春日部もついにスターバックスが来る街になった(2007.8.29)

2007-08-29 21:58:50 | Weblog

毎週日曜の新聞折込広告は、求人情報ばかりで、いつもそのまま捨てます、いやリサイクルに。この間の日曜(26日)は、11月8日にオープンする“ララガーデン春日部”88店舗全店だったか、どうか知りませんが、そこの<求人情報>一挙掲載の折込広告がありました。真剣に求職中の私もサラッとみました。

同じ町に住む知人Rさんも自身のブログで、この折込広告に触れて、スターバックス、無印良品、<他に、私の聞いたことのないお店>が、ララガーデンに入るんだ!!と、書いていました。
私は、すぐに、<スターバックスには期待しています>をコメントしました。

もう10年ぐらい前から、町の人を相手に、<庄和町には、カフェがないなあ>とこぼし、<庄和町もスターバックスが来てくれるような街にしたい>と口から出まかせを言ってきました。
リタイア組には、<アンタ、カフェを開きなさいよ>と。脈のありそうな、あるリタイアさんの返事は<とにかく客の回転を速くすることが重要だね>と。
こりゃだめだ。<私のほしいのは、コーヒー一杯でねばれるカフェだよ・・・・>。そんな店を始めても儲からんよ・・・・。

わが庄和町には、未来永劫、スターバックスはこないでしょう。
でも庄和町が春日部市になってしまって、わが町に“スターバックス”が来たことになるんです。私の大願成就といえるのかなあ、めでたしめでたし。

Rさんのブログ上での、私とRさんのコメントのやりとりに、こんなコメントが入ってきました。<春日部にも都市化の波ですか。スタバもいいけど個人でやっているお店もいいな。うちのまわりは、チェーン店ばかりです(無断引用です)>
う~~ん。ララガーデン春日部ができても、スターバックスには、絶対行かないぞ、と決めました。

   【おまけ】

* 11月8日にグランドオープンするララガーデン春日部に入る88店のリストは、<ここにあります>

* 8月25日の朝日新聞に<コーヒーから考える地球>という記事がありました。
<コーヒーの多くが途上国で生産され、先進国で消費されるコーヒーは、地球規模の環境や貧困の問題とも密接に関係する。このため欧米を中心に、環境や労働者の人権に配慮して栽培・生産された「サステナブル・コーヒー」が広がっている>と。

* 日本でも、もう浸透しているよ、と、私に“フェアトレードのチョコレート”を教えてくれた清里のコスダさんがいいそうです。
この記事によると、スターバックスのコーヒーは、フェアトレード・ラベル・ジャパンなどを使って、サステナブル・コーヒーの普及を図っているそうです。やっぱり、スターバックスに行こう。


春日部ちょっとだけ時事問題、市立病院問題と杉戸町との合併(2007.8.27)

2007-08-28 17:15:20 | Weblog

いつも“おちゃらけブログ”ですが、ご近所コミュニティブログですから、さけて通れない話題を2つ。

(1)春日部市立病院の小児科と産科の休診

もとは、朝日新聞8月25日の東埼玉版(27面)に記事です。
<春日部市立病院は24日、9月から小児科の新患受け入れを休止すると発表した。小児科医の退職が相次ぎ、医師確保が難しいため。小児科医のサポートが必要な産科についても9月から新たな妊産婦の受け入れはしない>

すぐに、市役所と市立病院のホームページをざっと見ました。なんにも書いてありません。記者発表と同時に、市民向けにも発表をしてほしいなあ。病院には、貼り出してあるのでしょうが。

新聞によると、<産科では、9月以降の出産予定者33人を、すでに他の病院に紹介した>らしい。

この頃、NHKの特集番組なんかで、産科のない町が話題になっていました。隠岐の島から島根県に通うとか、出産時に車で40分走ることは心配、という、日本の現実を知らなかったわけではありません。山間僻地のことと思っていたのです。
また、春日部市立病院のピンチ、日本中の公立病院のピンチも知らなかったわけではありません。
春日部もまた、山間僻地並みだったのでしょうか。

ブログを書くために、ネットで<公立病院の問題>を検索してみました。
やはり“国の官から民への方針”にそって、そこ(民間)に誘導するための、公立病院いじめもまた無関係ではなさそうだ、と感じました。

なんでもかんでも、“官から民へ”です。民は市民ではありません。企業(民間企業)です。病院ビジネスです。介護もそう、介護ビジネスです。
もう病気にならないことです。自己責任、受益者負担といわれ始めていますね。

私の3人の子どもたちの“出生地”は、春日部市立病院です。
今から、25~30年前の話です。春日部市立病院以外に考えられなかったと、家人は言います。

*前は、平成14年度庄和町健康カレンダーです。この時点で、庄和町の産科は1軒だとわかります。後は、平成19年度春日部市健康カレンダーです。これでは、春日部市に、産科の病院が何軒、小児科病院はどこかも、わかりません。

今、大丈夫なのかなあ。庄和町では、産科の病院は一軒だけのようです。よく調べていませんが安心してお産もできない春日部市ではないでしょうね。
日本一子育てしやすい春日部市、男女共同参画推進条例(2007年4月)、あるいは少子化問題・・・、なんかぶち上げて、大丈夫かなあ。

 2、杉戸町の住民投票、春日部市との合併に反対の結論

合併賛成10,555 反対12,955 (投票率63.30%)
合併推進を公約して4月の町長選挙に当選した野口町長は、“当面休止”と述べたと報道されています。

ただ、よそさまの“杉戸の住民投票”についてのブログに、“春日部市と合併した庄和町”の現状をみると<合併しない方がよさそう>なんて議論が飛び交っています。リアル社会でも、しっかり旧庄和町(町民)の実情の観察がなされているのでしょう。

合併してしまった旧庄和町住民(私)にしてみれば、このような議論は、さびしく胸にきます。もう戻れない、取り返しのつかないことなのですから、マイナスからハンディを背負って、地道に春日部市民として“リスタート”するしかないのです。

合併したのに、どうしてもわからないことが、選挙区のねじれです。旧庄和町民の継子(ままこ)扱いです。
春日部“本”市選出の県議会議員さんを、旧庄和町民は選挙することができないのです。これでは、どの県議さんも庄和地区のことを考えることは“絶対ないでしょう”。
どうして、いつまでもほったらかしにしているのでしょう。<合併計画進行途上>だから、というらしいのです。もう進行途上ではないでしょう。

