私が使ってきたザックの話 (2006.9.28)

2006-09-28 20:03:28 | Weblog

ブログの先輩“やさしい時間”のRさんが、来週“グレゴリー”のバッグを持って北海道旅行するらしい。
ブログ・ネタに困っていたので、北海道とザック(リュックサック)の話にします。また古いお話しになってしまいます。

よく山に行ってました。リュックサックは、1960年ぐらいまでは、皆、横長で帆布(キャンバス)製のキスリングでした。ちょっと先鋭的なクライマーは、小さなアタック・ザックをかっこよく背負っていました。1970年に札幌に移住し、北海道の山を歩くようなって、キスリングを捨て、ちょっと大き目のアタック・ザックを買った。その頃、道具は、ほとんど国産でしたね。札幌・北海道大学前の通りから一本東の通りにあった“秀岳荘”という山道具屋で買いました。秀岳荘には、ほんとよく出かけていたのです。このザックは、ただのズタ袋(写真①)です。キスリングもそうですが、詰め方(パッキング)が重要なのです。最近のザックは、パッキングを考えなくても、バランスよく、背負いやすくなりますが、昔のザックは違うのです。 パッキング技術と経験が必要だったのです。

米国では、1960年代から、若者革命といっていいほど文化・生き方に変化があらわれました。物質から自然・精神尊重への変化なのです。Whole Earth Catalog に代表されるカタログ文化も発生しました。日本では、70年代初めから、芦澤一洋さんらによって雑誌メディアで盛んに紹介されるようになりました。芦澤一洋さんが訳したコリン・フレッチャーのThe Complete Walker(遊歩大全)は、バイブルになったのです。それまでの日本の、ヨーロッパ・アルプス流の登山スタイルが、一気にアメリカン・スタイルに変わっていったのです。登山、山登り、“山をやる”と言う言葉は、アウトドアという言葉にとって代わりました。山の道具、すなわちアウトドア用品もアメリカ製品が、カタログと一緒にどっと入ってきた。リュックサックも、ザックからバック・パックと呼ばれるようになりました。

私も東京に移住し、ザックを新調しました。スペイン(アメリカ製ではなく)のアルピナ社製のザックです。私は重いものが担げないので60ℓの中型。この後20年ぐらい、このザックを使っています。もちろん現在も保有しています。

 

今日のブログのために、アルピナのザックの写真を探しました。山の写真はたくさん撮ってきたのですが、ザックを背負っている自分なんて、撮らない、ない。・・・・しかもブログの秘密性(?)から、自分がわかる写真はまずいらしい? しかし・・・・いい写真がありました。

1980年頃の写真、槍ヶ岳をめざす尾根の中で、最もきびしいルートの北鎌尾根での写真です。北鎌尾根は、単独行にこそ意味があります。自分の写真なんて撮れない。別の知らない単独登山者が、知らないうちに撮ってくれていたのです。
この荷物の大きさで、テントも持っている山中3泊のスタイルです。尾根に上がったら2日間、水の補給ができない。水が最も重い荷物です。むろん夏山です。

その後、娘・息子・息子と家族5人で、北アルプスを歩くようになって、それぞれにザックが必要になりました。だから、ずいぶんたくさんあります。ミレー(Millet)(フランス)のザックも、たぶん2つあります。
しかし息子は、ひとりで出歩くようになってからは、そんなザックは目もくれず、自分で選んで買いました。米国のグレゴリー(Gregory)のザック、街歩き用には、英国のカリマー(Karrimor)のデイパックなのです。

  【おまけ】

*もう私が、新しい山の道具を買うことはないでしょうが、カタログ雑誌を見ることは大好きです。この5月頃には、“遊歩用具大全”と名付けた山の道具ガイドブック(山と渓谷社)を買っています。最初のページがこの写真です。70年代の古典“The Complete Walker(遊歩大全)”を雑木林に並べた写真。編集者も私と同じ時代を通ってきたのでしょう。
このブログの頭の写真も、同じように“The Complete Walker(遊歩大全)”を並べてみたのです。

*秀岳荘のズタ袋を山に持っていくことはさすがになくなったが、出張旅行のカバンの中に入れていくことがありました。買った本なんかで重くなったバックをそっくり入れて、背負うのです。背負うのは楽ですね。


ミュージアム・ショップで買ったカバの置物 (2006.9.26)

2006-09-26 23:30:38 | Weblog

美術展には、比較的良く出かける方だと思います。旅に出ても、美術館、博物館には出かけることが多い。ただ一緒にでかける家人とは、見て回る、鑑賞するペースがまるで違う。さーっと通り過ぎるだけじゃないかという、確かに、出口のミュージアム・ショップの方が好きかもしれない。とは言っても、絵はがきを1、2枚を買うだけなのです。

写真のカバの置物(?)は、ニューヨークのメトロポリタン美術館で買ったものです。

 ざっと30年前、1978年のこと、勤続10年の休暇を強引に使って、2週間のアメリカ貧乏旅行をしたことがあります。むろん1$=360円時代。夜はグレイハウンド夜行バスで過ごし、ファースト・フードばかり食べていました。買ったものは何もない。ニューヨークでは、あちこちで路上ライブばかり聞いていました。 でもメトロポリタン美術館には行きました。ここの大看板をはじめ、チラシなんかに、このカバくんがいっぱい出てくるのです。ウイリアムという名前もついている。キャンペーン・ガールかマスコットという感じだった。

