ネパールのペーパー・クラフト・ショップを始めています(2006.10.28)

2006-10-28 23:09:21 | Weblog

今日(28日)、宇都宮のある店に、ネパールのペーパー・クラフト(写真)を納入しました。

看板はまだあげていませんが、春日部市にある私のウチを、ジャパン・ナマステ・オフィスという名前の事務所にしています。 扱っている商品は、①ネパールのロクタ・ペーパー(ネパールの和紙) ②ロクタ・ペーパーで作った紙製品(クラフト) ③その他、ネパール関連グッズ (マンダラ、マップ、ポスターも)です。
まず、通信販売から始めています。そしてネット販売でしょう。さらに個人販売と同時に、民芸やハンドクラフトのお店に卸すことをやっていくつもりです。
ペーパー・クラフトのカタログ(CD版)ができています。CDやCDケース、さらには、ロゴの入ったビジネス・レターなどのプロダクト・デザイン(写真下)は、私の次男なのです。

この7月に逆戻ります。東京ビッグサイトで開かれた“国際ブックフェア”に、私は、ネパールの本屋“ネパール・マンダラ・ブックショップ”のブースを開いていました。というかネパールのペーパー・クラフトの店の、店番をしていたわけです。

韓国大資本の派手はでブースの前でしたが、素朴が売り物のわがブースは、大勢のお客様に来ていただき大健闘だった。もちろん即売もしましたが、狙いは、ブースでいただいた100枚少々の名刺をもとに、末長―いお付合いの商売をやっていくことです。

ポカラの本屋の正式名称は、Nepal Mandara Bookshop(ネパール・マンダラ・ブックショップ) です。日本の代理店も窓口もありません。それで、私が、Japan Namaste Office (ジャパン・ナマステ・オフィス)を立ち上げたわけです。

ネパールのポカラという町は、美しい山なみが望める静かな町です。アンナプルナ山系の登山やトレッキングの拠点で観光客も多いのです。私が、仕事をやめてネパールをさまよっていた時のことです。本屋があれば、どこの国でも入り浸ってしまうのです。この本屋のオヤジ・プレムさんは、愛知万博のパビリオンにも店を出した“商売熱心”な、やさしい積極オヤジなのです。

しばらくネパールの人たちの民芸・文化への応援をやっていきます。

 【おまけ】
*ネパールのペーパー・クラフトと料金表に関心のある方は、コンタクトして下さい。

*そのうち、私のウチ、いやジャパン・ナマステ・オフィスで、ガレージ・セールを開くつもりです。

*ナマステ(Namaste)は、ネパール語で、“こんにちわ”“ありがとう”“じゃ、またね”。
 あいさつは、なんでもナマステなのです。

 


今日は、“OK牧場の決闘”の日なのです(2006.10.26)

2006-10-26 22:35:40 | Weblog

毎日、ブログを書こうとしています。なかなか書くことが決まりません。
今日の日経夕刊コラム<波音>は、OK牧場の決闘のことだった。よし、・・これをパクろう・・・。

<米国の西部開拓史上、著名な事件が起きたのは、1881年10月26日。アリゾナ州トゥームストーンは、OKコラルのそばだった。ワイアット・アープらアープ兄弟とクラントン一家の対立は単純ではなく、新旧の組抗争に近いようだ。ともあれワイアット・アープが日本人にも馴染みのヒーローになったのは、ハリウッド映画のおかげ。「荒野の決闘」から「OK牧場の決闘」「墓石の決闘」「ワイアット・アープ」。史実に近い新作より、ジョン・フォードの「荒野の決闘」がいいと思うのは年のせいだけかな。(小)【日経夕刊10月26日】>

これらの映画は全部見ていますね。西部劇映画はほんとによく見ました。西部劇には、少しうるさいですよ。近ごろ西部劇映画そのものがありませんね。

「荒野の決闘」は、1946年の映画です。私ら世代は誰でも知っている名画です。私も、テレビも含めて何度か見ています。今しょうわ町(旧庄和町・現春日部市)のTSUTAYAで、DVDを500円で売っています。買っておいてもいいな、と思っています。

ワイアット・アープ役は、ヘンリー・フォンダです。原題は、My Darling Clementine (マイ ダーリン クレメンタイン)です。主題歌は、♪オ・マイ ダーリン、オ・マイ ダーリン、オ・マイ ダーリン クレメンタイン・・・・♪です。このメロディを借りて、“雪山讃歌”(作詞は、初代南極越冬隊長になった西堀栄三郎さん)ができたのです。 レコード(ドーナツ盤)(写真)を何度も聞いていたので、英語で歌えます。ギターでフルコーラスを歌える数少ない私のレパートリーのひとつでした。

 *左上に映画のラストシーン。クレメンタインに別れをつげ颯爽と旅発つ。先の尖った岩山(1946)

“荒野の決闘”や“駅馬車”といったジョン・フォード監督の映画の背景は、アメリカの“荒野”の風景、モニュメント・バレーです。行ってみたいなあ、と思っていました。今でも行ってみたい。駅馬車で、いやレンタカーでいいから走ってみたい。

*先の尖った岩山をバックに(2001)

