12月31日の新聞にオノ・ヨーコさんyesとペリー元米国防長官からメッセージ(2010.12.31)

2010-12-31 19:39:16 | Weblog

*朝日新聞2010年12月31日付13面

 いよいよ大晦日、新聞も元旦号にそなえて薄い。年末の“この一年を振り返る記事”も気持ちに響くものがなかった。
 今朝一番、コーヒーを飲みながら朝日新聞をめくっていて、危うく見過ごしそうになりました。
 オノ・ヨーコさんの年末のメッセージです。今年はジョン・レノンを亡くして30年です。

  ことばのちから
  あなたのことばは
  水に落とした小石が
  世界中の海にひびくように
  永遠に
  かけめぐるのです。
  その力を信じましょう。
  山をも、海をも動かす
  大きな力。

  Yes.
  オノ・ヨーコ 12月31日2010

 やはり オノ・ヨーコさんには、yes・・・ですね。やはり言葉を発しなければいかんですね。この頃、しゃべることが少なくなった。
 やはり新聞ですね。
 
もうひとつ。

*日本経済新聞2010年12月31日付28面

 日本経済新聞の最終面“文化面”のウィリアム・J・ペリーさんの“私の履歴書”を1か月ずっと読んできました。
 1994年に米国国防長官に就任した際、“核全廃に近づく努力をする”と決め、その気持ちを持ち続けてきた半生を、毎朝一番に読んできました。
 今日が最終回です。その最後の最後です。

  <初めて広島を訪れた時、私の心に浮かんだ、1つの疑問についても最後に触れておきたい。核兵器の使用を巡って、日本にはまだ深い悲しみや憤りがあることは理解している。ただ、広島で原爆に関する展示物、説明を目にした時、その悲惨さを訴える文言や写真は数多かった半面、そのような悲劇がなぜ起こったのかについての記述が一切なかったことに違和感を覚えた。>

 <どうして、原爆投下という悲運に日本は見舞われなければならなかったのか。その「原因」について自問、自省する文言を広島で目にすることはできなかった。いろいろな事情があるとは思うが、そのことを私は残念に思っている>

 “う~~~ん”。
 こういう指摘を外国人からうけることが、日本に住む国民として、ひどく恥ずかしい。

 私は、昭和20年6月28日深夜の米軍機による岡山市空襲で焼かれ、広島県との境の山中に育ちました。
 小学校6年の卒業旅行(たぶん昭和30年)は、広島・宮島の一泊二日でした。まだまだ平和公園というものもなかったかも知れません。原爆ドームのあたりも、そのまま惨状をさらけ出している状態だったでしょう。

 その後、2度ほど広島に行きましたが、平和公園、原爆資料館に行ったことはありません。行くのが恐ろしかった・・・・ほんとうです。
 “あやまちはくりかえしませんから”と、読みたくなかったという気持ちも、どこかにあったでしょう。

  【おまけ】

*もうすぐ夕暮れのわが町にも、平和な新年が来ます。皆さん、よいお年を。(東武野田線・南桜井駅=春日部市)


茶の湯の作法、濃茶の回し飲みはキリスト教の影響という話があちこちに(2010.12.30)

2010-12-30 21:48:03 | Weblog

*高山右近はキリシタン大名で、茶道の千利休の高弟。高槻にある右近の銅像(NHKの番組から)

 このブログは、クリスマス・イブに書いていたものです。仏教徒ですが、クリスマスだから、それらしいお話と思っていたのです。
 一度、ゴミ箱に捨てたものを、今日、拾って載せることにします。

 先日(12月7日)、春日部の丘の上教会の降誕祭茶会に招かれました。  茶会の亭主は、高橋牧師さんです。高橋牧師さんは、高山右近の研究者でもあります。たまたま、その日の数日前(12月1日)にNHKテレビ番組・歴史秘話ヒストリー“高山右近”を見ていたばかりだったこともあって、千利休の茶の高弟“高山右近”、クリスチャン“高山右近”が話題になりました。

 テレビ番組で、茶の湯の作法、濃茶の回し飲みはキリスト教の影響かも、とナレーションが入っていました。牧師は、“ようやくマスメディアもそう認識するようになったのです”、そして、“利休の茶の湯にはキリスト教の精神と連なるものがあるようです”、と話されました。

 むろん、ただ茶を飲むということを千利休が芸術にまで高めた日本の固有の文化である茶の湯が、キリスト教の影響を受けているという、学説とか茶道宗家の口伝などが、あるわけはありません。なにせ400年も前の話です。

 ところが、そのすぐ後に、12月16日の日経夕刊です。こともあろうに利休作法を伝える千家の家元さんが、武者小路千家の家元、千宗守さんが、そう思うとエッセイを書かれたのです。

