新興団地住民が神社氏子をやめると“神のご加護”はなくなるかなあ(2007.11.29)

2007-11-29 15:38:57 | Weblog

*2007年元旦。西金野井香取神社で。下の写真に写っている子の子どもです。

この間、11月25日(日)。私の住む団地で自治会臨時総会がありました。懸案事項が終わった閉会直前に“ついでに”と付け加えらました。
近くの神社の氏子組織から脱退するというものでした。

私の住む団地は、40年近く前に開発されました。だから、その頃に転居してきた“埼玉都民”が多かったように思います。(正確には、ご近所の氏素性は、全然知りません、お仕事、お家族のことを会話することはありません。最近は名簿に電話も削除されました)

大デベロッパーによるものではありませんから、自分たちだけで街を形作るような町内実力派団地ではありません。
だから町役場、町行政の管理組織的には、行政末端管理単位、“区”、・・・というよりに所属していました。100年以上住んでいるオウチと同じ区民になるわけです。土地を売ったオウチと買ったウチの関係もあります。

*1984年元旦(23年前)。氏子であった大衾香取神社です。トップ写真に写っている子の母です。お正月には、必ず家族全員で初詣してきました。七五三をしませんでした。どうして?と大人いや中人になってせまられたことがありました。七五三って、いつ・どこで・何をするのか、私は知らなかったのです。

自然、当然に、にある小さな神社の氏子ということになってきたのです。
だから、住民に順番に回ってくる団地自治会の役員さんは、神社のお掃除に行き、お祭り、大晦日には、お手伝いに行きます。

そのお宮、大衾香取神社ですが、おまつりに神輿が出るわけでなく、神楽があるわけでもなく、見かけに霊験新たさを感じることもありません。
それでも、氏子としての勤め、年に一回だったか二回だったか、祭礼時のお神酒料をおさめてきました。
赤い羽根共同募金と同じです。真剣に考えるほどのことではないのです。

役員さんの、氏子をやめますといった風なお話に、誰も発言はしません。決定しました。
私には、氏子のままであっても別に―――、という気分でした。氏子には、神のご加護があるとは思いませんが、なくなるかもしれません。

こうして、私は、またひとつ、子、孫に教えていくべき日本の伝統・文化の足がかりを失ったように思うのです。
“旅に出ると神社・仏閣に寄りますし、そのために旅に出ることもあります。だから、わたしゃ、神も、仏も信じます”

春日部市役所は、あるいはお国も、地域コミュニティ、ご近所コミュニティの必要性を唱えます。しかし、氏子組織にみられる伝統的なコミュニティに対しては、アンタッチャブルのようです。
“公民館のイベントまつり”や“町民イベントまつり”より、“ほんとのおまつり”、お宮のおまつりこそ大事にされるべきなんだがなあ、と思ったりしています。まあ、どっちでもいい話ですね。

 “遠い親戚より、近くの他人”ということは、完全に消えました。“近くの他人より、遠くても友人”の時代かもしれません。

   【おまけ】

*今日の本棚からです。右は、白洲正子さんの本棚にもありました。このブログで2度目の登場です。<ここです> NHKの特集番組のネタ本でもあります。その頃、25年ぐらい前に、“山に神が降りてくる”、“古木に神が宿る”いったことを面白く思っていました。山の上の巨岩(いわくら;磐座)は、古代信仰の地といったことに関心を持っていました。中は、そんな一冊(磐座紀行、藤本浩一著、向陽書房、1982年9月1日発行)

*右は、最近、春日部市立図書館の新刊棚で見つけたもの。借りっぱなしです。古代からの神と仏の関係がわかりやすい。一緒になったり、離れたりの関係です。(八幡神と神仏習合、講談社現代新書2007年8月20日発行)


春日部市の“食欲・読書・芸術”の秋も終わりです(2007.11.28)

2007-11-28 08:09:29 | Weblog

*市展の入選作品から。秋深い旧庄和町役場のスケッチです。作者をメモするのを忘れました。ちょっといいな、ほしいな、との紹介ですから、無断掲載も許されるでしょう。

昨日(27日)は、朝からコーヒー一杯も飲まずに春日部へ。年一回の健康診断です。いきつけは市立病院でなく、駅近くの“医療生協の診療所”。健康に不安を感じず食欲にもなんら問題ありません。

11時には終わりました。結果は知りません。迷わず“ララガーデンかすかべ”にクルマを走らせます。
同じ町のブロ友・Rikaさんが<ずらっと並んでいてあきらめた>と書いていた店をめざします。
“もう開店から20日も過ぎているし、今日は平日、おまけにまだ11時すぎです”

*初めてみる駐車場からララガーデンかすかべの風景。

自然派バイキング“わらべ”。並ばずすっと入れましたが、それでもかなりのお客さんです。
<70分間ですよ>と可愛い女子学生アルバイトにいわれ、<よ~し>と、はるか昔のスキー宿の食事を思い出しました。
初めてのこの店、いまひとつ勝手がわからない・・・・。それでも、しっかり食べすぎました。

 *少しずつお皿に採ったはずですが。あとは、コーヒーとりに行っただけです。税込み1600円少々。

“元をとるぞ!!”とガッツある若い人向きかと思います。でも、メニューが、自然食、家庭料理、お惣菜屋さんメニュー・・・いつものオウチと同じで内容で、外で食べる意味がない・・・ね。いや、今の若者、今の家庭は、いつもこんな家庭料理を食べていないのかな。よくわかりませんね。

ゆっくり話しながらの“気持ち豊かな”ランチとは、違うように感じましたよ、Rikaさん。12時30分、60分間で出ました。外で並んでいる人はいませんでした。

 *並んでいるのかなあ。12時30分です。

そして、2階の本屋さん“リブロ”によります。ジャック・ケルアックの“路上”の新訳を探しました。南桜井駅前のTSUTAYAになくて、探していたのです。ここには、ありました。
ま、またにしよう。写真を一枚撮っておきました。

*右;ジャック・ケルアックの“路上”

その後、春日部中央公民館に走らせます。
春日部“市展”が今日から始まったのです。私の知人の何人かが出展しているはずなのです。のんびり楽しみました。4,5人、知ってる人の作品がありました。名前を見つけると、嬉しさがわいてきます。

帰りに、図書館に寄りました。閉館、お休みでした。火曜日なのに、なんで? わざわざ庄和町から来たのに!!


