孫のための本・絵本選びは難しい、アンパンマンを選べば楽ですが(2009.5.30)

2009-05-30 21:07:50 | Weblog

*ここは、私がよく行くTSUTAYAです。店のおねえさんは、何にも言いませんが、私は1冊買うことになります(2009年4月)。

 子どもが本を読むことが好きになるように、ウチは、<本を読みながら子育てをした方>だと思います。その結果、子どもらが成長して、どうなったかは、また別の話です。

 娘の子どもがウチに遊びにきたとき、<親>が見て育った本を、その子が見ています。20年ぐらい前の絵本ですが、<捨てずに>、<捨てられずに>本棚にあるのです。

 時には、新しい本を買ってやろうと思います。ウチに来ると本屋さん<TSUTAYA>に一緒に出かけることもあります。ちょっとした記念日のプレゼントは、本になります。

 小学校に入学したお祝いにと、本を探しました。
<絶対にこれだ>と思ったのが、<ぼくのかえりみち>という本です。
 小学校から、ひとり歩いて帰る<こころ細さ>と、勇気を持ち続けて、ウチに帰りついた喜びを伝える絵本です。

*<ぼくのかえりみち>ひがしちから著、BL出版発行

 1年生になったばかりの孫には、充分に感じられると思います。絵も写実的できれいです。

  しかしです。喜んでいるようすはありません。やっぱり、<アンパンマン>の方がよかったのか。<アンパンマン>なら直接的に喜んでくれたでしょう。

*まだ5月。わいわい楽しく帰ってきます。まだひとりで帰るさびしさは知らないのです(2009年5月)。

 多くの絵本作家さん、児童文学者さんが、心血をそそいだ作品も多くの場合、日の目をみないこともあるでしょう。アンパンマンのついたお菓子がある、ジュースがある、テレビがある<アンパンマン>には、かなわないのです。
 何も考えずに<アンパンマン>を買っておけば楽なのです。

    【おまけ】

*著者のサイン本なのです。

* まあ、読んだ本の記憶、思い、感動は、じわあっと出てくるものです。即効的な反応を期待すべきではないでしょう。わたしゃ、この本、作者のサイン付を選んでいるのです。ここまで言うと、孫のためでなく、選ぶジージーの好みだ、と思われるでしょう。そうかもしれません。

*ウチの孫と孫です。

* むかしは、子どもの本屋さん<クレヨンハウス>をやっていた落合恵子さん、最近は、朝日新聞に子どもの本についてのコラムを連載している俵万智さん、がすすめる本を意識します。落合恵子さんや俵万智さんの、自分が読みたい本と子どもに読ませたい本、それに子どもが喜ぶ本の相関は、どうなんでしょうか。


昔の若者にはお寺めぐりが遊び。お気に入りは飛鳥大仏だった(2009.5.27)

2009-05-28 20:16:03 | Weblog

*私の作品(!)、飛鳥大仏です。モノクロ時代ですから自分で焼いていました。四つ切の印画紙の袋の中にありました。ヒトに見せたことはありません。

 私が大阪(といっても大阪府下)に暮らしていたのは、昭和37年~45年(1962~1970)の9年間です。大雑把にいえば20代は、すべて大阪です。

 その頃のまじめな20代のお遊びに、お寺めぐりがありました。もう少し上の世代は、哲学者・和辻哲郎の<古寺巡礼>を読み、写真家・土門拳の<古寺巡礼>に影響されて、哲学的に古寺めぐりをしたのでしょう。
 私らの時代には、哲学的、文学的な気分は薄れ、ただの見物かデートだったか。

 最近では、中高年向きにお寺まわりのガイド本や雑誌の特集がでていますが、その時代は、むしろ若者向きのハイキング・コース、デート・コースだったのです。

 その頃に親しかった友人の影響で、飛鳥(明日香)をよく歩きました。
 友人は、万葉集の背景を楽しんでいるようで、天の香具山だとか三輪山を見ながら歩きました。むろん、黙っていましたが、私には、私が育った田舎の田んぼ道を歩いていたのと同じでした。でも私は、ところどころにある、目的不明の<石造物>に興味を持つようになっていました。

*お寺では、ガイドブックに朱印をもらいます。

 そうした歩きの中で、飛鳥大仏をみたのです。荒れ果てたお寺ということはありません、ただのお寺、安居院(真言宗だった)です。仏教伝来の時代、飛鳥時代には、飛鳥寺といわれ、お寺は奈良遷都にともない移っていきます。残った廃寺なのです。そこに、見上げる程の大きな釈迦如来があって、飛鳥大仏と呼ばれていました。
 私が、生まれて初めて<じっとみた>仏様でした。なんか、やすらぎを覚える仏様でした。よく見ると傷だらけで痛々しいとすら感じます。
 この仏は、西暦609年に完成ですから、奈良の大仏より150年前、法隆寺よりも古い、日本最古の仏像のようです。しかし、落雷・火災などで、完全に破壊してしまいました。ほんの一部分だけが当時のままなのです。

 文化遺産としての価値も少なく、地元のわずかな人たちの信仰の対象だったのです。拝観料(50円)で見せてもらっていましたが、ほとんど観光客に会わない時代でした。前夜ひとりで、近くの民宿に泊まり、早朝から拝観いや、自由に写真撮影させてもらったこともあります。

