自覚症状なしから、<まさか>の臓器をひとつ摘出までの80日間(2009.1.31)

2009-01-31 22:39:31 | Weblog

*どちらの病院ですか?と聞かれても、正しく教えられなかったのです。

 昨日(1月30日)に退院しました。これで、11月中旬からの<不健全状態>には一応の処置が完了したことになります。あと体力回復を待つことになります。
 11月に12日間、12月に9日間、1月に12日間、合計33日間、4つの病院に行っていました。

 2008年11月。20年間やってきた、わが町のジャズバンド<スウィング・ベアーズ>、晴れの20年記念コンサートを5日後に控えて、表も裏<つまりバックステージ>も、準備に追われていた時のことです。
 11月11日、ちょっと右わき腹に痛みを感じて、町の<**中央病院(車で10分)>に。大した問診も触診もなく、CTスキャン検査。<明日、**総合病院に行って下さい> 翌12日、隣の町・市中央部の<**総合病院(車で30分)>に行きます。
いくつかの(CTとかMRIとか)検査の後、<明日入院して下さい>、<コンサート本番前なので月曜からではだめですか?>、<死ぬ生きるの問題ですよ>、<……>、翌13日(楽譜を隠し持って)入院。そして、金・土・日と<気分正常で過ごした>のです。

 そうして、本番の日を病院内で<元気に!!>過ごし、翌月曜日(11月17日)に、右の尿管結石の破砕手術です。
 実は、右に結石、左腎臓にガンという診断結果だったのです。医師は、一週間後には左腎臓摘出というスケジュール表を作っていました。たいした自覚症状もないのに、トントンと運んでいくスケジュールに、なんとなく<恐ろしさ>を覚えていたのです。
 CTスキャン画像を見せられ、そこに、確かなまん丸の腫瘍が映っているのです。こちらには、心の準備と知識がありません。
 <わかりました>と、半分くらい言いかけた時に、立ち会ってくれていた娘が、<セカンド・オピニオンを受けてもいいですか>と口を開いてくれたのです。私も、少し気持ちを取り戻し、<ちょっと一息入れさせて下さい>と言うことができました。

 セカンド・オピニオンは、別の病院で診断をえることです。<紹介状を書きますが、宛先はどうしますか?>別の病院と言っても、なんら知識はありません。もう口から出まかせです。<**医科大学附属越谷病院(車で40分)>に行ってみます、と。
なんの理由もありません。通勤電車から毎日見えていた大きなビルの記憶だけだったのです。

 さて、それで、本当はどこに行こうか。新聞社系週刊誌には<名医リスト、名院リストが>特集されています。立ち読みしても<何ら役立ちません>。ネットで探してみても手がかりはえられません。
私は、腎臓まるまる全摘出以外の方法はないのか、と探していたのです。私が安心を覚える解答は、見つかりません。
 <正しく返事をする日が来ました>。もう全摘出は仕方ない、と思っていました。

 <柏の国立がんセンターで手術してもらうことにします>。ここまで診ていただいた先生に<病院を変えます>というのは、ほんとに勇気がいりますが、言ったのです。

 柏の国立がんセンター(車で40分)は、<私の住む地域では誰でも知っています>、ガン=終末のイメージが重なる病院名です。泣く子も黙る<がんセンター>なのです。

 12月2日、初めての柏の国立がんセンター東病院。いくつかの検査の後、<摘出しましょう>と。<内視鏡治療とか・・・どうですか?>と小さい声の私、<摘出ですね>、<……わかりました、よろしくお願いいたします>

 正月明け(23日予定で)に手術することに決定しました。
 <ところで>と先生。<高脂血症ですね。一度心臓の検査を受けて来て下さ>。 例えば、と指定されたのが<*東京病院(電車で40分)>。高脂血症といっても、コレステロールが高いだけ、サラリーマンを30年やっていれば誰だって、とタカをくくって、心電図検査に臨みました。<問題なしです>、<そうでしょうね>。<午後からは負荷をかけてやってみましょう>

 負荷をかけるとは、走りながらの心電図測定です。ベルトの上を走らされるのです。でも平気、わたしゃ、高校時代は陸上競技部でインターハイ予選落ちの経歴です。ところが、これでもか、これでもか、とスピードを上げるのです。息が上がります。例えば、家人なら、この速度についていくことさえできないでしょう。まるで、何か出るまで<やらせる>ように感じてしまいます。<はあ…はあ…>、そして、<心電図に乱れがあります、狭心症の疑い>とのご託宣です。
 <後日入院してもらい、心臓のカテーテル検査をやりましょう>、<まいったなあ、ガン摘出に心臓がもたない>と結論を出されたら、わが人生一巻の終わりです。