私が植草甚一展を開くなら訃報記事スクラップも展示(2007.11.27)

2007-11-27 07:44:35 | Weblog

*右;植草甚一さんの訃報記事

東京に出かける時は、用事の他にもうひとつ目的を持たせるようにしています。
先週末金曜日(22日)の昼間には、世田谷文学館で開かれている“植草甚一/マイ・フェイヴァリト・シングス(My Favorite Things)展”に出かけました。11月25日までだったのです。 展覧会もよく行きますが、いつも会期のおしまいギリギリに出かけることになってしまいます。

*チラシの裏・表

植草甚一さんは、<70年代、J・Jは街の神様だった><映画もジャズも、ミステリーもJ・J氏が教えてくれた>と1995年10月号の雑誌太陽の表紙に書いているとおりです。J・J氏は、植草甚一さんのことです。
散歩、古本屋、スクラプップ、雑学・・・・。私が、72年に東京・吉祥寺(井の頭公園近くの社宅)に住むようになった頃から、植草甚一さんの雑誌や出版されたエッセイをよく読むようになりました。

世田谷文学館の展示は、それほど濃くはないのですが、その頃の記憶がよみがえりました。この本も、あの本も持っていたな、とうなずくのです。持っていた、と。今は持っていません。

2年前に、家人から、私の持っている本に1/3減化指令がでて、家庭争議をやりながら売ってしまったのです。
私がよく行く千駄木の“古書ほうろう”のWEBで、植草甚一さんに影響されて店を開いたと、若い店主が書いていたのを見つけていました。喜んでもらえるかな。売るならここだな。この古本屋さんに出入りする客筋なら、私の本棚のジャンルとあっているだろう。売れそうな本を選んで、ダンボール3箱ぐらい宅急便で送ったのです。その中に、植草甚一スクラップブック全42巻もあったのです。

*今、大きな本屋さんで買えます。

文学館のロビーには、2004年に復刊された植草甚一スクラップブックも売っていました。植草甚一スクラップブックは、1976年から4年ぐらい配本されていました。実は私は予約していて、毎月配本されていましたが、ほとんど読んでいません。しかし挟み込まれている月報・自筆の日記が楽しみでした。

 

植草甚一スクラップブックは、売ってしまいましたが、宣伝パンフレット(右)はあります。今回、文学館にも陳列されていました。(中)は、第2期スタート時。(左)は、2004年に復刊された時の案内です。

この3冊は、売らずに残していたのです。アメリカに行きたいと思っていた時期に、よく読んだのです。中;ほくのニューヨーク地図ができるまで(1977年晶文社発行)、左;英語百貨店(1976年主婦と生活社)、右;ぼくのニューヨーク案内(これは何故か2冊もっていました、1978年晶文社発行)。

左;植草甚一さんがスタートさせた雑誌“宝島”の1976年2月号は、特集“植草甚一の秘密”。右;1980年2月号は、“植草甚一追悼号”です。

*1979年12月12月3日付、朝日新聞。

植草甚一さんのスクラップはたくさんあるでしょう。またまた、新聞の死亡記事です。植草甚一さんは、1979年12月2日に亡くなられました、71歳。

   【おまけ】

* 売店でぶらぶらするのが好きですが、買いたいなと思うものはありませんでした。この展覧会の図録は売り切れでした。

*JJお好みのコーヒー。ほんとかなあ。まあいいけど。

*世田谷福祉協議会の喫茶“どんぐり”。

* それで、貼ってあるビラが“JJさんお好みのコーヒー”という。ウソッパチ承知で、コーヒーとチーズケーキを頼みました。植草甚一さんなら、その日買った古本を読み始めるのでしょうが、私は、そこで買った本はなく、バッグに持っていた本をしばらく読んでいました。


“井上ひさしと憲法を熱く語ろう”でサッパリした気分に(2007.11.25)

2007-11-26 10:34:01 | Weblog

先週末、花金(11月22日)の夜のことです。
知人から、メールでお知らせをもらって出かけました。会場は日比谷図書館向かいの日本プレスセンターです。ここには、現役の頃、20年以上、毎月1回ぐらい通っていました。私は、井上ひさしさんの芝居はみたことはありません。しかしメディアには再々登場されます。発言にも同感することが多いのです。

案内メールを送ってくれたのは、トークセッション“「憲法」を熱く語ろう”の聞き手の山田健太さんでした。その昔いっとき同じプロジェクトをやっていました。二まわりぐらい若く、今専修大学の准教授さん。井上ひさしさんは、長く日本ペンクラブの代表でしたが、山田さんは、そこの“報道と表現の自由”に関わる部門の責任者であります。

 

私は、日本の憲法、大事な憲法が、変えられそうだという危機意識を持っていますし、さらに付け加えれば、人生をリセットし、社会から隔離した身なのですが、そのことに何もできないという焦燥感もどこかに残っていたのです。

戦争の終わった日に、わずか3歳であった私ですが、父、母、兄と同じ感情を一緒に持つことはできるのです。ほんとに“三つ子の魂百まで”なのです。
“戦争はもういや”なのです。ずっと大事にしてきた憲法です。
私らのすぐ下の世代に、壊されたらたまらいと思うのです。

73歳の井上ひさしさん、山田さん、山田さんの研究室の学生さん。活字メディア、テレビ、そしてケイタイ、の3世代が同じフロアで議論ができると、山田さんが紹介しました。

ほんとに久しぶりです。かなり細かくメモをとって聞いたお話でした。フロアの多くの方もペンを走らせているようでした。

井上さんは、戦後すぐの新制中学の一期生です。その時、冊子“憲法の話”は教科書であって、それから副読本になり、昭和27年には、学校で使われることはなくなったといいます。