*日本経済新聞2010年12月16日夕刊。

 引用します。
 <濃茶の回し飲みは、茶事で一座した4,5人が1つの茶碗を回し、同じ茶碗の同じ飲み口からお茶を飲む。戦乱が収まりきらない世にあって、千家の租の利休が提唱、茶事に一座した武将のたちの心を和ませた>
 <回し飲みの作法の効用は大いに認める。だが、作法自体がどのようにして興ったかについて、私はかねて不思議に思っていた。箸や食事の碗をみても分かるように、日本では自身のものを持ち、他人との共用を好まない。食に関する作法は極めて個人主義だ>
 <なぜ、濃茶は例外かという疑問が私にはずっとあった。そんなある日、ふとカトリックにおける「聖体拝領」の儀式の影響かもしれないと思った。・・・・・「聖体拝領」で、カトリック司祭たちがキリストの血と体の象徴として、パンを食し、ワインを1つの杯で回し飲んでいた記憶とつながったのだ>
 <利休の時代は南蛮人が渡来し、キリストの布教が盛んに行われた。利休の弟子にもキリシタン大名がいたから、この推測は全くの的外れでもないだろう>
 <裏付ける資料がひょっとすると、バチカンの法王庁に残されているかもしれない。そう考えて、私はお手紙をだした>

 ローマ法王から、「あなたの仮説を裏付ける資料はある。いずれ公開されるだろう」とのお言葉を下さった、そうです。1994年3月9日のことです。資料はまだ見つかっていない・・・。

 別の本です。裏千家の家元さんの“発言”が出ていましたから、引用します。
 有馬頼底さん(臨済宗相国寺派管長)と真野響子さん(女優)の2005年頃の対談が、“禅の心 茶の心”と題した本になっています>

*有馬・真野“茶の心 禅の心”2006年6月 朝日新聞社発行。

 41ページです。
 真野<もうひとつ、お伺いしたいのは、キリスト教のミサの方式の共通点。
 有馬<そう、聖水をいただくときの所作とお茶のそれは非常によく似ています。いまの裏千家の鵬雲斎大宗匠が「有馬さん、どうもお茶の点前はキリスト教からきているんとちゃうやろうかと私は思うねんけど」とおしゃるんです。それは確かにお茶もそうなんですが、清いものを扱うということになると、どの国でも大体似たような終着点に来るということだと思います。だから、聖水を扱う所作とお茶の所作がよく似ている、同じでいいんです。日本へキリスト教が来る以前からお茶の作法があるでしょう。室町から鎌倉へさかのぼって、道元禅師が「百条清規(ひゃくじょうしんぎょう)」を中国からお持ち帰りになってやられた、そのときの所作がいまだに続いているわけです。そのとき、まだキリスト教は来ておりませんからね。>

  【おまけ】

*右のマンガ“千利休”清原なつの著2004年11月、本の雑誌社発行。マンガですが軽くは読めません。

*丘の上教会での降誕祭茶会(12月7日)のことは、ブログに書いています。<ここクリック>

*高山右近の銅像は、国内5か所とフィリピン・マニラにあります。右近の足跡のある所です。

*バチカンには、聖者として右近が壁画に描かれているそうです。


横須賀の日本海軍伝統のカレーと米海軍伝統のハンバーガーで商店街活性(2010,12.29)

2010-12-29 23:46:36 | Weblog

*駅をおりると、そこは軍港の海です。

 NHKテレビ“坂の上の雲”に刺激されて、日露戦争の日本海海戦、連合艦隊旗艦“三笠”を見たいと思って、12月25日に横須賀に行きました。

 JR横須賀駅に降りるのは初めてです。駅前は、すぐ海、軍港です。軍艦が見えます。冬の風は強かったのですが、陽は暖かく、のどかです。平和でした。

*右手前に潜水艦。写真を撮ると逮捕されるかな、と少し思いました。

 海辺の公園にあるカフェ・レストランでランチにします。
 コーヒーを飲みながら、駅の案内所で拾ってきた観光ガイドを広げます。

 横須賀海軍カレー・ガイドマップがありました。カレー好きのワタシは、横須賀に海軍カレーがあることぐらい知っていて、最初から買って帰ろうと思っていました。でも、こうして横須賀カレー・マップを見ていると、中心市街地に20店の海軍カレーを食べさせてくれる店がひしめきあっています。レトルトカレーとしても9種(9社)が売り出しています。

*9種の中から、箱のデザインから選んで3つ買いました。

 ガイドマップを読んでみましょう。
 <明治時代、日本海軍の食事は栄養のバランスが悪く、脚気にかかる兵士が多くいました。そこでイギリス海軍の食事に目をつけ、西洋食を取り入れて改善を図った。その中にあったのがカレー味のシチュー。これを日本人の口に合うように、小麦粉を加え、トロミをつけご飯にかけて食べることにしました。カレーライスは、海軍でも人気メニューとなり、故郷に戻った兵士たちにより全国に広まり、日本の家庭に伝わった>
 <明治期の日本海軍に「海軍割烹術参考書」があります。ここには海軍で食べられていた食事のレシピがあり、カレーライスの作り方も書かれています>
 <よこすか海軍カレーはカレー粉と小麦粉を炒ってあること、具には牛肉か鶏肉、ジャガイモ、たまねぎ、ニンジンを必ずいれること>です。

