ボブ・ディランのレア盤CDを買った、もう聞くこともないのに(2008.9.30)

2008-09-30 20:31:31 | Weblog

*BROADSIDE-REUNION(Folkways-FR5315)、ディランは、Blind-Boy-Gruntの名前で歌っています。

先週の金曜日(9月28日)のことです。新宿で寄り合い(飲み会ではない)がありました。東京に出かけるときには、2つ3つ別のことを重ねるようにしていますが、持ち時間が少々だったので、いつものレコード屋さんに行っただけです。

ジャズではなく、アメリカのフォーク・カントリー・ブルースといったジャンル、(世間ではルーツミュージックというらしい)に強い店です。45年間、この種のレコードを追っかけていますが、いくつもあったレコード屋も、東京では、私を満足させてくれるのは、ここだけでしょう。

ディスク・ユニオン本店の5階です。この店は、私が現役中には、御茶ノ水にありました。新宿に移ったのです。
探しているジャンルは、さらに狭い範囲ですので、いつもの棚をさ~っと見れば終わりです。ぐらっときたのが3枚のCD。無収入者ですから、昔のようには大胆には買えません。1枚だけ!1枚だけ!です。3枚のうち1枚は、新しいからAmazonで買える。次の1枚は、絶対に他の人は、買わないから後日でもいいでしょう。残りの1枚は、ボブ・ディランのレア盤だから、今買わなければ、2度とお目にかからないだろう。
買っておかねばなりません。

私は、1970年代後半から、やたらボブ・ディランのレコードを買ってきました。1970年になってからです。1960年代には、レコードを買う余裕がなかったのです。

ボブ・ディランのレコードは、3種類に分けられます。
 ①公式のボブ・ディランのレコード;1年に1枚ぐらい出ていました。むろんすぐ買います。この頃は、新しく出たことを知っても、すぐに買わなくなりました。
② 海賊盤ですね。ブ-トレッグとか、プライベート盤とかいわれます。ライブ録音や、公式録音でボツになった録音(アウトテイク)が、海賊盤になって売られます。私が初めて神田で買ったのが、1975年ごろ、だんだん新宿あたりで買いやすくなっていきます。見つけて買うことに、夢中になりました。60年代、70年代の音源のものに特化して集めていました。その時代の音源のものは、パーフェクトに持っています。
③ もうひとつは、公式販売盤ですが、他のミュージシャンのバックで出ていたり、偽名で出ていたりする、セッション参加レコードともいわれます。むろん、山のようにある諸先生のディラン解説本・攻略本によって知り、レコードを買うわけです。
解説本もあまりなかった70年代、解説本からの知識なしで<ディランが参加しているのに違いない>と買ったレコードが、その後ディランが参加していたことを知る<私の発見盤>も、たった1枚ですがあります。公式販売盤ですから全部買えます。

この③のレコードで、一枚だけ持っていないのがあったのです。
先日買ったCDは、持っていなかったレコードのCDなのです。

ディランが田舎(ミネソタ)からニューヨークに出てきたのが1961年。初めてレコードが出たのは1962年。1963年に2枚目。1964年に3枚目です。
その頃、アメリカは、フォーク・リバイバルの真っ只中、公民権運動の真ん中でプロテスト・ソングが歌われていました。そういう連中は、薄っぺらな雑誌“Broadside”(ブロードサイド)に歌を発表し、歌われていったのです。そんな歌は、集めてBroadside・Recordからレコードになったのです。
Broadside・Recordから6枚のレコードが出てて、第1巻と第6巻に、ディランの歌が入っていたのです。1巻(Broadside・Ballads)に4曲、6巻(Reunion)に2曲です。1巻(Broadside・Ballads)は、後に日本でも発売されました。

6巻(Reunion)は、買うことができなかったのです。
それが、このあいだ買ったレコード(CD)なのです。

月日が流れ、フォークソングの時代はおわり、レコードもCDにとって変りました。そうして、今パソコンにダウンロードする時代で、CDそのものも消えそうです。

Broadside・Record会社は、スミソニアン博物館の音楽部門に吸収されました。
その時代の、懐かしいレコードは、博物館に保存という時代です。実は、このCDは、博物館(Smithsonian-Folkways-Archive)から、ダウンロードできるのです。有料です。

だから、いつでも聞けるのですが、やはり、あのレコードと同じデザインのカバー(ジャケット)がいるのです。この間、買ったCDは、正確にはCDではなく、CDRなのです。自分でダウウンロードするのと同じです。

そのレコード屋で店員さんが、電話で客と応対しているのが、聞こえてきました。
電話の相手は、3000枚ほどのレコードを売りたいと言っているようでした。店員さんは、<1枚10円ぐらい>と言っているようでした。

今回、買ったCDは、コレクター気分を満足させてくれましたが、おそらく聞かないでしょう。

完璧に揃っています。<ボブ・ディランの有数のコレクション>ですが、もうボツボツ捨てることを考えねばならんでしょうね。残った家族には、捨てるのにもお金がかかるのだそうです。

いったい今まで、何ぼ!かけて買ったのでしょうね。

 【おまけ】

* 長いこと探していた6巻(Reunion)ですが、その曲そのものは、海賊盤になっていて聞いてはいるのです。

*ちゃんとこれで、聞けるのですが。

* また、Broadside・Recordの1巻から6巻は、後に<全集>になって発売され、それは、もちろん持っています。
その辺のことは、以前ブログに書いています。<ここです>

*ということは、要するに、わたしゃ、アホですね。


今日は明るく那須・御用邸のケーキと日光金谷ホテルのクッキー(2008.9.27)

2008-09-27 12:36:08 | Weblog

*今日は、開かずに撮影しました。

なんとなく暗い話、映画“おくりびと”を見たとブログに書いてしまいました。早く上書き(うわがき)したい気分なのです。自分が書いたものですが、書いてしまってとり返しがつかない、早く上書きしたくなることが時々おきます。むろん、削除することができるのですが、そういうことではないのです。

といって、ブログ話題が思いつきません。金沢で種を拾ってきた朝顔もそれなりに咲いて、もうおしまいが近い、あるいは、同じ町に住む人が突然、私に鈴虫を6匹(3つがい)下さった。秋の夜更けに涼やかに良く鳴きます・・・を話題にしても、何かしら侘びしいですからね。

それで、久しぶりに、旅を仕事にしている息子のお土産です。

昨夜(26日)のお土産は、那須の<御用邸>印のチーズ・ケーキです。食べていないので、それ以上の話題もありません。近いのですが那須なんていったこともありません。私らレベルでも買えそうな別荘地の宣伝が、新聞折込に入ってくる・・・だから、行く気がおきないのでしょうか。“御用邸”もあるのに、です。
それで、<御用邸>なんて名前のケーキがあってもいいのかな・・・、でもちゃんと登録商標してあるようです。“御用牧場”のミルクで作ったチーズ・ケーキでは、なさそうです。