その日のメモの中から少しだけ拾い出してみます。
“戦争を起すのは、政府であり、そのつけを払わされるのは国民です。また、それを止めるのは国民です”
“国と国民を一緒に考えてはいけない。日本の運命を自分の運命と重ねてはいけない”
“戦争に突入していった政府は狂っていたのですが、国民も気が狂っていました。国と国民は一心同体と思っていたのです。あの戦争に責任者が出てこないのは、日本全体をおおう雰囲気こそ責任者だからです”
国民すべての考えが“同じ方向に、だーっと行くのが危険なのです”。“ちょっと待ったをかける構造が必要なのです”。

その時代の多くの人が、この憲法によって“これで生きていけると思った”といいます。“自然とそう思ったのです”と。
“人間が苦しんで獲得したものが流れ込んでいる、書きこまれているのです。アメリカの押し付けでもなんでもない。人類の英知なのです”。
私もそう思います。

 “平和を守れ”は、よくいって現状維持です“ “少しでも前にいくようにすることが大切なのです” と、締めくくられました。

   【おまけ】

* さっぱりした気分で、プレスセンターを出ました。日比谷公園の闇が冬の近いことを教えていましたが、寒くはありませんでした。

*いつだったか、日本国憲法は、英文の誤訳だと話題になりました。それで、英文で読んでみようと思って買ったのです。対訳調で書かれています。2002年12月、マガジンハウス発行。

*このブログで、一度、憲法にふれています。<ここです>。国民投票法制定の時です。憲法をかえることを目的にした法律ですが、投票の前の国民の自由な議論や書くこと、あるいは報道を禁じていることに鬱積する感情を持っているのです。


白洲次郎・正子夫妻の旧邸・武相荘に出かけました(2007.11.23)

2007-11-23 23:43:43 | Weblog

*大きな柿の木の向こうに武相荘。

“三連休だね、秋も終わりだね”といった会話から、突然、今日(23日)家人と出かけることになりました。もう何年も前から、“そのうち、そのうちに”と言ってきたのです。

新宿から小田急で鶴川駅へ。マンションだらけの小田急沿線も、ここまで来ると丘にもわずか樹木が見えます。坂にへばりついた住宅街を通り抜けて15分。里山の面影を残す一角にたどりつきました。

武蔵野国と相模国の中間だから武相荘。“ぶあいそう”と呼びます。“無愛想”だそうなんです。
*武相荘のホームページは、<ここです>

古い民家というより、堂々たる豪農家。元は農家だったということは完全に消えています。白洲夫妻が、この養蚕農家を買い取り移ってきたのは、昭和15年のことです。当時すでに外国生活もあった夫妻が、そこから50年、常に日本の第一線の人生をおくられた御宅、邸宅であります。

*見学者に若い女性が目立ちました。
*入場チケットとパンフレットです。

長屋門をくぐると母屋を中心として何軒かの家屋が広い敷地に、日本の本来のたたずまいを見せます。
母屋の上がり口に、常滑の大壷に野の花が投げ込まれています。そうして、白洲正子さんが好きで集め、日々使っていた民具、器、あるいは着物、美しい生活が並べられています。白洲さんの美意識が結集されています。家人はいたく感動している様子で、ゆっくり見ていました。

私は、記憶のある雑誌のグラビア・ページをめくるように流していたのですが、白洲さんの書斎の本棚に足が止まってしまった。室内の撮影が禁止されているので、紹介できませんが、私の持っている本も数冊見つけることができたのです。

*樹木に囲まれるオウチは羨ましい。屋根は昨年葺き替えたそうです。

私は、この武相荘で、白洲次郎氏の堂々たる人生を実感していました。
日本国憲法の策定に、実は中心にいた人物なのです。吉田茂元首相の側近中の側近、懐刀ともいわれていたそうです。

<日本は、米英と戦争に入っても戦争を知らないからとことんやるだろう。東京は焼け野原になるから、食べるものがなくなる。農業をやるために、この地に住むのだ>といった風なことを、太平洋戦争前に言っていたと、書かれていました。感じ入ってしまいました。
土地を持たずに戦災で焼け出された悲惨を、私は良く知っています。何年たってもぬぐえないのです。
やはり、自分が食べる分ぐらいは自分で手当てしなければならないかなあ。いつの時代も同じことです。最後は自分しか頼れないでしょう。
外国からの食料依存度が恐ろしいほど高い、今の日本の方が危険なのかもしれません。

とはいっても、今日のお昼の食事にはありつけます。
今の季節の武相荘の展示テーマは、“白洲家の食卓”です。“白洲家の食卓”からのお弁当を食べることができました。電話で予約していたのです。

 *白洲正子好みの洋風弁当、3150円。

コーヒーでも抹茶でも飲むことができるのですが頼まず、家人は、もう一度みてくると去っていきました。私はひとり木々の間から過ぎ去った遠い日本を眺めていたのです。

   【おまけ】

*今日も、訃報記事のスクラップです。平成10年12月27日に白洲正子さんは死去されました。88歳。そして、もうひとつの切り抜きは、白洲旧邸を記念館“武相荘”として公開されることになったと報じた朝日新聞2001年9月2日付けです。開館6年ということになります。

 


白馬乗鞍岳・白馬大池に行って、ひさしぶりに山バッジ・コレクション(2007.11.20)

2007-11-20 17:48:33 | Weblog

*白馬大池山荘は10月10日頃に、今年は閉館です。

10月1,2日のことです。白馬岳の北側から、白馬乗鞍、白馬大池山荘に行ってきました。今ごろ、“今年は、山も紅葉には早かった”と書いても時季はずれですが。ブログネタがないのです。