*最近の明日香ガイドマップ。

 その後、30年になりますが一度も、飛鳥にいったことはありません。
 その間に、高松塚古墳が発見されるなど、飛鳥時代と明日香の里が、しだいに明らかになって、保存されるようになりました。今、観光の人気スポット、人気コースでしょう。その変貌ぶりをみてみたい。どのあたりの田んぼから遺跡が出たのだろう。一日かかったハイキング・コース、今では、大阪への通勤圏です。田んぼにも分譲住宅がたくさん建ったのでしょうか。

     【おまけ】

*左は、拝観料50円払ったらもらえた栞。右は、ごく薄い本です。<飛鳥寺>坪井清足著、中央公論美術出版、昭和39年2月の発行。定価150円です。

*その頃、私が持ち歩いていたガイドッブックは、この一冊です。あちこちのページに、訪ねたお寺の、朱印やスタンプが押してあります。表紙の色がきれいなのは、左のブックカバーをかけていたためです。<ガイドシリーズ4-京都と奈良>、日本交通公社、昭和37年10月発行、定価130円です。

*友人と一緒の明日香散歩の中で、その頃、甘樫の丘で行われていた<万葉月見の夕べ>といったイベントにも、何度かいっています。中秋の名月を観ながら。万葉の大学者で歌人の犬養孝さんが朗々と歌われる万葉短歌や解説を聞いたり、後に高松塚古墳を発見される<地元の研究者>網干善教さんのお話を聞いたりしました。今から思えば、<お金をかけずに>贅沢な時を過ごしていたのです。


阿修羅展に行きました。美少年でしたが仏(ほとけ)ではないなあ(2009.5.27)

2009-05-27 19:05:13 | Weblog

*ここから先は、撮影禁止です。

 左腕あたりの痛みも消えないまま、気分もやや不調のまま、随分前から家人との約束があって、上野に<阿修羅展>行きました。

 朝日新聞も主催者のひとつです。大きな特集記事が何度も紙面に載りました。 TSUTAYAに並ぶ雑誌の表紙にも<阿修羅>がずらりと並んでいました。むろんNHKも大きな番組を放映していました。メデイアが一斉にあおると、社会現象になってしまいます。

 平日ですが会期終了が近いから混雑を予想して、9時半開館前をめざし、9時10分に着きました。並んでいます。ずら~と並んでいましたが、9時40分頃には会場に入れました。


*並んでいますが、9時40分には入れました。

 先日の朝日新聞によると、大江健三郎さんは、特別待遇でなく、並んで皆さんと同じように<阿修羅>をご覧になったようです。押されながら、人と人の間からみた、そうして、次の足の置き場を探していた(・・・と、こんな風にかかれていた、ように思います)。

 若い男性係員がスピーカーで叫びます。<止まらないで下さい。時計方向に進んで下さい。止まらないで下さい>。
 <阿修羅>と対面した感じたさまざまな思いがあります。手を合わせている人の思いも、静かなそれぞれの対面を、ぶち壊すように叫びます。今日の混み具合なら、自然にまかせた方がよかったでしょうに。

 美少年でした。なんとも言い表すことができない表情でした。あまりにリアルな少年の像でした。

 私の知人にも、古くからの<阿修羅>様のファンがいます。
 私は、どちらかというと悟りを語りかける仏(ほとけ)に魅かれます。
 御仏(みほとけ)は、私より年長でなければなりません。

 <阿修羅>らの天平仏は、インド・ガンダーラ伝来のお姿でしょうか。隣の部屋に展示されていた<鎌倉仏>は、力強さと大きさで圧倒します、インド・中国から脱した日本の仏様でした。

*阿修羅って何?といわれそうなので、チラシの写真を載せます。

 この展示は、東京のあと、福岡に巡演されるとのことです。そうして、奈良・興福寺に戻り、10月17日から、阿修羅展・帰山記念の<国宝特別公開>展が開かれるそうです。
  <お堂でみてこその阿修羅様>でしょうね。


学童保育・放課後学級に入れたらいいのに、子育て日本一の市に住んで(2009.5.26)

2009-05-26 10:24:38 | Weblog

*新一年生に4月のお迎えは必須です。

 ウチの娘の子が、この4月から1年生になりました。娘は、世間の同年代と同じように働いています。
 ふたりの子どもを、市立の保育園に入れて(そう簡単には入れなかったのですが)、働いてきました。仕事が終わる夕方まで預かってくれる保育園です。

 ひとりが<めでたく小学校に上がりました>。その市立の小学校に、学童保育というのか放課後学級というのか、はあるのですが、事情があって<入れませんでした>、空き待ちの状態です。でも仕事をやめることはできません。

 そこで<老・グランド・・・・>の登場です。私らのどっちかが、車を30分ほど走らせて、通いで<放課後学級>を引き受けています。

 私ら、<暇にみえる老人>がいるウチは、まあ工夫の可能性があるとして、例えば、田舎から出てきて働いている若者はどうするんだろうか。
 今は、ふたりで働かなくてはやっていけない時代です。私らの子育て時代とは全く違うでしょう。