*こちらは、もう食べました。美味しかったですね。

4,5日前のお土産は、日光・金谷ホテルのクッキーでした。一度、金谷ホテルに泊まってみたいと思っています。日光も近いのです。“日帰りコース”です、それか中禅寺湖でキャンプでした。息子は、添乗して系列のホテルに泊まったらしいのです。

その息子、2年前には、金谷ホテルの“パン”をお土産に買ってきたことがあります。 <ここに書いています>

その息子は、今日、明日(27,28日)と添乗で<会津>行きです。

【おまけ】

*これが、今朝の朝顔です。ちょっとわびしいですね。でも、ずいぶんたくさんの花をつけてくれ、毎朝楽しみでしたね。

 

 


40年暮らして家人から、初めて誘われた映画が“おくりびと”だった(2008.9.25)

2008-09-25 18:41:08 | Weblog

2,3日前から、映画に行こう、行こうと誘うのです。こちら締め切りがとっくにすぎた頼まれ原稿があって焦っていて、<まただね!>と言っていたのですが、今日<どうせ午前中は、ぼ~っとしているのだがら>と思わされ、OKの返事をさせられました。

昔の話ですが、一緒に映画に行ったことが、ないわけじゃありません。
家人から誘われた記憶はありません。しかも、題名を言わずに執拗に誘うのです。

春日部のララガーデンのユナイテッド・シネマです。上映開始の10時に行きました。娘が来ていました。仕事を休んだのか―ー。

映画は、<おくりびと>でした。こんな映画は、私は絶対に見ません。・・・後のまつりです。シルバー・チケットの朝一番上映で、1000円のようでした。

お葬式の映画です。涙じめじめ映画です。東京の交響楽団でチェロを弾いていたが、楽団が解散し田舎(山形)に帰ることになって、結局、ご遺体を納棺する納棺師になってしまった主人公に本木雅弘さん、その妻が広末涼子さんです。
見終わって、けっこうさっぱりした映画の印象でした。評判の映画のようなのです。

お葬式のやり方、というより、死者の送り方、旅立ちの仕方、死というものを迎える心構えを説いているようでした。 生きているものとあの世に向かうものとの関係、いや、家族というものを書いているのでしょう。
この映画の感想は、人によって大きく違うでしょう。でも、ひとりで見る映画でしょう。家族で一緒に見る映画ではないよなあ~~。
<見せたかったのです>と家人がぽつり。

昔ロードショー映画を見た時には必ず買っていたプログラムか、パンフレットを売店で探していたら、この映画を感動的にした音楽=チェロのピース(楽譜)を売っていました。
そして、その隣で、お線香を売っていたのです。<おくりびと>と書いたお線香です。
一昨日は、お彼岸の中日でした。そういう思いの人もいたでしょう。

*映画館でお線香(735円;税込み)

写真だけ撮って、何も買いません。
12時15分、当然、外でお昼です。

*初めて家族で、オークウッドです。

気分は、もう<精進落とし>です。明るくいきたいね、と。
孫2人は保育園で、娘は手ぶらです。“オークウッド”にしようか。

“オークウッド”での、初めてのランチになりました。 しかも、いいお天気なので、外のテーブル。ピクニック・ランチになりました。


AEDは、電気ショックによる心停止の蘇生法ではなかった(2008.9.23)

2008-09-23 15:44:46 | Weblog

*AED取り扱い講習会

とてもいい秋晴れ、彼岸のお中日。なのに今日は、こんなブログ話題です。
今朝から、ウチの団地で救命法の講習がありました。AED(自動対外式除細動器というらしい)の使用法があるというので、参加しました。

会場は、正風館です。参加者は30名くらい。講師は、地元の消防署員さん。
<AEDは、心停止の人への電気ショックによる蘇生法だと思っていませんか>と、<違うんですか?>、<違います>、<えっ・・・?> <意識を失って、息の止まっている人は、心臓が痙攣をしているのです。その痙攣を電気ショックで“とる”だけなのです>
私は、<電気ショックを与えた途端に、目を開く>だろう、そりゃ覚えておかなければ、と思ったのですが、違うのです。

蘇生法は、やはり人工呼吸です。乳頭と乳頭の真ん中を30回押さえる(圧迫する)、そして、マウス・トゥ・マウスで、2回息を吹き込むのです。
救急車を呼んでいる間に、AEDで電気ショックを与えて、人工呼吸を繰り返すのです。胸押さえ30回、口から息を吹き込む2回・・・これを繰り返すのです。 AEDによる電気ショックを与えると蘇生<が早い、の確率が高い>ようなのです。 AEDの取り扱いは、簡単でした。

ところで、AEDは、ウチの近所にどこにあるかなあ。南桜井駅にあったような。借りてくるのに15分はかかるなあ。小学校にあるらしい・・・もっと遠い。それに貸してもらえるのかどうか。
それ以上に、イザという時に、やる勇気があるかどうかでしょう。
取り扱いが間違って、<余計に悪くした>、これが恐ろしい、機械を直すのとは違うし、・・・扱いで悪くすることはなさそう、ですが。

ウチの団地も高齢化、受講者も高齢者が目立ちます。その中のひとりが、<私は、この間、AEDにお世話になったのです。ゴルフの後で倒れて・・・・・>と。受講者の顔が引きつったかどうか知りませんが、私は引きつりました。

 【おまけ】

*今日のお土産。私の好きなナビスコのクラッカーが、ご近所の総和町で作られていることを初めてしりました。

* こういう講習会のお土産は、必ず使用期限直前、更新直前の<災害備蓄食料>です。今日は、災害救助用クラッカー(ヤマザキ・ナビスコ製でした)と、水で炊いた(?)ごはんでした。

* わが家には、飲料水だけ確保してあります。もう使うことなないキャンプ用具を災害対策用に<固めて>置いておこうと、思ってはいるのですが。

* 9月初めに、春日部市役所から、地震・水害用の<春日部市災害ハザードマップ>が配られました。

*わが家には、まだあります。

* 私のウチは、大字大衾、字内谷津です。谷津(ヤズ)なんて地名の所は最悪です。ハザードマップを見るまでもないことです。ウチの近所は、江戸川が氾濫したら2~5mの水深になります。地震が起きたら、液状化危険度は高く、揺れやすさは最悪、なのに何故か、建物倒壊危険度は、1(小さい)です、どういう意味かわかりません。