*右;海軍カレー・ガイド・、マップ、左;よこすかネービー・バーガー・ガイド・マップ

 もうひとつ。横須賀は米海軍伝統のバーガー“よこすか・ネーヴィー・バーガー”のガイドマップもありました。10店が紹介されています。

 <1940年代後半、米海軍から横須賀に様々なアメリカ文化が広がっていく中、ハンバーガーは汐入駅近くにあったEMクラブでビッグバンドジャズの演奏と共に提供され、日本でこの新しい 食べ物を一般市民が初めて味あう機会となった>
 <その米海軍から提供された伝統のレシピに基づいて作られたのが「YOKOSUKA NAVY BARGAAR」です。つなぎを一切使用しない100%ビーフ。それを170g以上のビッグサイズでジューシーに焼き上げる、まさに本場アメリカンバーガーの正統です>

 そうか、そういえば横須賀の街中には、マクドナルド、マックがないなあ。

 日本海軍伝統のカレー、米海軍伝統のハンバーガー。
 それを海軍の街、横須賀が“お国自慢”とし、町おこし、商店街の活性化につなげているのです。
 最近どこでも始めている“ご当地グルメ”なんて、チャンチャラおかしい、格が違うといった感じです。伝統が違うのです。


春日部、庄和の田んぼの中のおうちの餅つきに出かけました(2010.12.27)

2010-12-27 18:33:57 | Weblog

*杵に合わせて孫も声をあげます・・・。

 年の瀬、最後の日曜の昨日(12月26日)、知人のウチで餅つきがあるというので出かけました。
 みゅーこさんから情報をもらっていたので、ふたりの孫も連れて、家族三代5人でです。

 ときどきお会いする横川さんは、この町ではEM石けんで知られた人でもあり、その田んぼは、葛飾中学校生が田植え、稲刈り体験する田んぼでもあります。
 横川さんのお宅は、初めてです。畑のあぜ道風の所を道なりに走らせると農家らしいおウチにつきました。お昼頃に到着。すでに始まっていました。
*ヨイショ・・・・と、声を合わせて孫もつきます。

 その昔、わが子ども時代には、中学生ともなると杵をふるっていました。 しかし、いかんせん50年もたてば、“力”をなくしています。それでも蛮勇を奮い起こすのですが、すぐに息がきれてしまいます。自分のウチ分の“ひとうす(一臼)”がつけたのか、ついたのか、どうだったのか。

 ここいらでは、のし餅です。ビニール袋に入れ、平らに伸ばします。
 岡山のわが田舎は、丸餅で、子どもも総出で丸めたのですが、それはなし!です。

 横川さんは、つきたてのお持ちを、放り込む“カモ汁”、“お汁粉”を用意してくれていました。大根おろしで食べる“からみ餅”、そして、たっぷりネギとお醤油で食べる“???餅”。小さい子も、そうでない人も、集まってきた人たち、私もせっせと食べ楽しみました。

   【おまけ】

*子どもたちには、おウチのまわりの“屋敷林”は格好の遊び場だったようです。ころ合いをみて、畑の野菜を抜いて持っていって、と声をかけてくれました。子どもも大人も、畑に入り、小松菜、しゅん菊、カブ、を抜きます。

*横川さんは田んぼも畑も、“自然に育てている”、いわば自然派農業さんです。野菜だけで、土を持っていかないで!と言われたのは、レッド・クローバーの根粒?で育てているからしょうか。

*小松菜も、カブもそのまま食べれるよ!です。子どもらは、水洗いしたカブをそのまま、おいしい美味しいと食べていました。こうして野菜好きになっていくのでしょう。

*集まった人たち、食の安全を大切にしている人たちのつながりのようにも感じました。

*農家、横山さんのウチのたたずまい、囲わない、飾らない自然と地続きの庭や納屋前が、すごく懐かしい風景でした。このゆったり感がお人柄を作るのでしょう。その昔の、日本のいい時代がそのままのようです。

 【追加;12月28日】

*今朝、お餅を切りました。わたしらがのばしたので、端っこがいびつです。小さい子は、いびつな端っこが好きでしょう。もち米は“ことぶき”という品種だそうです。それから、身体にいい玄米の“餅”です。


冬至の夜、灯を小さくした除夜釜に集って絵本“100万回生きたねこ”(2010.12.23)

2010-12-23 10:44:12 | Weblog

 除夜釜は、ほんとうは除夜(大晦日)に釜を掛ける茶会のことで、暗闇に近い中での茶会のようです。ここでは、茶の湯好きの家人が5年ほど続けている、ウチの暮れの行事のことです。