*がんセンターの窓から、柏レイソルズのサッカー場

 12月28日から2泊3日で入院。手首血管から心臓に向かって、極細チューブを入れ、造影剤を流し、心臓直近の血管を調べるのです。医師は、モニター上に踊る我が血管を指差して<問題なしです>と。
 ワタクシは言葉を失くし、<この画像いただけませんか>と。その日、検査入院中のベッドに動画像CDRが届きました。

 全く<めでたくない>正月を越しました。

 手術日が1月23日に決まり、3日前の20日に入院。退院は、1週間後と予定されていました。いよいよクライマックスではあるのですが、もう書くのを止めます。
 1月23日に、左腎臓全摘出手術。腹筋力ゼロ状態で、1月30日にウチに帰りついたのです。

    【おまけ】

*これで、ウチに帰ります。

* 今回なにかと助けてくれたウチの娘は、隣の街、越谷市で家庭を持っています。私と、80日間の流れを思いながら、長かったけど、まあ順調だったなあ、そして春日部市立病院、越谷市立病院の名前が出てこなかったなあ、という話になりました。

* 娘は、春日部市立病院生まれですし、子どものころ(20~10年前)、もっとも頼りにしていたのが、春日部市立病院だったはずです。今、全く信頼を失くしているのでしょうか。

* 娘、<公立病院は、直接的な(最先端医療技術での)ガン手術より、普通の、子どもからお年寄りまで、誰もがかかれる病院、小児科、産科、そして救急医療に対応できる病院であったらいい>と。そういえば春日部市立病院は、産科も小児科も廃止してしまったような話があったなあ。

* <なんでも民間へ>という政府の方針ですが、公立病院は民間(私立)病院と<市場原理>という競争をしたらいけないんだ、と思うのです。 公立病院には、医療ビジネスという言葉に無縁の、公立ならではの役割りがあるでしょう。


清里<花みずき>さんから届いた、お漬物とすぐに食べたおやきを紹介(2009.1.19)

2009-01-19 19:55:12 | Weblog

*<おやき>です。

 このブログで、<豆餅が大好きだけど買えない>と書いたことがあります。
 信州から、<豆餅を送ります>とメールをもらっていたのですが、昨日(1月18日)、朝一番に届いたのは、重いクール・宅急便でした。
だから今日のブログは、清里の<花みずき>さんを、勝手に<広報>にします。
清里<花みずき>には、一度だけ行ったことがあります。昨夏です。 <ここに書いています>

 1、<おやき>です。
冷凍のおやきですから電子レンジで、チンすればホカホカになります。美味しいのです。信州の<郷土食>なのでしょうか。<おやき>って今まで、あまり食べたことがなかったのです。豚マン・アンマンの中身が、野菜(の煮物?)ですね。野沢菜、切干、岩茸(たけ)が個々にたっぷり入っています。餡子(あんこ)の入っているものもあります。おやきの皮に、そば粉も使われているのが、美味しいのかもしれません。冷凍保存で30日ですから、やたら買い込んでもよさそうです。

 2、信州のお漬物です。

 清里の<花みずき>さんに、出かけて思ったことは、<お漬物カフェ>だな、です。清里から真直ぐ北上した、相木村で作られた<信州農家伝統のお漬物>を中心に販売しているお店です。
製造販売元の相木商会は、通信販売もやっています。
<ここに商品が紹介されています>> <ここに購入方法が載っています>

 3、そして・・・・

 3、そして、<花みづき>のオーナーであるプルメリアさんが、お店に並べている、フェア・トレードのチョコレート、紅茶、コーヒーが入っていました。安心・安全、そして生産者を虐げることにならないフェアな取引、フェア・トレード品々です。プルメリアさんが、持ち続けている優しさです。できることをやっていく優しさです。
コーヒーには、<地球のステージ>と書かれていました。

    【おまけ】

*島らっきょうです。

* ブログに、<島ラッキョウが好きです。息子が沖縄にいったら買ってくるのですが、すぐになくなります>と書いたことがあります。すると、なんと昨日、同じ町にすむ<みゅーこ>さんが持ってきてくれました。この町(旧庄和町)で、作っている人がいるんだそうです。その時、留守だったのですが、家人が、着いたばかりの<花みずきのお漬物>を持っていってもらったそうです。これもフェア(?)・トレードでしょう。

* 昨夜(18日)、7時前に、プルメリアさんから電話がありました。NHKの7時のニュースに<ガザに行っている、地球のステージの桑山さんが登場します>という連絡です。まるで<地球のステージ連絡網>という気分になって、みゅーこさんに電話で流したのです。


*デジカメのテレビ画面撮影になれていないのです。

* NHK-7時のニュースを見ました。桑山さんの現地報告がありました。NHKとはいえ、報道関係者のガザ入りは許可されないのです。戦争状態のガザからの報告だったのです。 (*1月20日追記;19日には、報道のガザ入りが許可されたようで、現地からの報道がNHKや新聞にありました)