* まあ役所がどんな指摘をしても、もう引越しをするわけにはいきません。30数年前にこの地を買ってしまった不運を思うだけです。気持ちのどこかで、そんな地震なんかきやしない。だって、茨城県南西部とか、千葉県北西部を震源とする地震が、さいさいあるこの地は、でっかい地震はないだろう、と思っているのです。

* AID講習会帰りのご近所さんの話です。8月末のコミュニティ夏祭りの日の豪雨の話になりました。すぐそばの大きな通り(国道16号からの町道)が冠水。車で帰宅していてエンストしてしまった。修理に7.8万円かかったのですよ。
あれぐらいの雨で、冠水するようじゃ、まだまだ市役所がやることはありそうですね。


とうとう噂の細井(春日部市旧庄和町)のドラ焼きを食べました(2008.9.20)

2008-09-21 06:36:15 | Weblog

*写真を撮るため、一個袋からだしたのです。

昨日(19日)家人の知人が届けて下さった。家人が、私に<細井さんのドラ焼きですよ>と。

同じ町のRikaさんのブログで、この春に、庄和町に新しくできたドラ焼き<細井>の美味しさの話は、知ってはいたのですが、ちょっと胸のつまる思いもあって、ためらっていたのです。

お土産をもらったら、すぐに写真を撮る、この頃、私の習慣です。細井のドラ焼きを撮りました。一個だけ袋から取り出したのですが、元に戻せないのです。それで、半分食べた途端に、<今日、お客さんに出そうと思っていたのに・・・>と家人。 <う~~~ん>。

早朝にできたばかりのドラ焼きなんでしょうか、とても、特に、たっぷり入った餡子が美味しい。初めて食べて、<半分だけ食べて>その評判がよくわかりました。
今まで食べたどのドラ焼きより美味しいと思いました。

細井さんの息子さんが、庄和町に戻ってきて、作っているのです。さすが、これなら大丈夫・・・みたいな気分にもなったのです。

庄和中央病院の田んぼ1つおいて北側が、<細井>です。店を構えているわけではありません。普通の民家です。表に<ドラ焼きの赤いのぼり>が上がっていれば、若い亭主在宅・営業中とのことです。地元の<朝採れ>のドラ焼きです。ほんとに、おすすめします。
その<細井>のごく近くにある道の駅でも買えるそうです。

*和生菓子<細井>;春日部市上金崎18;電話048-746-2703


台風すぎて心配なし<JAZZ-DAY=さいたま新都心>ジャズ・ライブ大会(2008.9.20)

2008-09-20 10:08:53 | Weblog

今朝一番、空をみました。台風は過ぎ去ったようです。
ず~っと準備をすすめてきた知人・スタッフさんを思い心配していたのです。良かった、大丈夫です。台風一過の秋晴れのジャズ日和になります。

第5回<JAZZ-DAY=さいたま新都心>
9月20日(土)、21日(日) 13:00~19:00
さいたま新都心けやきひろば(JRさいたま新都心駅西口)
入場無料

*毎年秋、この時期のジャズ・イベントです。埼玉県最大・最高に成長。
*ビッグバンドの屋外ライブは、はなやか豪快に。コンボバンドは、ストリート・カフェ風に。
*両日とも9ビッグバンド+7スモールバンドが切れ目なしに熱演です。
*小学校バンド1、中学校バンド2・・・大学生バンド、プロも真っ青社会人バンド
*ステージをとりまく屋台も盛りだくさん、ビール片手に酔っ払うこともOKです。

私のおすすめ・・・・
9月20日(土)
18時20分~;SWING・JOKERS・ORCHESTORA(練馬);とにかくノレます。
15時30分~;Dream・Swing・Kingdom(春日部);選抜プレーヤーのコンボで出演

9月21日(日)
14時20分~;ALL・SWING・JAZZ・ORCHESTORA(越谷);満を持しての初登場。
18時20分~;北里典彦&Swing・Crew・Jazz・Orchestra(ゲストバンド);ゲスト・トランペットの池田順子さんに大拍手です。知人に池田順子さんのおっかけさんがいます。

 【おまけ】

*プログラムに、私らスウィング・ベアーズ出演の写真が載っています。

*が、今年、スウィング・ベアーズは、地元の慰問演奏を引き受けています。慰問!?ですが屋外ライブです。お近くの方はお越し下さい。ハーモニーライフ庄和館(春日部市旧庄和町・西金野井)、15時40分から40分ほど頼まれています。

*終わったら、すぐに駆けつけようと思っています。陽の落ちるころのライブはとてもいい感じです。フィナーレの飛び入り自由のジャム・セッションで、次の年の再会を誓います。


天国行きか、宇宙エレベーターの研究団体ができたらしい(2008.9.19)

2008-09-19 21:06:41 | Weblog

*朝日新聞2008年9月19日付37面

このところ秋ですが5時すぎには起きます。そして新聞2紙をかなり細かく読みます。<金融危機、家庭を直撃>は、もういいか。今日のトピックスは、<宇宙エレベーターの研究団体>ができたという話です。
2年前の私のブログ、<ここです>のような記事でした。

通信衛星、放送衛星、気象衛星は、赤道上空3万6千kmにあって、地球の自転と同じ速度で<回って>います。地球からは静止しているように見えます。だから<静止衛星>といいます。この原理を提唱したのは、イギリス人、アーサー・クラーク(アーサー・C・クラーク)です。

アーサー・クラークは、SF(サイエンス・フィクション;空想科学小説)の大作家になり、未来学者として大きな存在になります。
私は、熱狂的SFファンではありませんが、アーサー・クラークは何冊か読んでいます。でも、代表作<2001年宇宙の旅>も読んでいません。

<楽園の泉>を読んでいます。赤道のほぼ直下、セイロン島コロンボに住んでいたクラークは、上空に静止している衛星に、まっすぐ上るエレベーターを<楽園の泉>で登場させます。セイロン島の高山に登っていく寺、信仰世界と重ねて書いています。

私自身に、渓をつめて頂上を目指すとき、例えば、20代に信仰の山、大峰山系(奈良県)弥山を弥山川から詰めていた時、見上げる山頂への急な登山路を見上げて、天国へ上る道を、ほんとに強く感じたのです。

天国へのエレベーターなのです。SF世界、夢の世界、ひょっとすると荒唐無稽の世界です。
それを、まじめに研究する<日本宇宙エレベーター協会>の結成は、驚きました。どうもSF愛好家の集まりではなさそうなのです。 11月15,16日には、海外の研究者を招き、日本未来科学館で、第一回国際会議を開くらしい。

行ってみようかなとも、もう残り時間も少ないし、もういいかなと、思案中です。

日本宇宙エレベータ協会は、<ここです>

【おまけ】

*アーサー・クラークさんは、今年2008年3月19日に、90歳で亡くなりました。このブログで、追悼ブログを書いています。<ここです>


世界的金融不安が加速してるらしい、それがどうしたの(2008.9.18)