 昨日(12月22日)、冬至の夜、除夜釜を開きました。

 もっとも、ウチの除夜釜には、年越し蕎麦を期待される方もいるでしょう。
 例年、お近く庄和(春日部市)のそば打ち名人の小島彦一さんをお願いしています。ご自宅でうったばかりのお蕎麦を持ち込んでもらいます。ウチでゆであげ、自慢のそばつゆでいただきます。今年の蕎麦は、山形産とのことでした。

 

 少しだけ、かたくちゃんとして、少しだらけて、笑顔で過ごします。

  【おまけ】
*“100万回いきたねこ”佐野洋子作・絵;講談社、1977年10月(初刷)発行。(佐野洋子さんは、ことし11月5日亡くなりました。72歳)

*今年のテーマ(?)が、“猫”でした。ご近所の猫を追い回している家人なのですが、どうやら、絵本“100万回生きたねこ”に思うことがあったようです。

*すでに、この絵本を読んでいた人、初めてこの絵本に接する人。皆さんの中で、Oさんが読んでくれました。聞きながら人それぞれの思いがあったでしょう。この一年、来る一年を思います。

*mさんのおみやげ“庭のゆず”で、その夜は、冬至の柚子湯です。


冬の間は、いつもネパールで過ごす知人からのメール(2010.12.20)

2010-12-20 23:14:17 | Weblog

*夜明けのニルギリ(アンナプルナ山系);知人からのメールに添付されていました。

 しばらくブログを休んでいました。書くことがないのではないのですが、することもなくだらーっと過ごしていると、いささか無気力症候群なのです。
 それで、手抜きブログです。知人からのメールを、そっくりコピペします。ワタシ自身に頑張ろうという刺激のためでもあります。

 知人は、冬になると、3月、4月まで、ネパールのポカラにある日本語学校で教えているのです。今年も、11月20日頃、日本を発ちました。

   ごぶさたしていますが、いかがお過ごしですか。
  アジアの最貧国では、考えることばかりの毎日です。
  プレムさんやホテルの人が良くしてくれて助かっています。
  家族同然ですから、やや煩わしいこともありますが。
  一昨日から、お腹か風邪かわからないのですが不調です。ひどくはありません。
  薬はたくさん貰っています。寒いですがたくさん寝ていますので
  そのうちにと思っています。
  この時期は日本も寒いでしょうから、仕方ないですね。
  授業はやっとペースがつかめてきました。
  アンナプルナを見ながら今メールしています。寒いので毎日きれいです。
  AM中に山を見ながら授業準備をしている時が、最も良い時間です。
  8000M峰が3つ見えるのです。
  また連絡します。   (K) 

   【おまけ】

*ネット環境、電源環境から、メールがちゃんと送れるか、常に心配しているようです。

*何かと世話になっているプレムさんは、ポカラの本屋のオヤジです。ワタシにも来い来いというのです。どうせ行くなら、知人のいる間に、1か月ぐらい行きたいのですが、暇なわりには、1か月連続で、日本を空けることができないのです。早くいかねば、体力的にも自信がなくなります。もう歩けないだろうな、とか思います。

*それで、まあ、少しさびしいから、明日のお昼は、春日部でダルバート・カレーを食べに行こう。ネパール・ポカラの日本語学校を終えて、春日部に来ているサンガの作るカレーです。


春日部市の庄和図書館の開館を祝う会に出かけました(2010.12.16)

2010-12-16 19:13:40 | Weblog

*庄和図書館は“森の中の図書館”です。今の季節、少し寒々しく、春が待たれます。

 私の住むまちにも、やっと図書館ができました。この間11月1日に、旧庄和町役場の空きスペースを改造し図書館になりました。庄和図書館の位置づけは、春日部市立中央図書館の分館でしょうか。

 突然でした。知人から“森の中の図書館の開館を祝う会”の案内をいただいたのです。

 旧庄和町と町民は、図書館を持つことが悲願でした。庄和町役場は少しずつお金を貯めてきたのです。その町は、5年前に春日部市と合併した時に、貯めてきた2億円を使って図書館をつくることを懇願(?)、合併公約になっていたのです。ところが、その話が風前のともしびになりそうになりました。その時、町民有志が立ち上がり、署名活動を展開し、3万余の署名を集めたのです。
 私は、一行の署名をしただけです。でも強く図書館がほしいと思っていましたから、お祝いと安どの気持ちは、誰よりも持っていました。が、この会に出かけていく資格はなかったでしょう。
 でも、まあいいかと、出かけたのです。

 中心となられた元教育長、元教育委員長さんをはじめ20名弱の皆さんがお集まりでした。平日のお昼ですから、現役世代はお仕事でしょう。

*写真をネットに載せることを話していませんので、見えない写真にします。

 皆さんのお話を聞きながら、ワタシの思いよりはるかに大きい“図書館がほしい”という気持ちとそのための行動力を感じました。
 これが庄和町民が持っている市民活動パワーでしょう。
 合併公約でしたが、もし、この行動がなかったら、おそらく図書館はできなかったでしょう。
 市の関係者は、人口からいえば、図書館は庄和地区より豊春地区が先だと公然と言っていました。今でも、今だからこその市民運動、市民活動の役割があるのでしょう。

