南極観測に行きたかった<南極展2006>

2006-09-01 23:45:30 | Weblog

小中学生の夏休みが終わったからではない。科学博物館で夏休みの間中行われていた“ふしぎ大陸・南極展2006”が、9月3日に終わってしまうということで出かけた。招待券がもったいないからでもない。日本南極観測50周年記念のイベントです。

50年前は中学1年か2年。観測船宗谷が南極の海で氷山にとりまかれ、身動きできなかったことをよく覚えている。南極近辺にいたアメリカの砕氷艦“グレーシャー号”やソヴィエトの砕氷艦“オビ号”に助けを求める。オビ号の助けで窮地を脱した“宗谷”のことをよく知っている。南極観測隊・越冬隊は、山の中の子どもにとって、夢のような憧れの世界だった。イギリス登山隊のエベレスト初登頂すなわち征服と共に、南極探検は、こどもの私の心に探検・冒険の夢を・・・いやいや、絶対かなうはずなんて、ありっこないというような、別次元の世界のように思えた。学校から集団で見にいった記録映画。朝比奈カメラマンの名も、カラー映画が後半に、モノクロになったことも鮮明に覚えている。

1980年代になって、おとなになって、打ち上げられた通信衛星(さくら)の研究をおって、小金井の電波研究所(今の情報通信研究機構)に頻繁にでかけていた頃、電離層研究のため、南極に出かけていった人の話を聞いたり、朝日新聞社の知人が南極観測支援の役割を担っていたりで、急速に南極が身近になっていた。そして、ここ2,3年、信州大学で、大気圏外のナトリウムなど金属原子層の研究に関わっていたのだが、研究室の先生たちには、南極越冬経験者が何人もいらっしゃるのだった。

子どもの頃の憧れを、夢として実現したいと思って、強くつよく、気持ちをそれに向けていれば、実現の道もあっただろうな、と今頃思っている。

朝日新聞は、2年程前に、中山由美記者、武田剛写真部員を越冬取材に出し、昨年には、元科学部長の柴田さん(70歳)を再派遣した。柴田さんのレポートによると、越冬基地の豪華なサロンには、朝日新聞が、毎日、全ページ送られ綴じてあるそうである。日本の家庭に届くより早く、南極基地にデンソウ配達されるのである。南極にはインテルサット用のパラボラアンテナも設置され、インターネット環境は、国内と同じであろう。毎日、メールを交換し、WEBチェックし、テレビを楽しむことができる。その昔は、デリンジャー現象で何日も連絡がとれない、というニュースが、新聞で報じられていたのだが。それから、50年である。

朝日や日経は、海外5-6ヵ所で新聞印刷している。その印刷拠点への新聞デンソウの宛先に、“南極”を追加するだけで、越冬隊への新聞配達は可能になるのだ。

南極展は、夏休みの子どもたち向きのイベントだった。だから、極地研究所の研究者の熱心な説明もあったが、どちらかと言えば、観測初期の機材や新聞報道記事ばかり見ていた。とはいっても、膨大な、収集された隕石の展示などなど、夢のような南極が、そこにはあった。やっぱり、いくつになっても、行きたい(f)。