日比野克彦さんの<明後日朝顔プロジェクト21>が春日部市でも展開中(2008.6.30)

2008-06-30 22:01:35 | Weblog

*6月30日の朝顔プロジェクト21

*6月28日

*6月24日

6月最後の日、梅雨の中休みでさわやかな晴れの日でした。のどかに朝顔の話にします。

6月初めに、金沢21世紀美術館に行き、日比野克彦さんの部屋の前に、朝顔の種が置いてありました。スプーンと<コナ薬を包むような>白い折り紙があって、ご自由にお持ち帰り下さい、になっていました。

*昔はあった<コナ薬>を包む紙

日比野克彦さんの追っかけ風な気持ちもある私は、<日比野さんの朝顔の種>をうやうやしく持ち帰ったのです。

それで、それだけで、ほっておいたら、家人がプランタンに植えたようなのです。
ちょうど2週間くらいで、上の写真の感じです。

日比野克彦さんは、<明後日(あさって)朝顔の7つの気持ち>を書いています。
1、 種を収穫した時に芽生える>>記憶を形にした不思議な気持ち
2、 種を蓄えている時に感じる>>待つ時間を楽しむ気持ち
3、 種を送るときに思う>>地球と地球がつながる気持ち
4、 種を土に植えた時に思う>>見えないものを信じる気持ち
5、 蔓(つる)がロープに巻きついた時に感じる>>ホッとした気持ち
6、 花が開いた時に感じる>>声をかけたくなる気持ち
7、種の房ができた時に生まれる>>これまでとこれからがつながる気持ち

<あなたも感じてみて下さい>と。私も、感じることを楽しみに、朝顔を毎朝見て行きます。

<あさって朝顔プロジェクト21>は、2003年、<大地震>の新潟県莇平で生まれ、日比野克彦さんと旅しているのです。
日比野克彦さんのアートプロジェクトのWEBサイトは、<ここです>  

  【おまけ】

*<日比野克彦ひとり万博>で拾ってきたいろいろ。

* <日比野克彦ひとり万博>というイベントにいったことがあります。2005年8月、水戸芸術館現代美術ギャラリーでした。東京で開催されたのかどうか知りません。わざわざ水戸まで行ったのです。といって、東京にいくのも、水戸にいくのも、あまりかわりません。一日がかりです。

* 日比野克彦さんの作品は大好きです。<ひとり万博>というネーミングもいいですね。


今日は岡山市が空襲された日。私の人生最大の出来事の日なのです(2008.6.29)

2008-06-29 22:00:35 | Weblog

*山陽新聞が兄の気持ちを載せてくれました。

私はわずかに戦前生まれです。生まれたのは、岡山市の岡山駅から徒歩5分ほどの所です。

昭和20年6月29日午前2時ごろ、アメリカ軍の爆撃機B29が、岡山市街に“焼夷弾”を投下、市街は一瞬にして猛火に包まれ、岡山市の中心部80%を焼き尽くしました。死者1,678名です。

私は3歳、小学校1年と5年生の兄がいました。さいわいに、私の家族、両親と3人の子どもは、なんとか、無事に逃げ落ちました。
その後、その夜からの深い話は、わが家ではタブーのように封印されていました。それでも、ごくたまに、その話に及んだ時には、誰かしらが涙ぐむのを感じていました。

そうして今、岡山に、“焼けた”家に住む次兄が、岡山空襲の日に合わせて、地元岡山の山陽新聞に思いを、戦争への思いを寄せているのです。新聞が掲載します。

*山陽新聞2006年7月4日付

*山陽新聞2007年6月26日付

3年前から書いているようです。 2年前と昨年は、送ってくれました。
この短い思いを読んで、60年もたった今も、胸がつまります。

私には、他人に話したくない、このブログで、このハガキが読めないほうがいい、との思いがあります。

私の育った家族、私自身の原点が、ここにあるのです。
それに比べれば、その後60年にわたる私の人生に、多少はあった波風なんて、どおってことはないのです。

親父もおふくろも、その日、30代です。その時どういう決意で、どうやって生きてきたのか。日本国中に、私ら以上の悲劇あり、苦闘があったのです。
どこにでもあったのでしょう。

次兄の昨年の寄稿はこう結んでいます。
<今、時代の変わり目のようだが、今のままでいい、戦争なんかまっぴらだ。二度とあの貧乏はご免こうむりたい。こんな思いでいつも六月を迎えている。>

また今年、今日が6月29日です。新聞社に原稿を送ったのだろうか。


小林多喜二の小説“蟹工船”が本屋に飾ってあるなんて寝ぼけた社会かも(2008.6.28)

2008-06-28 23:09:08 | Weblog

*近所のTSUTAYAで。

派遣労働者の過酷な現実は、「蟹工船」(小林多喜二のプロレタリア文学)の時代に通じ、今、ワーキングプア層の若者に「蟹工船」が読まれていると報道されています。

ほんとかな、と思っていたら、私の散歩コースの本屋(TSUTAYA-南桜井店)に、“飾られた「蟹工船」”がありました。小説「蟹工船」が飾られてあったのです。

暗い戦前の時代と同じ現代を憂うのではなく、小説「蟹工船」が飾られている時代の不気味さこそ恐ろしい。読んでみれば、小説「蟹工船」を飾る気分にはならないでしょう。

私の感覚では、本棚の目立たない所に見つけ、黒いカバーをかけて、家族にも、友人や会社の同僚にも読んでいることをさとられないように、秘かに読む・・・・そういう小説なはずです。

 *朝日新聞(2008年6月25日付)

朝日新聞(2008年6月25日付23面)の文芸時評で、斎藤美奈子さんが、<「蟹工船」の時代>の今、の書きっぷりに興味をもったのです。吉本隆明が書いた「『蟹工船』と新貧困社会』(文芸春秋)を、<かなり寝ぼけた論を展開している>と書いていて面白かった。私は原本を読んでいないのですが、今ごろ、まだ<戦中派である僕ら世代は、本当の飢えを知っています>と書いているのならば、<寝ぼけた論>という論評に同意します。

・ ・・・そんなことより、斎藤美奈子さんが書いている<それにしても、ワーキングプア層に訴える作品が79年前のプロレタリア文学しかないのだとしたら、80年もの間、日本文学は何をしてきたのだろうか>・・・・そのとおり、だと思うのです。