2008-09-18 20:58:04 | Weblog

*新聞報道は一日遅れて、9月16日の夕刊。

9月15日(月)は敬老の日でした。この日、今年は新聞休刊日です。日経は、東京で<号外>を出したかもしれませんが、当庄和町は、静かなものです。それでも夜は、<世界的金融不安>を、テレビをずっと見ていました。

ネットに向かって、株を売り買いしているわけではありません。
まあ、関係ないんですが、実は、じわっ、じわっと、生活に及んでくるのです。

この日、米国の証券会社、第4位のリーマン・ブラザーズ、第3位メリル・リンチ。倒産です。もっとも日本人感覚の倒産と実態は違うかもしれません。でも、つぶれたのです。
メリル・リンチの東京でのビルは、日本橋の旧東急デパート跡地に“そびえて”います。ペーパー・カンパニーとはわけが違うのですが、ただ庶民感覚では、なんとなく親会社が変わっただけの様相です。日本で、中小企業が倒産すれば、<親父が首をくくった>なんてことがあるでしょう。どうもそんな風でもありません。
身体を動かして働くのでなく、お金を動かすだけの金融世界の話です。

そもそも発端は、昨年夏ごろから急速に問題になったサブプライム危機です。
サブプライム・ローンは、土地の価格が上昇することを見込んで組むローンです。土地価格が上がらなければたちまち支払えません。つまり<貧困者にローンを組ませて破綻させ(結果として破綻させる)たのです。むろん貸した側の銀行も焦げ付きます、莫大な不良債権になります。

信用度の低い人にも金を貸すこと<許した制度>を作ったのです。まさに、末端庶民の<こ金>も巻き上げる制度を作ったのです。信用の低い人に金を貸す規制を緩和したのです。規制をはずし自由な市場にまかせたのです。市場原理主義とか、新自由主義と呼ばれる、1980年代からアメリカが、南米やタイといった不安定になりそうな国の経済政策に導入させた政策原理です。 日本でも構造改革といって導入した政策です。

末端庶民の<こ金>を巻き上げるのは、日本政府が、なけなしの預金の金利をゼロにし、<預金から投資へ>と言っていることも同根でしょう。

末端庶民から<こ金>を徹底的に巻き上げる仕組みを作ります。市民は、サブプライム・ローンで作った家を失い、借金を背負います。一般市民が政府の政策によって、極貧困層に転落させられるのです。

格差が、格差克服への個人の努力が、日本の活力を生むといったのは、今辞めた首相の前の前の首相です。これが構造改革の本質です。なぜか今、新聞では上げ潮派と書かれています。
市場原理主義とか、新自由主義(ネオリベラリズム)、あるいは構造改革の本家のアメリカそのものが財政危機に陥ったのです。何をかいわんやです。

経済政策・景気とウチの生活の関係は、歴史を振り返ってみなければよくわかりません。でもそこには、必ず政治・政策があります。つまり人為的なのです。
でもまあ、今がどんな所にあるのか、よくわかりませんね。


前の、経済財政政策担当大臣の太田弘子さんなら、涼しく<今は、踊り場です>と言ったでしょう。いつも、どんな時も<景気は踊り場です>とおっしゃっていたように思います。今日9月18日、日経株価指数11,489円、今年最安値。

【少しだけまじめに追加(9月19日)】

*サブプライムローンは、<信用力の低い個人向け住宅融資>と新聞に書かれています。所得水準が低かったり、クレジットカードの決済が遅れたことがあったりで、返済能力が劣るとみられる人たちを対象とした住宅ローンです。通常のローンより金利を高めに設定していますが、最初の2,3年は、金利が低く、途中から上がる仕組みです。当時、米国は住宅ブームだったため、ローンの担保となっている住宅価格は上がり、その上がった分で新たにお金を借りれば返済が続けられると考えたのです。

*ところで、住宅ブームのさなか、米国連邦準備理事会(FRB)は、2004年から06年まで、市場金利を引き上げます。住宅ローン金利も上がり、住宅販売にブレーキ、住宅価格は下がり、担保価値も下落しました。

*ローン返済が苦しくなった人は、住宅を担保にして、新たにお金を借りることも、住宅を売って借金を清算することも出来なくなったのです。

*さてさて、次です。通常のローンの焦げ付きなら、貸した銀行が損するだけですが、ここに巧妙な(?)、新ビジネスがあったのです。貸したお金に基づく債権を、高い金利を生む資産とみなし、そこからの金利の分配を受ける権利を受ける<証券>として、金融機関や投資家に売ったのです。世界中の<金余りの?>銀行や証券会社が買ったのです。日本の銀行や証券会社が買ったのです。

*そうして、多数のローンが焦げ付いて、証券が値下がりし、多額の資金を投じていた金融機関などが大きな損をこうむったのです。

*その次は、金融機関の救済に、各国政府が動くという図式になるでしょう。

(日本経済新聞の記事を利用して書きました)


越谷には、オール・スウィング・ジャズ・オーケストラがある(2008.9.15)

2008-09-15 09:18:11 | Weblog

*越谷サンシティ・小ホールで。

予想どおり、満員札止めになった。このブログでの<お早目のご来場を・・・>のお知らせ効果は関係ないでしょう。開場前には、長蛇の列になったそうです。
(私は、午前中“島倉千代子ショー”だったので、遅刻しました)
越谷サンシティの係員さんがやってきて、入場制限せよ、と<お達し>もあったとか。

昨日(14日)のオール・スウィング・ジャズ・オーケストラのコンサートは、ともかく凄かった。座席通路にもぎっしり座っている、後部はずらりと立ち見のお客さんです。それでなくても、日ごろから熱気の演奏を展開するオール・スウィング・ジャズ・オーケストラのステージです。
会場全体がもう<グワーン状態>なのです。これこそ、ビッグバンド・ジャズの醍醐味です。<やってくれますなあ>オール・スウィング・ジャズ・オーケストラさん、です。

*熱血コンサート・マスター。絶妙MCと人柄で引っ張る鈴木さん。

*トランペット隊。左から佐久間、白鳥さん・・・・・・・。

*花束が集中するのは仕方ないか。左上のぺロちゃん(ピアノ)にお花を用意するのを忘れていました・・・何度も応援してくれているのに・・・です(f)

私の住む旧庄和町から、少なくとも1人、ここに出かけました。昨夜、このブログに、コメントを寄せて下さっています。

<オール・スウィング・ジャズ・オーケストラ行って来ました (masaharus) 2008-09-15 00:33:06
大盛況でしたね。シートは満席、立見席?もいっぱい、階段にまでお客さんがあふれていました。演奏がすばらしいのは言うまでもありませんが、演奏の間のトークが大爆笑でした。これは台本をつくるのにかなり綿密なすりあわせ作業がメンバー全員で行われているのでしょう。>

今日も何人かの、私らスウィング・ベアーズの“ファン”さんが、越谷さんの方に移ってしまったのか。とほほ・・・・。

ステージから、<ご来場いただきながら、入場できなかった皆さんへの丁重なお詫びのご挨拶>がありました。陽気なステージのバンマス渡辺さんが、このとき神妙でした。
が、言葉をついで<来年は、隣(大ホールのこと???)でやります>と宣言、会場いっぱいの拍手と歓声になりました。

【おまけ】

*ほんとによかったですね。よかったですよ。渡辺さん!