紀元前1900年代、ナイル文明の頃。カバは神そのものか、幸せをもたらす神のお使い。王の埋葬地からの出土。陶器製で、うわ薬がかけてある。デザインもいい。色もエジプト・ブルーといわれる色で美しい。
ミュージアム・ショップでは、レプリカ・置物のカバ君の大小がいろいろ売られていた。かっこうのお土産・記念品だ、ほしいなあ。買えなかった、高くて買えなかった。

その後、10年ほどして、仕事で海外にいくようになった。1$=100円台で、ふところも多少豊かになってのニューヨーク。しかし出張には、自由時間はない。それでもメトロポリタン美術館に駆け込み、ショップでカバ君に再会。迷わずゲットした。10年後のリベンジみたいな心境だった。

今、包装箱を見ると、価格は、49.5$(1$が360円なら17820円、1$=100円では4950円)だったのだ。しかし、その後も何度か出張したのだが、このメトロポリタン美術館をゆっくりみたことはない。カバ君を買ったら、“すべてクリア”の気持ちではないのだが、出張には時間がないのです。

 左のふたつは、大英博物館で買った。

ロンドン出張時には、大英博物館。そこにも、ほぼ同じカバ君があった。ここでも買わずにすまされない。 その後他の場所で見つけたことも、買ったこともないのだが、新しいカバ君に会ったら、必ず買ってしまうでしょう。

カバ君の出身地はエジプト・ナイル文明。エジプト現地の博物館のミュージアムには、必ずあるに違いない。行ってみたい気持ちはあるのですが、もうだめでしょう。

 【おまけ】
*だいぶ前の話。日本のデパート(三越本店?)に世界のミュージアムから商品を集めたミュージアム・ショップができたと新聞に載ったことがありました。このカバ君も日本で買えるのかも知れません。

 大英博物館の絵はがき

*ニューヨークでも、ロンドンでも、ナイル文明のカバ君の本物を見た記憶がないのです。忘れてしまっているのです。例えば、展示されている本物の大きさとか、全然記憶にないのです。


秋晴れ、もりあがり最高。JAZZ DAY また来年 (2006.9.25)

2006-09-25 14:39:05 | Weblog

2日目(24日)は、コンボ・ステージのバック(舞台裏)応援。
ステージ・マネージャーは、Kさん。イベントサポートグループのメンバーで、JAZZ 好きで毎年事務を手伝っている。司会・進行のNさんは春日部市の昭和楽器の人。私は、音響(PA)など“しかけ”をサポート。

お天気快晴。前の日楽譜がめくれて困った強い風もない。屋外のビッグバンド・ステージ前のお客さんの出足も早い。屋内、吹き抜けエリアのコンボ・ステージも2時スタート。ふたつのステージで切れ目なくJAZZが演奏されるのだ。

コンボ・ステージの2日目。トップは、・・・・ピアノのメンバーが到着しない・・・・・、<よくあるんです>・・・次のバンドは学生、朝から設営応援してくれた・・・・先にやってもらう。日本工業大学のバーク・ジャズ・パッション。そして、前日ビッグバンドで出演したジョーカーズがピックアップ・コンボを作り練馬バンドの名で出演。サンダル履きのおっさん・五十川さんらが抜群のスウィング・ジャズの醍醐味をみせる。いっぱいのお客さんと一体のステージ。次は、ピリカラザリガニ楽団、ニューオルリンズの初期のジャグ・バンドスタイル、大太鼓(バスドラ)も、小太鼓(スネア)も抱えている。行進もOK。ストリートで活躍している。

430分からは、アンダー13才バンド。与野東中学校のポップコーン・サウンド・オーケストラがビッグバンド・ステージに出演。1年生がコンボ・ステージにでてくれた(写真上)。かわいい子どもたちが登場。びっくり、すごい、やるなあ。

司会担当のNさん、実は、ファゴットが吹ける・・・時々アマチュア交響楽団で吹いてるらしい・・・。ドリーム・スウィング・キングダム(春日部市)のピックアップ・コンボに登場。“朝日のごとくさわやかに”を美しく演奏し、喝采をあびた。最後は、アドリブがどんどん飛び出す、ジャム・セッション。
こうして5時間。はなやかなフィナーレとなった。

さあ、撤収・かたづけ。そして午後9時、ざわめきの消えた会場で、来年の再会を期して、関係者はしずかに手締めをした。

 【おまけ】

*さいたま新都心JAZZ DAY 3rdの模様は、テレビ埼玉で930日(土)午前10時からの30分番組で放映されます。

*日本工業大学の繰上げ出演は、テレビ埼玉の撮影時間帯にフィットした。テレビに間違いなく登場するだろう。

*会場の設営・撤収には、出演した埼玉大学、芝浦工業大学、日本工業大学の学生が活躍してくれた。若い、馬力がある、それに大勢だ、助かった。


さいたま新都心JAZZ DAY 第2日(2006.9.24)

2006-09-24 23:37:25 | Weblog

 

今日24日付け朝日新聞朝刊の埼玉版に、さいたま新都心JAZZ DAY の記事がありました。写真は、私らスウィング・ベアーズの出演風景でした。

今日は、一日、コンボステージのバックステージ係。ちょっと疲れました。7時30分に全演奏が終了、フィナーレ。それから、片付け。手締め・解散は9時でした。

今日は、ここまで。明日つづきを書きます。

 