*会場は、南桜井駅前にあるイタリアン・レストラン“さくらの木”です。ここは、いつもコーヒーがたっぷり飲めるのがいい。

 お祝いの会は、笑顔で、なごやかに終わりました。合併以来、お会いすることなかった教育長さんもお元気でした。ご挨拶できました。

   【おまけ】

*こういう“図書館への思い”、を読むと感動します。

*お祝いの会に出席した私でさえ、念願の庄和図書館に出かけたのは、開館45日で、たった一回です。しかも他の用事で、旧役場庁舎内の会議室に行ったとき知人を案内しただけです。その間、春日部市立図書館には、たぶん3度は出かけているでしょう。

*図書館は、ゆったりで、窓の外の木々の景色がいかに美しくても、だめです。肝心の所蔵図書に魅力がなければだめです。本がまことに少ない、新刊がない。残念ながら、私には、“森の中の図書館”は、行ってみようとは思わないのです。

*お祝いの会のおしまいは、締めの言葉です。これから、図書館をどんどん活用して大きく育てて行きましょう、で大団円になりました。私も異議なし、そう思います。 もう、、ひとふんばりするかなあ。


坂の上の雲に、茶の花や利休の像を床の上(正岡子規の句)が出てきた(2010.12.13)

2010-12-13 21:59:22 | Weblog

*茶の花や利休の像を床の上(写真と本文は関係ありません)。

 昨日(12月12日)に正岡子規が死んだ。子規35歳。NHKの“坂の上の雲”を見ています。
 面白いという以上に、昨年の暮れから、じ~っと見ています。
 子規の妹、律(菅野美穂さん)が不憫でした。

 11月中旬だったでしょうか。昨年の再放送の時です。松山に“律(りつ)”を訪ねてきた秋山真之に、“律”が東京の子規から送ってきた短冊をみせるシーンがありました。

 律は、“茶の花や利休の像を床の上”と読みました。番組が終わったとき、その句が気になって、手元の紙に、忘れないように書き留めたのです。

 ドラマの中で、子規の短い生涯に、この句がどんな位置をしめるのかはよくわかりません。

 普通は聞き流すセリフのひとつにすぎないのでしょう。
 ただ、子規のたくさんの句から、この句が選ばれたのは、なぜだろうか。
 この句が気になるのは、このところ、ワタシが茶会に出たり、ちょっとだけですが“茶の湯”を覗いたからでしょう。

 わが国伝統の短歌や俳句の世界に革新をなした正岡子規が、最も伝統的な日本の芸術“茶の湯”にどのように接していたのか、興味あるところです。
 もっとも、この句は20歳の時の句です。俳句を始めたばかりでしょう。

 もちろん、このことを研究している文芸評論家、文学者や大学の先生がいらっしゃるでしょう。研究成果のいくつかは、ネット上でも読むことができるかもしれません。

    【おまけ】

*これが、その句を書いたメモです。

*テレビ番組“坂の上の雲”が終わって、思い出して、子規の“茶の花や・・・・”の句をメモしたのです。“茶の花や、利休の像<が>床の上”と書いていました。正しくは、“利休の像<を>床の上”です。たったの一回、読み上げただけ、しかも30分ほどたった時の記憶です。

*この頃、物忘れが多く、さすがに老化、認知入りもあと少しの状況だと認識することが多いのですが、まだまだ大丈夫かな、でしょう。


アンドリュー・ワイエス展(埼玉県立近代美術館)が終わってしまった(2010.10.12)

2010-12-12 21:41:20 | Weblog

*今回展示されたらしい、“クリスチーナ”の素描(埼玉現代美術館のWEBから)

 北浦和の、埼玉県立近代美術館で、アンドリュー・ワイエス展をやっていました。
 気がついたのは、10日ほど前、行こう行こうと思いながら、最終日が今日、12月12日、午前中に行こうと思い、昼から行こうと思い、知人が顔をだしたりして、結局、行けず行かずでした。う~~~んです。

 もう、何度も行っているのですが、アンドリュー・ワイエス展があると行きたくなるのです。
 60年代後半、大阪にいるとき、京都で行われる名画の美術展には、ときどき出かけていました。ユトリロ、ボナール、レンブラント展に行ったことをを覚えています。70年から3年を札幌で暮らし、東京に来た年だったと思います。
 アンドリュー・ワイエス展に出かけました。フランス印象派とは全く違います。
そこに描かれているアメリカの風景が大好きになったわけです。アメリカの自然がリアルに描かれています。アメリカの田舎、農場です。アメリカなんでも好きで、映画は西部劇ばかり観ていた、のと同じでしょう。
 どうも、私だけではないようで、日経が初めて日本に持ってきたアンドリュー・ワイエスは、大評判になりました。