 もっとも娘の住む隣の市と違って、 私の住む春日部市は、<日本一子育てしやすい町>です。このあたりについて、若いお母さんの悩みは、問題なしの市なのでしょう。

      【おまけ】

*通学路沿いのオタクの庭にありました。

*10年ほど前、これからの社会は<男女共同参画>と激しく言う時代がありました。それに呼応して、働いている女性(進歩的な女性学者かもしれない)から、働かないのに税優遇がされていてけしからん、という声をあげさせ、要望にそって、として<配偶者控除>をやめてしまった政府があります。そうして、子育て中であろうが、なかろうが、働かなきゃあ生活がなりたたない社会にしたのです、・・・・と思います。これらも戦略だったなのでしょうね。ちょっと良さそうにみえることでも、ほんとうの狙いが隠れていることが、このごろ目にあまります。


肩もこらない<のうてんき>な私に左肩左腕に激しい痛み、ヘルプです(2009.5.25)

2009-05-25 22:55:52 | Weblog

*とりあえず読んでみましたが。

 いつからかよくわかりません。たまらなく痛くなったのは、2,3日前からのことです。寝違えた朝の<首の痛さ>のような痛さが続きます。ヘルプ、なのです。
どなたか、対処法を教えて下さい。

 24日(日)の夜は、痛くて寝られず、23日(土)の夜には、寝た(横になった)時が痛いことに気づきました。
 きっかけが何もないのです。23日(土)の夕刻がバンド(ギター)の練習日、19日(火)夕刻が三味線の練習日です。この頃、ハードに弾きませんし、関係ありそうもありません。

 今日、25日(日)は、一日中、左肩、左腕から左肘がしびれています。
 楽な、痛くない姿勢は、左腕をあげておくことです。 パソコンは、右手の人差し指1本うちだから、問題なし、物を考えるのも右手に鉛筆があれば、問題なし、なんですが。
 困った、今夜も、横になって寝ようとするとき、痛くて寝られない・・・・。

 家人は、身体の左右の、全体のバランスを崩したことによる、負担の偏りによる、コリ、肩凝りだろう、といいます。

 1月末に割腹しました。「みぞおち」のあたりから、左下わき腹にかけて30cm弱切っています。傷口は、左下あたりが、今でもピリピリします。それに、左の臓器をひとつ、<両手でひとすくい>ほど取り出しています。意識はしませんが、姿勢が、左の前に傾いているでしょう。

 身体の左右、全体バランスを崩したことによる、負担の偏りによる、コリ、肩凝りだろう、といわれても、<私は、肩凝りがわからない、肩凝りの痛さがわからない人です>。

 肩もこらない、悩まない<のうてんきな人>と思われて、言われてきました。
 わが<この悩み多き人生>を知らずして、なんということでしょう。人一倍悩んで生きてきたのにです。

 それはいい。この痛みをどうしたらいいのでしょうか。
 40腰、50肩の年齢はとっくにすぎています。
 臓器摘出による影響が何かあるだろうとは思っていましたが。年齢のせいか。ここから、この痛みとずっと同行しなければならないのか。

 マッサージがいいのか、指圧が効くのか、<書庫を探し、家人のツボの本を読んでみました。身体中一面ツボだらけです>。どうしていいのか、余計わからなくなります。
 夜中に、<足がつって>親指を、どっちに曲げれば治るのか、わからなくて、両方やって、いっこうに治らないこともありました。そんな感じが続いています。

     【おまけ】

*ご近所の、主がいなくなっても空き地に咲く赤いバラです。

* <のうてんき>って、どんな漢字を書くのだったか、ネット辞書で探してみました。 能天気、脳天気、能転機、どれでもいいらしい。と、いうのもへんですね。


私の育った岡山のかしわ餅の葉っぱと東京の葉っぱは違います(2009.5.20)

2009-05-20 21:16:20 | Weblog

*東京のかしわ餅の葉っぱ。撮影は5月初旬。

 とっくに端午の節句、かしわ餅のシーズンは終わりましたが、まだ5月、昨日今日と五月晴れ(さつきばれ)です。だから、<かしわ餅の葉っぱ>の話です。

 岡山県の山間部に育って、花の東京、都会に出てきて、方言と同じように、風習の違いに<戸惑う>のでなく、私の知っている、育った田舎の、風習が<暗いもの>と思えることがありました。
 そのひとつが、かしわ餅の葉っぱなのです。東京のお店に並んでいるかしわ餅の葉っぱは、<柏の木>葉っぱです。私のウチの、かしわ餅の葉っぱ、子どもの頃に母親から山に行って採ってくるようにいわれていた葉っぱとはまるで違います。

 <ウチは貧しくて、買えずに山に代用品を採りに行っていた>といった気分すら湧いてきて、<ウチだけだったのかなあ>と思い、<かしわ餅の葉っぱが違う>と言えなかったのです。

 それで、また新聞記事の話。 4月中旬~5月初旬の朝日新聞のコラムです。ついこの間、リサイクルに出してしまったので、記事の現物は手元にありません。

 <かしわ餅の葉っぱは、関東と関西とは違う>という記事でした。柏の木のない関西、大阪も、九州もみんな、岡山の山の中で<私が採っていた葉っぱ>だったのです。その葉っぱの名前ですが、私らは、ただ<かしわの葉>だったのです。
 正式な名前も載っていましたが、覚えられない名前でした。