半世紀後、5年ほど前の夏に、私の息子から、モニュメント・バレーに行ったよと書いた絵はがきが届いた。 帰ってきた息子のスナップ写真を見たら、映画のシーンと同じ場所の写真があった。


雑誌“Spctator”が送られてきました(2006.10.25)

2006-10-25 23:11:37 | Weblog

むろん日本の、日本語の雑誌です。Spectatorの意味は、目撃者・傍観者です。
For YOUNG NOMADS となっています。Nomad は、放浪者・遊牧民である。まあ、若い行動的放浪者向きの雑誌なのです。

この7月に、発行者で編集長の若者と知り合ったのです。送ってくれたバックナンバーは、“メキシコ特集”と“インド特集”でした。雑誌は、この町(旧庄和町・現春日部市)の本屋TSUTAYAに並ぶことはないが、大きな書店で売っている雑誌です。

今号(2006秋冬号)のサブタイトルは、“MOUNTAIN HIGH LIFE”である。いわば、“山の生活・森の生活”特集です。私の好きな世界です。まだパラパラっとめくっただけです。丁寧に読んだ後にコメントを送らねばならないでしょう。

むろん若者向きの感性で作られています。 1960、70年代に若者を経験した私が、読みそうで、魅かれるところは、次の記事です。

・加藤則芳さん(アメリカのジョン・ミュア・トレールやアパラチア・トレールを完歩した)へのインタビュー。
・田淵義雄さん(森の生活を実践する)へのインタビュー。
・故芦沢一洋さん(日本へバックパッキングを紹介した)の1970年代の著書を使いながら、バックパキングにある思想と理念を紹介。
・ナナオ サカキさん(伝説の詩人で旅人)の近影 。

そのうち、このブログでも紹介しましょう。

 【おまけ】

 シティ・ライツのマーク

*私は、今年の7月に東京ビッグサイトで開かれた“国際ブックフェア”に、ネパールの本屋“ネパール・マンダラ・ブックショップ”のブースを持っていました。まあ、本やネパールのペーパー・クラフトの店の、店番をしていたわけです。

*そこに、この雑誌の編集者が立ち寄って、商売そっちのけで、しばらく話していた、そういう知人です。編集者が、サンフランシスコの本屋シティ・ライツのマークの入ったバッグを持っていました。私もこの本屋が大好きで、“同志だ”という気分だったわけです。


紅葉はおしまいか、札幌・手稲山に初冠雪(2006.10.24)

2006-10-24 21:39:19 | Weblog

急に寒くなって、ほぼ二日間も冷たい雨でした。
これで、東日本の紅葉は、一気に里まで下りてきたでしょう。いや、雨にたたかれて、紅葉はおしまいでしょう。わが家の紗羅の木(写真)も色づいています。
ラジオニュースで、札幌の手稲山に初冠雪の報を聞きました。手稲山に初雪のニュースは、私の季節感を大きく支配します。 10月末の、このニュースは、いよいよ冬だな、と実感させてくれるのです。季節のマイルポストなのです。

手稲山(1024m)は、札幌市内のどこからでも、その特異な山の姿が見ることができます。

 1970年夏、札幌に引っ越して、市内ど真ん中の大通り公園のそばのビル4階に住み、いつも手稲山を見ていました。初めての札幌暮らしです。“冬・雪の札幌”に大きな期待を持っていた私らに、初めて雪を見せてくれたのが、うっすらと白い手稲山の姿でした。すぐに、つまり、その年の11月3日に、初冠雪の手稲山に登りました。当時、市内から40分ほどのバスを降りて、小1時間も登れば、テレビ局やNTTのアンテナが立つ頂上でした。右手奥に札幌市内を望み、真正面に日本海、その向こうに、暑寒別の山々が、いつも白い姿を見せているのです。

1972年2月には、札幌オリンピック。手稲山頂上直下から、女子大回転コースが作られた。頂上までのリフトができスキー場化されました。私らも毎週のように、頂上から滑っていました。

手稲山は、今では、スキー客でにぎわい、真冬でさえも、登山対象の山ではないかもしれません。しかし、私にとっては、仮に“私の百名山”を数えるとすれば、上位にあげられる思い出深い山なのです。

 【おまけ】

*札幌は、広い平野ですが、周囲ぐるりと山が望めます。写真集というより山好きが作った絵本のような“札幌から見える山”(北海道大学図書刊行会、1981年発行)は、山好きのアマチュア画家の絵と写真を配していて、懐かしさとあわせて気が休まります。
東京で、御茶ノ水駅西口あたりにあった山の本屋“めい渓堂”で買いました。

*写真右の、“北海道 山のガイド”(北海道撮影社、昭和44年発行)は、北海道での山歩きのガイドブックにして、持ち歩いていました。


上司の著書に旧粕壁宿・丸い郵便ポストもうひとつ(2006.10.23)

2006-10-23 22:47:32 | Weblog

冷たい雨が降るので、昨日(22日)春日部の図書館で借りてきた本を積み上げて、終日読んでいました。
図書館では、窓際に並んだ新着図書を見るだけのことが多いのですが、その中に、“今昔三道中独案内(日光・奥州・甲州)、今井金吾著”が目につきました。よく知っている本ですが、“新装版(平成16年3月)”になって、ここに並んでいたのです。