さすがの私にも、私の本棚に“蟹工船”も“党生活者”ありません。読み終わったら、駅のごみ箱に投げ込む本です。

   【おまけ】

*県立図書館の廃棄本です。念のため。

*こんな本がありました。<アメリカ・プロレタリア詩集>です。昭和6年1月、弾道社発行(定価70銭)。訳者は、小野十三郎、萩原恭二郎、草野心平です。1983年に、戦旗復刻版刊行会の復刻版です。埼玉県立川越図書館と埼玉県立久喜図書館、両方の消去印があります。誰も開いたことのないような美本です。

*その昔、発禁本であったかどうかは知りませんが、アングラ流通本だったでしょう。後記に<・・・・資本魔の君臨するところ必ず搾取圧迫あり、搾取圧迫あるところに黒旗樹つ・・・・・(原文は旧漢字を使用)>とあります。

*カール・サンドバーグやジョー・ヒルの詩が載っているのです。 私は、彼らを1960年代に知りました。プロテスト詩の源流です。それが、昭和の初め、戦争に突入していく時代に日本で読まれていたと、知ったのです。


わがまち庄和にやっと図書館。図書館もない町で行政が文化を語る資格なし(2008.6.25)

2008-06-27 17:53:56 | Weblog

*<報道>の腕章があれば、報告会の情景写真が撮れたのですが。

私の住む町、今埼玉県春日部市の一部分なのですが、3年弱前には庄和町でした。その町には図書館がなかったのです。
埼玉県で図書館のない市町は、わずか<・・・・>ヵ所でした。恥ずかしくて書けません。
と言って、今ネットで調べてみると、埼玉県では4つの町に図書館がありません。今は、春日部市と合併したので、図書館のない町では、なくなりました。
<私は図書館のあるまちに住んでいます> 念のため!!!

ただ図書館がほしい、という思いは、町民だけでなく旧庄和町役場や職員自体にもあったようですが、文化は常に、<不要不急>のものです、ということになったのでしょう。

 しかし、町は、見果てぬ?図書館のために少しずつお金をため、2億円になったときに、春日部市と合併になったのです。町役場(町長さん?)は、春日部市に、このお金を使って図書館を建ててくれるように引き継いでいたらしいのです。

その話がうやむやになりそうとの危機を感じた人たちが<どうなったの?>と署名活動を展開しました。
合併後3年、ようやく図書館が実現することになりそうです。おそらく署名活動がなければ、貯めていた2億円もうやむやに消えてしまっていたかもしれません。

先週末(6月21日)旧庄和町役場、すなわち図書館予定地で、住民説明会があったのでのぞいてみました。昼の部、夜の部があって、昼の部には、ざっと30人ぐらい住民が集まっていました。電話で事前登録を求められていたのですが、事前登録していたのはたったの4人だそうです(私はまじめに電話していましたよ)。署名3万人(3万筆)はなんだったのだろう。
市長を真ん中に、4,5人の部長さんたちが並びます。きっと<拍子抜け?>されたでしょう。

フロアからの発言は、最初から、図書館計画の説明を聞いて<感動しました>、<感動しました>が相次ぐに及んで、私は、正直、退席したくなりました。
<時間をかけて検討してまいりました>と市長さん、<慎重に検討してまいりました>と部長さん。
そうかそうか、だから合併後すぐに図書館を作ると表明できなかったのか・・・。

蔵書予定数が発表されました。
AV資料などを除いて純粋書籍数は次のとおりです。
庄和図書館(仮称)      77,200冊(予定)
武里図書館(武里公民館2階)109,830冊
春日部中央図書館      466,300冊

元役場の事務フロアを図書室にするための、書籍用荷重に対する補強工事は何もしないようです。
そのためとはいわれませんでしたが、書棚は低く4段ぐらい(中央図書館は6段)書棚の間隔も広くとって、ゆったりして、障がいのある人、お年寄りの人にも使いやすい図書館にするそうです。だから、77,200冊です。

工事費4億円は、合併特例債を使います。購入図書費用には、旧庄和町が貯めていた2億円をあてます。開館は、平成22年10月を予定。当初1億1000万円で60%の書籍を購入しスタート。その後、毎年1000冊ずつ増やしていきます。・・・とのことです。

説明会は、図書館計画の説明会だったのではありません。
<庄和総合支所庁舎有効活用基本計画住民説明会>です。図書館のほか、市役所の支所機能、そして、<日本一子育てのしやすい市>をうたう春日部市にとっては、ある意味、目玉となる“児童センター”機能も計画に入っているのです。

“児童センター”計画については、誰一人発言しません。いや正確には、むしろ逆の立場風の質問がありました。児童センター計画を聞いて<感動しました>があってもよかったのですが。児童センターの利用を期待される、子育て真っ最中のお母さんは、説明会なんかに出てくる暇はないのでしょう。

それでも、要望・希望あるいは関心があるならば発言することが大切です。
市に対して要望が言える機会なんて、ほとんどありませんので、なんとか出かけて発言すべきなのです。

   【おまけ】

*写真は、上(右);(仮称)庄和町生涯学習会館基本計画(平成5年8月)庄和町教育委員会、中(中);庁舎改修及び図書館設置基本計画書(平成17年8月)庄和町、下(左);春日部市庄和総合支所庁舎有効活用基本計画書(平成20年3月)春日部市。

* ここに、一連の図書館計画に関する3冊の報告書があります。もう捨ててもいいのですが、もうしばらく持っていましょう。15年かけてようやく図書館ができるのです。

* 1冊目の計画書は、当初、図書館計画でスタートし、途中で、生涯学習会館に変わったものです。そして製本され配られたときに、当時の教育長名で<この計画は実行しません>との文書がはさんであったのです。

* 今回もまた、図書館だけでなく児童館との複合施設なのです。ひょっとすると、図書館だけなら補助金がつかないようなこともあるのかもしれません。今ごろ図書館なんて!、と“お上”がいうのでしょう。
埼玉県の図書館のない4つの町はどうやって実現したらいいのでしょうか。合併するしかないのでしょうね。

* 説明会での数字は、多少は聞き違えているかもしれません。それから経過について、今年の6月1日に、このブログで書いています。<ここです>

* ここに引越してきて35年、ようやく歩いて図書館に行くことができるのです。 まあ、めだたし、めでたし、なのです。

  【大事な追加・・・(6月29日)】

*説明会、夜の部(6月21日)の参加者は、7名、わずか7名でした、と知人が教えてくれました。ほんとに、3万人の署名があったのかなあ。署名って、そんなもんかなあ。


雨上がりの朝、落ちた花に、わが家に過ぎたる沙羅双樹の木を思います(2008.6.24)

2008-06-24 21:26:35 | Weblog

もう6月も終わりです。静かな日々に戻ります。
朝一番、わが家の玄関前に、雨を花に残した3、40個の白い花が落ちています。半月ほど続きます。夏つばき、沙羅の花です。
大きく息をして、わずかな香りを感じ、そして花を避けながら朝刊をとりに行きます。