長い旅の携行品リスト、太平洋ひとりぼっち(堀江謙一さん)・咸臨丸のリスト (2009.1.18)

2009-01-18 20:09:11 | Weblog

*コンパスなんて必要ない所にでも、都会の旅にでも持っていくのです。

 旅に出るときに何を持っていくかを考えるのは大好きです。
一週間程度の登山(山行)でも、1ヶ月ほどの海外出張でも、コンビニがない、勝手がわからない、という状況下では、本気で考えます。いつも荷物を小さくし、自分で持つという条件もあります。
 最後まで、決まらないのが、必ず1,2冊も持っていく本です。出発時刻になっても、まだ決まらない、なんてざらです。

 コンパス(磁石=方位計=羅針盤)を持って行きます。30年も40年も前には、(あるいは今でも)、登山へ携行すべき物に、地図・コンパスと書いてあります。しかし日本の山で、コンパスなんて使ったことはありません。霧にまかれて方位を見失うこともありません。登山路はずさない限り、コンパスで調べることは、まずないでしょう。
ただし、私は、ちょっといい、携帯用では、最高級(!)のコンパスを持っています。持って行きます。
 昔の、大探検時代の気分に浸っているのです。 大探検時代、道なき道、海には、コンパスは、必須のツールです。コンパスだけを頼りに進んだのです。

 ちょっと前に、<咸臨丸の太平洋横断記>を読みました。もちろん航海記を楽しんだのですが、一番面白い、興味深かったのは、<携行品>つまり、咸臨丸<積み込み品>のリストです。

 結果として、江戸からサンフランシスコまで、35日間かかっています。312名が乗り組みます。食料をどれだけ、つんでいたのでしょう。少しだけ書き出します。
米;75石。1人1日5合、150日分。
醤油;3石3斗。1人1日5勺あて。
酢;6斗、塩;3俵。
鶏;30羽、家鴨;20羽、豚;2匹
・・・石炭;8万6千斤、灯油;2斗1升。

 その本に載っているのは、主に食料です。

*左;咸臨丸、右;マーメイド号

 もうひとつ。私が、高校生の頃、堀江謙一さん(当時23歳)が、ヨット(マーメイド号)で太平洋横断をしました。たったひとりです。むろん無許可出国です。許可される時代ではありません。世界初の単独航海です。そんなに、年齢も違わない冒険を羨ましく思いました。

 94日間の航海です。昭和36年5月12日出航、8月12日サンフランシスコ着。大学ノートの日誌は、一日も抜けがないのです。
8年間の緻密な研究と用意周到な準備と航海日誌を基に、本が出版されました。すぐに買って読みました。

*<太平洋ひとりぼっち、堀江謙一著>、右;文芸春秋社、1962年発行、左;ぐるーぷ・ぱあめ、1989年発行。今、AMZONで買うことができるでしょう。

 一番興味深かったのは、何を持っていこうかという、携行品リストなのです。その全てが克明に載っているのです。
ヨットそのもの、セール(帆)の他に、航海用具、衣料品、食糧、水、調味料、嗜好品、台所用品、衣料品、工具、日用品、文房具、書籍・雑誌、寝具類、その他(カメラ、釣具・・)

 ここに、すべてを書き出すスペースがないので、ほんの少しだけにします。
米;3斗、1日に2合半として、120日分。
水;計68ℓ
ビール;5ダース、ウィスキー5本、コーラ飲料50本
マッチ;60箱

   【おまけ】

*持っているコンパスが、ある雑誌の表紙に登場しました。

*私も、明後日(1月20日)に、10日から2週間の<旅>に出ます。けっこう長い孤独な旅です。ふつうの旅と同じように、何を持って行こうかと楽しんでいます。もう本は決まっています。コンパスは、さすがに持って行きません。


地球のステージの桑山医師がパレスチナ・ガザに。2月26日に松伏町公演(2009.1.17)

2009-01-17 11:30:12 | Weblog

*朝日新聞09年1月16日付7面

 3,4日前、<地球のステージ>を応援している知人・友人たちの間に、桑山さんが、イスラエルからの爆撃が止まないパレスチナ・ガザ自治区に出かけたという情報が流れました。皆さん一様に、戦地に家族を送るような心配があふれています。

 昨日(1月16日)付けの朝日新聞で、<ガザに入った>と報道されました。エジプト側(ラファ検問所)から入ったのです。ガザの福祉団体の招きを受け病院で緊急医療支援を行うためです。

 <カンボジア、東ティモール、イラクなどの難民らの心のケアにあたってきた桑山さんは、5年前からNPO法人「地球のステージのメンバーらとともに頻繁にガザを訪れ住民と交流してきた(朝日)>
 今まで、桑山さんは、そこで見聞きしたことを、歌にし、自分の撮った映像とともに、ステージで中学生や市民に話しかけてきたのです。