*岡山のまあるい♡型の<かしわ餅の葉っぱ>

 それで、さっきネットで探しました。<サルトリイバラ>だとか、サルトリイバラ科の<さんきらい(山帰来)>とか、の名前がでてきました。
 九州なんかでは、さんきら餅、さんきら饅頭と、かしわ餅と明確にわけている所もあるようです。

 いずれにしても、かしわ餅は、江戸・関東の武家の風習です。柏の木のなかった地域、関西では<代用品のかしわ餅>を作ったようです。
 さて、今はどうでしょうか。わが岡山の今の<かしわ餅の葉っぱ>は、お店に売っているものは、ほんとうの<柏の木の葉っぱ>でしょう。

 ネット情報には、<柏の木の葉っぱ>もまた中国から輸入だと、書いているものもありました。ここでもまた、地方の風習=文化が消えているのです。

 私は、裏の山で<かしわ餅の葉っぱ>が採れる所を知っていました。なぜか近所の子どもらと大勢で採りに行った記憶がありません。いつも一人だったように思うのです。
 そうして、その時期が過ぎると、裏の山には行きません。雑草が生い茂り、日中でも暗く、怖くなります。<ハミ=マムシ>の季節になるのです。
 50年前の話です。

     【おまけ】

*五月晴れの今日、ウチの木も繁ります。

*「かしわ」は古くは、食物を包んだり、覆ったりした植物の葉の総称で、「炊葉(かしぎば)」の転じた語ではないかと言われています。かしわの葉はしなやかで、食べ物を盛るのには都合がよく、古くから食器として使われてきました。江戸時代から、かしわ餅は端午の節句には必ず備えられ、桜餅とならんで、年中行事の中の代表的な和菓子になりました(ネット情報から)。


私も本当は大阪万博のシンボル<太陽の塔>は好きじゃないのです(2009.5.19)

2009-05-19 17:20:44 | Weblog

*1970年の大阪万博で私が愛用したガイドブック<コンピュータの最先端利用技術に注目>、いやただ感嘆していました。

 ちっとも発言せずにいて、誰かの発言の後に<実は私もそう思っていました>という<後だしジャンケン>みたいですが、<私も本当は大阪万博のシンボル・太陽の塔は好きじゃなかったのです>と書いてみます。

 たまたま2,3日前のこのブログで、ケンタッキー・フライド・チキンを初めて食べたのは、大阪万博です、と書きました。翌日(5月18日)の日本経済新聞朝刊の最終面<私の履歴書>。
 今月は、磯崎新さんの<私の履歴書>です。<お祭り広場・・・太陽の塔・いやーな感じ>と見出しがついていました。
 大阪万博の基本設計を東大の都市工が担当し、磯崎さんは、丹下健三さんのもとで実行部隊長とし万博会場の設計にかかわっておられたのです。

*日経2009年5月18日付36面

 ちょっと長いですが、そのまま引用します。
 <近代主義的なユートピア像やテクノロジー信仰に満ちあふれていたこの場に、原始的異物を出現させた人がいた。岡本太郎さんだ。・・・・・・・・・太陽の塔の模型を見せられて、私は奇っ怪でいやーな地霊がどんと顔を出した。時代錯誤的にみえるがモダニズムを突き抜けるような拒絶し難い存在感があった。・・・・芸術活動を共にしながらも気質がまるで違う太郎さんに対して、丹下さんはラブ&ヘイトといえる感情を持っていた> 。

 ちょっと難しい文章です。見出しに<いやーな感じ>とつけたのは、担当の文化部記者さんでしょうか。直接的に本文には出てきません、ちょっと違うかも知れません。でも、全体設計チームには<いやーな感じ>だったのでしょう。

 私は、この太陽の塔のよさが全然わからなかった、この前衛アートが全然わからなかったのです。
 翌日(5月19日)の<私の履歴書>の中で、その意味に触れられています。 それでもわかりません。

 万博会場には、当時5回くらいいきましたが、じっと太陽の塔を見たことはありません。対峙したことはないのです。その前で記念写真すら撮っていません。

 それでも、数ある国内の万博で、その後も保存されているのは太陽の塔だけです。つまり見事な芸術作品だったのでしょう。
 一度出かけて、じっと見てみなければと思ったりしています。

*これも<私が愛用したガイドブック=週刊朝日の増刊号>です。

*私のガイドブックに、スタンプを押してまわっていました。小学校の遠足みたいです。出かけることができるなんて、全く想像しなかった<外国のパビリオン>にわくわくしていました。

     【おまけ】

* この頃、あちこちにあふれている<ユルキャラ>と称する<人形>が大嫌いです。太陽の塔は、元祖<ユルキャラ>なのかもしれません。

* 太陽の塔のホームページを覗いたら、<こんなこと書いていると袋叩きにあいそう>と感じます。芸術なのです。<ホームページはここです>

* 大阪万博は、1970年3月から9月まででした。5回のうち3回は、たったひとりで行きました。そうして、1970年の特別な日7月1日の前日6月30日に、大阪から別れて札幌に向かいました。それに、1960年の今日5月19日は、これまた特別な日です。

* 今日(5月19日)の日経には、<上海万博・開幕まであと1年>の見開き特集(24,25面)がありました。来年は、上海に行ってみよう。中国は行ったことがありません。


埼玉県杉戸町住民が春日部市との合併にNOと意思表示(2009.5.18)