*夜の打ち上げにももぐりこみました。この秋、コンサートを控えている私は、大盛り上がりの打ち上げの会話の一部始終をノートにメモしました。オール・スウィングさんのこの日までの努力、というより秘策?をつかもうとしたのです。

*私らスウィング・ベアーズは、なんと<結成20周年>記念の大コンサートを開きます。11月16日(日)1時30分~、正風館ホール(春日部市庄和地区、東武野田線南桜井駅徒歩6分)。今日のステージは、大きな刺激になりましたね。

*そうそう、私が、午前中に関わっていた(?)庄和町正風館での“島倉千代子ショー”つまり敬老会(とほほ・・・・)のことは、忘れてしまいました。


敬老の日もある三連休は、絶対に越谷でオール・スウィング・ジャズ(2008.9.12)

2008-09-12 12:26:10 | Weblog


これは、もう絶対おすすめのビッグバンド・ジャズ・コンサートです。
オール・スウィング・ジャズ・オーケストラの第6回コンサートです。

私らより、越谷市が、郡部のわが庄和町より、東京に“近いだけ”うまいのです。オット!東京には負ける!というのでは、ありません。

いつの間にか気分うきうきになるジャズです。思わず口ずさむ、どこかで聞いたことのある“あの時代の”メロディ、見事なハーモニーの重厚なサウンド、支えるズンとくるビンビンのリズム。
そして、持ち味、実力派だからできるエンターテイメント根性丸出しの爆笑のステージに必ず引き込まれます。

アマチュアです。だから無料です。

日時;9月14日(日)、開場;12時30分、開演:13時
会場;越谷サンシティ・小ホール(東武・新越谷駅、JR武蔵野線・南越谷駅、すぐの所です)

* 例年、満員のお客様になります。早めのご入場をお勧めします。

 【おまけ】

* 先日(6日)、<同業者・入場お断り>の練習会場に、もぐりこみました。“さすが!やるなあ”状態でした。こっそり一枚だけ撮った写真を無断で掲載します。

*私ら、スウィング・ベアーズは、会場のあちこちでお手伝いします。わたしゃ、その日は、町の正風館で敬老会です。なんと島倉千代子さんの応援!です。だから、このコンサートには、開演ギリギリにはせ参じます。満員で会場係に断られて入れてもらえないかなあ。


もう忘れてしまったけど9.11米国同時多発テロ。ここから始まったのです(2008.9.11)

2008-09-11 22:26:44 | Weblog

*毎年、9月11日のこのブログには、この新聞の写真を載せてきました。

今日は、9・11(セプテンバー・イレブン)です。正確には、日本時間で午後10時すぎ、ニューヨークは9月11日(2001年)の朝8時すぎです。今年で7年目になります。
今、新聞紙面は、でっかい自民党総裁選挙記事に席捲されていますが、よく見ると、7年目の9・11の記事もないではありません。明日12日の新聞はどんな扱いになっているでしょう。私は、2001年以来、9月11日(正確には12日)の新聞を保存していますが、年々扱いが小さくなっていきます。 当たり前ですね。しかし、そのことの世界・社会への影響は、だんだん大きくなっているのです。

7年前の2001年9月11日、ニューヨーク・ワールド・トレード・センターの崩壊を、つまり後に米国同時多発テロと名づけられた、ニュースをウチのテレビで知りました。すぐに、その頃、働いていた会社に電話を入れ、翌早朝に駆けつけるまで、まさに寝ずにテレビを見ていました。こんなことがあるのかと、ポカンとみていたのです。仕事を辞める半年前のことでした。それからの10日ほどが、私の最後の仕事らしい仕事になったのです。
そういった感傷は、まあどうでもよくて、その日から、世界はすっかり変わって<新しい世界>になったように思います。

それから半年、2002年4月に、庄和町に蟄居!しました。東京に出かけることもなく、<ようやく得た自由、正確には何もしない自由>に身を置くようになったのです。
私には、自由とは、とりあえず旅でした。何日でも、気兼ねなく休めます。
4月以降、自由の旅に身をおきました。ネパールでブラブラです。

その年(2002年)の夏には、大学4年だった息子が、1ヶ月かけてアメリカ西海岸から東海岸を放浪するという。<9月11日には、ニューヨークで会おう>と計画させ、同時多発テロ1年目の9月11日朝8時すぎ、トレードセンター倒壊の現場・グラウンド・ゼロでの追悼式典のアナウンスを聞きながら、息子と立っていました。

*一路南へ、グラウンド・ゼロへ歩きます。背番号2がウチの息子です(2002年9月11日朝6時頃)

普通の観光お上りさんです。現地のローカル紙から情報を得て、朝4時過ぎ、マンハッタン中心部・タイムズスクエアあたりから、グラウンド・ゼロに向かう行進にもぐりこんだのです。バグパイプの行進曲を先頭の行進は、途中途中から参加者を加え、大行進になって進みました。2時間か3時間、息子も私も黙ったまま、歩いたのです。

 *ニュ-ヨーク・グラウンド・ゼロにひるがえる星条旗(2002年9月11日朝8時頃)。

それから半年、2003年3月、アメリカはイラクを空爆します。イラク戦争の始まりです。3月8日(日)に、東京では(でも!)大規模な反戦デモが行われました。ベトナム戦争時代以来何年ぶりかの、市民による反戦デモだったでしょう。
しかし、私自身の気持ちはもう人生ゴール状態で、庄和町でのんびりしていました。

翌日(9日)には、沖縄に行く予定を持っていたのです。生まれて初めて沖縄に行ったのです。那覇の新聞社・琉球新報社ビルにイラク空爆反対の垂れ幕がかかっていて、沖縄は60年代のままでした。私の気持ちも、60年代に引き戻されたのです。東京と沖縄は違うのです。その時、嘉手納基地はスクランブル状態であったかもしれません。