 ガザ地区には、外国報道機関がはいることが許可されないとも報道されています。国連機関もまた砲撃されています。ガザには、普通の市民が普通に暮らしています。
 日本の報道陣も、ガザに入った桑山さんへの電話取材しか、確かな状況把握はできないのかもしれません。昨日(16日)桑山さんの現地から肉声が、NHKで流れたようです。

 むろん、医療活動のためのガザ入りです、医療活動が最優先です。桑山さんのガザでの動静は、地球のステージのブログで知ることができます。<ここです>

 <見て見ぬふりはできない。爆撃にさらされる仲間を見捨てていないということ示したい(朝日)>という桑山さんの思いなのです。

  【17日18時追加】
*桑山さんは、<ガザからの活動状況>をエジプト・ガザ境界にいる朝日新聞の田井中記者にメールで伝え、朝日新聞17日付け夕刊に、<活動報告>と報道された。今後も、新聞から目が離せない。

  【おまけ】

*昨日のプルメリアさんのメールです。<今朝のブログを読むと、すぐ近くに着弾したり、救急車で危険な病院まで搬送したり。心配がつのる一方ですね。でも、一番恐いのは桑山さんなんだから、私たちは無事を祈るしかありませんね。>

 *<「使命がある人は大丈夫」と言う言葉を以前に聞いたことがあります。桑山さんには日本のステージで歌うという使命もあります。そして、今回の経験を日本中に、世界に、伝える使命も。それがあるから、無事に帰国されますよね>。皆、無事を祈っているのです。

 * 桑山さんの<地球のステージ>は、2月もまた、びっしり公演日程が決まっています。

* 2月26日(木)午後には、お隣の松伏町のエローラでの公演が決まっています。松伏町では、2度目です。2年前の1度目の時、私は初めて<地球のステージ>公演に接したのです。<ここに書いています>

* 松伏町エローラ、2月26日の公演の無事開催を祈るのはむろんのことです。特別な思いで待つことになります。

 *地球のステージのホームページは、<ここです>


咸臨丸航海記を読んで思う、乗員の雄飛向学の心と無念(2009.1.15)

2009-01-15 15:59:26 | Weblog

*<万延元年「咸臨」航米>星亮一著、教育書房、1991年4月発行。

 昨年(2008年)一年中、NHKの大河ドラマの篤姫(宮崎あおいさん)を見ていました。
むろん、宮尾登美子さんの原作にも、田渕久美子さんのシナリオにも、史実に沿ってはいるのでしょうが、史実に離れたドラマ化の部分も少なくないでしょう。
よく知っているような時代のお話でしたが、わりあい真剣に見ていました。

 秋に、春日部市立図書館の廃棄本放出で拾ってきた本の中に、<万延元年「咸臨」航米>がありました。<篤姫>を見ていたさなかでした。

 私が小学校の4年か5年の時の、国語の教科書の巻頭に載っていた<咸臨丸>をよく覚えているのです。<麟太郎(勝)も諭吉(福沢)も乗っていた>という文章もあったのです。風雨に襲われる咸臨丸の絵、日本が世界に雄飛する輝かしき第一歩、が私の胸に刻まれたのです!。

 もっとも、その後も<日本人だけで太平洋を横断した咸臨丸>の詳しい話はよく知らなかったのです。拾ってきた本<万延元年「咸臨」航米>は、一息に読めました。軽い本ということでなく、一気に読ませました。面白かったのです。
<日米修好通商条約締結>にアメリカ軍艦ポーハタン号(2415トン、全長75m、乗員312名)に乗って渡米する日本国使節を護衛するための軍艦が咸臨丸なのです。
 咸臨丸は、300余トンとも625トンともいわれ、全長49.7m。1856年にオランダで造られた蒸気帆船を徳川幕府が購入したのです。外輪船でなくスクリューで走ります。

 乗員総勢96名。ナンバー1は、木村摂津守(御軍艦奉行、アドミラル;提督)、勝麟太郎(37歳)は、ナンバー2(御軍艦総頭取、キャプテン;艦長)です。ジョン(中浜)万次郎は通弁(通訳)、福沢諭吉(27歳)は、木村の従者です。

 江戸―サンフランシスコは、4697海里(8698.8km)。
万延元(1860)年正月19日(太陽暦2月10日)に出帆し、2月25日(太陽暦3月17日)到着だから、35日間。
帰りは、3月19日(太陽暦5月8日)出帆、5月5日(太陽暦6月22日)浦賀に入り、翌日品川沖に投錨で、47日間の航海です。帰りにはハワイに寄っています。

 今回読んだ本は、何人かの日記をもとに、まとめられたもので、多少の脚色はあるでしょう。
 まず、面白いなと思ったのは、<アメリカに行きたい>、<選ばれなかった>等というサラリーマン臭い話です。そんな時代にも<そんな感情>があったのか、現代人向きに書かれたのかなあ。