これは、裁判所に訴えてもいい事項でしょう。司法が門前払いしなければ、勝てるでしょう。

  【おまけ】

*2007年05月16日経済財政諮問会議で、“公立病院の民営化推進”の方針
政府の経済財政諮問会議は15日、2012年度までの5年間の医療・介護分野の効率化計画で大筋合意した。民営化などで公立病院の改革を進め、民間病院より非効率な経営構造を改めることなどを盛り込んだ。


スウィング・ベアーズ、正風館(春日部)で演奏します(2007.8.27)

2007-08-27 20:54:31 | Weblog

今週末、つまり9月1日(土)、2日(日)に、春日部市庄和地区の公民館まつりがあります。
私ら、スウィング・ベアーズも2日(日)の午後2時15分から、こ1時間演奏します。
昨日(26日)の午後、びっちり練習しました。本番がせまってメンバーも揃いました。ビッグバンド特有のサウンドの“厚み”も出てきました。
これなら、大丈夫です。ご期待下さい。

公民館のお祭りですから、楽しんでいただける選曲にしました。

My way (マイウェイ)
Frenesi (フレネシ)
The Queen Bee (クイン ビー)
Hay Buner (ヘイバーナー)
涙そうそう
島歌
世界にひとつだけの花
Danny Boy (ダニーボーイ)
Autumn Leaves(枯葉)
My Blue Heaven(私の青空)
Love me with all your heart (ラブミーウィズ)
Mambo No.5 (マンボ No.5)

夏休みの終わりの、いささか変な季節の公民館まつりですが、参加は、文化展示部門が22団体、ステージ部門は、1日(土)出演が12団体、2日(日)出演が11団体です。
詳しくは、(でもないか)展示団体、主演団体時間割は、春日部市役所のホームページに載っています。<ここです>

また、1階ロビーでは、1日には、フォークダンス、ダーク浜テーブルマジックショー 2日のランチタイムには、つづら薫シャンソンのひととき、があります。 お抹茶のふるまい、や町民!カフェもオープンします。


庄和町からの可愛い残暑見舞いを転送します(2007.8.25)

2007-08-25 09:39:49 | Weblog

一週間ほど前、ものすごく暑かった頃、“残暑お見舞い申し上げます”と、
米島に住む“i.mさん”から、私と家人宛のハガキをもらいました。驚きましたがとても嬉しく思ったのです。
一度、私のウチにお茶を飲みにきてくれたこともあります。
残暑見舞いといっても私信です。こうして世間にさらすのも問題かも知れません。
小さな町のことで、知ってる人だ、と思う人もいるでしょう。 

でも、“友人とTシャツを作りました”というメッセージは、ひょっとすると、Tシャツ等のデザインを手がけ、<どこかお店に出している>か、<ネットで扱っている>のだろうなと思うし、ちょっとDMの感じもします。
ならば、とってもいい感じのTシャツだから、紹介するのも悪くないかもしれない。

 Web(ホームページ)のURLが書いてあれば、確認して紹介するのですが、メール・アドレスしか載っていません。

デザインは、左から、Lo.1, Lo.2, Lo.3, Lo.4 です。 
Sizeも 90, 100, 120, 130, XS, S, M, L, XL, XXL と載っています。

注文(!?)を取り次ぐことも、できるでしょう。どうぞ!!!

もう、4,5年前になるでしょうか、庄和町が、春日部市と合併する前で、町の公民館が、“もっと一生懸命だった頃”(たぶん!)、庄和町に住む、若いアーテイストさんや、美術関係で勉強している人たちの作品を集めて展示したことがあります。私も手伝っていました。

その時の一番若い人です。ちょっと面白い、ほんとに、いい感覚の人でした。やはり、気持ちを持続しているのだな、と思ったのです。

庄和町に住む、こんな感性の若い人を応援するのが、私ら世代の役割でしょう。
こうした個展やグループ展参加のお知らせ、がんばっているハガキをもらうのは、とてもうれしいのです。


アメリカ放浪;サマー・オブ・ラブ40年(2007.8.24)

2007-08-24 16:49:39 | Weblog

*今年の6月は、まさに“サマー・オブ・ラブ”40年記念日だった(サンフランシスコの本屋ボーダーズで)。

“サマー・オブ・ラブ(Summer of Love)”の話題は、どうしても夏の間、8月中に書いておかなければ、“秋の風鈴”になってしまうでしょう。

サンフランシスコで、放浪の余韻を楽しんでいたのは、この間の6月26日から29日です。
サンフランシスコという街は、気の休まる街です。気候でしょうか。歩ける街、人の息遣い、たぶん文化が感じられる街でしょうか。なかでも街の中心、ユニオン・スクエアあたりを歩いていると安らぐのです。

*ジーンズのリーバイス。
*本屋ボダーズ(ユニオン・スクエア)
ジーンズのリーバイス、ナイキ、CDのヴァージン・メガストア、今回の旅で見つけた、楽譜をたっぷり置いているミュージック・センター(Music Centre of Sun Francisco)、そして、本屋ボーダーズ(Borders)があります。

ボーダーズは、全米どこにもあるらしい大型本屋チェーンです。大きな本屋は、追い出される雰囲気がまるでないのが嬉しいし、夜遅くまでやっています。むろん、書棚の間に休めるソファがあります。カフェもあります。CDも売っています。

4階だったかの、CD売り場に、“サマー・オブ・ラブ 40年”のコーナーがあったのです(写真上)。“そうか、今年2007年は、1967年から40年なのか”と思い出したのです。全くそんな意識はなかったのです。

60年代のおわりの“サマー・オブ・ラブ”とか、“ヒューマン・ビー・イン”とかいう、サンフランシスコのおまつりというか若者の動きが、日本の私に、正確にはリアル・タイムではなく5年ぐらいたって、伝わってきて、“ラブ・アンド・ピース”、“フラワー・パワー”という夢のような世界への思いが、“花のサンフランシスコ”“ホテル・カリフォルニア(!)”といったヒット曲に重なってわいていたのです。

*ヒューマン・ビー・イン;アレン・ギンズバーグ、鈴木大拙の名も。

ヒューマン・ビー・インは、1967年1月14日のサンフランシスコのゴールデン・ゲート・パークでのイベントです(またいつか書くでしょう)が、サマー・オブ・ラブは、その年の夏のサンフランシスコ全体の雰囲気を表す言葉のようです。