 

この猫額庭に自然天然を思うのはこの季節だけです。
自慢の沙羅双樹の木です。

そして、この季節、決まって、ご近所から“枇杷”をいただきます。実家から送ってきました、と。見事な色づきの枇杷、写真を撮る前に消えてしまいました。

昨日(6月23日)は、夏のような陽射しでした。
つばめが2羽、わが家をかすめて飛びました。今年初めて“つばめ”を見ました。
1ヶ月ほど前に、毎年つばめが巣をかけるお向いさんから、“今年はこないんです”と聞いていました。
去年(2007)は、4月17日のブログに、“つばめを見た”と書いています。
<ここです>

昨日の“つばめ”が、お向い家の“つばめ”ならいいのですが。

    【おまけ】

*夏休み朝顔絵日記①

*金沢21世紀美術館にあった日比野克彦さんの作品・朝顔プロジェクトから持ち帰った朝顔の種を、1週間ほど前に、プランタンに植えていました。芽が出ています。今年は、朝顔の花が楽しめそうです。


旅の終わりの新幹線、車内誌が東北のジャズに誘います、金沢旅日記⑩(2008.6.23)

2008-06-23 17:18:42 | Weblog

*新幹線車内誌。バンド・メンバーのお土産に、ほんとうは10冊ぐらい持ってきたかったのですが、同行者が<やめなさい!>と。

金沢から大宮(埼玉県)に帰るには、特急+上越新幹線です。新幹線には湯沢で乗り換えますが、新潟県内はどこを走ってきたのかよく知らなかったのです。今時刻表でみると、北陸本線直江津から湯沢に<ショートカットする>北越急行という第3セクター線を通ったようです。JR特急が一部、私鉄(!)の線路を走ったのです。
金沢を夕方1717発の特急はくたかに乗り、大宮2054着です。わずか3時間30分。金沢駅構内で買ったお弁当も食べずに持ち帰りました。

長野に暮らしていた2年間、月に1度は往復していた長野新幹線の車内誌が楽しみでした。いつも持ち帰っていました。先々の旅に、ガイドブック以上の内容で役立ちそうなのです。

今回、2年ぶりの新幹線です。すぐに、JR東日本の社内誌<トランヴェール>の表紙が目に入りました。
6月号・特集<東北、ジャズに酔う旅>。おっと・・・です。もちろん一関のベイシーが載っています。店主の菅原さんとアルトの渡辺貞夫さんの対談が巻頭を飾っています。仙台の定禅寺ストリートジャズフェスティバル、今年(2008)は、9月12,13,14日らしい、などなど、東北のジャズシーンに誘います。
<ご自由にお持ち帰り下さい>。大宮到着直前に4つの座席ポケットからもらって帰りました。

   【おまけ】

* 金沢の街なかにあった<ちょっといいな>を撮りました。

*いいなあ。こんなデザインのノレンをかける料亭で食事をしてみたい。

*驚きました。JOAKはNHKラジオ第一放送(東京)、JOBK;大阪、JOCK;金沢です。私もNHKの視聴料を払っていますが、ペラペラのNHKシールをウチの玄関には貼る気になりません。これなら、貼ります。

*楽自然。私の行き方ですが、ちょっと、わざとらしいなあ。

* 金沢、たった3日弱です。心残りも多々ありますが、そのひとつです。閉館時刻直前に、金沢蓄音機館前を通りました。蓄音機もそうですが、SP、LPレコードコレクションを、いつかやってきてチェックしたいと思っています。

*私も登場しました。だらだら<金沢旅日記>へのおつきあい感謝の気持ちです。

*<金沢旅日記>をとりあえずクローズとします、といって、明日、何を書こうかと思案するほど、何もない日々を送っております。また、どこか旅にでたいなあ・・・と。


ガイドブックに載ってないけど山添いのお茶のお寺や文七窯、金沢旅日記⑨(2008.6.22)

2008-06-22 16:41:51 | Weblog

*こんな所に、裏千家の始祖・仙叟のお墓。この五輪塔、石のひとつひとつに、上から、空・風・火・水・地と彫ってありました。

旅の前には、かなりガイドブックを読んで出ます。“るるぶ**”というちょっと、私ら世代が買うのは気恥ずかしい名前のガイドブックが、わが家に貯まっています。
わが家の次世代が買ったものです。旅を仕事にするようになった息子もたまに買っているようです。
ガイドブックにある観光スポットめぐりは、それはそれで効率的ですが、もうマイペースで、ガイドブックなしで行きたいものです。

金沢の山ぞいに、人々が“茶の湯”に集まってくるお寺があると読んだことがあるのです。かすかな記憶を頼りに本棚を探し、20年も前の雑誌(太陽)から、月心寺(曹洞宗)というお寺の話を見つけました。

卯辰山(うだつやま)、東の茶屋街の奥です。行きはタクシーにしました。
月心寺(げっしんじ)と言ったら、さあ?という返事。簡単な地図を示し近くまで乗りました。このあたりたくさんお寺があります。大きな道で降り、右手の入り組んだ細い道のひとつを登ります。もうここは観光地ではないようです。古くからの下屋が並んでいます。車なんて通れそうもない細い坂道です。
2つ3つのお寺の名を表札で確認しながら、しかし、まあ楽に月心寺に着きました。

*月心寺正門

普通のお寺です。門は開いています。誰もいません。
金沢市作った案内板がありました。
茶の湯を確立した<千利休>のひ孫で、三代目の仙叟宗室(せんそうそうしつ)のお墓があると知っていました。勝手に本堂裏の方に入ってみました。すぐにわかりました。

*侘びたお茶室。

*直心庵と読めます。

兼六園あたりのはなやいだ茶室の感じは全くありません。茶亭がありましたが、近寄れません。薄暗く額の文字が読めません。やっと、直心庵と読みました。
まさに<見渡せば 花ももみじもなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮れ>、“侘びの境地”です。

お寺に声をかけ、お話のひとつも聞いてくればよかったのですが、そんな気分になれないほど人影のないお寺でした。

それでも気持ちに満足感もあって、帰り道はどんどん下りました。

大きな通りに出て、東の茶屋街の方に歩き出してすぐに、家人が足を止めました。
普通の民家のようなお店にお茶碗が並んでいます。のぞいていたら<どうぞ中に>と声をかけられました。<主人の父が、大樋家で修行した・・・、大樋焼です>と、が色にも形にも独自性があふれる茶碗です。月心寺でのお茶会のことを聞いてみました。仙叟命日の23日に毎月、追善茶会(月釜)をやっています、とのお話でした。