2009-05-18 18:50:19 | Weblog

*朝日新聞2009年5月18日付29(埼玉東部)面

 昨日(5月17日)、杉戸町で、春日部市との合併に、<賛成か、反対か>の住民投票がありました。
 今朝(18日)の朝日新聞の報道によると、結果は、反対13,212票。賛成9,823票です。投票率は、58.66%。

 杉戸町の住民は、春日部市との合併に、NOと意思表示をしたのです。

 春日部市と私ら春日部市の住民は、このことを<真摯(!)に受止める>必要があります。
 といっても、これは、ただただ杉戸町の問題で、春日部市民にとっての<問題ではありません>のムードです。 迎える側の<気持ち>は関係なし、です。
 それでいいのかな、と思わないでもないのです。

 3年ほど前に、春日部市と合併した旧庄和町民としてみれば、そのときも<春日部市>、<春日部市の住民>側の気持ちは、今回の杉戸町との合併の場合と同じだったのかな、と思います。
 いや、対等合併だとか、吸収合併だとか、そんなのは言葉の遊びなのでしょうか。

 その時、春日部市と庄和町、宮代町、杉戸町が<大きな展望>のもとに、1市3町合併の計画でスタートしたのですが、宮代町、杉戸町が、<おりた>のです。理由は知りません。
 そして、私ら庄和町民だけ、春日部市民になったのです。もう、戻れません。


*合併を、この祝賀ビールで祝ったようです。私は、このビールを春日部にあるロビンソン・デパートで買いました。

 春日部市民の一人として、杉戸町住民に、またも<そでにされた>ことは、気分がいいわけはありません。
 未練がましい、<こっちの方から>もうすっぱり切るべきでしょう。

 今の春日部市民だけで、より良い春日部市を作っていけばいいのです。

  【追加情報(5月22日)】

*宮代町長は、21日、春日部市長に、<春日部市、杉戸町、宮代町との合併研究会の解散を申し入れた>。(朝日新聞2009年5月22日朝刊31面)


ケンタッキー・フライド・チキンを初めて食べたのは、いつですか?(2009.5.16)

2009-05-16 21:58:37 | Weblog

*これは今。春日部駅前店で(2009年5月)。

 昨日のブログで、コカ・コーラを初めて飲んだ時のことを書きました。今日は、ケンタッキー・フライド・チキンを初めて食べた日のことにします。
 日本の大衆文化のアメリカ化の流れ<研究>に役立つかも知れません。いやただの懐かしの<わが大阪・青春時代>の昔話にすぎません。

 ケンタッキー・フライド・チキンを初めて食べたのは、大阪万国博(1970年3月~9月)の会場で、です。 大阪・京阪電車沿線に、今もなお一緒に暮らしている人と<一緒に暮らす>ようになっていました。
 1DKの大阪流にいえば文化住宅です。<風呂なし・トイレあり>です。文化住宅とは、よく言ったものです。今でも、大阪では文化住宅といっているのだろうか。
むろん、文化的とは、ほど遠い生活でした。

 大阪万国博の見物に、岡山から<両親>が出てきました。4人で万博(万国博)に出かけました。日本全国から、<万博へ、バンパクへ>だったのです。

*週刊朝日;万国博特集号です。日本万国博になっています。今では、誰も日本万国博とは言いません。大阪万博です。

 その万博で覚えているのは、お昼の時間に、会場内のレストラン・食堂がどこも満員だったことです。待っても入れそうもないのです。

 そこで見つけたのが、ランチボックスを買って、会場内の公園で食べることでした。
そういうこと自体が初めてだったのです。
 買ったのは、ケンタッキー・フライド・チキンだったのです。大き目のボックスひとつを、皆で食べたのです。今の私ぐらいの年齢の両親と一緒に食べたのです。
 皆、フライド・チキンに、かぶりついたのです。美味しかった。ほんとに美味しかったのです。

 ネットで調べてみると、ケンタッキー・フライド・チキンが、日本で登場したのは、大阪万国博が初めてだったのです。

 その後の、ケンタッキー・フライド・チキンとの明確な接点は、思い出しません。お誕生日パックやクリスマスパックを、わが家で買ったことはありません。

 ただし、アメリカに出張にいって、<ひとりホテル>で食べていたことは明確に覚えています。アメリカの黒人たち、貧しき最下層の黒人たちの食べ物を<ソウル・フード>と呼びます。ケンタッキー・フライド・チキンもまた、その原型は<ソウル・フード>だったのです。

    【おまけ】

*<ソウル・フード>について、このブログで書いたことがあります。<ここです>


コカコーラを初めて飲んだのはいつですか?と聞かれました(2009.5.15)

2009-05-15 23:34:58 | Weblog

*いつの間にか、ビン入りのコーラはなくなった。ほんと、いつの間にかです。

 先日、私より(たぶん)ひとまわりほど若い知人の女性に、<コーラを初めて飲んだのはいつですか?>と聞かれました。
 これが、現代の若者への質問だったら、単純に子どもからおとなへの成長過程との関連の質問になるでしょうが、私ら高年者への質問だったら、ちょっと様相が違ってきます。

 私が、コカ・コーラを初めて飲んだのは、学生時代の夏休み、1963年(昭和38年)のことです。初めてコーラを飲んでいる私の状況をかなり鮮明に覚えています。喫茶店で、女友だちと差し向かいに座ってのコーラではありません。