 

著者の今井さんは、私の上司だった人です。しかも、1970年初め、私が札幌にいた頃の札幌支社長さんです。著者略歴には、“街道・江戸研究に専念”とあり、巻末の出版社(JTB)の広告には、“街道歩きの第一人者”と紹介されています。
著書に“今昔東海道独案内”、“今昔中仙道独案内”もあって、旧街道の全工程を古文書にあたりながら実際に歩き、その道程を2万5千分の1、5万分の1の地形図上に赤色に再現。江戸時代の絵地図も載せながら旧街道の魅力を紹介されています。これらの本は、昭和40年代末の発行時から知っていましたが、本が高かった。新装版は、東海道が5097円、中仙道が6627円、三道中が6000円です。 30年後に、再版されるなんて、買って役立たせている人が多いのでしょう。

こういう時のために、図書館があるのです。
このブログを、上司だった今井さんが読まれることはないでしょうが弁解しておきます。“信州の街道歩き(1980年9月発行)”は持っていますから…と。私の信州・山好きというより、980円の定価が持っていた理由でしょう。

著者の了解をえず、著作権侵害を承知のうえで、日光街道・粕壁宿部分の図をスキャンして、ここに貼りつけます。図版の掲載になれてないので、読めないですね。
(メールの添付では、むろんはっきり読めますから・・・・送れますよ)

 上が南(江戸)、左が庄和町です。

旧街道が赤で入っています。多少でもわかりやすくするために、川を水色に塗っておきました。
本書“今昔三道中独案内(初版)”は、昭和53年発行です。旧街道が赤色で入れてある地図は、昭和53(1978)年頃、すなわち30年前、私らが越してきた頃の、春日部中心街です。その古い“現代の春日部”の地図を見る方が楽しいかもしれません。春日部部分をコピーして、すぐに図書館に返しますから…。

ロビンソン・デパートができたのは、21年前です。ちょうど今、“創業21周年・大創業祭”やっています。図書館あたりは、国(厚生省)の薬草園になっています。なんで、こんなところに、国の薬草園があったのだろう。庄和町に続く国道16号は、小渕の交差点からは、点線になっています。

さて本書のコピーを片手に、また春日部郷土資料館にある粕壁宿の模型で研究して、それから旧粕壁宿を歩いてみるつもりです。 

 【おまけ】

*もうひとつ、赤いまるい郵便ポストを見つけました。粕壁宿の北の方、お寺の固まってあるあたり、白壁土蔵で、享保年間から続く“山田半六商店”の角にありました。このエリアが、粕壁宿の面影を残す最後の地域ですが、この秋から取り壊されるそうです。“粕壁3丁目A街区市街化再開発”が着手されるのです。

*赤いポストの懐かしい風景の写真のつもりです。政治家の立て看板が、“うざい”ですね。春日部の景観を大切にしようなんて、ちゃんちゃらおかしい、といわれそうです。


あればコナ・コーヒーを頼みますね(2006.10.22)

2006-10-22 20:48:19 | Weblog

コーヒーが大好きです。街を歩いていて、いいなと感じた店に、すっと入ることがあります。
でもブルーマウンテン(ジャマイカ)・モカ(イエメン)・キリマンジェロ(タンザニア)・・・・なんて指定して頼むことはありません。私は、いつもブレンドを飲みます。
コーヒーのうんちくをブログに披露できるほどの“実力”もありません。しょうわ町(旧庄和町・現春日部市)にも、“コーヒー愛好会”があって、知人もメンバーです・・・反応が怖いので書けません。

ただこの頃、コナ・コーヒーがあれば、コナを頼みますね。

昨日(21日)、しょうわ町のTSUTAYAで、“MONOマガジン”という若者向けの雑誌(11月2日号)を買ってしまった。前日に立ち読みして買わないと決めていたのですが、日経の一面下の書籍広告に載ったので買ってしまった。この種の雑誌の広告が“朝日”に載らなくて、日経に載るなんてありえないのだが。

特集は、“コナ珈琲伝説”。“KONA珈琲を知っているか? 幻のコーヒー「ハワイ・コナ」がブームの兆しを見せている。香り高く味わい深いこのコーヒーの新伝説が始まる”とコピーも凄いのです。

私が、コナを好むのは、“香り高く味わい深い”からではありません。コーヒー生産の現地に行ったことがある、たったそれだけのことです。わが家最後の家族旅行の4年前のことです。ハワイ島コナの西側から、南側をぐるっと回って東側のヒロへの車を走らせました。コーヒー畑、手作業的なコーヒー工場、直営コーヒー屋さんに立ち寄りながら、ドライブの中に、コーヒー・コナが好きになったのです。
お店に並ぶコナ・コーヒーのカラフルなパッケージ・デザインもいい感じだった。たくさん買い込みました。

ドライブの終わりは、今も燃える・熱いキラウエア火山あたりを歩くことでした。ついこの間、ハワイ・コナでかなりの地震がありました。その震源地近くが、ハワイ島コナなのです。

 【おまけ】

ブログの写真のために、コナ・コーヒーの空き缶を探しました。家人の返事は、“とっくに捨てました”。
その代わりに出てきたのが、この写真の空き缶です。松江で買いました。“ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の好みのコーヒーの味と香りを、今風にブレンドしてみました”、ほんまかいな。