さいたま新都心JAZZ DAY 第1日速報 (2006.9.23)

2006-09-23 23:38:43 | Weblog

さいたま新都心JAZZ DAY(埼玉県ビッグバンド連盟・埼玉県・(株)さいたまアリーナ共催)の第1日が終わりました。
心配された台風接近にもかかわらず、薄日さす気持ちのいい秋の風の一日になりました。私らスウィング・ベアーズ(旧庄和町、現春日部市の正風館を練習拠点にしている)は、予定より10分遅れて、3時30分演奏を開始した。一曲目は、“踊り明かそう”。映画・マイフェアレディの主題歌。チャチャのリズム。フロア椅子席は満員。大勢の立ち見のお客様。今年のJAZZ DAYの目玉プログラム、ダンスタイムが始まった。

今日は、写真速報だけにしましょう。明日24日は第2日。私らがステージに立つことはありませんが、終日バックステージを担当します。

 


さあ、さいたま新都心JAZZ DAYが始まります。私も出ます。(2006.9.22)

2006-09-22 17:00:22 | Weblog

さあ明日から、さいたま新都心は、ジャズ だらけになります。
23,24日、いつでかけても、ジャズが流れています。純情きらり(赤ちゃんが出来て、幸せに終わりそうですね)の、きらりちゃんが“ジャズすきっ!”といいます。“ジャズやるべぇ!”というのは、映画“スウィング・ガールズ”の女子高生です。

ジャズって、何? 難しそう! ちょっとえらそう!・・・・・・まあ、いいじゃないですか、聞いていて、ちょっと身体が動いたら、ゆすっていたら、それがジャズです。身体全体で聞けるのが、ジャズです。

ジャズって何でしょうね。10年ぐらい前に“JAZZ 100年”のイベントがたくさんありました。100年ちょっと前に、アメリカ南部・ニューオルリンズ・・・・・。アフリカからつれてこられた黒人たちの・・・・と書いてあります。軍楽隊の払い下げの、クラリネットやトランペットなどの管楽器が、黒人社会に入ってきたのが、ルーツといわれています。黒人ブルースは、ギターが中心だったのです。そして管楽器が主体になるJAZZが起こったのです。

JAZZ DAY は、23,24日ともに、ビッグバンド・ステージ とコンボ・ステージのふたつのステージが平行して、休みなく続けられます。

ビッグバンドは、トランペット・4、トロンボーン・4、サックス・5 そしてリズム・セクションとして、ピアノ・ギター・ベース・ドラムスの4。計16-17人編成です。複数の管楽器が重なり合う響き・ハーモニーがとても、深く心地よく感じるのです。
コンボは、4,5人編成です。どちらかというと、卓越した個人の演奏が感動をよぶのです。・・・・・・拍手っ!になってしまうのです。

ジャズは、リズムです。“スウィング”という、ちょっと跳ねながら4拍子(フォービート)でドライブしていきます。このスウィング・ビートのフィーリングを引き受けるのが、リズム・セクションです。スウィング感・アンサンブルサウンド・そして即興演奏(アドリブ)が重なり合ったとき、ジャズが、人の心をつかむのです。

日本人の私らにもまた、いつの間にかジャズが身体にしみついています。いつか聞いたメロディ、身体が動いてしまうリズム感があるのです。さあ、手拍子です。身体がゆれます。さあ、立ち上がって、ジャズに身をまかせましょう。

 

23日、24日のJAZZ DAYは、埼玉県のアマチュア・ジャズ・バンドのおまつりです。私のいるビッグ・バンド “スウィング・ベアーズ”は、23日(土)3時20分から40分間の、ダンス・タイムを引き受けます。なつかしい、どちらかというと優美なメロディのダンス・ミュージックを演奏します。
皆さんが、たちあがって、手をとりあって踊れるスペースも用意しました。皆さんと一緒に、いい時を過ごしたいと思っています。
では、明日、会場でお会いしましょう。


しょうわ町に椋(むく)の巨木、足元には彼岸花 (2006.9.21)

2006-09-21 17:28:04 | Weblog

昨日(20日)、お天気がよかったので稲田を散歩しました。帰り道、私のウチのそば、蓮華院の大木をしばらく見ていました。この椋の大木は、真下から見上げるのが一番きれいです。草原の大きな木のように離れてみることができないのです。まわりの住宅なんかが邪魔して美しくありません。ひたすら見上げて、天に大きく広がる枝に思いをめぐらすのです。


昨日は彼岸の入りです。見上げる木の足元には、この日を待っていたように、彼岸花が咲き始めていました。この花、好きではないのですが、夕方でなく、明るい日中にみると、“まあ、きれいです”ね。

蓮華院の椋の木は、県指定の天然記念物です。昭和19年3月に指定。幹まわり6m、樹高27m、枝ぶりは25m四方にひろがっています。樹齢400年だが、今のなお樹のいきおいはさかんです。蓮華院は、真言宗豊山派のお寺で、東武野田線南桜井駅から、西へ線路沿いに歩いて10分のところ(旧庄和町・現春日部市大衾)にあります。