ひとり旅では、その土地のお茶碗を買うことも多いのですが、今回はなしです。外に出て振り返ると古風な看板に<文七窯>とありました。もう一日余裕があったら、またやって来たでしょう。

千利休は豊臣秀吉に切腹を命じられます。その孫の時代です。利休のひ孫のひとり仙叟は、加賀藩主(5代あたり)の茶道具奉行として仕えます。そのとき、京都から楽焼の楽吉左ェ門の弟子・土師長左ェ門を呼び、大樋村に窯を築かせたのです。これが大樋焼です。

*大樋焼窯元。江戸時代は大樋村、今、金沢市のど真ん中。

*ちょっと気に入った初代大樋長左ェ門の作品。カラスの香炉、1mぐらいの大きさ。・・・・・たぶん同時代の、今、国宝になっていて石川県立美術館にある、野々村仁清の雉(キジ)の香炉を、意識したのだろう、と思ったのです。

前日には、大樋焼窯元、大樋長左ェ門の本家、といっても、直営ショップと大樋美術館に寄っていました。もちろん<見事>なのですがが、特徴である“飴色”が、もうひとつ好きでないのです。それより前に手の出る値段じゃないのです。

   【おまけ】

*お茶の“千”家の墓所は、京都の臨済宗大徳寺の塔頭・聚光院にあると、茶の湯好きの同行者は言っていました。千家の三代目の仙叟は、京都で亡くなっています(元禄10(1697)年1月23日没)。

*月心寺には、代々の大樋長左ェ門のお墓もありました。


金沢の県立・21世紀と二大美術館で二つの失敗、金沢旅日記⑧(2008.6.20)

2008-06-20 12:46:50 | Weblog

*金沢21世紀美術館前庭です。

旅で、その土地を感じるためには、安易といえば安易なのですが、たいてい県立とか大きな美術館に立ち寄ります。まあ普通、展示が総花すぎて、満足しないことが多いのですが。
石川県立美術館には、<目玉商品>があります。
野々村仁清の国宝・色絵雉香炉を見たいと思っていました。雑誌などで、その姿は何度も見ていてよくわかっていますが、写真では大きさがわかりません。小さな茶道具・香炉と思っていたのですが、ある時、大きさが、雉(キジ)の実寸大であることにちょっと驚いたのです。それで、見ようと思っていたのです。対として、雌(♀)のキジの香炉あります。こちらは、重文、重要文化財です。
雉(キジ)は、鶏に長い真直ぐな尻尾をつけた大きさを想像していました。

*9月20日までお休みなのです。右ページの写真が、見たかった雉(キジ)の香炉です。

たどりつた石川県立美術館は、改装中でお休み・リニューアル・オープンは9月20日という看板が立っていました。まさか、と思いました。金沢市観光の目玉商品のひとつだし、そんなことあるはずがない、と思っていたのです。うっかりしました。
(石川県立美術館のWEBには、しっかり書いてあります)

次は失敗というほどでもないけど、失敗だったといえる金沢21世紀美術館。
観光施設にも集客というか、新しいニーズへの対応というか、工夫がなされ大評判を呼んでいる施設があります。例えば、動物園の旭川動物園がそうです。美術館では、現代アート系の新しい美術館がそうです。直島の美術館、弘前の美術館、そして金沢21世紀美術館が評判で、雑誌などによく登場します。

現代アートの斬新な美術館は、建築物・たたずまいはもちろん、展示の仕方自体がアートなのです。私の失敗は、従来の、トラディショナルの美術館気分(方法)で見ようとしたことにあります。
つまり、総合受付にいって、チケットを買い、順路に従って、出口に向かって歩くのが美術館、という気持ちを持っていたことが失敗なのです。この美術館には、入口がいっぱいあります。どこから入ったらいいのかなあ、と早くも迷います。

*どこから入りましょうか。

*どこに行きたいですか。

ここには、フリー(無料)ゾーン、有料ゾーン(そうは言わないらしいが常設展ゾーン)、そして、もうちょっと高いゾーン(企画展ゾーン、これもそうはいわない)が、渾然一体になっていたのです。
受付のお嬢さんに、<どこに行ったらいいのでしょうか>と聞いても、笑顔は素敵なのですが、要領をえない、そりゃそうでしょう。
<どこに行きたいのですか?>と逆襲されました。

館内はまさに迷路でした。今、館内マップを見ているのですが、やはりよくわかりません。現代アートというより、現代という空間に迷っていたのです。そのこと自体が、アートなのだ、と、気鋭の美術評論家がいいそうです。

とはいっても、2時間ほどいて、<かなりの無駄な時間も含めて>、だんだんわかってきました。リピーターさんというか、再々やってきて、アートの中に自分をおくことのできる、ご近所さんには素晴らしい施設だと思ってきました。
何も見なくていいのです。<無料エリア>でいいから、いつも、ここにいる、そういうのが、この美術館の楽しみ方だな、と思いました。金沢市民には、とてもいい文化施設だな、と思うのです。

  【おまけ】

* 総合案内のお嬢さんに、<どこに行きたいのですか>と聞かれ、<日比野克彦さんの展示を見たい>と。ほんとは<そのために来たのではありません>が、目の前に貼ってある、掲示をみて<口から出まかせ>です。

* ただ、日比野克彦さんの作品は、かなり好きというのはほんとうです。たぶん20年以上前に、ダンボールで作った作品を見たとき、こころが休まる気持ちになったのです。エッセイ集を読んだり、2,3年前には水戸芸術館の大規模な個展にも出かけたりしました。

*今日も私の本棚から。真ん中の昔の作品集(1984年10月)が好きです。両側のは、1999年発行のエッセイ集です。2冊持っているのです。

*アートだから作品を写真で紹介したいのですが、アートだから撮影禁止です。

*無料ゾーンにダンボール作品がありました、有料ゾーンにあったのは、ヒノキで作られたステージというか、芝居小屋のような作品でした。いつものようにダンボール箱が転がっています。誰もいません。ステージの中央にたって主役の気分を味わいました。どの部屋にもスタッフのお嬢さんがいて写真を撮ることができません。
演出家の野田英樹さんと共同のイベントプログラムもあるようです。

* 朝顔を植えて花を咲かせて種をとって、種を配り続けて全国に朝顔を咲かせる、(だったと思う)日比野克彦さんの朝顔プロジェクトに同意して、種をスプーンにひとすくいもらってきました。