*これが、最近の山小屋の夕食。
*これが朝食。一泊二食で9000円。

 【おまけ】

* 高校時代から、山に登ってきました。国内100名山はすべて登頂、とかいうことはありません。そんな気持ちはさらさらありません。初めての山に登ったら、頂上あたりの小屋で、バッジをひとつふたつ買っていました。ということは、真のアルピニスト、山好き、自然愛好家とは違うかもしれません。山の空気を胸で感じればいいのですが、なんか“来たぞ”という証拠がほしいのです。心を清くする目的(?)の四国88ヶ所めぐりでも、お金を出して(!)札所で朱印を集めるのと同じことです、違うかな、違いそうですね。

*わが、北アルプス・バッジです。

左から2列目が後立山連峰から南へ。右から2列目がその南の、槍穂高連峰です。

* 北アルプスは良く行きました。だいたい全部行っているでしょう。頂上という点では3度も4度も行っている山もあります。

* こうして、ひとつの布に“地図と同じような位置に”貼り付けています。この頃、新しい山に行くことがありませんので、ここ10年くらい、新しいバッジが増えなかったので、この布をだすこともなかったのです。この10月、2つ増えました。白馬乗鞍岳バッジと白馬大池のバッジです。久しぶりに、この布をひろげ、“しみじみ”しました。

*白馬岳の北側に2つ追加です。

* あの山のバッジがないから行こうなんて、“不純な気持ち”はありませんでしたよ。

  【おまけのおまけ】

*山の雑誌が特集したりします。額にいれても、私の場合、誰も見てくれません。

*山バッジ海外版もいつか書きましょう。もちろん行っている山は少ないですが、ひとつの山でいくつか買ってきます。懸命に探したりします。アメリカ・シェラ(ヨセミテ)山群、ヨーロッパ・アルプスのバッジは、とてもきれいです。

*ネパール・ヒマラヤの、アンナプルナあたり、エベレストあたりを歩きました。小屋につくたびに、探しましたが、山バッジはもとより、記念(やってきた証拠!)になりそうなものは何にも売っていません。というか、売店コーナーそのものがありません。


公民館利用申し込みは、抽選がいいか、先着優先がいいか(2007.11.19)

2007-11-19 19:59:51 | Weblog

*町の唯一の文化施設“正風館”です。

今日は、超ローカルな話です。そもそも、このブログはご近所コミュニティを目的としたものです。とはいってもすぐにネタ枯れになるので、ボブ・ディランの話を書いたりしています。すると、ぐ~んとアクセス数が増えます。まあ、どっちつかずにやるだけですね。

だから今日のタイトルを“公民館利用は、抽選がいいか、先着優先がいいか”と、すべきか“春日部市の公民館利用申し込みがシステム化、いよいよ抽選方式に”とすべきか、少し考えこんだのです。

私の住む旧庄和町は2年前に、春日部市に合併しました。いろんなことが春日部にあわせられることになりました。
例えば、公民館利用。大きな市の春日部と、小さな町の庄和町では、住民の使い方が全く違っていました。庄和町にしてみれば、公民館は唯一の文化施設でもあるのです。人が集まることはなんでも公民館だったのです。

まず、公民館の利用目的での規制がでてきました。<社会教育のための施設だから。・・・・だから、無料なのです>。旧庄和町では利用が有料だったのですが、無料の春日部市にあわせて、無料になりました。もっとも初めから市長選挙が終わったら春日部市全体が有料になるといわれていました。そして、春に市議会が承認、この2007年10月より、春日部市全体が有料になりました。

そして申込み方法も、庄和地区は3ヶ月前の先着順だったのですが、春日部“本”市にあわせて、1ヶ月前になったのです。庄和地区は様子見で先着順を継続しています。

私ら定期利用者にすれば、一ヶ月前では予定がたたないのです。<来月の練習予定日表>を渡せないのです。早く渡さないと多忙な社会人は、自分の他の予定を入れてしまうのです。

さてさて、ようやく本題です。
これまた、ずっと噂されていた利用申し込みのシステム化(合理化)のいよいよ実施時期がせまってきました。
来(2008)年5月利用分から実施、つまり3ヶ月前の2月1日から市民利用者の“利用申し込み入力”が始まります。
<システム化されたら、3ヶ月前申し込みになりますから>と言われてきたのですが、<抽選方式>がついていたのです。
利用月の3ヶ月前の1日から14日まで、申し込みを受け付けて抽選するというのです。落選したら人たちは、次の2週間にあいているところを再度申し込み、競合すれば、ここでも抽選です。

運がよければ、2.5ヶ月前に希望どおりの日時で部屋が使えることが決まります。運がとことん悪ければ、希望の部屋・日時が、最後まで使えません。

 <ゼッタイ必要だから、朝6時から並ぶという“努力”は認められなくなりました>
社会全般に、並ぶということを許さなくなったように思うのです。
昔、年末の帰省列車座席確保のために並びました。コンサート・チケットのためにも並びました。

それは“無駄”ということなのか、ほしいという気持ちを実現する“努力”だと思うのですが。今の世、努力を無駄としてしまう仕組みになっていないでしょうか。

運の悪い私は、過去、抽選にあたったことがないのです。だから、もうどうしようもないのです。前の晩から並ぶことなら、なんともないのです。

公民館利用の申し込みが、インターネットから行える場合、現状では先着優先にはできないでしょう。
私でさえ(!)、<超早撃ち申し込みプログラム>を作ることはできません。それより、コンピュータ申し込み優先を、現状の市民全体に適用することはできないでしょう。2週間のうちに、公民館窓口で代行入力を頼める余裕が必要でしょう。

社会一般に、先着優先、抽選方式、どっちがいいのでしょうね。

 【おまけ】

*公的な看板には、庄和町の文字は消されましたが、ここでは珍しく残っています。“庄和町中央公民館”と“庄和町”と。消し忘れでしょうか。今は“庄和地区公民館”と“春日部市”です。

*春日部市の公民館利用申し込みのシステム化のよる具体的な手順については、<噂>の部分があります。正しくは、12月1日発行の公民館だよりに掲載されます。また、1月中旬に予定されている説明会に参加確認して下さい。


米フォーク・ソング好きならアラン・ローマックスを知っている(2007.11.18)