 学資稼ぎにアルバイトが必要だった私は通年、学習塾で中学生を教えていましたが、夏休みは、<デパートのお中元の配達>のバイトをやりました。自転車に荷物を積んでの配達です。配達個数が賃金に直結するシステムです。ビール1ダース箱入りもあります。自転車には2箱しか積めません。

 炎天下を走り回るという<体力上のきつさ>があったわけではありませんが、走りながら、<常にわびしさ>を噛みしめていたように思います。
  昼食は、いつも<冷やしうどん>でした。やたらと、水が飲みたくなるバイトでした。食堂では、何杯もの水を飲みました。だから<冷やしうどん>でした。

 ある時、<コーラ>も頼んだのです。<青春している都会の若者のコカ・コーラ>を頼んでみたのです。
 <青春している都会の若者のコカ・コーラ>のイメージをどこから持ったのか、むろんテレビなく、ラジオも身の回りにはありません。

 <コカ・コーラ>のその時の<味>の印象をここに書くことはできません。値段も覚えていません。サイダーも贅沢、せいぜい<ラムネ>の時代でした。

*立石勝規著、2009年3月、講談社発行。

 コーラの質問をもらった翌日、春日部市立図書館に行くことがあって、新刊棚から持ち帰った本の中に、5,6冊の中に<なぜ三ツ矢サイダーは、生き残れたのか>というタイトルの本がありました。サブタイトル<夏目漱石、宮沢賢治が愛した「命の水」125年>から読んでみようかと思ったのです。

 その中に、<コーラの日本進出>の説明がありました。

*1955(昭和31);政府はコーラ飲料の国内販売先を外国人が多く利用するホテル、ゴルフ場、外国公館での販売に限るとして輸入を認可。
*1961(昭和36):コーラ飲料の完全自由化。
*1962(昭和37):東京コカ・コーラが販売を開始。

 そして、<コカ・コーラの完全自由化は、戦後日本が新しい時代に入ったことを象徴する出来事の一つだ>と書いています。

 その次の年、<私も>コカ・コーラを飲んだのです。私が、喫茶店で、コーラを飲むようになったのは、1964(昭和39)年に社会人になってからの、1966~67頃からでしょう。


1960年代の大阪にオオサカ・グランド・オール・オープリーがありました(2009.5.13)

2009-05-13 23:33:23 | Weblog

*一番上のチラシに、40年12月23日と書いてあります。昭和40年=1965年のクリスマス・パーティ・コンサートでしょう。ほとんどチラシに<実施年>が書いてありません。<今年の>に決まっているわけですが。この頃、私が作るチラシには、必ず<年>を入れています。

 ここ2,3日、ウチで探し物をしています。探し物の最中に、<探していない>大阪で暮らしていた頃を思い出すものが、いくつか出てきました。大阪には、1962年から1970年まで暮らしていました。

 大阪時代の話は、このブログで書いたことがありません。そこで今日は、オオサカ・グランド・オール・オープリー(Osaka-Grand-Ole-Opry)のお話です。

 カントリー・ミュジックの中心地は、アメリカ・テネシー州ナッシュヴィルです。そこで開かれる、カントリー&ウェスタン・ミュージックのお祭りコンサートがグランド・オール・オープリーです。その大阪版です。つまり大阪のカントリー&ウェスタン・ミュージックの好きの集まりが、オオサカ・グランド・オール・オープリーです。

 カントリー系、ブルーグラス系の学生バンド、社会人バンド、そして、だんだんとフォーク系のバンドも増えていったように思います。
 私が、<出ていた>わけではありません。そこらにいた、そこらで遊んでいたというだけのことです。

*何枚もチラシを保存していました。ファンの心理みたいなものでしょう。何枚もLPレコードを買っています。

 例会の中で<レスター・フラット&アール・スクラグッスとフォーギー・マウンテン・プレイボーイズ>のコンサートも開いています。前座でアマチュアバンドが出演したのです。レスター・フラット(ギター)、アール・スクラグッス(バンジョー)なんて、憧れも憧れ、憧れ以上のレコードの世界の人でした。

 チラシが数点、チケット、パテーティ券の半券なんかも出てきました。写真は、ほとんどなしですが、ギターを抱えている写真がなくもないです。

 私自身が次第に、プロテスト・ソング、わかりやすくいえば社会派フォーク、もっとわかりやすくいえば、当時そんな言い方はありませんでしたが、<関西フォーク?>に関心を移していきます。

 ピート・シーガーやジョーン・バエズが大阪でコンサート開いたのは、1967年でしたか。その頃の<ブルー・フリー・メン>なんて、覚えている人がいたら、ぞっとしますね。

    【おまけ】

* <はたち・そこそこ>といえば、大阪です。<キタ>の、モコ、田園といった<純喫茶>、その間にあった<不純喫茶>は同伴喫茶といった、カントリーのマンハッタン、モダンジャズのファンキー、を思いだします。、1960年代の話です。コーヒーがいくらだったのか。ミンミンで、餃子とモヤシ炒めばかり食べていました。だいじなギターも何度か、質屋を出入りしていた時代の話です。


カリフォルニア・オレンジの空き箱がちょっと綺麗だったので(2009.5.12)