サマー・オブ・ラブの中心が、1967年6月16日から3日間開かれ10万人を集めたモンタレー・ポップ・フェスティバルです。
音楽を通じて、“ラブ・アンド・ピース”“フラワー・パワー”というメッセージを送ったのです。 30組以上のミュージシャンが出演し、その後の1969年ウッドストックに繋がる、大野外コンサートなのです。

*モンタレー・ポップ・フェスのCD(4枚組み)大セット。

*ジャニス・ジョプリン3枚組みボックス・セット愛蔵版!!(今なら、高く売れるかも知れません、でもさしあげてもいい)

ここでは、私にとって、ジャニス・ジョプリン(Janis Joplin)の名をはじめて知ったコンサートとだけかくに留めます。ジャニス・ジョプリンのことは、またいつか、たくさん書きましょう。

日本で、青春をストイックにすごしていた私には、“フリー・ラブ”という扇情的なひびきは、刺激がありすぎました。私はお金がなかったから、サンフランシスコに行けなかったですが、米国中から、たぶん“フリー・ラブ観光”を求めて、サンフランシスコの聖地ヘイト・アシュベリーに多数が押し寄せたのです。

ことしの旅でも、ヘイト・アシュベリーに行こうか、行くまいかと思いつつ、40年たった今ごろ、でかけてもわびしいばかりだろう・・・・と。
40年たってしまった私には、もう“ラブ”は、遠い世界なのです。それにしても、“サマー・オブ・ラブ”なんて、いい響きですね。

  【おまけ】

*ユニオン・スクエアには、大衆日本料理の店<堂島庵>があります。夏なのに、鍋焼きうどんとおにぎり2つ。美味しかったなあ、もうすぐ日本に帰れるなあ。上の息子も、近くのユース・ホステルに泊まっていた時、“ベーグルをかじること”と<堂島庵>を繰り返していたらしい。

*1967,68,69,70年・・・・これから毎年、アメリカでは、40周年行事が続くのだろうか。69年のウッドストックの、40年記念イベントがあるなら、行かなけりゃならないですね。


アメリカ放浪;サフランシスコの本屋シティ・ライツ(2007.8.22)

2007-08-22 12:42:35 | Weblog

あつ~~い!庄和町(春日部市)は、暑いーー。エアコンがないのです。あつい~~~!

どこに行っても、本屋があると、ちょっと覗きたくなるのです。
大きな街には、たいてい、その街で昔から開いているいい書店があります。<地元出版社や地元関係>の本の棚を聞いて、まず、そこを覗きます。

さて、海外では、なかなかそういう風に見つけるわけには、いきません。ガイドブックや雑誌の紹介記事が頼りです。むろん、世界の本屋とか、世界の古本屋なんて、“本”があれば行くあてがなくても買ってしまうのです。

サンフランシスコには、シティ・ライツ(City Lights)があります。もう、“地球の歩き方”にも載っている“名所”です。
またまた、わが青春の、60、70年代からの憧れの本屋さんですが、1950年代から繁盛している本屋さんです。

*ショーウィンドウです。

50年代は、ビート、60年代は、ヒッピー、70年代は、コミューン という言い方があるのですが、 50年代から、ビートのメッカだったのです。ビート詩人たちが、ここに集まったのです。

ジャック・ケルアックは、ビートの先導者でしょうか。On the road(翻訳名、路上にて)は、放浪の旅のかっこ良さと、気持ちの良さを教えてくれました。この秋、常盤新平さんの新訳が発売されるらしい。読まないでしょうが、買わなければなりません。

アレン・キンズバーグは、ビート詩人の代表選手です。私には、ボブ・ディランのそばにいる詩人です。そして、70年代の大きな集まりには、必ずいる方なのです。よくわかりません。日本にも何度もきています。私の理解をはるかに超える詩人です。

*ディランとギンズバーグ。右のレコードの写真は、ケルアックの墓地でのふたり。左の本は、今回買った写真集。

それから、ゲイリー・スナイダー、今でも、本を買います。 前に、このブログで書いています。<ここです>

今回の旅の最終日、なんの予定もない、フリーの一日。泊まったホテルは、窓の景色もイマイチで、のんびりと安らげないのです。
だから9時すぎに出て歩き始めます。ユニオン・スクエアから、ケーブルカーの通りを北に登っていく、かなり急な坂だが快適に登る。空は晴れ、風が気持ちよく冷たい。ビルの間に海を楽しみながら登る。中華街をすぎ、シティ・ライツに、9時55分頃着きました。

10時にオープンです。2番目のお客として入場しました。まず、2階のビート詩コーナーにあがります。
ケルアックの“The Dharma Bums”(1958年発行、翻訳名は禅ヒッピー)の表紙が面白いものがあったが自重です。スナイダーの“Earth House Hold” (1969年発行、翻訳名は地球の家を保つには=エコロジーと精神革命)も結局は買いません。今、買っておけばよかった・・・と。

*まるで、詩人の書斎です(2階)。

*2階のビート文学コーナー。
*地下に、ディランの棚。

地下には、ジャズ・ブルースの棚があって、D.R.Gilbert 撮影のボブ・ディランの写真集“Forever Young”を買いました。ディランの本は、古今東西、たいてい知っていますが、これは日本で見たことがなかったのです。

本屋ですが、買うためというより、記念館とか、気心の知れた友人の書斎の気分だったでしょう。ポエトリー・リーディングの集まりのチラシや壁のポスターも楽しむ・・・・といっても何も買わないとなると、本棚を見る執念が違う、長居する気分にはならないのです。
さあ、海まで歩こう。

  【おまけ】

*ヴェスヴィオ、断られたお店です。

*5、6年前に、ヨセミテ・ハーフドームに登ったときにも、City Lightsに寄っています。隣のヴェスヴィオで、お昼を食べようと入って、下の息子が、<21歳未満お断りに>引っかかってしまった。真昼間のことで、お酒を飲む気なんてさらさらなかったのですが、バーという雰囲気でもなっかたのだが・・・・・。


川の字になって眠る家族は幸せ(2007.8.18)