*咸臨丸といえばこの絵です(鈴木勇次郎画)

次に、咸臨丸は、日本人だけで運航、太平洋を渡ったというのは、真っ赤な嘘であること。木村摂津守が、アメリカに帰国するブルック海軍大尉以下11人のアメリカ人を乗せていること。勝麟太郎が、それに反対したこと。日本を出帆して、すぐに大風雨に見舞われ、日本人乗員が何ら操船に役立たなかったこと、往路は、実質、アメリカ人の手で航海したこと。勝麟太郎は、船酔いで船室に閉じこもりっぱなしであったこと。アメリカ人は、サンフランシスコで下船。帰りは、日本人だけで運航したのです。 咸臨丸のアメリカへの航海は、日本人だけの壮挙とは、誰かが作り出した伝説です。
この<日本人だけ>は、ひとり歩きしたのか、意識的に作り上げたのか、どちらでもいいですが。オランダ人から操船術を習ったといっても、長崎伝習所(所長が勝麟太郎)を作って、わずか5年のことです。

 ネットで咸臨丸を検索していたら、<日本人だけ>を強調してきたのは、福沢諭吉だというのです。民主・自由のイメージを感ずる福沢諭吉だというのです。つまり、自伝の中で、<アメリカの手を借りなかった>と書いているのだそうです。
実質的な艦長、ブルック海軍大尉は日記をつけていたのです。日本人乗員についても克明に記述しています。しかし、生前に発表、発言することはなかったといいます。
おとなのアメリカ人を感じます。

 咸臨丸は、サンフランシスコで、米国からも米国民からも歓待をうけます。日の丸をつけての入港は、随行艦ですが、遅れて到着した本隊以上の歓待だったようです。

 ともあれ、日本人の勇気と冒険心を世界に示した壮挙には違いありません。
ただ、彼らは幕臣であったのです。帰国時の日本の様相は、一変していました。開国、世界に学ぶ、の気持ちは、<攘夷>には敵でした。大歓迎はもとよりなく、その後の世に不遇だった人が多いのです。

今も、世界中で<反政府軍による武装闘争>が後をたちません。その時代、徳川幕府を政府とするならば、薩長軍は、反政府軍です。反政府武装勢力です。
時に、歴史は、旧体制側の史実をまげてしまいます。<勝てば官軍、負ければ賊軍>なのです。

    【おまけ】

*咸臨丸の写真とするものもありますが、正確には違うようです。

*福沢諭吉らは、サンフランシスコで辞書を初めとして書籍を買っていますし、アメリカ国は、100数十冊の本を贈呈したそうです。それらは、帰国後、翻訳され、その後の日本の行き方に役立ったのでしょう。

*その後の咸臨丸もあわれです。榎本武揚の艦隊と函館にいけず、官軍に奪われ、輸送船として使われますが、1871年北海道、木古内町沖で沈没します。


茶道グループ・百千鳥さん(春日部)のはなやいだ初釜の応援に(2008.1.12)

2009-01-12 19:41:25 | Weblog

*広間席は、振袖のお点前ではなやいだムードになります。

 茶の湯を楽しんだり、お稽古をしている人たちの新年は、初点(はつだて)、初釜で始まります。春日部のグループ・百千鳥さんは、今日(1月12日)が初点でした。

 空は澄み渡って、陽射しは暖かな一日でした。新年初めの行事、ピンとしたもの持ち合わせながら、長年一緒の気ごころの知れたどうしです。なごやかなお茶会になりました。

 頼まれていた写真撮影の中から、何枚か貼り付けます。

*小間席に向かう露地。

*まず、待合いで。

*にじり口から席入りします。

*お花は曙椿。小間席の床飾り。

*新年だからお屠蘇で、良き一年を寿ぎます。

*しっとりと静寂の小間席です。

*こちら広間は、なごやか席です。

*Eさん(旧姓Oさん;手前)が赤ちゃんを抱いて、<突然>参加です。

 

       【おまけ】

*百千鳥のメンバーさんだったNさん(旧姓Kさん)から、昨日、<おいしい>ほうれん草がどっさり届きました。今、なんと九州で、はじめたばかりの若い農家さんです。

*初釜前日の朝一番に宅急便で届きました。

*葉っぱが<肉厚の>ほうれん草は、今日のお料理に使われ、お昼に皆でいただきました。このほうれん草で、どっとわいたお茶会になったのです。

*初釜(裏千家)には、<花びら餅>です、いつものように、ご近所(春日部市米島)の新柳さんに作っていただきました。


究極の健康食<七草粥>なんですが、豚カツが食べたい(2008.1.8)