2009-05-12 23:02:01 | Weblog

*ここから拾ってきました。まあ、アホですね。

 用事もないのに、スーパーマーケット・ヤオコーとTSUTAYAに、ほぼ毎日でかけます。散歩というか、<日々2000歩生活>解消のためです。

 今日(12日)、ヤオコーで、<お持ち帰りOK>のダンボール箱の中に、綺麗でちょっと魅かれるデザインの箱がありました。<カリフォルニア・オレンジ>の空き箱でした。それを、なんと持ち帰ったのです。むろん、生鮮果物用ですから、いくつもアナがあいていて、箱としては使えません。

  昔は、りんごやみかんの木箱に貼ってあった<レッテル>、<ラベル>が、とても綺麗でした。丁寧に剥がして集めていた人もあったでしょう。でも最近、例えば<みかん>を箱単位で買うことがありますが、ダンボールの箱は、ただ普通の箱です。
 たまたま、今日、ヤオコーで、見つけたオレンジの箱は、ちょっと綺麗だったのです。それでも、何の役にも立ちません。まあ、アホですね。

*カリフォルニア・ネーブルの空き箱

*フロリダ・グレープフルーツの空き箱

     【おまけ】

* カリフォルニアのリバーサイドという町に、何度か仕事で行き、1ヶ月ほどいたこともあります。現役中には多少濃い仕事関係があって、特別な思いがありました。またカリフォルニア・オレンジ生産発祥の地でもあります。リバーサイドのおみやげ物屋さんには、昔の<みかん箱のラベル>を売っていました。コレクション意欲を起こすほどきれいな物でした。私が買っていたわけではありません。買っておけばよかったと思うことがあります。

*<アメリカのおいしい食卓>徳井いつこ著、平凡社、2001年8月発行

* そんなラベルを散りばめた表紙の本がありました。そもそもリバーサイドは、日本の出版物、<地球の歩き方>などのガイドブックにも出てきません。このラベルの表紙を見たと時に、リバーサイドが出てくるかもしれないと思ったのです。出てきました。オレンジ生産の発祥の地、リバーサイドを紹介しています。このブログに書いたこともあります。<ここです>


ペルー・ナスカ地上絵に出かけた知人のおみやげ+α(2009.5.10)

2009-05-10 10:01:17 | Weblog

*南米ペルーのおみやげ、おいしいチョコレート。

 5月の連休に、家人の知人さんが、南米・ペルーの旅に行かれたようです。昨日(9日)、おみやげにチョコレートをいただきました。

 チョコレートの包装が、<ちょっといい>のです。ナスカの地上絵、砂漠に掘られた大きな絵が印刷されている包装紙、チョコレートの包み方が、<ちょっといい>のです。決して、美しくありません、きらびやかでないところがいいのです。

*こんな絵がいくつも、砂漠に描かれているのです。ペルーの人たちが、ひとつひとつ包むのでしょうね。包み紙のはしにハサミが入っていて、まるで<七夕かざり>を思います。

 これでおしまいに、なりそうですから、ちょっと解説(?)。
誰が、なんのために、大地に、こんな絵を描いたのか。いくつか<研究からの推定>があるようですが、はっきりしないらしい。紀元前、つまり2000年も前のことです。

*中学1年の時、海の向こうの岡山県から遠足に来ました(写真は、観音寺市のホームページから)。

 砂漠に大きな絵、といっても、200mとか300mということなら、日本にもあります。
香川県観音寺市の瀬戸内海に面した砂浜に、直径<100m>ほどの<寛永通宝>が彫ってあります。江戸時代の初めのことです。こんなもの作る意味ってなんでしょう、と書いて、現代に作られて、遠い未来の人たちに、<なんだろう、なぜだろう>と思わせる造作物は、いっぱいあるなあ、と思ったのです。

 【おまけ】

*こちらは、息子の南紀みやげ。八百屋で買った夏みかんは、ひとつ食べたそうです。

* ウチの息子、例年なら5月の連休には、テントを乗せて、オートバイ・ツーリングに出かけるのですが、今年は、南紀・熊野古道あたりに、列車で出かけたようです。現地から<今日は走った>とのメールが届きました。マラソンシューズの準備もしていたようです。

*右は、さざえ。左は、何でしょうか。

* 和歌山なら、<魚食べたか?>問いに、<食べたよ>の返事でした。デジカメに、わけのわからない魚の写真がありました。
>>>聞けば、すぐわかることです。聞きました。<はさみ海老>だったかな、との返事。おいしかった?まあ、ふつう・・・。


お土産は、ハグ・プラネット(惑星)(ロスアンゼルス3日間・給付金の旅⑥)(2009.5.9)

2009-05-10 05:56:34 | Weblog

*おみやげの<ハグ月>と<ハグ火星>

 英語は、決してうまくはありませんが、中学1年生で英語に触れて何十年でしょう。アメリカひとり旅ぐらいはできます。でも最近まで、ハグする(という日本語)、つまりHugという英語を知らなかったのだから偉そうにも言えません。

 ロスアンゼルスの旅の最後に、丘の上にあるグリフィス天文台(Grifith-Observatory)、今は天文博物館、に出かけ、おみやげショップで、ちょっと不思議なものをみつけました。