 書庫からワイエス展のカタログが4冊出てきました。ワイエス展では、必ず買ってきましたから、ワイエス展は4回行ったのでしょう。でも、このごろ、行っていないワイエス展もあるかもしれません。

 ① 1974年、アンドリュー・ワイエス展;1974年4月6日―5月19日、会場:東京国立近代美術館、主催:日本経済新聞社他。(東京、京都で開催)
*1974年展のカタログ

 ② 1978年、アンドリュー・ワイエス展;1978年10月24日―11月5日、会場:三越本店、主催:日本経済新聞社他(東京、札幌、神戸で開催)
*1978年展のカタログ

 ③ 1988年、3代のワイエスが描くアメリカの原像・ワイエス展;1988年3月10日―4月21日、会場:世田谷美術館、主催:朝日新聞社他(AT&Tが提供する国際巡回展)
*1988年展のカタログ

 *N.C.,アンドリュー、ジェイムスの親と子も含んだ作品展で、正直がっかりだったことをよく覚えています。

 ④ 1990年、ワイエス展―ヘルガ、;1990年1月2日―2月25日、会場:セゾン美術館、主催:読売新聞社他(東京、兵庫、福島、福岡、石川、長野、北海道、埼玉で騎西);埼玉展は、1990年10月27日―12月16日、会場:埼玉県立近代美術館。
*1990年展のカタログ

 *愛人?ヘルガの38歳から53歳の姿を、妻に知られないように密かに描いていて、それが発見され公開されたのです。風景画でない人物画、スケッチも含めて、たくさんヘルガの絵でした。

 と、まあカタログをみていると、今回のワイエス展に行かなかったことも、どうってことはないのかもしれません。

 ただ、今回のワイエスは、この展覧会のために、アメリカから持ってきたのではなく、埼玉県の個人のコレクター所有の作品が並んだのです。朝霞市の丸沼芸術の森が所有しているのですが、常設展示されているわけではありません。たぶん、私と同じように、日経の1974年のワイエス展に触発され、買っていった人でしょうか。私も、一枚でも買えばよかった・・・、ありえませんね。

  【おまけ】

*ヘルガ展のカタログに、チケットの半券が5枚はさまっていました。大人2枚と、その他3枚です。1990年は、20年前ですから、子どもら3人は、小学生、中学生です。リアルな裸婦の絵がいっぱい並んでいたのですが。

*アンドリュー・ワイエスは、昨、2009年に亡くなりました。訃報の新聞記事をこのブログに書いたように思うのです。 


核戦争への緊迫13日間のキューバ危機、今、連載中の日経“私の履歴書”を読む(2010.12.10)

2010-12-10 17:43:32 | Weblog

"*左;ボブ・ディランは、このとき、“第3次世界大戦を語るブルース”を作り歌った。このLP(CD)にあります。右;朝日新聞縮刷版から。

 ワタシは、新聞を後の面からめくります。日本経済新聞の読者は、特にそうだと聞いたことがあります。日経の最終面はテレビ番組表ではありません。文化面です。“私の履歴書”があります。
 ワタシは、“私の履歴書”必ず読むということではありません。が、たまたま、読んで、古新聞にさかのぼって読むことも多いのです。功成りとげたというか、堂々たる人生を送られた人たちの回顧録は、作り話である小説、文学よりはるかに面白い、・・・ことがあります。

 今(2010年12月)に連載中の、William J.Perry(ウィリアム・J・ペリー)さんの“私の履歴書”もそうです。

*日本経済新聞2010年12月8,9日付。

 このブログで、10日ほど前(11月24日)に、ボブ・ディランの第3次世界大戦を語るブルースとキューバ危機のことを書きました。<ここクリック>
 そのキューバ危機の超?当事者が、今、キューバ危機の話を書いておられることに、昨日気がついたのです。その偶然に少し驚きます。

 1960年代初め、米国とソ連の対立は、激しいミサイル競争の中にありました。

 ・・・少し引用します。
 <1962年10月14日、米空軍のU2偵察機がキューバ国内に不穏な物体が設置されていることを発見した。米本土を射程内に収めるソ連製の弾道ミサイルである。その後、U2が別の場所で撮った写真には、3基の中距離弾道ミサイル(IRBM)がその切っ先を米本土に定めている姿がはっきり写っていた。これが、世界を揺るがした13日間、いわゆるキューバ危機の始まりだった。>

 <10月18日、ケネディ米大統領はソ連外相のアンドレイ・グロムイコをホワイトハウスに呼び、ソ連にキューバ国内での核弾道ミサイル撤去を迫った。>

 <その4日後の22日には全米に向けてテレビ演説をし、米国民に危機の全容を公表した。>

 <米側の要求に対して、ソ連のフルシチョフ首相は当初、全面対決の姿勢を崩さなかった。ミサイル搬入を阻止するための海上封鎖に対して、彼はこれを無視するかのようにミサイルを搭載した艦船をキューバに向かわせている。>
 <キューバのカストロ政権も臨戦態勢に入ったことを知った米側はキューバから攻撃があった場合、それをソ連によるものとみなして報復すると発表。>