とはいっても、もう私には何をすることもできません。いささか無気力状態で、信州・長野に家出(町出)します。意識的に新聞・テレビを見るのをやめ、世間から気持ちを隔離していました。山から上る陽を見て過ごしていたのです。

2年過ごし、さすがに、持っていたお金が底をついてしまって、庄和町に舞い戻ってきました。

2001年からの7年間、米国は、(米国主導で他の国も)アフガニスタン、イラクへの軍事力による制圧をします。今も続いています、終わりが見えません。
世界秩序は、すっかり壊れてしまったように感じます。冷戦の終了で一瞬見えかけた世界の平和は、どこかに消えてしまいました。その頃にあった世界平和への日本の役割り、日本の貢献、それに対する日本人の自信もまた消滅してしまいました。いつの間にか、日々の生活に窮々とする日本に戻ってしまったのです。

むろん、安定に見えていた秩序は、力による秩序だったのでしょう。アジア・アフリカに民族意識の台頭が噴出し続けます。
今年2008年4月、ヒマラヤ・ネパールもまた、王制が倒され共和制になりました。

ニューヨークのワールド・トレード・センターという2本の巨大ビルに、旅客機をぶち当て崩壊させた<勢力>は、狙いどおりに、アメリカに、崩壊への道筋に向けさす、大きな痛撃を与えました。ソ連崩壊という形の冷戦の終焉でしたが、死んだふりしていたロシアもまた、息を吹き返してきたようです。
世界平和、地球の平穏のきざしは、見えません。力で押さえこむことはできる時代ではないのです。時代は変わったのです。それがわかった7年間だったのです。
もう7年もたってしまった・・・・・のです。

 【おまけ】

* このブログも、ニューヨーク時間・9月11日午前8時すぎ、・・・・ちょうど、そのときに発信します。

* このブログを書き始めたのは、2006年夏です。2006年、2007年の9月11日にも、米国同時多発テロをブログを書いています。2007年は、<ここです>、2006年は、<ここです>

*追加(9月12日);昨夜のテレビ朝日の<報道ステーション>で、ニューヨークの映像を流しながら、コメンテーターの加藤千洋さん(朝日新聞社)が、7年前のその日、ブッシュ大統領が<これは戦争だ>と言い、(紙面責任の立場にいて)その<これは戦争>を見出しにしたことが悔やまれるのです、と。


春日部の小さな町では、公民館がただひとつ皆で集まれる所なのです(2008.9.9)

2008-09-09 11:22:37 | Weblog

*こどもジャズダンスのチビックス。親子孫三代が集まるおまつりなのです。私らスウィング・ベアーズも真っ青になる人気・客入りの“やよいちゃん”チームです。

この間の週末(9月6,7日)に、私の住む、春日部市の旧庄和町の公民館で、小さなイベントがありました。正風館まつり、と言ってきましたが、春日部市との合併にあわせて、地区公民館まつりと呼称変更しました。それでも、この町にある“皆で作る、皆で集まる”という気持ちは持ち続けます。色あせません。

 私は、週末の土・日(正確にいえば、準備の金曜も)ずっと会場で遊んでいました。春日部市(本体)主催のイベントように*万人と自慢豪語できませんが、<よく入ったなあ>と肌に感じた実感があります。

地域で活動する人たちが、グループ・サークルを作って参加しました。むろん、仲間たちとの語らいの楽しさが、第一の目的の集まりでしょうが、文化・展示部門、音楽・舞台発表部門、それぞれに見事な技を披露していました。

*ギターサークル・アルハンブラ。こんな素敵なギターを聞かされると・・・・いいなあ・・・私は、とほほです。

ここ2,3年、展示やステージを楽しんみながら、ゆっくり座れる場所を作りました。<お茶できる>無料カフェが、一階の一番いい場所にできました。公民館市民大学の学生さんらの提供なのです。<立派な!!>男性陣が揃いのエプロン姿で、コーヒーなどサービスしてくれます。
知っているもの同士、知らない人も混ざって、話がはずみます。リラックスした笑顔です。こうして、この町で、新しい知り合いが増えていくのです。

お昼は、2階の“急造”レストランです。“食生活改善推進協議会庄和支部”、“新ふれあい会食会”の人たちがやってくれました。お昼前には、完売だったのが残念でした。来年は、“おとこの料理教室”さんの登場かもしれません。

*たくさんの写真の中から一枚だけ。

さてさて、私ら“スウィング・ベアーズ”も演奏しました。ここ正風館は、ホーム・グラウンドです。
このブログにコメントを下さったり、ご自分のブログに地域の写真を披露されている<masaharus>さんが、また写真を撮って下さいました。

そうして、このブログにコメントです。
<こんにちは、masaharusです。公民館まつり、お疲れ様でした。舞台発表、展示発表、どのサークルもすばらしい。今日もパワーをたくさん頂いてきました。先ほど、スウィング・ベアーズさんの画像をご自宅ポストにお届けしました。ご覧下さい>

・・・・ネット上だけの、知らない人だったのですが、いかん!知られていたのか・・!

【おまけ】

*皆で作るおまつりなのです。

* ざっと25年前ぐらいにできた正風館(公民館などの複合施設)は、たぶん町で最初の3階建てだったように思います。この町には、お茶できる所もなかったのです。なんでも、正風館だったのです。私も、ついこの間、別件で、新聞の取材をうけました。迷わず<正風館>でお合いしましょうと。他は思いつかなかったのです。ここなら、すぐに知人に集まってもらうこともできますし。

* ちょっとした打ち合わせはもちろん、高校生が学校の帰りに、何人かで<宿題?>やっていたり、おじさんが囲碁をうっていたり、新聞各紙を時間かけて読んでいたり、ひとりコーヒーを楽しんでいたり・・・・です。住民にはとても便利な、公民館一階の談話室なのです。

*私にとっては、出かけるとたいてい知っている人がいて、<時には、まずい!>ですが。この地域のコミュニティ・カフェなのです。


アフガニスタンで殺害されたNGOペシャワール伊藤さんの追悼集会に(2008.9.8)

2008-09-08 11:04:54 | Weblog

*9月4日(木)に伊藤和也さん追悼の集まり。

9月4日のことです。ペシャワール会の伊藤和也さんのアフガニスタンでの死、いや殺害の契機に考える追悼の集まりがあるという情報をプリメリアさんからもらったのです。たまたまその日はひとつ雑件があって、午後から東京に出かける予定を持っていました。夜は空いていました。

NGOペシャワールは、パキスタン、アフガニスタンで医療支援する中村哲さんを応援することから始まったNGOです。医療・砂漠の水路つくり、農業支援などの活動は広く知られていると言ってもいいでしょうか。