 地球儀があるように、火星儀、月球儀があります。日本でもデパートには売っていないかもしれませんが大きな文房具店(東京では丸善とか伊東屋)では売っています。

 いい、ちゃんとした地球儀がほしいと思っていたことがあります。が、置くスペースと実用性のことから、買うことにいたりませんでした。ましてや、火星儀、月儀なんて、天文少年だった私ですが、やはり買えません。

 おみやげ売り場に、こどもが喜びそうな<ふにゃふにゃした>不思議なものを見つけました。手にとってみると、火星なのです。表面に<火星の地図>が印刷してあるのです。米国やソ連の火星探査機の着陸地点も書いてあります。けっこう正確な地図ように見えます。直径7、8cmの月も、こどもが投げて遊ぶ大きさで転がっていました。

 <こどもだまし>のおもちゃと思って、その店を一度出たのですが、なんかひかれるものがあって、引き返して買ったのです。火星が10$、月が5$でした。ホテルに帰って、もてあそんでいて、タグにHUG-PLANETと書いてありました。

  HUG(ハグ)という言葉の使い方をひとつ覚えました。抱き人形、抱き枕と同じように、<抱き惑星>なのです。いいお土産になりました。
 孫のおもちゃにはもったいないような気もします。月面地図、火星面地図の図柄に関心を持ってくれるといいのですが。10年先のことでしょう。そして、こども向きのおもちゃにも、<本物を>と考える大人がアメリカにはいるんだ、と思ったりします。

*この会社のWebによると、<ハグ・アース;抱き地球>も売っているようです。<ここにあります>

*山の上のグリフィス天文台は、車で行けますが、ここら一体がピクニックエリア。いいお天気の日曜日、道路にぎっしり駐車されており、下の方から随分歩きました。

*今は、プラネタリウム・天文博物館です。

*この展示は、赤の点の所が、南カリフォルニアの隕石が落下した場所を表示しています。この地域は、特に隕石の落下が多い地域らしいのです。左下の石は、隕石です。こういう話が大好きですね。

*ここは、ジェームス・ディーンの映画に登場します。

*山の上から見た、見納めのロスアンゼルスです。翌朝、空港に向かったのです。そして、短い旅は終わりました。


ローズボール・フリーマーケットへ(ロスアンゼルス3日間・給付金の旅⑤)(2009.5.8)

2009-05-08 18:34:11 | Weblog

*ローズボール(Rose-Bowl)会場です。

 3日目です。全米最大のフリーマーケットは、毎月第2日曜に、パサデナのフットボール場であるローズボールで開かれます。それに合わせて、パサデナのモーテル・ベスト・ウエスタンに泊まっていたのです。

*都心のホテルよりモーテルが気楽です。第一!駐車料金がいらない。

 早朝、4時とか5時に起きるはずだったのですが、いつも早く起きてしまう私も眼が覚めず、飛び起きたのは8時前、“夏の太陽”はもう高かったのです。

*急げ、急げ、ローズボールへ急ごう。

 広大な駐車場は、もういっぱいです。かなり歩いて入場します。だんだん<宝さがし>のように気分が高揚します。
<定額給付金での旅だからお金ないぞ!!>と言い聞かせます。

 

*ロック・ポスターが気になります。

*おなじみのウッドストック(1969)のポスター、本物です。ぐっと我慢です。

*映画イージーライダーのポスター、買わない。

*息子と別行動。何を買ったのか今も知りません。

*エジソン円筒型(蝋管)蓄音機、値段も見ない。

 フリーマーケットです。日本の、やたら値のはる<骨董>フェアとは違います。買えそうで楽しい。日本の<古着屋さん>らしい若者が、やたら買っていました。<若者のリサイクル・ビジネス>です。クロネコヤマトの宅急便が<日本語で>店を出していて、会場からすぐに送ってくれるらしい。

  場内を行きつ戻りつしながら12時頃までいて、パサデナから、さらに東へ向かいます。フリーウェイで1時間、オンタリオ空港のそば、ショッピング・モール<オンタリオ・ミルズ>へ。アメリカ西海岸最大級らしいのですが、私に、そのあたりの知識は全くありません。息子もまた、何か買ったようには思いません。

 それから、フリーウェイを飛ばして、西へ、ロスアンゼルスに戻ります。

*片方向5車線のフリーウェイにもすっかり慣れました。

     【おまけ】

*入場チケットは、9時から3時までが、8$(800円)です。ちょっと見づらいですが、左上、アーリー・バード(早起き鳥)時間では、5時から7時に入ると入場料は20$(2000円)、7時から8時では15$(1500円)、8時から9時では10$(1000円)なのです。早く行けば、<掘り出し物>があったのでしょうか。いい物は、人より早く、なのです。私らも、5時オープンを知っていたのですが、ぐっすり寝てしまったのです。

*さて、私は何も買いませんでした。古レコードも、古本もあるのですが、雑貨とごっちゃに並んでいて、ここでは、丁寧に見る気持ちになりません。ここでは、やっぱ雑貨でしょう。

*でも、一冊というか、三冊セットの本、厚さ11センチの、HDソローの<森の生活・ウォールデン他>を買いました。12$(1200円)でお買い得なのですが、重かった。まあ、読まないでしょうが、何も買わずに終わりそうだったので、<何か買わなきゃ・・・と少し焦って>、まあ記念ですね。