大きな木は、いいですね。神がやどっている感じがするのです。旅をして、大きな木に出合って、それに注連縄でも捲いてあれば、もういけません。思わず手をあわせたりしてしまいます。

20年ほど前、子どもたちのために買った絵本を紹介します。
大きな木の四季を描いているだけです。木の周りの雑草、木の上に飛んでくる小鳥、這い上がってくるリス。四季の移り変わりの絵本です。文字はありません。好きなように、感ずるままに話すことができます。大きな木が大好きなのです。大きな木には、きっとたくさんのお話しや伝説があるのです。

 【おまけ】
*紹介した本は、“木のうた”イエラ・マリ作、ほるぷ出版の発行。1977年初版発行です。下の息子によれば、今でも本屋さんに並んでいるそうです。おとなにも、おすすめです。

 *私らが、この地に越してきた30年以上前の庄和町の名所絵はがきがあります。そのうちの1枚が“蓮華院の椋”です。郵便局が作ったものですが、庄和郵便局がどこにあったのか、思い出せません。


しょうわ町は秋晴れ、黄金の稲穂(2006.9.20)

2006-09-20 17:05:01 | Weblog

吉野家牛丼・・・が好きだと書きました。町の友人たちが、食を大事にして、食の安全、食の文化をよく話していたことを思い出し・・・・いや、完全に忘れていました。
えっ、アメリカの牛肉(!)・・・というノー天気です。

朝一番に散髪。“本番ステージが近いので”散髪です。ずーっと同じ、大衾のサロンーM さん。終わって、あまりにいいお天気だったので、ちょっと散歩。田んぼは、まさに実りの黄金色。用水路から畦道を歩く。あつい稲の匂いがいい。
私の好きな大きな椋の木のある“蓮華院”には、お墓掃除をする人たち。今日は彼岸の入りです。いよいよ本気の秋です。

昨夕、本を枕にしていたとき、新米をわざわざもってきて下さった、ようだ。役場(今、役所)の知人です。“はやく食べて下さいね”とのメッセージ。袋には、“おいしいお米がとれました”と、ほんとにやさしい言葉がある。新米は、おかずがいらない・・・ほど、おいしい。ここ数年、何人かに、ときどき新米をいただいています。

この町、しょうわ町(旧庄和町、現春日部市)は、米どころといえるのかどうかはわかりませんが、ほとんどが田んぼです。仕事をしなくなって、農業の知人が増えました。農業といってもみんな兼業、しかも夫婦とも兼業という羨ましい人たちです。日曜日は、“雨が降ったらバンドの練習、晴れたら農作業”という人もいます。学校の子どもたちの田植え・稲刈りに、田んぼを開放している知人もいます。

私も、田んぼ育ちのこども時代を送ってきました。それなりにできます。このさい、田んぼ借りて、本気にお米を作るかな、としゃべったこともあります。田んぼを貸す人はいっぱいいますよ、ということだった。むろん、畑すらやっていません。菜園趣味のご近所から、さいさい野菜を、ありがたくいただいているだけです。

【おまけ】
*この間、越後妻有アート・ビエンナーレに行きました。美しい棚田の中を走りました。その棚田が危機だそうです。持ち帰った“まつだいの棚田は、里親を探しています”と書いたパンフレットが、まだ捨てられずにいるのです。 
*年に、35,000円で、お米(ここは、こしひかり、でしょう)30kgを最低補償で、豊作だったら、もっと・・・です。年何回か、農作業(農業実習)ができます。詳しくは、ホームページまつだい棚田バンクを見てください。
*何人かと一緒に、しょうわ町で田んぼを借りることも考えられますね。


さいたま新都心の夕暮れ。みんなとジャズ・デイを(2006.9.19)

2006-09-19 15:51:16 | Weblog

昨日(17日)、久しぶりに電車に乗った。ひと月も乗っていない。埼玉のアマチュア・ジャズバンドのお祭り、JAZZ DAY 3rdの出演者打ち合わせの集まりがあった。

さいたま新都心にあるジョン・レノン・ミュージアムが、ジョン・レノンと同世代は入場無料の日だった。出かけるつもりでいたのだが、何となく億劫でやめた。まあいいやと、大宮の大きな本屋をまわって新都心に。いつもながらのビルの真ん中。時間が余って、のんびりと都心の公園。週末の演奏を思いながら“けやき広場”。スターバックスに席をとって280円のコーヒー。

私の通っていたスターバックス、大手町のスターバックスには、ゆっくり座ってという記憶がない。お昼に食事を終え、スターバックスの熱いカップを手に、仕事場に戻る。それがスターバックスだった。そのことがモダンのように思えた。4,5年の年月の流れは、ゆったり座ってコーヒーという、いわば日本の伝統的なコーヒーショップに変わったんだ、と思った。ずっとそこでコーヒーを飲んできた人には、気がつかない変化かもしれない。

スターバックスには、米国シアトル生まれのアメリカ的な、背を伸ばして歩く、スマートさを感じていた。私の中でも、日本的などっかり居座るコーヒーにとって変わっていた。コーヒーもひとりで飲む時代に変わっていったのかもしれない。

スターバックスが来る、駅前にスターバックスのある、“小さな町”にしたい、と思っていた。そういうビジネス・モデルというか、ビジョンをもって、少しずつ進めていきたい、と考えていたことがあった。庄和町では、まあ、かなわないまでも、町の人たちや役場の職員と話すことができたのだ。それも庄和町が、昨年、春日部市と合併した時から、もう完全にありえないことになってしまった。