風にゆらゆら、“いわきのお土産”竹のとんぼ(20006.10.21)

2006-10-21 22:30:48 | Weblog

“旅が仕事の息子”が、めずらしく“お菓子ではない”お土産を買ってきた。

 “なるほど・・・・”、竹で作ったトンボ。
ゆらゆらゆれてる竹のトンボです。
どうして、こういう風にうまくバランスがとっているのかなあ、見ていて飽きない。

窓をあけて、風の中でゆらゆらしながら、まわたっりするのです。
秋のいい風の一日でした。

いいのはお天気だけ。何もせず過ごしたということです。

福島県いわき市。水族館のショップにあったと言っていました。


春日部の赤いまるい郵便ポスト(2006.10.20)

2006-10-20 21:09:29 | Weblog

まるい郵便ポストの写真を撮りまわっている人の話を新聞か雑誌で読んだことがあります。
そんな“暇な”、“もの好きな”(!)人は、ネットに出しているに違いない。そこには春日部のまるい郵便ポストのリストもあるに違いない。しかし、ざっと見ただけですが、ないようです。
まるい郵便ポスト情報を求めているサイトはあるのですが不完全です。 

それで、わざわざ車を出して、春日部の4つのポストの写真を撮ってきました。
春日部のことは不案内ですから、ロビンソン前の通りの名前はしりません。江戸時代からの日光街道・粕壁宿のメイン通りです。少し白壁土蔵の残る通りです。この通りで見たような気がして、北へ車を走らせます。春日部駅前からの通り(公園橋通り)と交差するあたりの、古いおウチの前にありました(写真1)。

  写真1

道路を隔てて向かい側が、春日部仲町郵便局なのですから、ここにポストと切手を扱う店がある必要は全くありません。何か特別な意味から、“蔵通りの飾り”として、残しているのかもしれません。

さらに走らせ、駅前からの通りを越えると、すぐの所にもありました(写真2)。

 写真2

写真3は、春日部教育センターの向かい側のポストです。

 写真3

 写真4

写真4は、庄和町への帰路、牛島球場近くの商店前のポストです。
このポストの先(東側)のケーキ屋さん(シレーヌだったかな?10/22シェーヌのようです)のケーキは美味しいと評判。わが家には、春日部の帰りに必ず買っていく習慣もありました。

もうこれは、春日部市には、もっといっぱいありそうだなと思いました。

この他の赤いまるいポストを知っている方は、教えて下さい。

  【おまけ】

*しょうわ町(旧庄和町)で見たことないな、と思っていたのですが、よく考えてみれば、そもそも昔からなかったのではないだろうか。まあ、郵便ポストそのものが全くないはずはないが、人口も少なく、とり扱う郵便物も少なく、壁に掛かった“郵便箱”型しかなかったのだろう。赤いまるい郵便ポストは、そもそもなかった、そんな小さな町だったのでしょう。

*<10月21日追加>この赤いまるい郵便ポストの正式名称は、「郵便差出箱1号丸型」、鉄製で、昭和24(1949)年から使用されていた。


バイク好きの“みささん”の誕生日だから(2006.10.19)

2006-10-19 18:13:56 | Weblog

みささんは、遠くの友だちです。大型バイク・900ccのトライアンフに乗っているらしい。颯爽と乗っているらしい。 だから、今日はそんなに大きくないけど、バイクの話です。

私のウチのガレージにも、今では、かたみが狭そうにバイクがあります。上の息子のバイクで、たまには下の息子も乗ります。
もう7,8年も前の話。浪人確定の日にバイクの免許をとりたい、免許がとれた日にはバイクがほしい、と息子。“………”。返事に窮したけど、そこは、私の若き日が走馬灯のようによみがえり、“よし、買いに行こう”と車を走らせていました。私自身が新聞の折込チラシをけっこう丁寧にみていて知っていた“レッドバロン春日部”に行ったのです。

 買った時のTW-225のカタログ

400ccのバイクを思っていたようだが、車検・税金・価格からあきらめさせて、しかし高速道路を走れる250ccだなと。息子のバイクに親が顔出す・・・・不思議といえば不思議・・・。アメリカン・タイプを思っていた息子の好みと、オフロードだと思う私の好みの差があって決まらない。“またにしようか”と言ったとき、“これいいね”とうなずきあったバイクが見えたのです。ヤマハのTW225だった。

“ロングバケーション”というテレビドラマを覚えていますか。
当時(今も?)大人気のキムタク青年と車椅子の女性(タレントさんの名は知らない)の恋のお話し。ドラマの中でキムタクが乗っているバイクが、TW225(ティーダブ)なのだ・・・・・テレビ見ながら、息子が気がついたのです。

模擬試験にもバイクで行きながらも浪人生活を終了。ひとり暮らしを始めた横浜に乗っていった。最初の夏休みには、私が山で使っていた古いテントをつんで2週間ほど北海道一周ツーリングに。私の夢の身代わり実現みたいなものだった。
それから、バイクのカスタム化(改造)にはまったようで、次の夏はずっと、庄和町の実家で、バイクをさわっていた。車検のないTW-225は、カスタム化趣味の連中には大人気のバイクだったのです。そのためのバイク雑誌の増刊号があったり、専用パーツ屋があったりだったのです。おかげで親もまた、けっこう楽しみましたね。