2007-11-18 17:34:37 | Weblog

*ウチの団地はリサイクルの日です。

今日、第3日曜日は、ウチの団地のリサイクルの日。
つまり昨日は一日中、新聞のスクラップをしていました。日々、一面の右肩に赤鉛筆で印をしているのですが、つけていない日があったり、よせばいいのに、プロ野球の記事を読みふけったりしていると、けっこう時間がかかるのです。読んでいないのに“切抜き”印もけっこうあります。後で読むのです。本の広告、書評の切り抜きが多いですね。

その中から、ひとつ紹介します。
“アラン・ローマックス選集”(日経07年10月14日25面)です。音楽評論家 藤田正さんの書評です。

書き出しは、こうです。<ローマックスの名前を知っているとしたら、その人はアメリカのポップスにかなり詳しいはずだ・・・・>
“わたしゃ、知ってるぞ”とえらそうに!ブログに書きたくなります。

*結局は買わないけれど書評はよくスクラップします。

もう少し引用します。
<ローマックスは、音楽家でなく、大衆の音楽を研究した学者だった。録音機をかついで全米各地を巡り、カリブ海にもヨーロッパにも出かけた。黒人音楽が文化的価値の低いものとみなされたていた時代にあって、彼は率先してレコーダーをまわし、今となってはアメリカの国家文化財と呼べるような貴重かつ膨大な録音物を遺した>

60年代に、ジョーン・バエズやボブ・ディランといった、フォークやブルースに関心があった世代は、ウディ・ガスリーにも興味を持ち、必然のように、アラン・ローマックスを知っていたのです。

*左;ウディ・ガスリー、右;アラン・ローマックス。

日本でいえば、民俗学のというか、民話を収集した、例えば、遠野物語を書いた柳田国男のような人でしょう、といえば、わかりやすいでしょう。

この本は高い、6,000円です。アラン・ローマックス選集(みすず書房)が図書館に並ぶのを待ちますが無理でしょう。ただし、CD付だから買いたいなあ。

*アラン・ローマックスの死亡記事(2002年2月22日の朝日)です。

新聞スクラップに話を戻します。アラン・ローマックスは、2002年2月19日に亡くなっています。米フロリダ州の養護施設で。87歳、死因は不明。
新聞記事から知ったのです。アラン・ローマックスの死亡記事をスクラップしていて、それをブログに書くなんて人は、そうはいないでしょうね。
“学者・研究者・評論家”か、ただの“オタク”ですが、実はその差はありません。

  【おまけ】

* 最近、お料理レシピを切り抜くことがあります。実践をせまられることがあって、必要なのです。

*小さな記事でも春日部市民には見逃せません。(11月16日付け日経)

* ついでに、ブログ向きでないスクラップ例をひとつ。一昨日の、11月16日(金)の日経の埼玉版2段に記事です。<春日部市、特例市に> 16日の閣議で決定し、2008年4月1日から移行する。<特例市は人口20万人以上の都市が対象。都市計画や環境保全などの権限の一部が都道府県から移る>、それでどうしたのだ、ですね。
最近、大事なことが、なんか知らないうちに、大きく報道されることもなく、ちょこちょこっと変わってしまっていることが多いのです。


懐かしの岡山、カバヤキャラメルとロウケンマントウ(2007.11.16)

2007-11-16 19:43:49 | Weblog

*おお、カバヤキャラメルだぞー。

今日は、10月初めから、一度ブログに書いておこうと思った話です。
私の生国は、岡山備中藩です。10月の何日だったか、岡山に住む兄の嫁さんから家人宛に宅急便が届きました。もう25年も前に亡くなった親父の“形見分け”というか、家を片付けていて出てきたものを送ってくれたのです。
ダンボール箱が、カバヤキャラメル(正しくは、カバヤ・ココナツ・キャラメル)と印刷してあるのです。この箱そのものも、親父が生前に使っていたままでしょうか。

昭和30年代に岡山で育った私らには、カバヤキャラメルは、涙のでる懐かしさがあるのです。
カバヤキャラメルは、岡山市のカバヤ食品が作っていたのです。東京には森永キャラメル、大阪にはグリコキャラメルがあって、ちょっと安い2級のイメージではありますが、私らには、カバヤキャラメルだったのです。

*もちろん私には、右の箱です。(定期的に送られてくる<岡山を知る印刷・出版文化情報誌“F&A”vol.16,1995>から)

どうもカバヤキャラメルは、岡山の子どもたちだけでなく、大阪でも東京でも、全国的な人気だったようなのです。
10円のキャラメルに入っている“カード”を集めて、確か10点分を揃えて(なかなか10点にならない)、童話本、カバヤ文庫がもらえたのです。小学生向きの世界名作文学でした。
ひょっとすると、貪るように読んだのかもしれませんね。私の本好きの原点でしょう。
どうも昭和27年から29年のわずか3年間だったというのです。ならば私の4年生から6年生の間のことです。 もっともっと長かったように思うのです。
ずっと後、大人になって、カバヤ文庫という“文化”があったと書いた“ちゃんとした書物”をみたこともあるのです。

もうひとつ。これは、もっとわびしさが出てくる食べ物の話です。
“ろうけんまんとう”という中華風な、わかりやすく言えば、硬い冷たい、“中に何にも入っていない”豚マン・アンマンでしょうか。
・・・・正確には、黒い豆が一粒か二粒はいっていました。

その“ろうけんまんとう”が、“労研饅頭”であることを、この間(2007年10月10日)、朝日新聞(1面)で、初めて知ったのです。
労研は、労働科学研究所です。岡山県倉敷の紡績工場の“女工哀史”さながらの少女たちのために、1920年代に、若い経営者と社会問題研究者が、労働科学研究所を作って、劣悪な労働環境の問題、あるいは子どもと女性の深夜労働禁止につながる研究や運動をしたのです。


*朝日新聞10月10日付け夕刊1面(義等・暉瞬義等さんの次男の妻が、埼玉大学名誉教授の暉瞬淑子さん=写真)