 <この時、米ソ両国は文字通り、全面核戦争の瀬戸際に立っていた。>

 <10月25日、急きょ開催した国連の安全保障理事会の席上、スティーブンソン国連大使はキューバのミサイル基地を撮影した証拠写真を公開した>
 <翌日(26日)、ソ連から妥協案が示される。米側がキューバへの軍事行動を自制するなら、核ミサイルを撤去させるというのである。翌27日には、米国がトルコに配備していた弾道ミサイルの撤退も条件に加えてきた。>

 <米東部時間、10月28日午前9時、フルシチョフ首相はモスクワ放送を通じて、キューバからミサイルを撤去すると発表した。>

*その時のニューヨークタイムス(1962年10月23日付1面)

 <世界が固唾をのんだ緊迫の「13日間」はこうして幕を閉じた。>

 “私の履歴書”だけではよくわかりませんが、筆者のウィリアム J ペリーは、その時33歳でしょうか。防衛産業で電子戦を研究していた技術者であって、ホワイトハウス内の国家安全保障会議に関わっていたのです。

 ウィリアム・J・ペリーさんは、12月9日の原稿の最後に、次のように書いているのです。
 <この時の経験はもちろん、私の人生観に決定的な影響を与えた。そして、それが後に私を「核なき世界」の実現という壮大な目標へと導いていくのである。>

  【おまけ】

*今日は、まだ12月10日。ペリーの私の履歴書は、12月31日まで続きます。まだ、20日あります。

*最終的に、米国国務長官になるペリーのこの後、どう、「核なき世界」の実現という壮大な目標に向かったのかを読んでいきたい、と思うのです。

*日経は、後ろのページから、しばらく真っ先に“私の履歴書”を読むことになります。

*このペリーさんは、江戸時代、幕末に、浦賀沖にあらわれた米国艦隊(黒船)のペリー提督の遠縁のようです。


12月8日は、冬の平和の日。深夜、ジョン・レノンのイマジンを聞く(2010.12.9)

2010-12-09 10:39:36 | Weblog

*さいたま新都心のジョン・レノン・ミュージアムは、なくなりました。さいたま新都心は、今や、ストロベリー・フィールズです。

 昨日12月8日、朝一番、大先輩から“今日は、真珠湾攻撃の日です”とメールをもらいました。一日中、何かしらせわしく深夜になってようやく“イマジン”の日だと思ったのです。ひとり、イマジンを聞きます。

  【おまけ】

*ちょうど30年前、1981年12月8日に、ジョン・レノンは撃たれました。年が明けてすぐ、1981年1月18日に、オノ・ヨーコさんは、世界の主要な新聞に、メッセージを載せました。朝日新聞1月18日付6面に載ったメッセージです。まだ、持っているのです。

*日本では、平和の行事、平和のイベントは、夏に決まっています。長い戦争の末、日本のたくさんの都市が爆撃を受け、8月6日、9日の原爆の日をへて、やっと8月15日に戦争をやめた日になったのです。

*夏には、私の住んでいる小さい町、庄和町にも、平和を考えるイベントが脈々と続いています。春日部市と合併してからは、春日部平和フェスティバルと名をかえました。30年続いてきましたが、今年2010年に第5回になりました。会場は、今でも、同じ旧庄和町の正風館です。

*この頃、その春日部平和フェスティバルで会場整理を手伝っています。反省会の集まりで、平和コンサートの来場者のアンケートを見ました。その中に、“演奏曲に、ジョン・レノンの平和の曲、イマジン、ハッピー・クリスマス(War is over;戦争は終わった)があればよかった”とありました。

*この町にも、こう書いてくれる人がいるんだ、ちょっと驚き、そのことを反省会で皆さんに話しました。12月に、冬の平和のイベントがやれるといいな、と思っているのです。


春日部の丘の上教会の生誕祭茶会で、茶の湯とキリスト教の関わりを聞く(2010.12.7)

2010-12-07 22:32:44 | Weblog

 今日(7日)、春日部福音自由教会、丘の上記念公会堂で、牧師さんが開かれるお茶会に出かけました。
2年ほど、教会のチャリティ茶会に関わってきて、そのご縁もあって招かれたのです。

 まず小間席です。蹲踞(つくばい)を使い、躙(にじ)り口から茶席に入ります。ワタシ、こういう風にお茶会に参加するのは、はじめての経験です。

*小間席には、“心”の文字、右の下地窓は待庵風。

 高橋敏夫牧師により、炭手前のあと、濃茶がふるまわれます。

 お菓子は、小さなクリスマス世界です。香合は、鮮やかな緑のクリスマスツリー、お釜は、クロス、十字架のデザインでしょうか。
 趣向もお話も、イエスの誕生を祝う茶会らしさに包まれます。