 

古~い私らの時代の運転免許証には、おまけに(!)自動二輪免許もついています。高校の頃に、ときどき無免許で乗っていたことはもう時効でしょう。
たいして輝いてはいなかったけど、私の人生のもっとも青春な時代には、中古のホンダのスポーツ・カブ(90cc)に乗っていました。
青春を終わってから、バイクを買おうか買おうかと思った時期もあったのですが、生活に追われて・・・いました。
その頃から、ずっとホンダのトレール・カブが気になっていました。15万円くらいで、まあ安かったからでしょうか。それから、ガソリンタンクにカモシカの絵のついたヤマハのセローが出てきた時も、グラッと来ていました。 

 【おまけ】

*カブを馬鹿にしてはいけません。カブには熱烈な愛好者がいます。行ったことないですが、ベトナムなんて、みんなカブに乗っているようです。

 赤いボディのトレール・カブ

*トレール・カブ(CT-90,CT-110)とか、ハンター・カブは、レア品扱いで中古市場でも結構な高値のようです。むろん日本で生産していません。オーストラリアから逆輸入されているものがあるようです。


春日部・野外彫刻・赤いポスト(2006.10.18)

2006-10-18 19:15:25 | Weblog

今朝(18日)、教育委員会に用事があったので、春日部教育センターに出かけました。
ここの1階には、普通の市民が遠慮なくはいれる部屋があります。春日部市郷土歴史館と情報サロンです。情報サロンは、慣れないとちょっと入りにくいですが、係りの人の目を気にすることはありません。

春日部および近隣市内、県内あるいは国内のあちこちから送られてくるイベントや博物館・美術館のチラシがまとめておいてあります。それを目で追いながら、一回りします。お薦めは、全国の観光パンフレットがいっぱい置いてあることです。国内は県別に、県内は市町別に整理されており、探して持ち帰りやすい。旅行会社に出かけても、ツアーカタログばかりです。ここには全国の県や市が出している観光ガイドがあります。本屋で一冊ガイドブックを買う必要もありません。・・・・・今日は、瀬戸内の観光情報集めです。

教育センター前では、いつも車で通り抜けながら、ちょっといいなと思ってきた“ベンチに腰掛ける少女”の彫刻(像)をしばらく眺めていて、カメラを向けたりしました。なかなかいい感じで、春日部教育センターの前にふさわしい。

さあ、帰ろうと歩き出したら、道路の向かい側に、赤いまるいポストがあることに気がついた。ちょっと奥まった感じで普通の民家の前に立っている。その家には、これまた懐かしい鉄板の看板がかかっている。今でも切手を売っているおウチのようです。レトロというか、春日部も大きな街ではないなあというか・・・ですね。

帰路、庄和町に向って車を走らせていると、牛島球場あたりでも、赤いポストが目に入いりました。 “発展にのりおくれた街の風景でなく”、意識して残して、赤いポストを使い続けているのだろうか。とすると、春日部市もなかなかの市だな、と感じました。  

 【おまけ】

*春日部市は、“彫刻の街・春日部”をうたっており、毎年“野外彫刻”を増やしているようで、現在は19作品あります。野外彫刻のリストは、“春日部の野外彫刻”にあります。教育センター前の彫刻は、黒川晃彦さんの作品で、題名は“小さい花”です。

*春日部市の野外彫刻は、駅前メイン通りばかりに、ぎっちり並んでいます。市内あちこちの、大きな公園・小さな公園にこそ期待したいと思います。しょうわ町(旧庄和町)にも、素敵な彫刻が立つといいですね。もう少し待っていましょう。

*私が、ここ2,3年の間、住んでいた長野市もまた、野外彫刻を毎年設置していますが、市の中心部だけでなく、よりひろがって設置(展示)しているように感じていました。 長野市は、1973年から始め、2003年現在130作品です。
春日部市も息長く続けてほしいものです。


“いい日旅立ち”は演奏してはいけない (2006.10.17)

2006-10-17 19:02:37 | Weblog

“旅を仕事にしている”息子が、この間、山口県あたりに行ってきた。
なんでもJR西日本の“観光山口(西日本)”キャンペーンの一環イベントらしい。萩・津和野・秋吉台あたりをぐるり、金子みすず記念館もまわったようだ。このあたり、私はどこにも行ったことはない。
おみやげの紙袋の中に、CD(写真)が入っていた。

CDは、谷村新司の“風の音”(IOCX-20185)だ。①新曲/風の音 ②いい日旅立ち・西へ ③三都物語 ④いい日旅立ち の4曲と、それらのカラオケ・バージョンもついています。すべてJRのキャンペーン・ソングらしい。このCDは、市販されているのかどうか知りません。“いい日旅立ち”は、ディスカバー・ジャパン・キャンペーンでしたね。このCDには、外カバーがついていて、“それは、西にある。DISCOVER WEST”と書かれていました。まあ、どうでもいいですがね。