* 朝顔植え付けの時期ははずれていますが、家人がわが家のプランタンに植えたようです。


アメリカ・ビート文学から逆輸入した鈴木大拙は金沢生まれ、金沢旅日記⑦(2008.6.19)

2008-06-19 15:57:43 | Weblog

*<金沢ふるさと偉人館>の売店で買った2冊の本

出発前に、秘かに寄ってみようと思っていたのが、<金沢ふるさと偉人館>です。
いかにも小中学生向き展示らしいネーミングで、言うのもはずかしい感じだったのです。家人が“茶席めぐり”で別行動の時に行きました。

2年前の2006年、鎌倉で、鈴木大拙の没後40年記念展があったおり、いくつかの展示物が<金沢ふるさと偉人館>所蔵となっているのを知ったときから、機会があれば行ってみたいと思っていたのです。

金沢で生まれ育った鈴木大拙は、禅・仏教の研究者で、世界への紹介者です。
国内の鈴木大拙より、海外での Daisetsu Tei. Suzukiの方が知られているらしいのです。

 私、いや同世代の多くは、1960年代には<アメリカかぶれ>だったでしょう。
50年代にビートと呼ばれ、60年代にはヒッピーと呼ばれた若者の動向に、憧れを感じていたのです。アメリカに行ってみたいと思っていました。
アメリカの若者が、東洋思想、仏教思想に傾倒していることが、ビート文学などを通して伝わってきます。
彼らが読んでいたものが、<禅>の鈴木大拙だったのです。あるいは、<茶の湯>の岡倉天心だったのです。
私も、鈴木大拙や岡倉天心に関心を持っていったのです。つまり私は、アメリカ逆輸入で鈴木大拙を知ったのです。
このあたりは、前にブログにかきました。<ここにあります>それと、<ここにもあります>

<金沢ふるさと偉人館>には、西田哲学(明治44年の“善の研究”)の西田幾太郎をはじめ、17人のふるさと偉人が紹介されていました。小中学生向きに展示です。

*<金沢ふるさと偉人館>の展示ケースに“禅と日本文化”がありました。

家人との約束の時間もあって、さっと出ようとして、受付脇の関連書籍売り場で立ち止まります。偉人・先人の著作が並んでいました。鈴木大拙関連図書の中から、2冊を買ったのです。

 ひとつは、“臨濟録(りんざいろく)”です。
この臨濟録、随所に大拙自身による朱の書き込みがしてあります。本にはカバーがしてあって、自筆で臨濟録と書いているのです。復刻版です。大拙が座右において愛読したのでしょう。原本は、大正7年9月、森江書店の発行で、和綴じ本でしょう。復刻版の版型は文庫本です。大拙没後40年の記念出版です。
発行の大正7年は、大拙が、明治30年28才で渡米し、雑誌の編集や東洋思想書の英訳を手伝って明治42年40歳で帰国した後、学習院の教師をやっていた時代です。大正5年には、“禅の研究”を発表しています。

*ブックカバーがあって自筆の書き込み。
*第1ページです。読めません。

 この本、買ったからといって読みません。いや全く読めません。持っているだけの満足本です。

禅宗には、永平寺の曹洞宗のほかに、京都や鎌倉に本山のある臨済宗があります。 浄土宗や浄土真宗、あるいは真言宗が根本経典を持ってより所にしているのに対して、禅宗は根本経典を持たないのです。<言葉や経典に依存されず、心から心に直接働きかけて教えを伝えていく>のだそうです。
それでも、宗祖である臨済禅師の教えは、<臨濟録>で伝えられているのです。

別の一冊は、北國新聞に連載され書籍化された“禅・鈴木大拙・没後40年”です。
こちらは読みました。2,3日前に読み終えました。
今まで、多くが知られていなかった<金沢で生まれ(明治2年)てから、金沢を旅たち東京に向かった22歳(明治24年)までの金沢時代をはじめとして、大拙の生涯を見つめ直しています。
私は、大拙の生涯を読み通したのは、この本が初めてです。

ここでは、昭和35(1966)年に97歳の生涯を閉じ、主治医として最期を看取ったのは、聖路加病院の日野原重明院長だった、ということだけにしときます。

  【おまけ】

*路地の突き当たりの案内板。↓;下に進め!!

*執筆した北國新聞の記者は、最後に、あまりに知られていない<金沢・ふるさとの至宝>と書き、<北陸新幹線の金沢開業を見据え、金沢市は全国有数の禅寺を持つ北陸の各自治体と連携し、“禅文化の集積地”として売り出そう>
いま、心の豊かさや生き方といったものにあらためて目が向けられる時代だから、と結んでいます。


にぎわいはないが門前町のみやげ物屋が楽しい永平寺、金沢旅日記⑥(2008.6.18)

2008-06-18 21:41:01 | Weblog

日曜をスタート日にする旅で困るのが、“観光施設が月曜お休み”であることです。
金沢行きの目的のひとつで、下の息子推薦の<金沢21世紀美術館>がそうなのです。
この旅の計画当初にあった<永平寺に泊まって修行体験>という家人の希望を、少し復活させて、月曜には、永平寺行くことにしたのです。お寺にはお休みはないでしょう。

金沢駅発9;04のJR特急40分間で福井駅です。生まれてはじめての福井県です。駅前から永平寺行き直通バス10:00発。10時35分には、永平寺門前に着きました。
深山山中といった感じでもありません。何台もの観光バスも着いています。その人たちの流れの中に寺内に入っていきます。ここが禅宗・曹洞宗大本山永平寺です。

シーンとした墨染めというか、モノクロの世界を思っていたのですが、団体客のざわめきの中に、修行の地の気分は消えそうです。七堂伽藍をゆっくり歩きながら、ときどき重なる団体客への学僧の説明が若者口調であったりします。参拝客への説明も大事な修行なのでしょう。それでも、雪深いこの地での真冬の修行を思います。そこら、街にいると同じ若者が、何ゆえこの寺で修行をしているのか、いつまで、どこまで、この寺にいるのだろう、などなど。伽藍・仏教建築・仏像をしんみり見ていました。

*写真は、自由ですが、修行僧は撮らないで下さい、と最初の説明で修行僧。

2時間ほど、お寺にいて、1日6本のバスの14時20分発を思い山門をでました。お昼は、山門の前のお店でお蕎麦でした。予定どおりの行動です。
福井駅からのバスは、山門の目の前に着きますが、帰りの福井駅行きバスは30分ほど下った所から出るのです。つまり、参道というか、おみやげ屋さん通りを歩くことになります。この通り、決して賑わっているとは思えません。むしろさびれた感じの通りです。6月初旬はシーズンオフなのでしょう。この頃、観光客はお金を落とさないのでしょうか。
お店に特別なものは何にもありません。俗っぽい観光おみやげが並んでいます。しかし、それがまたいいのです。バスの発車時間に余裕もあって、気ままに土産物屋のひやかしハシゴをしてきました。