2009-01-08 12:11:12 | Weblog

*<七草粥>の私の夕食メニューです。お餅も入っているのですが、ちょっと力が入りません。

今、<菜食、采だけ食>責めにあっています。むろん病院食よりは美味しいです。そもそも何でも食べられる私ですから不服はありません。
昨夕、ふらふらとヤオコーに散歩です。鰯の丸干しをかじりたいなあと思いながら、目でいろいろ食べていたら、<七草粥>コーナーにぶつかりました。

 節分に、太巻寿司(恵方巻)食べるなんて、スーパーの陰謀です。節分には、鬼除けに鰯の丸干しを、玄関に貼ります、食べるのです。バレンタイン・チョコレートなんて、子どもの頃にはなかった。都会のデパートの陰謀です。この頃、義理チョコも来ません。

*また撮影禁止のヤオコーで、です。1パック(398円)を買ったから、いいでしょう。

<七草粥>の話でした。<高いなあ>と思ったのですが、<お祝い物>ですから、と買ってしまいました。
子どものころは、母親に命ぜられ、採りにいっていました。芹(セリ)は、まだ不十分の伸びですが、はえている所、自生地を知っていました。ナズナは、ぺんぺん草・雑草です。ため池の土手を探していました。まあ、それだけです。せり・なずな、の次ぎ、ごきょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ・・・春の七草、とすらすら言えますが、ごきょう・はこべら・ほとけのざ、は、どんな草か知らなかったし、すずな・すずしろ、が、かぶ、大根であることを知ったのも、ずっと後になってからです。

*7草セットの内容です。

*こんな効用があるのだそうです。

そもそも旧正月7日、にしても、節分、立春にしても、今の太陽暦に比べて、一ヶ月ほど遅いわけです。それに長い日本列島です。季節が大きく違います。七草なんて、その目的で栽培して売っているものを、スーパーで買うしか方法はないのでしょう。

 お正月にお餅を食べすぎて、お腹を休める行事が<七草粥>と聞いていました。肉・魚の飽食とは程遠い、近ごろのワタクシの食事ですが、<七草粥>です。究極の健康食です。美味しくいただきました。お粥は、病人をイメージしてしまいます、いかんいかん。

 【おまけ】

*子どもの頃、学校で<今の言葉でいうと、食育ですね>、肉・魚・玉子・牛乳・バター・チーズをしっかり食べないと健康になれない、大きくなれない、芋・大根・菜っ葉ばかり食べているとだめ、習ったように思うのです。その教えは、どこにいったのでしょうか。

*病院食=健康食は、その教育からすると、惨憺たるものです。もちろん、その教育が、間違っていたことは、それとなくわかっています。アメリカの陰謀だったのかも知れません。

*でも、教育は恐ろしいのです。野菜ばかりだと、力がでないと、本気に思っています。ああ、豚カツが食べたい、ご近所のトン一(春日部大衾)の、美味しい豚カツが食べたい。また、皆に呼びかけて、トン一でミーティングをしようかなあ。


豆餅が大好きですが、関東では、なかなか手に入らないのです(2008.1.7)

2009-01-07 11:55:36 | Weblog

*1パック500円×2でした。

 先日(5日)、世間では仕事初めの日、私の病院初めに、1時間かけて松戸に行きました。駅前の<駅構内での物品の販売は禁止です>的な場所で、女子高校生(制服だったような?)のような二人が、小さく店を出して<豆餅>を売っていました。年末に、農家のオバサンが野菜を売っていたところです。
 豆餅・2パック(500円×2)を買いました。迷わず買いました。

 豆餅、ここでいう豆餅は、<なまこ餅を切った形の豆餅>です。子どもの頃から大好きなのです。
 50年前の、岡山県下の山間部では、お正月の餅が2月いっぱい位まで残っていました。カビません。後半は豆餅ばかりだったのです。
 ちょっと記憶があやしいのですが、給食は、中学校ではなし、小学校も、週に何回か、だったように思います。お弁当に<餅のつけ焼き>だけを持ってくる人も何人もいました。
 私は、昼食にウチに食べに帰っていたことがあります。お昼ごはんを食べて、ズボンの左と右のポケットに、一本ずつ焼いた豆餅を入れて、学校に戻っていました。ポケットの餅の暖かさを感じながら、かじりながら学校に戻っていたのです。小学生時代の記憶です。

 当地、春日部市(旧庄和町)に住むようになって、その豆餅が手に入らないのです。むろん自分の家で餅をつきません。普通のお餅は、<丸餅>にはこだわらず、角餅でいいのですが、豆餅が食べたいのです。 7,8年住んでいた大阪にも豆餅がないように思いました。岡山・広島あたりだけのことなのでしょうか。