これで、しっかりカラオケの練習ができるぞ、と思ったわけでもありません。“いい日旅立ち”なんて、皆がよく知っていて、しかも山口百恵さんのイメージが美しく残っている。歌ったらシラケルだけです。せいぜい誰もいない留守に、窓を閉めて歌ってみることにします。

私らの、ジャズ・バンド(スウィング・ベアーズ)は、喜んでもらえるなら、どこでも演奏します。“慰問”演奏にも出かけることがあります。5年ぐらい前のこと、吉川町の“高齢者施設(りんどう・・・とか言いました)に行った時のことです。よく知られているポップスや歌謡曲を10曲ぐらい演奏するのですが、その中に“いい日旅立ち”も入っていました。
本番直前に、メンバーの誰かが、“いい日旅立ち”は、ここで“旅立ち”は、まずいんじゃない? と。
この曲は、誰でも知ってるから、かいがいしく動き回っているピンク制服の職員さんらが声を揃えて歌ってくれるに違いない。きっと盛り上がることになるだろうと思っていたのですが。

そうかなあ・・・・・。考えれば、考えるほど、まずいかなあ、と思ってしまうのです。結局、やりませんでした。

 【おまけ】

*半年、この町だけにじっとしていて、いつも“どこかに行きたいなあ”と思ってしまいます。しょうわ町(旧庄和町・現春日部市)の悪い所は、山がないこと、海がないことです。ないばかりか、それを見るためには、すごく遠出をしなければならい所なのです。 映画“山の郵便配達”の世界にひかれるのも、山がそこにあるからでしょうか。私は、岡山県生まれ、山の中に育ち、海も比較的手近にあったのです。

*谷村新司を聞きながら、とりあえず瀬戸内海に行ってこようかなあ、と思っています。


明後日(18日)に“山の郵便配達”テレビ放映(2006.10.16)

2006-10-16 14:53:29 | Weblog

私は、悲しい映画やドラマは嫌いです、ほとんど見ません。
この映画“山の郵便配達”(99年中国)は、悲しい場面はひとつもありません。が、涙が止まらないのです。

1980年代初めの中国の山間部。交通は人の足だけが頼り。郵便の集配は、1日40キロを歩く2泊3日の旅です。その郵便配達が息子に仕事を譲って引退するために最後の旅に出る。息子は独り立ちしたかったが、父と同行することになる。美しい山々の中を、父と息子と犬が黙々と歩む。彼らの胸中を思うだけで、涙がにじみます。

もの言わぬが親と子のきずな、仕事への責任感と誇りが、淡い色調の映像、山の緑の中に心にしみます。

私は、2001年4月に家人と二人で、岩波ホールで見ました。わが家も子どもが成長し、どのウチにもある“親と子どものすこし危うい関係”になっていた。誘って来るはずはないのだけど、一緒に見たかったな、とほんの少しだけ思いました。

明後日(10月18日)衛星第2放送、深夜0.25~に、テレビ放映されます。ビデオ録画をお薦めします。もう、しょうわ町(春日部市)のTSUTAYAでも借りられるのではないかと思いますが。

そのビデオをどう見たらよいのでしょうか、と余計なお世話を少々―――。
ぜひご家族お揃いで、ごらん下さい――というべきなのか、どうか。私のウチは、まず一緒に見ない。せいぜい息子に“いいから、見たらどう?”という程度でしょうか。息子がひとりで見てくれればいいのだが、と。

それから、この映画の準主役は“犬”です。私のウチにも、長い間、犬がいました。犬にも泣かされるのです。この映画の現タイトルは、“那山 那人 那狗”です。狗は犬。つまり、“山あり、人あり、犬あり”でしょうか。犬好きの人には、たまらない映画だと思います。

映画を見た後に、家人がぼそり、“母の役割はないの?”と。 じっと待つ妻・母には、少々不満そうだった。
“いや~、息子にはやっぱりオヤジだ!”とは、言えませんでしたね。

 【おまけ】

1999年中国映画 “山の郵便配達” Postmen in the Mountains
監督;フォ・ジェンチィ
原作;ポン・ヂェンミン (集英社刊“山の郵便配達”)

*原作本を読もうとは思わなかった。写真の右は、フォトストーリーブック“山の郵便配達”(キネマ旬報社2001年8月発行)です。映画のきれいなシーンをそのまま綴じ込んだ本。本屋で見つけて、買わずにいられれなかった。今、ビデオ(DVD)が買えますが、買っておこうとは思いません。


今日は、鉄道記念日だから (2006.10.14)

2006-10-14 21:00:28 | Weblog

鉄道記念日です。この週末に、鉄道のお祭りはないのでしょうか。それとも気がつかないだけなのか。
15年ぐらい前には、よく大宮駅の汽車工場や操車場で広げられるイベントに出かけていました。うちは子どもづれで出かけていましたが、むしろ大人の方が大勢駆けつけていました。機関区工場が一般開放され、蒸気機関車、電気機関車を間近に見ることができるお祭りでした。

私は、鉄道が走っていないばかりかバスも走っていない山間部に育ちました。一年に一回ぐらい接する汽車、蒸気機関車のもつ凄み・圧倒的な巨大さには憧憬の気持ちがあったかもしれません。今の時代、この町で育つ子どもたちは、全然ちがうでしょう。それでも、ごくたまに、特別な日に乗る特急列車や新幹線への思いには同じような感情があるかもしれません。旅は、やっぱり、いつの時代にも鉄道です。