金沢駅に帰り着いたのは、4時です。それから映画に行ったのです。

    【おまけ】

*永平寺の鐘は、大晦日の紅白歌合戦後の行く年来る年の鐘です。だからお土産に買ってしまいました。それから、実は下着代わりに着ているTシャツの着替えを持ってくるのを忘れたのです。だから買ったのです。街で着るのはちょっと恥ずかしい。

*永平寺内の参拝コースの最後に売店がありました。私は、禅、禅宗に関する本が並んでいることを期待したのですが、全くありませんでした。

* しかし、参拝コースのおまけのような寺宝を展示している部屋は、充実していました。越前・加賀の一向一揆とその弾圧の時代に、信長以降の武将から存続を<安堵する>との書状がずらりと並んでいて、宗教と支配者の関係に及んで興味深かい展示でした。その図録とか関連書籍を売っているとよかったのですが。


豪華な加賀料理でなくカップ麺<どん兵衛>金沢版、金沢旅日記⑤(2008.6.17)

2008-06-17 18:59:10 | Weblog

*左;関西風(金沢)、右;関東風。

旅行会社の金沢パックのパンフレットには、実に美しい加賀料理が載っています。
京のみやびがそのままの金沢百万石で、今では、京都より京都らしい文化、ごちそう文化に育っているのです。

と、まあ書き出しますが、カップ麺<どん兵衛>のお話です。
先日、カップ麺<どん兵衛>には、関東バージョンと関西バージョンがあるらしいと、このブログに書きました。<ここです>

金沢で、しっかりカップ麺<どん兵衛>を1個だけ買って帰りました。金沢は、関西バージョン(Wマーク)、つまり、<鰹だし>でした。

先日(14日)、息子もいる夕食時に、ふたつのカップ麺に熱湯を注ぎ5分間まって、6個のお椀を並べ、3人分それぞれ2種類のカップ麺の食べ比べをやってみました。
もう完全に汁の味が違います。

関西バージョン(W)鰹だしは、色味ともに薄くさっぱり、単純な味。
関東バージョン(E)鰹と昆布だしは、色が濃い、味は、濃く複雑な味です。砂糖の甘味さえ感じます。玉子焼が甘い関東らしい。味の表現は難しいですが醤油ラーメンの汁の味でしょうか。

家人はだんぜん関西、私は強いていえば関西。息子は、別に!と、バカバカしいといった様子です。

金沢の旅行中に加賀料理を食べました。夜の料亭で、宿代より高いお料理を食べたわけではありません。お昼です。加賀料理弁当でもなく、プチ御膳だったか、ミニだったか、加賀料理もどきを食べました。

ガイドッブク情報から、金沢城石川門側からの兼六園入口あたりの、<御料理たなか>にしようと思っていたのです。それがないのです、少し歩き回ってもないのです。
そこで、あまり流行ってなそうなみやげ物屋のおばちゃんに聞きました。

<ちょっと前に、店を閉められたんですよ>と。そして、いいおばあさんだったからに始まって、金沢の料理人は皆そこから育ったのです、さびしいですよ、と、長いお話を聞かされました。まあ聞きながら、おばちゃんのほんとの気持ちを感じていて、決していやじゃあなかったのですが。

*何度か行きつ戻りつしました。<御料理たなか>は、5月21日に開店した<さくら茶屋>になっていました。

それならと、<御料理たなか>の店を買って、そこにこの春に開店した<さくら茶屋>にしました。モダンな和風カフェの雰囲気の店でした。
家人は美味しい、いい味とご満悦のようでした。わたしゃ治部煮が入っているだけだなと思ったのです。

いつもの私の国内の旅の食事のならわし。メインは、朝食付きのホテルを選んでの朝のバイキングです。今回は2泊。1日目は洋食バイキング、2日目は和食バイキングです。朝しっかり食べ、日中はコーヒーで過ごすのです。
このホテルの和食は、“金茶寮”が入っています。夜にはちょっといけません。
私らは近江市場で、ちょっと高めの海鮮丼を食べるのが上々だったのです。

  【おまけ】

*2種のカップ麺に熱湯をそそいで出来上がった汁の色を表現しようとデジカメで撮ったのですが、明るさ(照明)が均等でなく失敗しました。

*ついでに、ホテルの宿泊客には、チャイニーズ(中国?台湾?)が目立ちました。


6月19日に越谷で山田太一さんのお話と小室等さんの音楽ライブ(2008.6.16-2)

2008-06-16 17:50:27 | Weblog

ご近所イベント情報です。1ヶ月ほど前に知人からもらったチラシです。

 ~もう一度地域で出会うために~
ゆめの中で風の中で“人の交差点” 顔が見える。
心と心が繋がる。共に生きる町を目指して・・・。
山田太一さんのお話と小室等さんの音楽をお届けします。

2008年6月19日(木)18時30分開演、18時開場。
越谷サンシティ小ホール
参加協力費;前売2000円、当日2200円
主催;ゆめ風ネットさいたま、NPO法人ゆめ風基金
問合わせ;090-1736-8785

こういうイベントが成功するように、このブログでも紹介します。

小室等さん、日本でもっともフォークシンガーらしいフォークシンガーです。1960年代から第一線で歌い続けられている、変わらぬ気持ち、持続する志をお持ちの行動者でもあります。

私の本棚に、これだけの小室等さんの本がありました。いろんな所に書かれた、コラム、エッセイ、対談を集め出版されています。

 出会いは旅のなかで、晶文社 1980年2月発行
涙よ 枯れるな、話の特集 1982年10月発行
小室等的〔音楽的生活〕事典、晶文社 1989年5月発行
ここから風が 小室等対話集、ぶどう社 1995年3月発行 (山田太一さんと対談も収録)

*これは、1965年と1967年に、朝日ソノラマ社が出版したソノシート付きのギターの教則本。ギターの演奏は、小室等さんとPPMフォロワーズ。

1960年代後半、私が大阪に暮らしていた頃、今から思えば泥臭い働く者フォークの中にいた頃、東京の大学生たちのフォーク・グループは、スマートにメディアに登場していました。ギターもスリーフィンガーピッキング奏法で鮮やかでした。その中心にいたのが、PPMフォロワーズ。ピーター・ポール・アンド・マリー(PPM)スタイルのグループです。PPMは、ボブ・ディランと違って実に洗練されていて心地よいサウンドでした。PPMフォロワーズの中心が、小室等さん(1943年生まれ)です。
その後40年。私は、小室等さんのライブに出かけたこともありません、もちろんお会いしたこともありません。