2007-08-18 16:53:57 | Weblog

*16日午前5時すぎ。最初は、川の字だったはずです。

今日(18日)は、ほっとする涼しさです。ほんの少しの霧雨も気持ちがいいですね。
昨日までの3,4日間は、ほんとに猛暑でした。熊谷には昔から“気象台”があるから、日本一40.7℃の栄誉を勝ち取りましたが、庄和町の方が絶対にアツかったにちがいありません。

*外・玄関脇ですが、45℃を越えています(16日)。

お盆の終わりに、娘が孫ふたりつれて帰ってきました。翌朝、公立保育園に行く上の子をつれて出勤し、夜に帰ってくる・・・の繰り返し。つまり、下の子の私営保育園がお盆休みで、3日間預かりました。あの猛暑の中の3日間です。

ということは、私の自由時間は、ますます早朝だけです。写真は、早朝5時過ぎの状況です。あまりに見事な寝相で、ブログ向きと思ったのです。タイトルも、内容もすぐに決まりました。<川の字になって眠る家族>です。

庄和町に引っ越してきたのが、1973年(34年前)です。それから、家族が増え、10年して家(うわ物)を立て替えました。その時には、“住居・家のありよう”とか、考える気持ちと余裕(○)が少しだけあったのです 。
<子どもに個室はいらない>、<日本の家族は川の字になって眠るのがいい>なんて、本気に信じました。

その頃、東急不動産が売り出した“柏ビレッジ”が、新聞・雑誌に大きく扱われていました。“柏ビレッジ”の企画・設計者が宮脇檀さんでした。

宮脇檀さんは<新3LDKの家族学・子どもに個室はいらない>と題した本を書いておられました。さっき探したのですが、その本は、出てきません。
たぶん古本屋に売ったのでしょう。

*左の広告の本は、古本屋に売ったらしい。右の本の中にあった広告です。

<個室があるから閉鎖的になる。住居を仕切ったことが家族の対話を失くした・・・・住宅設計の第一人者・宮脇檀が綴る、今住んでいる家を大きく変える、住み方からの家族学。定価900円>。

1983か1984年の本です。これは今でも通用するのでしょうか? 正しいのでしょうか? 
当時、そうかそうか、と思って、部屋数の少ないのを納得させていました。

まあ、気持ちだけ読み取って、暮らしてきたわけです。
子ども3人は、成長していきます。その年代年代の状況は変化していきます。息子ふたりは、ついに個室がほしいということなく、相部屋で過ごし、大学入学と同時に、家を出てアパートの個室暮らしを始めました。

どんな暮らし方、どんな育て方が、子どもにとっていいのか、悪いのかは、簡単にはいえないでしょう。どんな学者でも比較してみることができないのです。

  【おまけ】

*今日のデザート。子どもはどこでも寝られます。

*今、外に出ている子どもらが帰ってきても、空き部屋も、客室もありません。
川の字とか、州の字になって、寝ます。部屋いっぱいに布団を敷き詰めて、適当に、寝たくなったら寝る、それでいい、と思っています。

*場所がなかったら、朝まで話して、誰かが起きてきたら、交代に寝に行けばいいのです。


アメリカ放浪 旅先で新聞を読んでいました(2007.8.17)

2007-08-17 12:21:46 | Weblog

*6月21日の気温予報。濃い赤のところは、90-100°F(32-38℃)です。つまり歩いていたアメリカ南部はこの暑さでした。左下の小さな地図の黄色の所は、サンダーストーム(激しい雷雨)。グレーの所は、雨なし、つまり歩いていたあたりは、カンカン照りでした。

昨日も暑かったですね。6月末のアメリカ南部より暑かった。

昔、山旅にはポケット温度計を持っていたのですが、どこかでなくしてしまってから、この頃、その地の温度を記録していません。
私は、旅に小型ノートを持って行きます。その日の予定、そして、実際行動を、ひとりコーヒーを飲みながら、あるいは寝られない夜に、わりと細かくメモします。むろん天気にもふれます。町に観光スタンプがあれば、さっと見つけて押します。
それから、出張も含めて海外の場合は、現地の新聞を買い(手に入れ、時には拾い)ます。
多少商売柄というところもありますが、それほど丁寧に読むわけではありません。ローカルな観光イベント・おすすめショッピング情報を探すためでもありません。
天気図・天気予報を見るのです。日本の天気図から天気の予測はできますが、外国のその国の天気図を見たからといって、見慣れていないと、その日の天気を推測できるものではありません。必ず切り抜いて持ち帰るのです。ノートに貼っておくのです。そうすることで、その日の天気と天気図を照合することができるのです。

とはいっても、こんどの貧乏旅行・アメリカ放浪では、新聞を読んだのは、わずか4,5日です。
新聞の入手は、ホテルの売店が便利です。街の通りにも新聞スタンドがあったのですが、姿を消したように思います。
この旅では、売店を持っているようなホテルに泊まらなかったのです。ホリデイ・イン(チェーン)のホテルに連泊すると、新聞“USA Today”が部屋に入っています。ロビーに、持ち帰り自由な、経済紙“Wall Street Journal“を置いていたのは、一ヶ所だけでした(バーミングハム;Tutwieler ホテル)。泊まった宿が、出張、ビジネス旅行とは、全く違ったわけです。

*USA TodayとWall Street Journalです。ふたつの新聞の幅(左右)が同じになった、Wall Street JournalがUSA Todayと同じにした、ということが、私にとってのニュースなのです。

日本では、全国紙、地方紙(県紙)ブロック紙にわけられ、部数的には、圧倒的に全国紙が多いのですが、米国では、中心は、地方紙です(でした)。ニューヨーク・タイムズ(New York Times)は、ニューヨークの、ワシントン・ポスト(Washington Post)は、ワシントンのローカル紙だったわけです。

*午後2時頃の、ニューオールリンズ街角の新聞販売機です。左上のローカル紙だけ入っていました。残り3つの全国紙はカラッポでした。売り切れ時間帯なのか、もう扱っていないのか、わかりません。

今、米国の全国紙は、USA Today(右上)、Wall Street Journal(右下)、New York Times(左下)の3紙です。
そして、米国の新聞をとりまく環境の変化、新聞事業の衰退が、さかんにささやかれているのです。

  【おまけ】

*日本とアメリカの新聞の大きさ。

*現役中、つまり私の“表”の話は、書くまいとしているのですが、今日は少しだけ。私にとっては、現役中にかなり関わっていたWall Street Journal(発行元は、ダウ・ジョーンズ)についての、この半年間のニュースは、少なからず驚かされていました。