やはり蒸気機関車です。D51(デゴイチ)でもなく、C57(貴婦人)でもなく、断然C62が好きですね。日本最大の蒸気機関車です。国鉄のダイヤからSLが消えたのは、1972(昭和47)年9月です。ちょうど私は札幌に住んでいました。C622とC623が重連でひく急行列車の最終日は、8月27日です。大勢の“本土”からの鉄道ファンと同じようにカメラを向けていました。

そして走らなくなった蒸気機関車のために、いつでも動く形で保存(動態保存)される京都・梅小路蒸気機関車館がオープン。C622(C62の2号機)が保存されました。C621は山口県の小郡、C623は小樽築港機関区に残されました。
それに、その頃全国ありとあらゆる所に、SL(圧倒的にD51が多い)が保存(静態保存)、いや飾られました。

 

しょうわ町(現春日部市)に住む人にとって、自転車でも行ける清水公園にはなんどもでかけたことがあるでしょう。
清水公園にもD51が保存されていました。もう何年も出かけていないのでわかりませんが、今どうなっているでしょう。1990年頃、子どもらと出かけていた頃から、手入れがされていなく、錆だらけで、ガラスはワレ、輝くべきナンバープレートもはずされた無残な汚らしい姿をさらしていました。整備できないなら撤去した方がいいなあ、なんて思っていました。ブームにのって持ってきても、すぐに持て余したかもしれません。ちゃんと保存することは大変なことなのです。

東京・神田にあった鉄道博物館はいったん閉館し、来年(1972)10月に大宮駅近くにオープンします。こちら本物の博物館、動く蒸気機関車も見えそうです。来年の鉄道記念日が今から楽しみです。

 【おまけ】

 C622
C621

昨年(2005)、京都に出かけた時、まさに30年ぶりに梅小路蒸気機関車館を訪ねました。C622は、子どもたち乗せて構内を走っていました。小郡にいたC621も、ここにいました。C623は、毎年夏に北海道で観光列車を引っぱっているようです。


*今日の本棚からは、その頃に書いた原稿にします。雑誌“蒸気機関車”昭和51年新年号です。


がんばれ春日部オッシュマンズ (2006.10.13)

2006-10-13 21:08:52 | Weblog

この頃、物を買う気持ちがとんと失せてしまっています。その昔は、なけなしの財布をはたいてでも、カタログや雑誌で“研究”しながら買ったものです。カメラ、オーディオとか、です。ギターもそうです。その昔の男の子の遊び道具でしょう。常に、次のボーナスを期待してきた時代だった。 どうも、今の若者は、このあたりには、全く興味を示さない。

スキー(板)もそうです。今まで、4本の板と3足のスキー靴。振り返れば、これだけだから、道具をけっこう大事に使っていたことになります。スキー(板)は、西沢(ウッド195cm)、ヤマハ(グラス190cm)、ロシニョール(160cm)、ロシニョール(195cm)の4本です。他に、クロスカントリー用のスキーも。このうち3本は、今でも乗れます。最後のスキーを買ってからもう10年になる。“紫”色の板はちょっと若向きではないなとか。これが生涯最後のスキーだろうなと意識していました。

その最後の板は、御茶ノ水でなく、春日部ロビンソン・デパート(Robinson’s)にあるスポーツ用品店オッシュマンズ(Oshuman’s)で買ったのです。

ロビンソンが出来たのは、いつ頃だったのか。私らは、1974年(昭和49年)に、この庄和町に越してきた。それから10年ぐらいしてからでしょうか。この田舎にデパート、しかもアメリカ西海岸にあるデパートが来るなんて、わくわくしたように思います。アメリカの売り場をそっくり持ってきたような、ブログ“優しい時間”のRさんが絶対に喜びそうな、“大草原の小さな家”とか、“赤毛のアン”の世界、アーリー・アメリカンの生活用品売り場が大きくあった。チケット・ぴあ、映画館もあった。この地域の地域性か、時代の流れか、今、そんなものは何にもなくなった。

スポーツ用品のテナントは、オッシュマンズが入った。原宿の本店に行ったことはなかったが、私の好きな登山(アウトドア)道具ブランドのパタゴニア(Patagonia)の製品をたくさん並べていた。ときどき新聞に折込みされるチラシもおしゃれで、アメリカ好き“少年”をわくわくさせてくれるものだった。ただ商品を売っているだけでなく、少年が持つべき自然に対するスピリットがあふれていたように思うのです。 
家人とロビンソンに出かけると、決まって別行動で、オッシュマンズで時間をつぶした。今は、並んでいる商品はまるでちがう。用もないないのにブラブラする魅力がない、だから出会いがしらで、思いつきで買ってしまうこともない。店を構えているのだから、たくさん売れなければならないのでしょう。それでも、オッシュマンズ本店の世界を期待してしまう。
他にないのだから、地域の少年のために、がんばれオッシュマンズ!!と思ってしまうのです。   