*集まりでは、たくさんの画像や映像も流されました。

こんどの事件で、中村哲さんが、さいさいニュース映像の中に登場しています。中村哲さんが、ほとんど言葉を発することなく,、私のウチのテレビにも映っていました。

会場は、御茶ノ水の明治大学リバティタワー。早めに出かけるつもりでしたが、開始の6時45分ぎりぎりに駆け込みました。すでに会場は、ぎっしり満員の人です。どうにか、あいている席を見つけました。
テレビ取材なのかカメラも2台もスタンバイしています。初まる前から、集まりに漂う熱気を感じます。

 司会進行は、呼びかけ人、主催者でもある、DAYS・JAPANの広河隆一さん。
パネル・ディスカッション風に始まりました。発言者は、皆さんアフガニスタンの現在に深く関わっておられる次の方々でした。レジメや会場での紹介からを拾い出します。

* 伊勢崎賢治さん;東京外語大教授でアフガニスタンでの武装解除を担当する  日本政府特別代表を務め、 03年~05年に現地で指揮。
*石山永一郎さん;共同通信社編集委員。 今年6月にアフガン東部ジャララバード周辺でペシャワール会の活動などを取材。
*白川 徹さん;アジアプレス所属のジャーナリスト。2006年からアフガニスタンを取材。 今年2月~3月にアフガン東部の米軍基地などを取材。
*長谷部貴俊さん;JVC日本国際ボランティアセンター・ アフガニスタン代表。JVCは05年からジャララバード周辺での 医療支援活動を展開。8月に2週間現地を視察した。
*山元めぐみさん;ピースウィンズジャパンのアフガニスタン代表。

*伊藤さん殺害のニュースが、現地の新聞などに、どう報道されたかの説明がありました。たくさんの新聞が写されました。そのひとつの例です。むろん私は、アラビア文字は読めません。

アフガニスタン現地の人たちのペシャワール会活動への認識・感情、日本への知識・認識、NGO活動への評価について、発言者の実体験を通したお話でした。

アフガニスタンは、報道されているように怖い所ではないのです、と何人もの発言者が話された。
ベトナム戦争の記憶に重なるのです、と共同通信の伊藤さんが話されました。<兵隊か市民の区別が米軍にできなくなっているのです。だから無差別攻撃にならざるをえない。国境を越えてパキスタン側も攻撃しています(ベトナム戦争ではカンボジャ空爆でした)>。
<ペシャワール会が作った水路は、12億円の市民の寄付で作った、日本のゼネコンなら、その5倍、自衛隊が作るといったい、どのくらいかかるんでしょう>、と発言されたのは誰だったでしょう。

<アフガニスタン全土が大変危険な状態であるのではない。そんな危険な状況の中に入って活動しているわけではありません>
<日本に対する感情は、まだまだいいのだが、ただ、NGOとはいえ外国人集団という意識がだんだんでてきているのは事実でしょう>
<アフガニスタン東部の市民は、昼は米国軍隊から、夜はパキスタンから越境してくる過激派勢力から、痛めつけられているのです>

 今、何をしなければならないのですか、というフロアからの質問に、<まず実情を正しく知ること>です。

*集会を報道する翌日9月5日付け朝日新聞朝刊23面。すぐ下側に、その日、中村哲さんが外務省を訪れたニュースも。

<中村元さんは、外務省に出頭などで、出席できませんでした>と司会者。
翌日の新聞報道によると、外務省で<日本人全員を帰国させること>を説明に行っておられたのです。

*会場の中ほどから撮影。

9時という閉会時間限度がなければ、質問、質疑は止まなかったでしょう。
久しぶりに熱のこもった会合に参加しました。出口近くで、並べてあったり、手渡しされるチラシ・パンフをすべて持ち帰りました。混み合う帰りの電車の中で、NGOの人たちの呼びかけを、ひとつひとつ読んでいました。

【おまけ】

この春、私の住む町で長くやっている“平和フェスティバル”に、はじめて手伝うことになった時のことです。旧知のmさんが、フェスティバルのメイン行事に中村哲さんの講演会がやれないかなあ、と話し、一冊の本を貸してくれました。読んで返してしまっているので、今書名が思い出せないのですが。


青春の野菜不足。ニッシンのチキンラーメン50年に感慨(2008.9.6)

2008-09-04 07:57:34 | Weblog

*発売の8月25日には、全面広告。朝日(左)にも日経(右)にも。

まじめな話に戻します。今日、古新聞を探しますと8月20日付けの日経ですから、20日のことです。
<ニッシン、発売50周年を記念して、25日に“チキンラーメン復刻パッケージで発売”>と3段の記事がありました。ああ50年かと、ある種の感慨がわいたのです。人生最終盤になると起こってしまう<振り返える人生>なんです。

*パッケージに明確な記憶はありません。こんな感じだったなあ。

1958年に発売らしい。私のチキンラーメンの明確な記憶は、1962,63年ごろの、学生寮時代のことです。寮の食堂にでかけて、ガスで湯を沸かして食べれば、美味しいと思いつつも、寒くて億劫で、そのまま調理せずにボリボリかじっていた光景です。
その2,3年前には、岡山の山中で親元同居でしたが食べたこともあるでしょう。

それから、テントを背負って山を歩いていた頃、必ずチキンラーメンを持っていたでしょう。凍えるテントで、フォエーブス(炊事用ストーブ)に手をかざしながら、雪を沸かして、ご飯(正確には、冷たくなったご飯)と一緒に(ほおりこんで)チキンラーメンを食べていました。至上の極楽でした。

大阪府下・京阪門真駅近くでアパートを借りていました。自炊生活でしたが、毎日チキンラーメンを食べていたわけではありません。時代はすぐに、お湯をかけるだけから、鍋で炊くラーメンの時代に移ります。
<エースコックのワンタンメン>が大好きで、市場の親父に<大将、キョーは何?>と言われながら、30個入りの箱で買っていました。
スーパーなんてありません。千林(電車で15分ぐらい)に、スーパー・ダイエーができたばかりの頃の話です。・・・・値段の記憶がありません。 30円ぐらいかなあ。

以後順調にインスタント・ラーメンを卒業しました。
そうして、アパートを借りて自炊する息子に、<カップ麺ばかり食べちゃあだめだぞ、一日一食必ず学食で定食を食べること>と説教するように成長したのです。

今、生めん入りのインスタント(?)ラーメンをよく食べます。
札幌だけだったはずが、今や全国どこでもラーメンの名産地です。先日は、阿波踊りに行ったら観光土産屋に“徳島ラーメン”がありました。
近くのスーパー・ヤオコーでは、全国のラーメンが選べます。選ぶのに悩んでいます、どれも美味しそうです。