*①同社が報道の重点をインターネットに移す。②新聞誌面の大きさを小さくする。 この町だけで暮らしていると、Wall Street Journalの内容の変化はもとより、紙面の大きさの変化さえ確認のしようもありません。だからこの旅行中に、どこかで確認しようと思っていたのです。

*そして、帰ってきたらまもなく、ダウ・ジョーンズ社は、ここ10年ぐらい欧米全域の新聞社買収で知られるマードック氏に買収されてしまったのです。私でさえ、暗い気分になったのです。


アーモンドをかじって、今日は終戦記念日(2007.8.15)

2007-08-15 11:40:58 | Weblog

*終戦記念日には、少しだけアーモンド。

今日も朝から暑いですね。
私の夏休みの宿題<自由研究>は、いつもお天気調べでした。4,5,6年生3年間やりました。この頃、小学生が気象予報士合格したなんてニュースになりますが、“その頃にあれば、小学生の私もとおったでしょう”と思います。雲の知識(観望天気)は、今でも自信ありです。後になってですが、ラジオの気象情報で天気図を作ることもできました。
岡山県の50年前ですが、夏休みに、ほんの1回か2回、32℃がある程度で、30℃で暑い日だったのです。35℃なんて、一度もありません。
それが今は、どうでしょう。お天気お姉さんが<明日も猛暑日でしょう>といって、“にっこり”は、ないでしょう。暑いなあ~~~~。

昭和20(1945)年の8月15日、何度も流される二重橋前の映像によると東京は、夏晴れに見えますが、今のような、たまらない暑さではなさそうです。
その日、私は3歳4ヶ月。6月28日の岡山市の空襲に家を焼かれ、県下の後月郡に疎開していました。むろん、その日の記憶はありません。私の家族では、空襲で焼け出されたことを話題にすることはあっても、8月15日が話題になったことはありません。

昨年(2006年)秋、中学の同窓生20人ほど集まりました。話は、“その時代”にはならないのです。誰かに、あるいは誰にも、触れてほしくない<タブー>がある、あるいは、あるように思えた時代なのです。
どこにでも、程度の差こそあれ<悲惨>があったのです。

当時の小学校の給食で、恥ずかしくて今まで誰にも言わなかったのことを書きましょう。
食べられない、ほんとうに食べてこない子どもたちがいたから、お昼の学校給食があったのです。コッペパンと脱脂粉乳です。テレビなんかで識者が、おいしくなかった脱脂粉乳、なんて話す人がいますが、私に食べ残した記憶はありません。

1年に1回か、3年に1回だったのか、おまけにアーモンドが、2粒ずつ配られました。これが美味しかったのです。低学年だけのおまけなのか、小学校全体なのか、郡内小学校一斉だったのか、知りませんが、進駐軍からの支給物なのでしょう。その時、これが<アーモンド>ということは、知りません。不思議な美味しいおまけだったのです。長く、なんだろうかと思っていたのです。
ずっと後、中学生になってから(あるいは高校生?)、グリコ・アーモンド・チョコレートで、その美味しさの記憶がよみがえったのです。<アーモンド>だったのだと知ったのです。
そのアーモンド・チョコレートさえ、砕いたアーモンドが少しチョコレートにはいっている程度だったのです。50年前のことです。今は、アーモンドがまるまるチョコレートに入っています。

貧しい時代、貧しい生活なんて、ブログ向きの話題ではありませんね。

  【おまけ】
*おととい、昨日とNHKテレビが、東京裁判の特番をやっていました。ビデオこそ撮らなかったが丁寧に見ました。
<この間の戦争の責任をとるべきものは誰か>ですね。戦犯=戦争犯罪人ですね。
インドのパール判事の、<全員無罪>の主張にも焦点が当てられていました。番組は、パール判事の完全平和主義の尊さを伝えようとしているように思いました。

*私は、仮にA級戦犯が全員無罪になった場合のやりきれなさを感じました。美しい<完全平和主義>の言い方のもとに、やったことの事実を覆い隠してしまう。すでにB、C級戦犯が、現地で多数処刑されていただろうに、と。

*戦後生まれの首相個人に戦争責任はないでしょうが、日本国首相の立場で、“パール判事の子孫にお会いするのが楽しみです”との発言は、いい気分はしません。

*そして、だ~~れも、責任をとらないなんて、たまらなくいやですね。悔しささえ思います。国民全てが、それぞれに責任があった、なんて言われたくないですね。

  【おまけのおまけ】

* ほんとは恥ずかしいのですが、給食に出てきたアーモンドを、ひとり心の中で嬉しがったことを書きました。
給食話といえば、庄和町です。庄和町の学校給食廃止騒動です。このブログで一度(2006年10月11日)触れました。
今、Yahooで、<学校給食廃止>で検索すると、上から2番目に、私のが出てきます。10月以来ずっと、そうして、このブログに入ってこられる人がいます。<ここクリックです>


世間は、お盆休みらしいですから(2007.8.14)

2007-08-14 14:40:27 | Weblog

*ヤオコーは、撮影禁止ですが。

近くのスーパー“ヤオコー”に、お盆グッズ(?)を売っていました。
“お盆かざり”というのも少し変だし、そもそもいったい何に使うのかも、わかりません。

 お盆が<何の日>ぐらい、少しは、わかっていますが、正確には、いつなのかも知りません。7月15日、旧暦の、新暦の、月遅れの、と様々のようです。そういういい加減な決め方でいいのだろうかと本気に思うのです、ちゃんとした理屈があるだろうと。ご先祖様もいつ帰ってくるべきか、迷うでしょう。もっともテレビは、月遅れだけを認めているようです。

春日部市の旧庄和町では、わが家のような新興住宅エリアでない、田んぼの中の、<屋敷林>で囲まれているオウチでは、キラキラした<金色の造花>を、道ばたに立てておられます。
私の子どもの頃、岡山の田舎にあった、お墓や庭先で木切れ(?)を燃やす迎え火、送り火の習慣だろうな、思っていますが。
旧庄和町には、岡山の子どもの頃のようなお寺に集まるような盆踊りもありません。