ひとり、ぼーっと、時間をすごした。スターバックスを出た。ビルの谷間の夕焼けが美しい。これにもまた久しぶりに見る感傷が残った。

JAZZ-DAY (ジャズ祭り)の出演者最終打ち合わせ会は、居酒屋“和民”。自分の夢を実現するために、すべてをかける若いジャズ好きがひっぱる。彼の情熱に耳をかたむける経験豊なベテランミュージシャン。“よしわかった、やろう”という大きな心意気が、目に見える打ち合わせになった。ベテラン・現役をはるかに越える私にとっても、心地の良い集まりになった。

あわてて電車に乗る。これもまた、何年ぶりかの南桜井駅着最終電車になった。

9月23日、24日のさいたま新都心JAZZ DAY 3rd は、熱気あふれるジャズのお祭りになるに違いない。2時から8時。いつでも誰かのジャズが、けやき広場に流れているのだ。
私らの“がんばれ、ベアーズ”バンド、スウィング・ベアーズは、23日(祭)午後3時20分から40分間、演奏します。


しょうわ町は今日も平穏、吉野家の牛丼(2006.9.18)

2006-09-18 14:49:50 | Weblog

新聞に大きく、“カバもぐったり昼寝”なんて、動物園の写真入りで記事が載ります。ニュースのない日の、“ヒマネタ”、常套手段です。

昨日(17日)の新聞の折込チラシに、“明日、牛丼復活祭、あさ11時より売り切れまで、1日全国100万食限定”と。行ったことはないが、わがしょうわ町(旧庄和町・現春日部市)にも、吉野家はある!よし!と思っていた。夕食時に、同居のふたりに話したら、冷ややかな態度・・・・・。明日のブログは、ヒマネタ、牛丼だ、と思っていたから、ちょっと沈む。

今朝の新聞(なんと日経にも)で、ひときわ目を引くのが、鮮やかな牛丼のドンブリです。吉野家の牛丼カラー全面広告。11時15分前に、デジカメを持って出発。16号沿いの吉野家に11時5分着。
うーーーん。風にはためくオレンジ色ののぼり。並んでいる。もう100人ぐらい。列に入って、耐えて待つ。文庫本でも持ってくるんだった。列には、中学生の男の子が目立つ。11時45分、すぐ前の中学生の友人が、牛丼ゲットで、10時30分から並んだと話していく。若いおとうさんもけっこう並んでいる。何にもすることがない。他の人をまねて、携帯を覗くが新着メールがあるわけはない。持ちかえっていく人は、どことなく微笑んでいて自慢げでもある。12時のNHKニュースはあつかっただろうか、台風ニュースがあるし。がまんの時間が長い。

結局、吉野家を2/3周して、店に入ったのが、12時20分。わが家は今3人だ、注文は大盛か並盛か、ずいぶん迷っていたのだが、並4つ・・・と、12時30分に。

帰り道は、ぽつぽつ小雨。まだ列は5-60人。この店は1000食分用意しているという。お昼過ぎまでに、700食ぐらい出るんだろうか。わが町、のどか・のどか、平穏だなあ。

わたしゃ、大好き、吉野家の牛丼。でも、一人で、どちらかというと、わびしく食べるもの。家族で出かけるものではない。ましてや、わが家のそばで食べるものではない。上の息子が、たぶん小学校6年生の時、北千住の場末で、吉野家の牛丼を一緒に食べたことがある。“並1、大盛1”と頼んだ。“食べられないよ”と言っていた息子。大盛をぺろりと食べた。“うまかっただろう”と私。はじめての脱ファミレスの成長日だったかもしれない。
今日、その息子が2つ食べた。

 【おまけ】
*吉野家のビニール袋に、記念の日本手ぬぐい。ごあいさつ文によると、吉野家が牛丼をお出しできなかったのは、2年半の間。次回の牛丼限定販売は10月1日。

*並びながら思ったこと。しばらく、こんな風に並んだことがないなあ。その昔は、列車の指定席とか、コンサートのチケットとか、よく並んでいた。例えば、コンサート・チケット。XX日9時電話受付開始とか、抽選とか。並ぶことを許さなくなった。それをよしとする風潮。だから、とれない者はどうがんばってもとれない。運か、大仕掛けのダフ屋しか。

*並ぶというのも努力と熱意なんだが、それを社会が認めない。努力するということさえ無駄という時代になってしまった。3日前から並んでもいいじゃない、ほんとにほしいのだったら。


自由には、銃より新聞・・・・映画“リバティ・バランスを射った男”(2006.9.17)

2006-09-17 20:31:15 | Weblog

昨日のブログに、“自由と民主主義には、銃より新聞・・・・でもほんとうは・・・・”という “リバティ・バランスを射った男”という映画が好き、と書いてしまって、ちょっと考え込んでしまった。

私らの若い時代には、娯楽の中心は映画だった。どんな小さな町にも、2つや3つの映画館があった。ありとあらゆるジャンルの映画があった。映画は娯楽だけでなく、教養の役割、たぶん恋愛指南も果していた。
アメリカに憧れのようなものを感じていた私ども世代。西部劇、中でもジョン・フォード監督 ジョン・ウェイン主演の西部劇には、大ヒットする映画が多かった。ジョン・フォード映画の根底に、アメリカの持つ建国以来の“自由”、“自由を尊重する考え”が背景にあるといわれ、私も映画を見ながら、そう感じてきた。

