり33年前。だから、1980年ごろのことでしょう。となり町の野田市のキッコーマン醤油では、秋にお醤油まつりが開かれていて、何度か楽しみでかけていました。お醤油つくりの見学コースで、お醤油たぶん卓上瓶をもらったり、子どもたち向きのイベントを楽しんだり。そして、キッコーマンの人たちによるビッグバンドの演奏がありました。ステージ前列には何人かの女性のプレーヤーもいました。ビッグバンド全盛時代の余韻の残る時代で、憧憬の思いで聞いていたと思うのです。昨夕、本番前に、40年間キッコーマン・バンドを支えてきた人たちと、その話をしたのですが、“なにせ昔のことだからなあ”と。

その人たちと同じステージ、野田・キッコーマン本社前特設ステージでの演奏だったのです。

 野田のキッコーマン・お醤油まつりには、もうひとつ思い出があります。

イベントのひとつに、従業員向き図書室の廃棄処分のコーナーもありました。そこから一冊持ち帰っているのです。

ジャック・ケルアックの路上(On The Road);福田実訳、河出書房新社、です。キッコーマン文庫蔵書印が朱肉で押してあります。昭和34年10月20日発行(初版)で、キッコーマン文庫の購入は、発売すぐの34年12月12日。34年は、1959年のこと。米国でOn The Roadが発行されたのは、1955年です。

この路上(On The Road)は、私の60-70年代の精神のベースになった一冊といえます。ジャック・ケルアック、ゲーリー・スナイダーら、サンフランシスコのノースビーチに集まるビートニックは、ジャズのビート、スピード、スリル・・・・・。それに、禅など東洋思想が背景にあります。ソイソース(お醤油)も登場します。

現在の米国では、キッコーマンは醤油の代名詞であるのですが、同社が、米国市場への醤油販売を強化するため工場進出を決めたのは、1972年。1973年6月に本格操業を始めたのだそうです。

 お醤油まつりから、持ち帰っていた、キッコーマン文庫の“路上”の、除却証明のスタンプは、59年10月30日(1984年)になっています。