私の今の家に、仏壇はありませんから、お彼岸だの、お盆だのおまつり(お祭り?)したことはありません。この時期に、実家に里帰りなんてこともしません。まあ、<不信心>ものです。
それでも、私らは、大人たちがやっていた“お盆の行事・習慣”をうっすらと覚えています。しかし、私らの子どもは、もう何にもないでしょう。
それはそれでいいのか、そういう時代だと、言ってしまいましょう。

  【おまけ】

*明日の盆も、盆がきたのに、暑そうです。

*私の子どもの頃のお盆についての重要なことは、盆のときは、川に泳ぎに行くことが禁止されていたことです。
お盆がすぎると、なんとなく泳ぎに行かなくなっていました。


美味しかった春日部シェーヌの桃ケーキ。お勧めです(2007.8.12)

2007-08-12 19:16:32 | Weblog

3,4日前から評判を聞いていた“桃ケーキ”を、とうとう食べました。
ぺろりと、2-3個は軽く食べられそうな、いい感じのケーキでした。やわらかく、冷たく、フレッシュな桃のおいしさがそのままのケーキでした。
ケーキというのかどうか? お店には、ピーチ姫と書いてありました。

そもそも<シェーヌ>は、ロビンソンだの、図書館といった春日部から、庄和町のわが家への帰り道、藤の牛島球場あたりで、立ち寄りたくなるケーキ屋さんでした。しだいに、わが家でケーキの声があがると、必ず出かけるようになっていたのです。

正風館なんかで、話すようになったRさん、ホームメード・ケーキが少し得意そうだな、と思っていましたが、突然、ケーキ屋さんで働くようになったのです。半年前のことです。そのケーキ屋さんが、<シェーヌ>だったのです。
子どもたちの手が離れて、ステップ・アップをはかったのです(・・・・・と私は感じていました・・・8/13に追記)。

そして最近、桃ケーキの噂を聞きました。
お店は、ユリノキ橋のそば、明るいケーキ屋さんです。日曜のお昼前、ショーケースには、ぎっしり、美味しそうで可愛いケーキが、はなやかに並んでいました。その中に、<しずかに>桃ケーキがあったのです。

昨夜、Rさんにメールで2個お願いし、今朝、お店に電話し3個に変更、そして、結局4個買いました。
例の、白い作業着・エプロン・帽子で、すっかり“本物姿”のRさんが、シェフさんを紹介してくれました。売り場には、シェフの息子さんの笑顔もありました。

*ナイフのJALのマークは内緒です。

わが家。お盆前の休みで、高校の同窓会があった“下の息子”が4次会までやって、朝6時に帰ってきました。今日は、計4人、ひとり一個ずつ。久しぶりに、なごやかなケーキの日になりました。
暑い夏に、暑い日に、ぴったりのケーキです。

  【おまけ】

* ほんとに美味しかったから、シェーヌと名前を出して、自信をもってお勧めします。
皮をむいてつるりと光る桃の、種のところに、クリームがつまっています。桃って、季節の果物です。今の季節限定だそうです。

* デジカメを忘れていったのです。ブログに書くと決めていたのに、取材の基本を忘れてしまいました。


暑い日には、シェラ・カップで熱いコーヒー(2007.8.11)

2007-08-11 16:23:19 | Weblog

*シェラ・クラブのシェラ・カップとボランティア章

暑いですね。クーラーのないわが家です。窓開け放しているのは、ウチだけみたいです。

真夏に、山へ行くと、そんなに飲んではだめと言われても、水をカブ飲みします。雪渓だとか、せせらぎとか水のみ場では、水筒にいっぱい補給して、それからがぶ飲みしていきます。今、山の水もよくないといわれ、ミネラル・ウォーター(水を買う時代)になって、どう変わったでしょう。

はるか昔、立山のテント場で、隣にテントをはった“静岡の”女性たちが、夕暮れだったけど、お茶を沸かして飲んで、しかも陶器の湯のみで飲んでいて、そのスマートさに“いいなあ”と、ぼーっとみていたことがあります。こちらは、どんな時にも水筒“がぶ飲み時代”でしたから。

それから、ひとりテントで、コーヒーを沸かした時、アルミのカップが熱くて、じっと持ったまま、待っていたことがあります。熱いコーヒーは、心をあたためるのですが。

そんな時、知ったのが、口が熱くならないアルミの“シェラ・カップ”です。昨日のブログに書いたジョン・ミュアが、1892年にはじめた<シェラ・クラブ>が作って売り出したのです。シェラ・クラブは、環境保護団体として大きく成長したのです。

日本の雑誌にも、大きくとりあげられました。誰もが、ザックの外にぶら下げていました。万能小型なべとして、直火に、ストーブにかけ、ベーコン・エッグを作れるなんて雑誌は書きました。真夏に“ナマ玉子”を持ち歩く<あほ!>はいません。

 *私の山のコーヒーカップ(2代目)

その後、私は、ある雑誌の通信販売で、口が熱くならない“ちょっといい”コーヒーカップを買いました。魔法瓶の理屈で、外側と内側の間が真空になっているのです。1970年代の後半でしょう。
荷物少なく、コンパクトを、モットーの山歩きでしたが、“静岡”の女性の落ち着きをまねしていたのです。
欠点は、デミタス・カップで、たっぷりとコーヒーが入らないのです。
なお、2組ありますが、ひとり旅に、2セット持っていったことはありません。

その後、その手のマグカップがたくさん、安く売られるようになりました。ずっと、これを使ってきました。

*山のコーヒーカップ3代目(左)と4代目(右)

2002年に、ネパールをふらふらしようとした時のことです。
出発直前の関西空港(カトマンズ直行便は週2回、関西空港発)で、マイ・マグカップを忘れたことに気がついたのです。少しあわてて、見つけたのが、<スターバックスのカップ>です。コーヒーには、気分もぴったりなのです。
この頃、これを持ち出しています。

 【おまけ】

*ジョン・ミュア・ハウス

* ジョン・ミュアは、1869年に、はじめてシェラ山中に<羊と一緒に>101日間暮らし、以後8年間はヨセミテをベースに活動します。1882年、ジョン・ミュア・ハウスに定着し、果樹園を開きます。1890年に、ヨセミテが国立公園になります。シェラ・クラブの設立は1892年。1914年に76歳でなくなります。