この映画を見た状況を明確に覚えている。1962年夏、広島で見た。“昼下がりの決闘”との2本立て。待ち合わせの時間調整のためだった。

“リバティ・バランスを射った男”は、1961年、フォード67歳の作品。モノクロ映画。問答無用の銃の役割の大きかった“西部劇の時代(開拓の西部の時代)”が終わりに向かい、自由を尊ぶ、法律・市民の声・新聞の時代に変わりつつある頃(1910年代)の話である。

無法者の町に、銃をもたない若い弁護士(ジェームス・スチュワート)、市民の声をまとめる新聞を作っていく。無法者リバティ・バランス(リー・マービン)と、最後の最後には、銃での決闘となる。無法者の銃が火を噴く、その瞬間、無法者が倒れる。市民の皆が怖がり、嫌がっていた無法者を倒した弁護士は、もてはやされる。
30年ほどたって、上院議員になった弁護士が、その町に、西部男の葬儀に帰ってくる。そして新聞記者に、リバティ・バランスをほんとうに射ったのは、今日の葬儀の男だと語りはじめる。その西部男が、ジョン・ウェインである。ジョン・ウェインが影から射ち倒したのだ。
ここからのラスト・シーンが、私は好きなのだ。“新聞に真実をのせるのだろうね”。聞かれた新聞記者は、メモを引き裂いて、“伝説と真実が違った時には、伝説を残すべきです。ここは西部ですから”。・・・・・ジーンとくるのだ。

自由と民主主義を守るのは、銃でなく・・・・法律そして、市民の声、新聞・・・・そういう時代になった、とフォードは、言っているのだが、それらを守るためには、“やはり銃、銃が必要だ”と言っているのだろうか。
正義のため銃。それが、アメリカの伝統なのだろうか。9.11米国集中テロの後の、アメリカの動きを見ながら、そんなことを思っていた。この映画が作られた1961年は、ベトナム戦争の直前である。 そこから映画は、テーマも、描き方も大きく変わっていく。

【おまけ】
*カットの写真左は、映画館で買ったプログラム。まあ、プログラムの買えるのは、ロードショー館(封切館)、ほとんどの映画はプログラム無関係な、場末の3本立て館で見た。最初にプログラムを買ったのは、ジョン・ウェインの“アラモ”。高3の時。これは、2冊目。
*写真右は、主題歌の楽譜(スコア)。この時代、映画音楽といわれる世界があって大ヒット曲も多い。この頃、映画音楽というジャンルが、わが町(旧庄和町・現春日部市)のTSUTAYAのCD売り場にもない。
*映画の印象・記憶は、プログラムと映画音楽(サウンド・トラック)からしか持ち続けることができなかった。つまり、文学・小説の世界には、古典という分野があるが、映画には、それがなかった。今は、それがある。


がんばれベアーズ、さいたま新都心でジャズまつり・JAZZ Day 3rd (2006.9.16)

2006-09-16 16:35:27 | Weblog

“がんばれ ベアーズ”・・・という映画です。誰かと見たのだから、30年前の話。少年野球の話です。日本のような熱血野球物語ではなく、メンバーすら揃わない野球チームの話。ピッチャーは豪腕の女の子(ティタム・オニール)です。私ら、誰でも野球少年だった。草野球で、ライトで8番のライパチ選手をやっていたころでした。

全編ほんわかお家族向き映画です。ライトを襲った大飛球、ライトはメンバーが足らないから出ていた小僧っこ。バック・バック・バック・・・・・・バックだあ。お手上げ万歳をしたグローブに、ボールがすぽっと入った。映画館内大爆笑。わたしゃ涙ぼろぼろになった。

しょうわ町(旧庄和町・現春日部市)で、スウィング・ベアーズというジャズ・バンドをやって20年近くになります。今でも、ベアーズというと草野球チームと思っている町の人がいます。しかもスウィング・アウト、三振 の響きから、決して強豪とは感じていないらしい。

その“がんばれベアーズ”バンドが、9月23日(祭)、24日の“さいたま新都心JAZZ Day 3rd”という、ジャズまつりに出演します。埼玉県のジャズ・バンド、ビッグバンド、コンボバンドの20チームぐらいが、新都心ケヤキ広場(屋外)で、ピクニック・コンサートのように楽しくやっていきます。テーブル・椅子が用意されます。ビールやちょっとした食べ物の出店もでます。2時~8時、どこかのバンドがやっています。

 “がんばれベアーズ”バンドは、23日午後4時すぎが出番です。ダンス音楽を、皆が踊りだすように、という激しい注文に応えられるかどうか。出演バンドは、みんなうまいですよ。***ジャズ・オーケストラと名乗っています。こちらただのスウィング・ベアーズ。完全に名前から負けています。楽しさでは負けません。
ライトで8番選手もでます。ご期待下さい。次の日はお休みだし、ぜひお出かけ下さい。