*撮影禁止と書いてあるヤオコーの棚を撮影するには勇気がいります。値段的には、50年で倍少々になっていますが。物価の変動を考えれば、ぐんと安くなったように思います。

昨日(9月3日)そのヤオコーに行って、ニッシンのチキン・ラーメンの50年復刻パッケージというのを探しました。見つかりません。店員さんに聞くのは<貧しそうで>恥ずかしい。やはり有名デパートの地下でなきゃあ売っていないかなあ。発売と同時に完売だったのかもしれません。まあ、そんな物好きは、いないでしょうが。

それで、現代版のチキンラーメンを買ってきました。乾麺に窪みがあって、そこにナマ玉子を落とせ、と書いてあります。ふ~~んです。

わが青春の、エースコックのワンタンメンですが、必ずナマ玉子、そしてごくまれに葱を入れていましたから…念のため…。 でも、野菜不足だったでしょうね。
いつでも、どんな時代でも、青春は野菜不足です。

【おまけ】

*京阪電車・門真駅近くのアパートは、風呂なし、トイレ共同で、6畳のはしっこに、流しとガスがありました。家賃5,300円。駅まで15秒という距離。履物をアパート入り口でぬぐスタイル、だから大阪ではアパート。

*その次は、ふたりで暮らすようになって、京阪電車の枚方公園駅から7,8分。1K、トイレあり。わが部屋の前に入って靴を脱ぐ。8,000円。こういうのは、文化住宅と言っていました。文化住宅という名前がいいですね。今では、大阪でもアパートというのでしょう。

*お風呂がわが家に登場するのは、もっともっと後の話です。つまり、“♪神田川”を聞くと涙ボロボロですね。公団住宅なんて夢のまた夢でした、落選ハガキの束もさがせばまだ、あるかも知れません。


福田首相辞任で、また乱暴な劇場型政治に戻らねばいいが(2008.9.3)

2008-09-02 19:09:49 | Weblog

おちゃらけをモットーにする当ブログに国政に及ぶ議論は似つかわしくないでしょう。
まあ、それでも、記録にとどめておきます。
月曜夜は、7時からNHK-TVのつけっぱなしです。“鶴瓶の家族に乾杯を”見ています。NHKで今が旬の小野アナウンサーのファンなのです。
終わるや否やだから8時45分ごろでしょう。9時30分に福田首相の緊急記者会見があると特報が入った。とたんに<やめるんだよ>と家人に向けて独り言を発しました。

福田内閣が、昨2007年9月に発足した時に、ほっとした気持ちをもっていたのです。
その前6,7年の乱暴な国政に、いやな気持ちを持ち続けていて、普通の国政に戻るような期待があったのです。政治に実直な姿勢で臨まれたように感じます。与党のもうひとりの党首、野党第一党の党首にはない実直さを感じていたのです。
まあ、それでは政治はできないのでしょう。
劇場型政治、激情煽動型政治なんて、もうコリゴリなのです。

8月1日に、福田首相は内閣を改造し劇場型政治の尻尾を一掃しました。これからを期待していたのです。

私は、この夏8月8日のんびり信州旅行に出ました。
清里の“花みずき”に寄ったおり、プリメリアさんが長野の地元紙・信濃毎日新聞(8月3日付け)を見せてくれました。1面に、この旅の目的<飯田で人形劇の祭典開幕>の大きな記事がありました。それからねと、2面に、“時の顔”というコラムがあって、“紛争地域や貧困の実態を映像と歌で伝える<地球のステージ>を続ける医師・桑山紀彦さん”が大きく紹介されていました。私とプリメリアさんの接点です。

*2008年8月3日付信濃毎日新聞、1面とちょっとめくって2面。

後に聞いた話では、共同通信社の配信のようで、全国の地元紙に載ったようです。

“持っていって下さい。この新聞はたくさん集めていますから”と、プリメリアさん。
その夜、飯田市のビジネス・ホテルでベッドにひっくり返って、持ってきた“その信濃毎日新聞”をめくっていると、4面に、もうひとつの<必ずスクラップすべき記事>にぶつかりました。

*1ヶ月たって、今となっては古新聞か。

経済評論家・内橋克人さんの寄稿でした。 10年にはなりませんが、今の社会の不条理、気味悪さを思っていた私自身が、わが人生の中(時代)にどのように、どうして<悪くなった>のかを明確に教えてくれたのが、内橋克人さんの発言や著作でした。

この頃、大マスコミに、登場することは、ごくまれになっていたのです。
福田改造内閣の課題と題する寄稿です。前の方を、そのまま引用します。

<福田康夫首相の内閣改造からうかがえるのは、二つの原理主義、すなわち小泉政権以来の過剰な市場原理主義と安倍晋三前首相の国家主義から足を洗ったということである。新閣僚の顔触れをみると、構造改革派=上げ潮派が一掃された。小泉・竹中路線が歴史的に「補正」、修正段階に達していることを示している。今更ながら首相が「国民の目線」などと叫ばざるを得なくなったということだ>

ちょっと長いですが・・・中略で、も少し引用します。

<国内経済がやせ細ったのは、家計から企業に巨額の所得移転が行われたこともある。ゼロ金利・超低金利で失われた、家計が本来受け取るべき利息は額は2002年までの10年ほどで339兆円に達した>
<また、労働市場の規制緩和で雇う側の「働かせる自由」が拡大する一方で、働くものの権利は大きく削り落とされてきた。さらに「公共の企業化」の急進で、民営化が進められた結果、市民向けサービスがやせ細った。構造改革がもたらしたこうした新たな、もっと深刻な構造問題に同対応するのか。(後略)>

新聞にも、内閣改造以来、少しですが、“構造改革路線の見直し”が登場してくるようになっていました。内閣=政府与党の路線にそっての報道と感じていたのです。

福田首相の辞任のニュースを聞いて、なんとなく不安を覚えるのです。

 【おまけ】

*何冊も著書がありますが、“悪夢のサイクル<ネオリベラリズム循環>内橋克人著、2006年10月、文芸春秋。

* 私は、朝6時30分に、NHKラジオと一緒に“ラジオ体操”をします。その後に“ビジネス展望”という番組があって、10分ほど、経済評論家や社会評論家の先生が時事解説をします。毎週火曜は、ずっと内橋克人さんの担当でした。時にメモしながら聞いていました。今年2008年3月、番組編成の変更時に、内橋克人さんの担当はなくなりました。

* “降ろせ!”と圧力があったな、と思いました。私だけでなく、聴取者の何人かもそう感じて、NHKに問い合わせたのかもしれません。その後、番組の中で<内橋さんの方から辞退されました>と、1ヶ月ぐらいアナウンスを続けていました。