 さいたま生協の<注文配達>の中に、ごくたまにあったりはします。ネットで調べると通信販売もあるようです。広島県に住む弟夫婦が送ってくれることもあります。

*ああ、このお皿、知人のmさん夫妻が、男の子(がくちゃん)の出産祝いに、描いて作ったお皿です。もう20歳を越えたでしょうか。

 この日の豆餅は、美味しいのですが、<薄く切りすぎ>です。もうちょっと厚くどっしりしたのが、私らの豆餅です。ひょっとすると<オカキ>用かもしれません。
大事に食べたいのですが、すぐなくなりそうです。

     【おまけ】

* 日本が<狭くなって>、その土地、その土地の風習・伝統・習慣は、薄められて消えそうでしょうか。今のウチの習慣?も、埼玉県の習慣ではありません。たまたま家人も岡山県山育ちですから、子どものころの習慣をなぞっているでしょう。

* ただし、<七五三>なんて、地域全体にあったとは思いません。貧しい時代だったからでしょうか。関東の風習だからでしょうか。娘が、<ウチは、七五三をやってもらえなかった>ということがあります。

*今、入手することは不可能でしょう。

* 自分の子ども時代の、土地の風習を思い出し、復習?することがあります。そんなときに使うのが、小冊子<備中井原地方年中行事>です。昭和14年に、東京で発行された「汎岡山」という雑誌に連載されたものを、昭和56年(1961年)に冊子化したものです。岡山市に住む、古本屋好きの兄が送ってくれたのです。
 ひょっとすると、今、岡山県・備中井原地方に住む人より、忠実に風習・伝統を受け継いでいるかもしれません。

* お餅の話をもう少し。関東では、12月29日に餅をついたらいけないそうです。<九(く)餅=苦餅>です。私ら子どもの頃には、28日についたらいけないとされていました。<八百屋おしち(お七)が処刑された日>だから、火事になる、と。

* お正月には<あんころ餅=お餅の中にあんこの入った餅>は、作ったらいけない。外にあんこをまぶした<ぼた餅>はOKです。ぼた餅のことを<おていれ>と言っていました。


賀状を書かないのに賀状を待っていました。ちょっと良かった年賀状の話(2009.1.5)

2009-01-05 21:40:17 | Weblog

*春よ来い、福よ来い、の年賀状

 お正月は、やっぱり特別の日です。とくに何があるというわけではなくても、空気も、気持ちも澄んでいます。どなたも微笑んでいます。いいお正月を迎えたい、の気持ちで、みんな、頑張ってきたのです。

 お正月の楽しみに、年賀状の束があります。メールの時代、私に<あけ・おめ>メールはありません。電話の時代といっても、年賀状は楽しみです。

 私は、今年(旧年の暮れ)、一通の年賀状も書きませんでした。例年、30、31日あたりに投函するのですが、今年はそれもできませんでした。決して、不要だなんて思っているわけではありません。
 私ら世代には、<生きている証(あかし)>なのかもしれません。<一度、お会いしたいですね>と10年ぐらい繰り返している賀状が何枚もあります。

 それでも、年賀状は楽しみなのです。ほんの少しですが、心ときめかす、というか、ほのぼのする、いうか、嬉しくなる年賀状が紛れ込んでいるのです。

 今日は、超プライベートな話です。嬉しくなった賀状3通を話題にします。いずれも、娘のような世代からの賀状です。なんの話題性もない普通の話なのですが、私には、とても嬉しいのです。嬉しく感じるわけは、あまりにプライベートな話で書くことはできません。

 (1)・・・昨年9月5日に新しい命が誕生しました。・・・福朗(ふくあき)3ヶ月。
     *福ちゃんか。いいね、<福>の字がいいなあ。
 (2)・・・昨年10月16日に、長男・良勝、長女・有希南を授かりました・・・男女の双子を出産しました。びっくりする位、大変ですが、かわいいです。
     *男の子と女の子の双子ちゃんと聞いて、<でかした>という気持ちでニッコリです。<びっくりする位>大変だろうな、でも、ちょっとの間だけでしょう。

 家庭を持って、子どもを持つ、普通のことなのですが、それぞれに<人生の大きなできごと>です。今の時代は、特に、そうかも知れませんね。 3つ目は、正確には、家人の知人さんからの賀状です。

*無断掲載です。

(3)・・・・農家となって初めてのお正月を迎えています。・・・今は、“ほうれん草”を出荷しています。ウチの<EM>ほうれん草も美味しいですよ。初釜の日に発送したいと思います。
    *昨(2007)年4月に、家庭を持って大分県で農業を始めているのです。“ひのわ”という1歳の犬くんの写真も年賀状に載っていました。“ウチのほうれん草も美味しいですよ”、と書いているのが嬉しいのです。これからは、農業の時代です。生きることのベースは食べることです。選んだ道です。ハッピーでいてほしいと思うのです。


越谷オール・スウィングさんの新春ライブに、誰かさんへの応援曲も(2009.1.4)