 【おまけ】
映画“がんばれベアーズ”は、TSUTAYAにあるかもしれません。お家庭を一挙に明るくします。ただし、2作目以後はだめです。行数があまっているから、おすすめ映画情報。
ご家族向き第一球目は、ご存知“ローマの休日”。毎年お正月にテレビ上映します。ウチ、毎年、毎年、見ます。ラストでカメラマンがスナップ写真を渡すところで、ぐっときます。この頃、TSUTAYAでDVDが500円で買えるようです。
父子の会話不足に、お悩みの向きは、“山の郵便配達”(中国の映画)です。親子で見るといいのですが、わが家では、時期をいっしてしまった。新しいから、TSUTAYAにあるでしょう。ただ一緒に映画館で見たウチの人は、お母さんの役割はないの?と不満らしい。
少し気取って、ジョン・フォードとジョン・ウェインの西部劇“リバティ・バランスを撃った男”。おすすめなのですが、そういう映画評論家がいないからVIDEOもないみたい。自由と民主主義には、銃より新聞・・・・でもほんとうは・・・・という話です。
娘に見せたいのは、“風と共にさりぬ”。映画館で見せたい。皆さんは、どうでしょう。


おすすめは、しょうわ町大衾の、とんかつ・とん一(2006.9.16)

2006-09-15 10:42:50 | Weblog

私のブログに、リンクをはってくれている唯一のブログ、“優しい生活 さん”のリンク先で道に迷っていたら、とんかつ・とんいち さん、を紹介しているブログに行ってしまった。なんと銀座グルメ特集みたいな紹介なのだ。それで今日は、超ご近所マップです。

しょうわ町(旧庄和町・現春日部市)大衾。この頃、役場の人も、おおぶすまと言っているが、おぶすま、と呼ぶのが正しい。正式には、大字大衾・・・・と大字がつく。30年前、自治会の名前に、大ぶすま、をいれることに強く反対した奥さんがいた。美人の住む団地と思われるという。ワード変換一発で出てこない。ドウキンとうつ、・・・同衾・・・・何やら妖しげ・・・・。私のウチから15秒歩くと“とん一”さんです。

30年前から、とん一さんです。ほんとに、とんかつは、やわらかくおいしい。他のものは食べたことがありません。いつだったか、役場職員から、お昼によく食べに行くと聞いて驚いたことがあります。車で15分はかかるのにです。お昼には、郵便局の赤いバイクが、何台もとまっています。夜も繁盛しています。とん一のおばさん、といっても私よりはるかに若い、でこの店はもっているようです。働きものです。“とんかつは、しばらくできません”との張り紙があった時期もありました。わが家も心配しました。ここには、ご主人の腕と奥さんのはたらきがあるのです。

とん一の前で、あいさつをかわして、10秒歩くと、はたらき者のご夫婦がやっているガソリン・スタンド前で、“こんにちは”、だった。いつも飛び跳ねるように働いておられたガソリン・スタンド(昔の名は、遠藤石油)。同級生だった娘のこども抱いているどうしで、立ち話するようになって、つい半年前に、コンビニ“セブン・イレブン”に変わってしまった。その後、お話することは、ほとんどない。なんか淋しい。第一、どこでガソリンを入れていいのか、まだ決まらない。

それから、渥美清が入っていた病院の前をとおって、スーパー・ヤオコー&TSUTAYA&東武野田線南桜井駅となる、ここまで5分。これだけが、私の日常生活圏だが、最近、もっと狭くなった。コンビニ・セブン・イレブンから先に行かなくなったのだ。ここまでなら、1分だ。

10日ほど前の日曜日。私らのバンドの練習を、わざわざ大宮から見にきた“埼玉県ビッグバンド連盟”の女性に、こちらには、食べる所がないから・・・・・と言ってしまった。とんかつ・とん一が、あったなあ、と今思います。皆さん、ご一緒しましょう。駐車もOK、です。いっぱいだったらセブン・イレブンに。コンビ二は、便利です。

 

 【おまけ】
埼玉県ビッグバンド連盟、(株)さいたまアリーナ、それに今年から、埼玉県も、の共催の、“さいたま新都心JAZZ day 3rd が、9月23日(土・祭)、24日(日)に、開かれます。県下のジャズ・バンドが、みんな集まるジャズまつりです。けやき広場の木々の下、屋外(雨天時は屋内)で、ピクニックみたいなコンサートです。私のいる“スウィング・ベアーズ”は、23日午後3時すぎから、40分ほど演奏します。


大正時代の家庭用児童劇の本を、正風館自由文庫から持ち帰った(2006.9.14)

2006-09-14 14:26:02 | Weblog

正風館(旧庄和町の公民館・現春日部市)の誰でも持ち帰れる自由文庫の“かくれ愛好者”は、どうもけっこういらっしゃるようです。

みんな本が好きなのです。今朝の新聞(朝日23面)に、千葉県の病院の“患者図書室で働く”という60歳の女性の生きがい話が大きく載っています。春日部市立病院にもあったような・・・と昔の記憶。私がいく春日部駅近くの診療所には、ロビーにあります。10円だったか入れて持ち帰れます。健康診断書が必要な時にいくのです。本好きが、もう病気状態であるのですが、チェックする項目がないから、いつも異常なしです。