* 私は、本と本棚が好きです。ジョン・ミュアの本棚をしっかり見てきました。

 *本棚に、シェラ・クラブ会報、当然ですね。

*おっと、エマソン全集だ。1871年にエマソンと初めてヨセミテで会ったそうです。お互いに影響しあった。(ブログの圧縮写真ではタイトルが読めない。写っている亡霊は、撮影者(私)です。

*ジョン・ミュアは、記録によると、1903年に、ヨーロッパから、シベリア、朝鮮と旅し、帰りにちょこっと日本に寄っていることになっています。日本でのジョン・ミュアについて書いている研究者はいないようです。


アメリカ放浪;ヨセミテ・ハーフドームからジョン・ミュア・ハウスへ(2007.8.10)

2007-08-10 21:27:44 | Weblog

*2001年夏に登ったハーフドーム。翌日、グレーシャー・ポイントで、“下の息子”がスケッチ。
*左に、カメラの“上の息子”と、スケッチの“下の息子”。<前の日に登ったハーフドームに感慨が深かった>のです。

夏は暑けりゃ暑いだけ、どこか山に行きたくなります。
決して涼しい高原に避暑ではありません。炎天下をただただ歩く山登りです。<最初から覚悟して、歩き始めれば、火もまた涼し>です。

その昔、わがファミリー5人の夏は、決まって年に一回の北アルプス行きでした。子どもの成長とともに、だんだん同調者が減ってきて、2001年に、起死回生に<アメリカ・シェラネヴァダ山脈、ヨセミテ・ハーフドーム>に登ろうと発表しました。
費用の全部を私もちでさえも、全員参加にならず、一人不参加でした。

ヨセミテは、アメリカの上高地です。
ベトナム反戦運動から、<自然保護運動>に米国の若者の意識が移っていく1970年代前半、ヨセミテは、自然保護のメッカ(聖地)として、日本に、例えば芦沢一洋さんを通して、私らにも入ってきました。

アンセル・アダムスの写真、ジョン・ミュアの思想・足跡、そして、用具メーカー・パタゴニアの精神、は、そこに行くことのできない私の、憧れの“ブランド”でした。

私のリタイヤ前年の夏は、<わが家の卒業旅行>です。
夏のヨセミテの宿泊には、お正月頃からの準備が必要です。ヨセミテ・バレーに、テントの宿を3泊確保。さらに追加して、大人ふたりには一泊だけ、アワニーホテルが奇跡的にとれました。

2001年のことです。ハーフドーム登頂に関する登山情報は、断片的なものしかなく、地図さえ、日本で入手できなかったのです。
*現地で買った地図。欧米の地図は美しく、楽しい。ついつい何種類も買ってしまうのです。

*手前のヨセミテ・バレーから、右手に、そしてハーフドームの裏側から、一気に登ります。

登頂記を書き出すと長くなりますから、数枚の写真だけにします。
ヨセミテ・バレーから、ハーフドーム頂上往復、8月炎天下、体感40℃の15時間でした。谷の陽は、完全に暮れ、9時の<売店クローズ時間>にやっと滑り込んで夕食にありついたありさまでした。
距離、高低差ともに、ほぼ同じの上高地から槍ヶ岳の登頂(往復)は、普通2泊3日のコースです。
*常置テントを借りました。
*いよいよハーフドーム核心部へ。
*これが最後。一気に登ります。
*夏のシーズンには、ワイヤーがあります。

ジョン・ミュアは、ここでは、ヨセミテの紹介者・保護に大きな役割を果たしたとだけ書いておきます。
ヨセミテ・バレーの奥地をハイシェラ・カントリーといいますが、そこには、ジョン・ミュアの足跡をたどる<ジョン・ミュア・トレール>という長くハードな登山コースがあります。そこを完全踏破され、その記録を出版された加藤則芳さん(八つ岳山麓でペンション経営、今も?)の講演会に、息子は出かけたらしい。本にサインが入っていました。

*私の名前も書いてもらってます。

その後、ネットで、ジョン・ミュアのオウチが、保存・公開されていること知ったのです。
今回(2007年)の旅の最後は、サンフランシスコに3泊の骨休みのつもりでいました。
実は、サンフランシスコの宿が、あまりにひどかったのです。ここにいて疲れを癒すことはできない、<だから、出かけよう、行こう>と、気分がだれて<もう、いいや>と思っていた、ジョン・ミュア・ハウス行きを実行することにしたのです。

およその行き方はネットで知っていました。サフランシスコからBARTで40分のPleasant Hill駅下車、そこから、#106のバス。これだけの情報です。
バスに苦戦しました。運転手に<下車時に教えてくれるように頼んでいた>のですが、はるかすぎて<忘れていた>と降ろされました。

それでも、目的は達成です。すばらしい経験になりました。この旅の最後を飾るにふさわしい訪問になったのです。

*家の大きさは全然違うけれど。
*石を拾って来るのは、私と同じ。
*机の上も、私と同じようです。
*事務所の陽気なレンジャーさん。

今日も、長くなりましたので、詳しくはまた別の日にして、少しだけ写真を載せました。ショップ(売店)の、ジョンミュア・グッズ、関連書籍の充実が嬉しいのです。やたらに買ったら、係りのレンジャー(ここは、国立自然公園施設です)に、笑われそうになった。<もう2度と来ることないから>といったら、<そうね。でもまた、いらっしゃいね>とにっこり。

   【おまけ】

* ジョン・ミュアの著作に、<My First Summer in the Siera> があります。翻訳もでています。<はじめてのシェラの夏>です。このタイトルが、すごく好きなのです。だから、原書をヨセミテで買って持っているのに、また買いました。だって、表紙が違うのです・・・・ワタシはアホかなあ!

*今年、また右の本を買ってしまった。

* 翻訳者の岡島成行さんは、読売新聞社の記者で、何度かの読売のエベレスト登山隊と出かけました。いっとき読売=エベレストの時期があって、羨ましかったですね。

*このブログの名前、<シェラ・マンダラ・しょうわ町>の“シェラ”の意味がわかって、いただけましたか?