観光旅行先で“左利き”のボブ・ディランの映画、金沢旅日記④(2008.6.16)

2008-06-16 11:34:34 | Weblog

*時計が7時46分を指しています。終わった時間です。

わざわざ金沢まで旅行に出かけて映画をみるなんて、ちょっとおかしいでしょうか。
泊まっていたホテルは、繁華街・香林坊にある<金沢エクセルホテル東急>です。繋がっている隣の<109>という名のテナントビルから出入りしていました。着いた日(6月8日)の夕食場所を探して街に出た時に、その<109>ビル内で、ボブ・ディランの映画<アイム・ノット・ゼア= I’M NOT THERE>の看板を見つけたのです。

正確には、ボブ・ディランの人生をモチーフにした映画<アイム・ノット・ゼア>は、4月下旬に大きな新聞広告もあって見ようと思っていたのですが、東京まででかける程のバネにならかったのです。もう終わったかな、とも思っていました。

*なんと、あの日経に映画の全面カラー広告です。2008年4月23日付34面。夕刊でなく朝刊(全国版?)です。若者向け映画でない証拠でしょうか。朝日には、小さな広告でした。

金沢に同行した家人と食事をしながら、いささか<どう言い出そうか>と思案でした。この旅、目的の半分以上が、<会話のなくなった日常の修復>だったわけで、<わたしゃ、明日は映画に行くから>と言い出すには、勇気がいります。

映画は、<109>内4階のシネモンド、14:50と17;25が<アイム・ノット・ゼア>です。時間帯も悪い。夜遅くなら、抜け出すことも容易ですが、その後20;00からは他の映画の上映です。

翌日(旅の2日目)5時過ぎ。ふたりで映画館の前にいました。シルバー***券1000円×2です。

ボブ・ディランは1978年に初来日、2月20日初日、東京の日本武道館です。美空ひばりもやって来て途中で帰ったというコンサートです。
そのときは家人と一緒でした。その後の来日コンサートも、必ず初日の売り出し日にチケットを2枚買ってきました。家人と一緒だったのは、初来日の時だけです。

キャパ100人ぐらいの小さな映画館でした。映画が始まった時、私ら含めて10人ぐらいだったでしょう。はたち位の若い女性同士のふたり以外は、ひとりずつ、孤独の鑑賞者のようでした。
上映時間1時間40分ぐらい。私には、充分楽しめました。かなりのボブ・ディラン・マニア(オタク)の私には、ワンカット・ワンカットが良く理解できたように思います。しかし、はたち位のお嬢さんには、からきし意味不明な、面白くない映画であったに違いありません。一部私ら世代のための懐かしの映画でしょう。
それでも私は、もう一度2番館で、今度はメモ用紙をもって見てみます。
いや、今の時代です。もうDVDを売っているかもしれません。

*久しぶりに買った映画のパンフレット(600円)。いや、ほんと久しぶりの、20年ぶりの映画館でした。

この時代、60年代(一部に70年代後半の話もあるのですが)のディランを取り巻く女性は3人です。登場順に、ジョーン・バエズ、スーズ・ロトロ、そして正式に結婚して子どもを持つサラ、です。映画ではもうひとり出ていたかもしれません。ここでも、ジョーン・バエズへの扱いが、私を涙気分にさせます。ディラン自身の記録映画<ドント・ルック・バック>に感じた印象と同じです。史実に忠実にすると、こうなのでしょう。
スーズ・ロトロのことは、このブログで書いたことがあります。<ここです>

この映画について、ひとつひとつ書くことは、このブログ向きではありません。
結局、家人は、<私も行くよ>と言ったのです。

そういえば、金沢大学文学部には、ボブ・ディランについて、何冊も本を出された三井徹先生がいらっしゃいました。金沢はそういう街です。尾張町あたりのとおりすがりに中身の濃そうな中古レコード屋さんがありました。目をつぶってパスしました。

   【おまけ】

* ずっと前に、このブログで、ボブ・ディランは初め左利きだったと書いたことがあります。<ここです> デビュー盤のレコードジャケットが左利きのギター、実は写真の裏焼きの話です。アメリカ西部のアウトローで人気者ビリーザキッドの左利き伝説は、流布された写真の裏焼きから起こったものです。アメリカでは、写真の裏焼きが平気なおおらかな国のようです。

* この映画の初めの方に、ディランの少年時代(ただし伝説の少年時代)のシーンがあります。黒人少年が演じていますが、一瞬ギターを弾くシーンが出た途端に、隣に座っている家人に<左利きだよ>と囁いてしまったのです。

* この映画の監督さんが、左利きのレコードジャケットの事実から、<左利きの少年にギターを弾かせた>だったら、こんな楽しいことはありません。映画の終盤に、ビリーザキッドが登場します。そして、ビリーザキッドの写真を載せた<お尋ね者手配ポスター>が、一瞬、映ります。拳銃を、右腰につっていたか、左腰だったか、覚えていません。

* 今日もだんだん、どうでもいいオタク・ブログになってしまいます。


そうだ、金沢五木寛之文庫に寄贈しよう。金沢旅日記③(2008.6.14)

2008-06-14 23:51:57 | Weblog

*右;寄贈することにした私製のスクラップブック文庫<旅の幻燈>。

金沢市の中心部には、美術館・博物館・記念館のほか、コレクションを展示する館もあって、いくつかのぞきました。
そこで案内や解説をしてくれるスタッフ(ボランティア)さんはとても親切でした。どうもリタイア団塊世代の皆さんのようです。

 *この建物の保存の意味もあるようです。

街角に、美しい元銀行を使った金沢文芸館があったので立ち寄ってみました。
2階は五木寛之文庫です。五木寛之さんの全著作品、つまり発行された全べての出版物、愛用品や記念品などのコレクションが並んでいました。彼の生き方や文学の原点が感じることのできる空間になっています。

スタッフさんがつきっきりで丁寧に解説してくれます。ここの展示は、五木さん自身の手によるものだそうです。
代表作“青春の門”は、週刊朝日に連載されたのですが、その週刊朝日を切抜きしたスクラップブックがショーケースの中に展示されていました。“五木さん自身の切抜きですよ”とスタッフさんから聞きました。
<若い時とはいえ直木賞受賞の作家さんも連載中の週刊誌を自分でスクラップ保存するのか>と、急に身近に感じたのです。