そして、<疲労回復に必要な栄養も研究し、安くて栄養価の高い中国の饅頭(まんとう)を日本人向けに改良し“労研饅頭”として広めた>のです。
私は、これを食べて育ったのです。

   【おまけ】
* カバヤ文庫については、かばや歴史館が詳しい。<ここです>   
  また、岡山県立図書館では、カバヤ文庫をネット上で読むことができるサービスがあります。<ここです> 。同図書館は、カバヤ文庫を揃えているが、不足(欠本)があるといい、探しているようです。さすがの私でも、一冊も手元にありません。

*こんな絵のついた薄い紙に包まれていました。

* “労研饅頭”は、今、愛媛県松山市で製造販売されています。その由来も知ることができます。<ここです>
今でも、売れているようです。私は、食べてみたいとは思いませんね。


春日部市立図書館の新着棚に、伝記“ローザ・パークス”があった(2007.11.14)

2007-11-14 22:17:46 | Weblog

*右は、モントゴメリー市のガイドマップ

私の住む元庄和町の役場が図書館になるのか、ならないのかの関心が、知人たちにあります。
町民が待ち望んできた図書館への思い、使い方は、人それぞれです。

私の場合、調べ物をするために図書館に行くことはありませんから、市の中央にある春日部市立図書館の蔵書数が少ないという不満はありません。ましてや図書館でゆったりとした気持ちになれる読書の時間を持ちたいと要望もありません。あるいは、同年代の男性さんに目立つ、居眠りに行く目的もありません。

ふらりと、本屋、古本屋に立ち寄って、なんとなく“本を探す”のと同じなのです。春日部市立図書館は、家からクルマで20分かかります。たいてい他の用事のついでに寄るのです。
書棚の、どこに何があるかが、ほぼわかっているので、そこに新しい発見はありません。だから窓際の新着図書棚の“距離5m”ほどを歩くだけです。
本屋と違って図書館ですから、その中から手当たり次第に引き抜いて、レジ(?)に持っていきます。無料ですので結果として、読もうが読むまいが、どうでもいいのです。本屋でならゼッタイに手を出さない本も、開いてみることができるのです。
むろん、それが新しい関心と知識に繋がることができるのです。

昨日(11月13日)に、図書館の、新着書の棚に“ローザ・パークス”があったのです。突然の出会いです。今でも“ローザ・パークス”の新刊が出るのかと思いました。
しかも岩波書店の発行(2007年9月1日)なのです。

*ローザ・パークス記念館ロビーで。

ローザ・パークスは、アメリカの公民権運動(黒人解放運動)のきっかけになったと言ってもいい、象徴的な“白人社会に対して抗議行動”をした女性です。1955年12月1日のことです。白人優先のバスの座席に座った混血女性は、その時 42歳です。そして黒人の市バス・ボイコット運動(381日間)につながり、抗議運動は全米に広がったのです。

日本の私らにも、アメリカの公民権運動の熱気は伝わってきました。正確には、かなりの時間差があったのですが、思いは同期していたと思うのです。

私は、この6月に、アメリカ南部の公民権運動の“史跡”を訪ねる旅をしてきました。
ローザ・パークスの町は、アラバマ州モントゴメリーです。南部を歩いて10日目ぐらいのことでした。熱暑のアメリカ南部だったので、歩き回ることに疲れ気味でした。
キング牧師のいた教会(King Memorial Baptist Church) 、公民権運動記念館(Civil Rights Memorial Center)を歩いて、ローザ・パークス記念館(Rosa Parks Library and Museum)に寄ったのです。

*入場チケットの半券です。

かなりの見学者がいました。身体がだるかったこともあって、また米国では珍しく写真撮影禁止の注意を受けたこともあって、丁寧に見て読んでまわったのですが、売店も素通り、本も記念品も買わなかったのです。
42歳の、普通の主婦の勇気ある行動は、<感銘をうける>といったこと以上に、考えさせられる展示でした。

ローザは、確か2年ぐらい前に亡くなったと思います。日本の新聞もかなり大きく伝えました。
借りてきた本は、いつものように、まえがき、あとがき、それから本文と読み進みます。
原著、ROSA PARKSは、2000年に出版されました。1997年になってローザ・パークスの軌跡を訪ねる意味が、あとがきに熱っぽく書かれています。
現在、買っておくのがいいなと思いながら、読み進めているところです。

*記念館の前が現場と思っていたのです。緑の標識に覚えがないのです。

本書の冒頭にこう書かれています。
<アラバマ州には、巡礼にあたいする公民権ゆかりの地が数多くある。しかしその中でも、モントゴメリー市の一見何の変哲もない路上にある、簡素な緑の標識だけを目印にしたもの以上に、見る者の歴史的想像力を貫くものはない>

ローザ・パークスをモントゴメリーに訪ねた私ですが、その“事件”の起こった場所を示す<簡素な緑の標識>を見落としたのに、今日、気づいたのです。


春日部市にやさしさの輪を広げるコーヒー(2007.11.13)

2007-11-13 18:33:56 | Weblog

30年ほどの間、居住する庄和町と勤務地以外で動くことは、ごくまれだったのですが、人生をリセットし、この町だけで生活するようになったせいか、2年前に庄和町が春日部市と合併したせいか、このところ春日部に出かけることが多くなりました。春日部の方と話すことも出てきました。

先日お会いした春日部にお住まいのOさんは、コーヒー、“エルメラ・コーヒー”を扱っていらっしゃる人です。私はコーヒー好きです。お話しているうちに、サンプル(試供品)コーヒーと、思いが書かれているリーフレットをもらいました。

それで今日は、その“エルメラ・コーヒー”の話にします。
Oさんは、NPO法人プロジェクト・ウィングの代表さんです。このエルメラ・コーヒー・プロジェクトは、東ティモールで栽培されてフェアトレードで輸入されているコーヒー豆を使って、美味しいコーヒーに仕上げるのだそうです。生産者の経済的自立を支援しているのです。