 【おまけ】

*好きなアウトドア・ブランド“パタゴニア”を書くスペースがなくなった。ブログ・カット写真のために、春日部オッシュマンズで買ったパタゴニアのウィンドブレーカーの写真を撮ろうと思ったのだが、手近に息子のショート・パンツが転がっていた。擦り切れ・薄汚れなので、ロゴのところだけアップ。ちょっとインパクトに乏しいので、シェラ・クラブのワッペンも。このブログのタイトルのシェラ、アメリカ西海岸の自然への精神・活動を代表する合言葉です。

*今日の本棚からは、“パタゴニア”を特集した雑誌にします。パタゴニアは、御茶ノ水にも直営店があります。ホームページ パタゴニアもあります、一度のぞいて見て下さい。

*おまけのおまけ。毎日行く、しょうわ町のヤオコーには、写真撮影厳禁と貼紙があります。だからオシュマンズの店の前で、デジカメを出して写真撮ることに気がとがめました。こそっと一枚撮っただけです。 


運動会で思い出す庄和町の学校給食廃止騒動 (2006.10.11)

2006-10-11 17:22:28 | Weblog

今日、運動会に行ってきました。今ごろやっているのは幼稚園か保育園です。最近の小学校・中学校は、運動会は9月中にすませてしまう。夏休み明けで子どもらが勉強気分にならない9月にすませてしまうそうです。

庄和町を全国的に有名にしたのは、庄和町が学校給食廃止を打ち出した時です。“庄和町”でブログ検索したら、10年以上たった今でも話題になっていました。産経新聞のコラム“産経抄”が書いたことがことの発端のようです。(10月2日産経抄)

10月2日の“産経抄”の一部を引用すると、こうです。
<今から思えば、平成4年に埼玉県庄和町(当時)の神谷尚(たかし)町長が打ち出した学校給食の廃止は、子供の教育における学校と親の役割分担を論議する絶好の機会だった。町長の考えは、廃止で浮いた分を、外国人の英語指導助手を雇ったり、子供会館を建設したり、教育投資に回したいというものだ。これに対して、弁当づくりの負担をいとう母親の反発は強かった。議論がかみあわないまま、町長の急死によって立ち消えたのは残念だ。>
今でも、こんな論調の新聞があるのかと、まず思いました。

平成4年は、今から14年前。わが家も子どもら3人が義務教育中。もっとも私は、町のことは“かみさん”とこそ、思ってはいなかったが典型的埼玉都民だった。庄和町では、PTAを中心に全町あげての反対運動が起こったのです。

私には、町内の論議とは恐らく別の点に関心があった。ちょうどその時期に、学校給食にある“食の安全性の問題”などから、“給食を食べさせたくなくて弁当を持参させる”親たちの運動が全国にあった。けっこう大きな問題になっていた。先ワレスプーンで食べさせたくないといった運動なら覚えている人も多いでしょう。弁当持参の子どもたちが学校側から阻害されるようなことまであった。
文部省は、学校給食はただ昼食を食べる事でなく、教育の一環なのだ・・・とかなんとか・・・・。庄和町行政は、文部省のいう給食の教育意味を、真っ向から否定し給食廃止をしようとしたことになるのです。

廃止の本当の目的は知りません。老朽化した給食センターの費用の問題だったのかもしれなない。ともかく町のお母さんたちは結束して立ち上がって、庄和町行政側の提案を撤回させた。産経抄のいうように、“議論がかみあわないまま、町長の急死による立ち消え”は、違うのではないかと思っています。

その時、庄和町行政に怒りを感じたことを、ついでに書いてしまいます。

子どもらが小学生の頃には、運動会には必ず行っていました。しかも、保護者席に人のいない朝一番の開会式から出かけていました。場所取りシートだけはぎっしり埋まっているのに、誰もいない保護者席の中を、子どもたちは、堂々の入場行進をします。<見てやってよ・・・・、子どもたちには、この行進が晴れ舞台なんだから>。

ここで、正確に何年何月何日と書けないのですが、入場行進が終わって開会式に。庄和町立南桜井小学校です。8時40分ごろに校長先生のお話が始まりました。そこに、ねらいを定めたように、校長先生のお話をかき消すように、町役場の全町向け放送。“大きな音量”で、いつもの調子のゆっくりした“お知らせ放送”です。「・・・・・給食廃止は中止と決定しました・・・・、繰り返してお知らせいたします・・・・・・・」。壇上で校長先生の居場所を失った苦虫顔をはっきり覚えています。

偶然ではすまされない。その頃、町内の小学校は同じ日に運動会をやっていた。その事を役場(教育委員会)が知らないはずはない。
庄和町行政は、学校のこと、子どもたちのことを、ほんとうは、なんにも考えていなかったのだ、と強く思いましたね。

 【おまけ】

*今、旧庄和町いや春日部市で、旧庄和町役場の図書館計画を、春日部市との合併時の約束どおり実施するよう、請願署名活動がなされています。給食廃止運動の時の署名者は、2万7000人だったそうです。今9月1日現在、春日部市の人口は、24万2101人、旧庄和町地域は、3万7385人です。

*庄和町は計画していた図書館のための費用2億円を持参金として合併したわけです。強く約束の実行を求めても請願署名は一回、一人分しか書けません。