私も、同じ頃に五木寛之さんが日本経済新聞に連載した“旅の幻燈”という青春前期の自伝的な小説をスクラップして持っているのです。
正確に何年のことだったか忘れましたが1970年頃でしょうか。184回分の全部をスクラップしていたのです。おまけに、自己流の製本までしていたのです。

*これが、“旅の幻燈”の新聞連載スクラップ。背景のチラシは、ここで行われる小説<朱鷺の墓>の輪読会のお知らせです。金沢で展開する<朱鷺の墓>は、雑誌婦人画報に連載されたおり読みました。1970年頃でしょうか。

<どうせ、持っていてもなんにもならない>
“旅の幻燈”の新聞連載スクラップを持っていますので、さしあげましょうか、寄付しましょうか、と話したのです。
<ぜひに>ということだったので、送りましょう、ということにしたのです。

今の時代、文学者の記念館に、ただの愛読者程度では寄贈して意味のあるものなどないでしょう。五木寛之さん本人がお持ちのもの以上に保存・展示の価値のあるものはありません。
ただ、ひょっとすると、私の寄贈の新聞連載スクラップは、喜んでもらえるのではないか、と思ったのです。
というより、私が持っているより、ここにある方がましに違いないと思ったのです。

五木寛之さんは、私ら世代には、トップランナーでした。むろんかなり年長です。“さらばモスクワ愚連隊”、“蒼ざめた馬を見よ”なんて、ただかっこいいな、と思っていた程度です。さしたる思い入れを持っていたわけでもありません。大評判だった“青春の門”もほとんど読んでいません。

作家として世に出る前、五木寛之さんは、ここ金沢で暮らしていました。以来、金沢に特別の思いがあって、作品やエッセイにしばしば登場します。
そして近年は、金沢土着というか、一向一揆のというか、親鸞や蓮如について作品を発表されているのです。 今、仏教・信仰がテーマの執筆、発行が目立ちます。

翌日、朝早くひとりで、五木寛之さんの青春の金沢・片町界隈を歩いてみました。香林坊のホテル近くです。喫茶ぼたん、喫茶ロレンスは、コーヒー一杯でねばった喫茶店であるとエッセイに書いています。
<その頃、一番聞いていたのは、ジョーン・バエズやボブ・ディランだった>と書いているエッセイを、ごく最近読みました。まさか、と思ったのです。

【おまけ】

*右;五木さんの最も有名なエッセイ集“風に吹かれて”、左;これもエッセイ集“花はどこへいった”。ボブ・ディランやジョーン・バエズのフォークソングのタイトルがそのままエッセイ集のタイトルです。タイトル決定には熟考があるに違いない五木さんのこのタイトルは何だろうと思っていました。

*五木さんがテレビ金沢と一緒に作った金沢ガイドブック“五木寛之の新金沢小景”(北國新聞社、2005年9月発行)。今、金沢の観光ガイドブックでは、これが一番いいと思います。中央の出版社でないので買いにくいでしょうか。私は、長野で暮らしていた頃に、長野駅前の平安堂で買っていました。

 

 


金沢百万石まつりのお茶会は別行動 金沢旅日記②(2008.6.13)

2008-06-13 17:31:57 | Weblog

*街の家々は、飾り幕で、お祭り気分。

松江、鎌倉、そして金沢は、町全体に茶の湯がさかんといっていいでしょう。
家人は、茶の湯好きです。京都のお茶に関する行事には及ばないとしても、金沢にもお茶を楽しめる日があるに違いない、そういう日に出かけたいという希望があったのです。
今年6月7日(金)~10日(日)に金沢百万石まつりというイベントに、伝統のお茶室でお茶がいただける、ということで、出かけました。

百万石まつりは、古くからの伝統のまつりでなく、観光まつりでしょう。京都の時代まつりと同じです。そのイベント・プログラムのひとつに、百万石茶会があるのです。
土曜、日曜の2日間、金沢市内のお茶室や旧家のお部屋の計7会場。2日間ですから、計14人の席主が釜を懸け、8時30分から4時までお茶を振舞います。
金城霊沢のお水とり、茶筅供養、献茶式などの行事もあるようですが、中心は市民のお茶会(お茶券は1席1000円)です。1席1日300として14席というと、ざっと延べ4000人。参加人数の多さを思うと、さすがに伝統の金沢、市民に定着した茶の湯の町であることが想像できます。

会場は、茶道具コレクションを中村美術館として展示している中村氏の旧邸、殿様・前田家の奥方の屋敷である成巽閣、兼六園の中の茶室のひとつである時雨亭、金沢21世紀美術館の付属施設として移築整備された松涛庵などです。
金沢市には、たくさんのお茶室があります。武家屋敷からの移築が目立ちます。観光公開しているところ、常時、お抹茶サービスをしているところがいくつもあります。

*茶会会場のひとつ成巽閣(せいそんかく)
*成巽閣の奥方様の居室、この色(!)です。

茶会会場のひとつ旧中村邸

*中村邸内の茶室“耕雲庵”

*21世紀美術館附属の“松涛庵”

家人は、お茶席めぐりをしていたが、待ち時間のこともあって、お昼までに7ヶ所のうち3ヶ所回って、もういいかな、としたようです。
私は別行動、外から茶室を見たり、兼六園で思いにふけったりして、ひとりの時間をすごしました。

*緑深い兼六園、木陰は最高でした。

兼六園は、水戸の偕楽園、岡山の後楽園と合わせて、日本三名園です。
六月で緑が深く、桜や梅の季節に負けないいい風情でした。百万石祭りのこの日は、入場無料です。

*兼六園内の茶室“夕顔亭”

園内には、2つ3つの茶室があります。中で、最も美しい風情の茶室が夕顔亭で、園内最古の1773年(安永4年)に作られた大名茶室です。

  【おまけ】

*北國新聞2008年6月10日付けから。

*金沢市/石川県の新聞は、北國(ほっこく)新聞です。現地の新聞を読むのも、私の旅のルールです。6月9日は新聞休刊日。10日付け朝刊が、ホテルの部屋に配達されました。

*2面の“北陸の景気減速が続く”をはじめ、いささか暗い見出しが目立ちます。今、全国どこでも、地域の活性化が一番の課題なのでしょう。

*社説も、“百万石まつり 加賀藩文化発信へ改革さらに”と題されて、いくつかの課題を論評しています。旅行者の私には、見事で充分なおまつりと思うのですが、地域の主人公たちには、まだまだ不満なのでしょう。観光大都市・金沢でもそうなのか、と思ってしまいます。そして、私の住む春日部市の“藤まつり”を大賑わいだと喜ぶなんて、“小さい小さい”と思ってしまうのです。