<希少な原種をオーガニック栽培したコーヒー豆だけを使い熟練技術者によって丁寧に焙煎しました>
そして、エルメラ・コーヒーの製造には、障害者の皆さんが加わっているのです。
“通所授産施設おおば”と“喫茶ゆめ色”では、障害を持ちながら「働きたい」と望むメンバーがそれぞれの目標に向けて働いているのです。
“喫茶ゆめ色”は、春日部市で、東武伊勢崎線 武里駅西口下車徒歩13分 だそうです。一度出かけてみようかと思っています。

エルメラは、栽培地である東ティモールのエルメラ県レテフォホ村の県名からきているのだそうで、コーヒー豆は、稀少な原種であるティピカ種とのことです。

<生産者にも、障害者にも、飲む人にも、環境にも、やさしいエルメラ・コーヒー。このやさしさの輪を、ぜひ一緒に広げてください>と、Oさん。 

ここで一冊、コーヒーの本です。

*2007年5月、白揚社。原本は2004年発行。

一ヶ月ほど前に、朝日にも、日経にも書評が載った本です。春日部市立図書館の新刊の棚にありました。
タイトルは、“コーヒーの真実=世界中を虜にした嗜好品の歴史と現在”です。
原題は、“Coffee=a dark history”です。コーヒー=ダーク・ヒストリー、暗い歴史、の書名の方がいいと思います。

欧米人(資本)の搾取とコーヒー生産者の劣悪な実情が、歴史の中に書かれています。そうして、生産者と消費者のフェアな関係、フェアトレードの実情もまた述べられています。おおむね内容は予想できるなと思っていたのですが、発祥地のイスラム世界などの宗教感、背景の世界史の理解も求められる、けっこう重い内容です。
まだ読みきっていません。翻訳がこなれていないこともあります。借りっ放しです。
読み終わると、“なぜコーヒーが世界中で飲まれるのか、好まれるのか”がわかるかもしれません。

  【おまけ】

*教育センター1階の学習情報サロン。

* 今朝、春日部市教育委員会に用事がありました。教育センター一階の学習情報サロンの壁に、“あっと驚く”大きさの写真があったのです。私らの、正風館ジャズまつり“SWING SWING SWING”の写真です。もちろん嬉しかったですよ。受付の職員さんに断って“写真の写真”を撮ってきました。

* 学習情報サロンは、教育センター内の郷土博物館の隣のコーナーです。誰でも入れます。あまり知られていないようですが、春日部について調べ物するには、図書館よりいいでしょう。全国の行政が出している観光パンフレットはきれいに整理されていて、むろん持ち帰れます。ツアーのパンフレットしかない旅行会社の棚より充実しています。その他、新しい関東一円のイベントのパンフレットもまた揃っています。

* 一度、出かけて、何があるかを知っておくのもいいでしょう。


がんばって!地域のために。春日部市民劇団“かざぐるま”(2007.11.12)

2007-11-12 13:17:48 | Weblog

*左;今年のプログラムです。

なんと今朝、快晴。あたたかい。雲ひとつない快晴。金、土、日の冷たい雨をうらんでしまいます。
町のあちこちで開かれたイベントの主催者の準備の日々の苦労を思う時、一緒になって天気の不運を感じていました。
雨で喜んだのは、オープンしたばかりのララガーデン春日部さんだけでしょう。

*今日は、ほんとにいいお天気です。

土、日(11月18日、19日)には、春日部市民劇団“かざぐるま”の年に一回の定期公演日だったのです。毎年、ほぼかかさず見てきた私は楽しみにしていたのです。
土曜の夜は、私らのバンドの本番前夜の練習をさぼれず。日曜お昼の“頼まれ演奏”をすませて、2時の開演に駆けつけるつもりでいました。雨のためか?ララガーデンの混雑渋滞のせいか?ご挨拶される来賓の到着が遅れ、終わったのが1時すぎ。アンプやPA一式をライトバンに積み込んだのが、2時直前です。
<間に合わない、もういいか>と思ってしまったのです。

ごく近しい知人は、土曜の夜に観覧してきました。第29回公演“黄金色の夕暮”(演出;板垣理人)です。出演者に急病があって代役さんだったようで、少し痛々しかったとの感想でした。

それより、公民館有料化の市民劇団“かざぐるま”への打撃のお話の方が印象深かったようです。有料化についての署名をしてきたと言っていました。練習に公民館を使っている“かざぐるま”は、年間40万円の出費増になるそうです。

春日部市の公民館は、この10月から有料になりました。理由は“受益者”負担です。
合併時から、私の住んでいる庄和町では春日部市も有料化されると言われてきました。しかし、春日部<本>市の公民館利用者にとっては、まさに突然に、議会に提出され、議会で可決されました。
使っているものが払うのは当然という理由なのです。

地域のコミュテティ、地域の文化、地域の福祉・・・市民の活動、それぞれに、市民が寄り集まっています。個人の受益者負担は当然、とほんとうに言えるのといえるのだろうか。

<市民劇団なんて、どうせ好きでやってんだろう>という教育委員会、議会関係者さん、“かざぐるま”が、今1000人規模の市民を楽しませていることを、知っていますか。
“人にやさしい春日部市”の文化度が問われているのです。

 “かざぐるま”は昭和62年に旗揚げ(ということは今年で19年か)。私は、平成元年“結婚という冒険”から、ほぼ出かけています。
この間、知人が出演したこともありましたし、年に一回とはいえ、舞台上だけの話ですが、お名前と顔のつながる方もいるのです。

20年の活動というと、隣町(庄和町)の私らビッグバンド“スウィング・ベアーズ”(19年)もそうです。ずっと応援してきた同じ町の人形劇“くれよん”さん(23年)もそうです。
チームを維持していくことの大変さが、ほんとにわかるのです。