2009-01-04 11:06:44 | Weblog

*オール・スウィングさんの新春ライブ。

 オール・スウィング・ジャズ・オーケストラ(越谷市)は、正月3日一番から始動しました。3日2時、サティ・千間台店で、新春ライブです。
 東武・せんげん台駅下車したことは、ほとんどありません。西にちょっとばかり歩いて、大マンション群近く、北側には、武里<大>団地群が広がります。
 サティは、福袋・初売りのお客さんで賑わっています。

*リズム隊のブルースにのって。

 3階のライブ会場、午後2時。リズム隊のブルースに乗って、プレーヤーが1人ずつ登場です。現役高校生の男の子、女の子や若い友人たちが参加しています。トローンボーンが6本並びます。お正月お祝い参加でしょう。オール・スウィングさんの、楽しさとふところの深さを感じます.。

 4ビート・ジャズがテンポよく進んでいきます。いつものトランペット、サックス、ピアノさんのソロに、拍手がわきあがります。

*<ポーニョ・ポーニョ・・・・・>

 真ん中あたりに<ポーニョ・ポーニョ・ポーニョ、さかなの子・・・・>と歌いだします。ひょっとすると、お客さんは、自分の孫たちをイメージされたかもしれません。お正月<お年玉ムード>になっていきました。

 絶妙の司会進行は、コンサート・マスターの鈴木さん。<今年は、ますます地域密着の演奏活動をしていきます>と挨拶し、大きな拍手を浴びていました。
<用意されていた>アンコール曲は、Tea-for-Two(ふたりでお茶を)でした。

    【おまけ】

 *ママはぜったい買ってくれない、でっかいお菓子袋をゲット!

*私が、<スウィング・ベアーズ20年コンサート>の直前に、<病院に拉致>されていた時に、バンマスさんとコンマスさんが、病院に訪ねてくれたのです。

*そのお礼に、暮れにオール・スウィングさんを練習場に訪ねた時、この秋にいつも<ポニョポニョ>と歌っていた<越谷に住む・ウチの孫>を連れていったのです。一度、ビッグバンドをバックに歌わせたいなと思っていたこともあってです。オール・スウィングさんは、ささっと、歌いやすいようにアレンジしてくれました。

*そうして、ジャズのライブの中で歌うことにしてくれたのです。おそらくは、ワタクシへの激励プログラムだったでしょう。ワタクシ、にっこり気持ち、涙ボロボロ気分でした。

*その日、孫たちは、今まで見たこともないほどの、大きな<お菓子の袋>を抱えてわたしのウチに<オトマリ>でした。

*オール・スウィング・ジャズ・オーケストラの皆さん、ありがとうございました。 次は、3月の<越谷梅まつり>ライブですね。4月中旬の<ジャズ・ディ・かすかべ>には、ご一緒しましょう。


快晴のお正月は関東だけ。冬型の気圧配置で日本全体は(2009.1.1)

2009-01-01 23:16:15 | Weblog

*元旦未明に印刷していたウチ息子の賀状。

 新年おめでとう、と言っても、太陽暦の国の話。陰暦(ルナ)の国、イスラムの国、あるいはネパールにとっても、今日が、新しい年の第1日目ではありません。それぞれの国の伝統・生活・文化です。
日本は太陽暦を採用しているから、あけまして・おめでとう、なのです。

 お正月だから、新聞がどさっと、配達されます。日経は7部構成で、114ページ。朝日は4部構成で、92ページ。

 <民主主義は、自由・平等・友愛。自由だけ偏重だからこうなった>とブログを書き出そうとしていたのですが、元旦付けの新聞の論調をしっかり読んでからにします。毎年のことだが、部厚い新聞だが、読むのは第1部だけです。

 普通は、お昼過ぎに、年賀状の束が届くのですが、今年は、8時ごろには配達されてしまった。お正月の楽しみです。もっとも、私、今年<一通も書いていない>のです。

 それから、恒例の<大衾の香取神社>、少し歩いて<西金野井の香取神社>。おみくじは、ざらざらと振って、30本ほどの中から、<三番>の竹片が出てきて<大吉>です。むしろ心配ですが、いいことだとします。 
 初詣から戻って、お昼です。息子ふたりを起して<お雑煮>です。毎年のことです。

*30年ほど、この写真を撮り続けています。岡山育ちです。ゆがいた丸餅です。焼き雑煮は、嫌ですね。

 空は快晴、日本晴れです。こういう日は、冬型の気圧配置なのです。

   【おまけ】

*<鹿児島のポンカンです>と。

* もう暗くなってから、娘一家が訪ねてくるのを待っていたら、ピンポーンです。ご近所のTomokoさんでした。<鹿児島のポンカンです>と。そしてお父さんが、<暮れに体調をくずして入院しています>と。私が入っていた所に、です。

* もうひとり、私の親しい友人さん。12月27日に大きな手術に耐え抜きました。もうすぐ私が入る所で、です。