千駄木でダルバート。ネパールのサビナと富岡多恵子さんの大阪(2007.8.7)

2007-08-08 16:32:21 | Weblog

 *2002年10月、Tadapaniで。

昨日(6日)、元の会社のふたりと千駄木のネパール料理店のミルミレで、ダルバート(豆汁)カレーを食べながら話しました。
話題が、今、ポカラから日本に来ているサビナのことになって電話したのです。<サビナの話は、ここにも>

<今、勉強しています。今日は、学校もバイト先のお弁当屋さんもお休みです。明日は、8時から4時まで、お弁当屋さんで働きます>、日本語学校は2年間。<そして専門学校にも行きたい>。お互い英語も日本語もたどたどしい、貧しいコミュニケーションです。異民族間のこんな会話の中で、<大丈夫>といわれても、心配性の私には、どのくらい大丈夫か、わかりません。
ミルミレのマスターに話してもらった。しばらく早口のネパール語の世界になる。私には、さっぱりわかりません。
<がんばる>と言っていた・・・・・らしい。<ああ、そうですか>。

サビナにとって、夏休みは、懸命に稼ぐことこそ重要でしょう。秋にもお休みがあるそうだから、<上京>を勧めることにしよう。しばらく、わが家を宿に提供することになるでしょう。

さらに、ネパールの人が日本で勉強すること、ネパール人の男女間の話におよびました。
今のネパールは、私の子どもの頃の状況に、風景も、物理的構造も、人の精神構造も似ています。<先進国>の眼でみれば、発展途上ということになるのでしょう。
ただ精神構造には、文化の一面があるから、いい悪い、の問題ではありません。
グローバル化、グローバルに対応と、私も現役時代に、やたらと書いたり、喋ったり、囃し立てたりしたのですが、発展途上国にとって、欧米化、欧米文化の押し付けにほかなりません。
やみくもな、グローバル化は明らかな間違いなのです。今、その反省がすでに始まっています。
それでも言う国際化って、なんや!と、時々思うのです。

   【おまけ】

右;<ボーイフレンド物語>昭和1975年、講談社、左;<青春絶望音頭>1970年、文化出版局

* 千駄木のミルミレに出かける時は、同じ千駄木の、いつもの古本屋<古書ほうろう>によります。1000円+1900円の2冊買いました。1900円の方は、富岡多恵子のエッセイ集<ボーイフレンド物語>です。1970年代の前半、あちこちの新聞・雑誌に書かれたエッセイ集です。

* 富岡多恵子さんは、私らよりかなり上の方ですが、私が大阪で学生だった頃、大阪女子大生で詩人、詩の登竜門であるH氏賞の受賞者という、大阪若者世界のトップランナーだったのです。

* だけどエッセイの中には、同時代に大阪にいたという、<眠眠>の餃子を一緒に食べるような、心安さを覚えるのです。<コーテル・イーガー、チャウトーヤ・スーガー>世界なのです。

* 3年前には、長野の古本屋で、自伝風エッセイ<青春絶望音頭>を買っています。

* 昨日、買った本の腰巻には、<七分の慕情に三分のエロス。若い男に想いをよせた若くない女の心の闇を、女が生きる生活の論理で鋭く省察した異色のエッセイ集>と、わけのわからない言い回しで、いかにも70年代です。


今日は、庄和町(今、春日部市)から涼しいデザートです(2007.8.7)

2007-08-07 14:56:31 | Weblog

 *くれよんの人形たちは、正風館ホール入り口の左側に、いつも飾ってあります。

このところ暑苦しいことを書きすぎたので、今日はデザートです。

(1)ブログの先輩Rikaさんの、今日のブログに、涼しそうな、ほんとに美味しそうな桃のケーキが登場しました。

*ほんとに食べたい。写真は無断引用です。

Rikaさんは、c******(たぶんc******、春日部のゆりのき橋近く)というケーキ屋さんで働いているようなのですが、桃ケーキは、たぶんRikaさんが作っているんじゃないかな??。季節限定だそうです。売り切れ必至です、急がないといけませんよ。
うちの家人が“ほんとにめずらしく”、食べたいね・・・・行こう・・・・と。

(2)家人が、ブルーベリーをもらってきました。一週間ぐらい前の話です。

*ブルーベリー。ジャムもあります。

家人の友人(庄和町)のダンナが、仕事をやめて、関宿で<土地を借りて>作っているのだそうです。一人前に<生産者・・・・>の小さなラベルも貼ってあります。
私も、昔から、わかりやすく言えば<ペンション・ブーム>の頃から(?)、清里(!)に山小屋のようなログハウスに薪ストーブ。昼は農園、なんて、脱サラを思っていたこともあったのですが、やめる勇気もなかったのです。次に、庄和町の今のウチを売り払って、日光霧降高原の別荘地と、秋葉原にワンルーム・マンションを買って、週末は、山の生活ならできるかなと思いました。家族を説得できませんでした。
そうして今、誰に遠慮も要らない時間を持って、庄和町というカントリーサイドに住んでいるのです。
今でも、そんな特集の雑誌があると買ってしまうのです。
家人は無言ですが、<なんかやったら~~~!!>と鋭い一撃がとんできた気がしました。
みずみずしいブルーベリーは、とっても美味しかったのです。

(3) 人形劇“くれよん”の宮脇さんから、飯田(長野県)の人形劇フェスティバルの、おみやげとお土産話が届きました。

*くれよん@飯田市

飯田の人形劇フェスタ<ホームページはここです>は、全国から、プロ・アマあるいは学生を問わず人形劇団、人形劇サークルが集まるお祭りです。市街中央の会館はもとより、市内の学校、保育所、公民館、ありとあらゆる会場で一斉に、人形劇が上演されるのです。もう40年ぐらい続いていて、人形劇=夏=飯田市とすっかり定着しています。
そのハイライトが、夜の人形劇団パレードです。庄和町の人形劇<くれよん>さんも、“セロ弾きゴーシュ”の人形を抱いてパレードに参加してきたのです。
そして、ベストテン入りの表彰を受けたのだそうです。
<やるね“くれよん”さん>と、同時に、<やはりね!>とも思いました。

  【おまけ】

*わが家の桃太郎です。

* 私も、家人も、岡山生まれで、夏は、桃・白桃を食べて育ちました。大好きなのです。そういえば、庄和町のみゅーこさんが、この夏、某スーパー(?)で、桃むすめに変身していたらしいとの噂も。

*1986年。マイファミリー@飯田市

* 20年前のアルバムです。夏の家族旅行で飯田に行ったことがあります。ただの見物のつもりだったのですが、どういう手ちがいか、“くれよん”の看板ができていました。