昨日ブログを送って、自由文庫から持ち帰った本を開いていたら、これがけっこういい。ハード・カバーで、箱付きのしっかりした本。装丁・化粧箱や表紙のデザインが、84年後の今見ても美しい。
タイトルは、家庭用児童劇(坪内逍遥著)なのだが、表紙には、KATEIYOU-JIDO-GEKI ,TSUBOUCHI SHOYO SAKU とローマ字で入っている。大正11年11月4日発行。大正時代の文化の明るさが思われる。大正デモクラシーと言われた時代である。

こんなきれいな本を読んで、家庭で 劇を楽しむ時代があったのだ。現在よりはるかに、こころ豊な家庭生活だったのか、と思ってしまう。


定価の2円20銭が、生活費の中でどのくらいだったのだろうかと、考えてしまうのは、どうも自分の育った環境のせいだ。1960年代以前の日本は、貧しく、暗い日本だと、決めているからかもしれない。そんな日本は、先の戦争、長い戦争の間だけということを、覚えておかなくてはならないようだ。

子どもたちが家族や友だちとつくる劇のシナリオが12本が載っている。
家庭向きに劇の演じ方や、欧米家庭での劇や生活の例を引きながら、児童劇のありかたを論じている。なかでも、使用する“お面”・・・紙の立体お面の作り方は、楽しい。今、すぐにでも小学校の劇作りや、町の子どもたちと遊んでいるお母さんサークルに役立つだろう。
・・・・・ああ、小学校に学芸会がなくなって随分になるなあ、どうしてなくなったのだろうか。

 

 【おまけ】
私は、新聞やネット・メディアの著作権について、関わっていました。大正11年の本書末の次の記述は、全文引用したくなります。
今、この本に書かれていることの著作権は消滅しています。公演しても、問題ありません。
「本書に収載した脚本は特に家庭の為につくられたのですから、公演用に使用されることを辞絶します。家庭内の私演に採用なさるのは御随意です。家庭以外の実演はすべて公演と見做します。もっとも或る特殊な事情があって、著者が承諾した場合には、公演用に供することもありませう。若し公演を希望なさる場合にはすべて早稲田大学出版部へ御交渉下さい」。


正風館の自由文庫も好きだけど(2006.9.13)

2006-09-13 14:45:31 | Weblog

しょうわ町(旧庄和町・現春日部市)には、図書館がありません。町公民館には、小さな図書室があります。この公民館(正風館)はウチから徒歩3分の所にあります。

でも、公民館は用のないものがいる所ではありません。それでもバンドの練習などで出かけた時に、必ず見るのが1階ロビー・テレビ横の小さな本棚“自由文庫”です。誰でもが不要な本を自由に置き、誰でもが持って帰えることのできる本棚です。公民館利用者にはけっこう人気があるのです。この頃、この本棚にも活気がありません。

 増えすぎる自分の本を図書館で引き取って、役立ててもらえることは、読書家(?)には、最高の喜びです。ずいぶん前に、正風館に持ち込んだことがあります。当時は、公民館職員が選別し、図書室用と自由文庫用に振り分けていました。・・・・・担当者は、持ち込まれることを必ずしも歓迎しないらしい・・・・ほんとうは・・・・。
ずーと後に、私が出した本が、廃棄になり自由文庫入りしたことがあります。もちろん、持ち帰りました。

今日のカットは、そんな不遇な本を写真にします。
左上の柴田翔の“されどわれらが日々―”3冊のうち2冊は自由文庫出身。いかに同世代人に読まれたかがわかります。この本の短編“ロクタル管の秘密”に少し思いいれがあります。
左下の“国連人間会議・公式文書集=かけがえのない地球”は、春日部市立図書館の廃棄本。昭和47年の第一回目の会議報告、国連がはじめて環境問題を討議したもの・・・・いいのかなあ処分して・・・・。
正風館でなく庄和町中央公民館となっている廃棄処分本が2冊でてきた。千葉敦子“ちょっとおかしぞ、日本人”は、庄和町南公民館蔵書印もあって、二重に消却印がおしてある。この本、ここにあるのは不憫と思い持ち帰った。

本の価値は人それぞれ、司書さんの好みもあろう。市や町の図書館は、資料室ではないという理念とスペースの問題もあろう。読まれない本や古い本は、即処分となることは、当然なのだろう。
古い本は・・・・と思っていたら、最近、自由文庫に、なんと大正11年の、坪内逍遥“家庭用児童劇”があった(写真右上)。名著復刻・日本児童館シリーズの一冊。美麗本。持ち主が開いた気配はなさそう・・・・わかるなあ、私も読みません。

正風館自由文庫の管理・押しかけボランティアをやってもいいのだが。
それより、この町に、ちゃんとした図書館。ずっと本を読んでいてもいい図書館が、ほしい。

 【おまけ】 千葉敦子さんは、ずっとニューヨークにいたフリーのジャーナリスト。
癌になって、朝日ジャーナルに「死への準備」日記を、86年11月から連載、87年7月7日の日記は、“体調悪化し原稿書けなくなりました。たぶん入院です。もうしわけありません” だった。
2日後亡くなった。1ヶ月後、東京で、偲ぶ集いがあった、会場は、講演の後、声を失った上智大学。家人は参加した。「死への準備」日記(87年8月 朝日新聞社刊、文庫本にもなっている)。むろん正風館にはない。春日部市立図書館にあるかもしれない、千葉さんのエッセイの何冊かを棚にみたことがある。