もちろん好きでなければやれませんが、好きだけでは決してやっていけないのです。少しは、地域社会の役にたっているとの思いがなければ、やっていけないのです。

<受益者負担>、<自己責任>。わかっていますよ。そんなことを行政が声高に言うようになってしまった。社会が悪くなったのかなあ。

 【おまけ】

*長い間、チラシを切り取っていたのです。

* 私は、野球が好きです。草野球もやってきました。チームプレーだから好きなのかもしれません。“楽天”=仙台のようにと、言ってるのではないのです。春日部の高校野球の話です。10日、11日の週末に“春日部市高校野球大会”があったのです。行きたかったのです。雨天中止になったのかなあ。

* 庄和町に越してきた30年前は、春日部工業高校、それから春日部共栄高校(甲子園応援にも行った)、むろん町に学校ができたので庄和高校、最近は活躍する陸上部の線から春日部東高校、を応援して来ました。それに春日部高校を加えて、5校の大会(牛島球場)だったのです。どこも強い。毎秋に開かれています。延期になったのでしょうか。


スウィング・ベアーズが春日部の高齢者会食会で演奏(2007.11.11)

2007-11-11 21:48:08 | Weblog

夏の頃から依頼されていました。私は“先乗り”です。9時に会場に入ります。
メンバーは、10時をめざして集まってくれます。音だし(本番開始)は、11時30分と聞いていて、小一時間練習できると思っていたのですが、お客様の入りの出足が早いのです。高齢者の集まりらしい、開始1時間前には随分の入りでした。

春日部市社会福祉協議会粕壁支部の行事です。講堂ぎっしりのお客様です。
私は、今日はベンチ・スタート。“マイ・ウェイ”で開始しました。そして、ラテン、チャチャで“フレネシ”・・・・・と、前半は洋楽(!)です。

来賓の到着を、にらみながらの演奏を続けます。春日部市長のご挨拶。
後半は、懐かしの歌謡曲大会です。美空ひばり大メドレーの演奏中に、衆議院議員先生が到着されました。

“川の流れのように”、“きよしのズンドコ節”、そして、私らスウィング・ジャズ・バンドが最も得意とする“憧れのハワイ航路”では、参加者にステージで歌ってもらいました。会場全体が大合唱の渦になったのです。

   【おまけ】

*私らの何人かは、とっくに“高齢者”で、フロア側の席にいるべきかもしれません。どうも毎年毎年、行政が高齢者とする年齢が引き上げているようです。こういう時代です。私はいつまでたっても、高齢者と認められないのかもしれません。めでたいことなんでしょうね。 


雨のジャズ・デイ春日部でシカゴの野毛洋子さんの名を聞く(2007.11.10)

2007-11-10 23:46:20 | Weblog

*YOKOさんのCD

昨夜来の雨はやまず、冷たさを増していました。今日は、ジャズ・デイ春日部の日。お昼ちょうどに、いささかぬかるんだ公園の会場に。観客席には急造のテント。
雨は小降りにはなったのでしょうが、止むことはなさそうです。

あまりに寒いので、一緒だったNOさんとそば処の巴やさんに熱いうどんを食べに逃げ出しました。

2時過ぎ、ドリキンさんのステージが近くなって会場に戻って、テントの下にはいる。
あいかわらず、うまいドリーム・スウィング・キングダムさん。
アンコールに、Cジャム・ブルースと声を出した人がいました。庄和町での、あのSWING・SWING・SWINGにきてくれたひとなのでしょう。
結局、アンコールは“サンタが街にやって来る”でした。

いつも最後はプロのバンドさんのステージです。
古川奈都子とソウルフードカフェの出演でした。ニューオールリンズ・スタイルで、ブルースを色濃く持っているサウンドが、いい感じです。
秋の日は落ちるのが早く、日暮れのジャズになりました。
最後には、私の良く知っているチャーリー中田さんがブルース・ハープで飛び入り出演、万雷の声援をもらっていました。
そうして“聖者の行進”でにぎやかなフィナーレになったのです。

   【おまけ】


*古川奈都子さんがステージで、“シカゴのヨーコさんに教わった曲・・・・”と話しました。“えっ?もしや?”と思ったのです。間違いなかった。野毛洋子さんのことでした。以前ニューヨークにいて、今シカゴに住むジャズ・シンガーさんです。
ここで書いていいのか、どうか。日本経済新聞シカゴ支局に勤めながらのジャズ・シンガーさんです。少なくとも私の知っている5年前までは、そうでした。


雨のジャズ・デイ春日部でシカゴの野毛洋子さんの名を聞く(2007.11.10)

2007-11-10 23:35:33 | Weblog

昨夜来の雨はやまず、冷たさを増していました。今日は、ジャズ・デイ春日部の日。お昼ちょうどに、いささかぬかるんだ公園の会場に。観客席には急造のテント。
雨は小降りにはなったのでしょうが、止むことはなさそうです。

あまりに寒いので、一緒だったNOさんとそば処の巴やさんに熱いうどんを食べに逃げ出しました。

2時過ぎ、ドリキンさんのステージが近くなって会場に戻って、テントの下にはいる。
あいかわらず、うまいドリーム・スウィング・キングダムさん。
アンコールに、Cジャム・ブルースと声を出した人がいました。庄和町での、あのSWING・SWING・SWINGにきてくれたひとなのでしょう。
結局、アンコールは“サンタが街にやって来る”でした。

いつも最後はプロのバンドさんのステージです。
古川奈都子とソウルフードカフェの出演でした。ニューオールリンズ・スタイルで、ブルースを色濃く持っているサウンドが、いい感じです。
秋の日は落ちるのが早く、日暮れのジャズになりました。
最後には、私の良く知っているチャーリー中田さんがブルース・ハープで飛び入り出演、万雷の声援をもらっていました。そうして“聖者の行進”でにぎやかなフィナーレになったのです。

   【おまけ】

*古川奈都子さんがステージで、“シカゴのヨーコさんに教わった曲・・・・”と話しました。“えっ?もしや?”と思ったのです。間違いなかった。野毛洋子さんのことでした。以前ニューヨークにいて、今シカゴに住むブルース・シンガーさんです。
ここで書いていいのか、どうか。日本経済新聞シカゴ支局に勤めながらのブルース・シンガーさんです。少なくとも私の知っている5年前までは、そうでした。