 高橋牧師は、茶の湯世界にキリスト教がつながること、影響していることについて歴史上の文書からの考察、研究されている方です。高山右近研究では、本の執筆、出版されています。

*右:武将高山右近の信仰と茶の湯(高橋敏夫著)2007年11月発行。左;教会にあったパンフレット。

 ワタシも、先日(12月1日)、NHKの“歴史秘話ヒストリア”で高山右近の番組を見ていました。その番組の中でも、キリスト教の茶の湯作法への影響について話していました。
 高橋牧師は、“ようやくメジャーなメディアも、そのことを認め、伝えるようになった”と。

 話が、千利休の唯一の茶室・国宝待庵の造営に、高山右近が関わっているらしい、ことに及びました。利休が待庵の造営に、木材の目利きを高山右近に依頼していることは文書上あきらかなようです。

 高橋牧師は、若いころ、さいさい妙喜庵(待庵)に通ったことを話され、“この茶室(在主庵)の下地窓は、こっちが待庵風、こっちが如庵風、に作っているのですよ”と。

 広間に移って、点心をいただきます。
 お点前が山田牧師に代わって、薄茶がふるまわれました。

*右の干菓子は聖書です。

 お菓子は、聖書をかたどった干菓子もありました。床の軸は、“福音”です。お花は、ポインセチア・・・でしょうか。生誕祭、クリスマスのお茶会でした。

*広間には、“福音”の文字

 一期一会というか、にじり口から腰をかがめてくぐり、小間席に寄り合って、一碗の茶をまわす茶の湯の精神を少しだけ垣間見ることができました。
 しかし、牧師さんがキリスト者の心、教えを話されたのですが、茶の湯作法に緊張していて聞こえなかったかもしれません。

  【おまけ】

*国宝の茶室待庵は、朝鮮民家そのものであるという話を書いた“利休=茶室の謎”(瀬地山澪子;NHKプロデューサー)がとても面白かったと、このブログに書いたことがあります。去年2009年11月です。<ここクリック>

  【おまけ=12月8日の追加】

*高山右近を扱ったNHKの番組“歴史秘話ヒストリー”の再放送は、今日(12月8日)の16時05分~50分です。


荻原碌山の女の像を見て新宿中村屋のインドカリーをひとり食べる(2010.12.6)

2010-12-06 13:50:32 | Weblog

*ここでは、これです。インドカレーです。

 この間のブログの続きです。上野の東京芸術大学の美術館で、荻原碌山の彫刻“女”を見ながら、今日の昼食はカレー、“女”の心象的モデルかもしれない相馬黒光の店、新宿中村屋で、“インドカリー”を食べようと思っていたのです。

 その日は、夕刻より昔いた会社の連中と飲み会があるだけです。東京に出かけるときは、2つ3つ用事を作ってくるのですが、今日は、時間がたっぷりあります。

 

 新宿東口、ビルや看板はずいぶん変わったように思いますが、高野フルーツパーラー、紀伊国屋、それに新宿中村屋の位置関係は、1960年代のままです。迷うことはありません。 

  まあ、大げさに言うこともないのです。お昼は、カレーライス、それだけのことです。
 10年くらい前、大学生だった息子と食べに来たことがあります。“たけーっ!”と叫んだのです。ひとりでアパート暮らし、一日500円の学食暮らしだった息子です。
 1500円のカレーです。

 カウンターに“中村屋の歴史”を書いたパンフレットがあります。
 <中村屋のカリーは、「恋」と「革命」という熱い思いから、生まれました>と書き出しています。

*レジに置いてあります。

 少し書き出してみます。
 <中村屋では、カレーのことをカレーと言わずに「カリー」と呼んでいます。これは、創業者の妻・黒光がインド人の発音するとおりに「カリーライス」とメニューに書いたことによります。日本のインドカリー原点。その誕生には、一つ料理にとどまらない、国境を越えた人と人の想いが込められているのです。>
 <中村屋が初めて純インドカリーを発売したのは、昭和2年(1927)です。それまで日本で食されていたカレーは、インドからイギリスを経由した、カレー粉と小麦粉で作る英国式カレーでした。そんな中、中村屋は小麦粉を使わない純インド式カリーを発売し、新風を吹き込みました。>
 <インドカリーのレシピを中村屋に伝えたのは、ラス・ビバリ・ボーズというインドの独立運動の志士。当時イギリス領だったインドの独立を唱え日本に亡命したボーズを、相馬夫妻が匿ったことがきっかけでした>

*「インドの詩聖ダゴールを迎えたボーズ一家と相馬夫妻」と書かれています。飾られている写真です。

 <カリーの誕生の背景には、ボーズの相馬家に対する、なかでも妻・俊子(相馬夫妻の娘)に対する愛情・感謝と祖国に対する情熱があったのです>

*カレーのサンプルが並んだウィンドウに中村屋の歴史が展示されています。

 そして、<当時一般カレーが10銭から12銭程度のところ、中村屋が初めて発売した80銭の純インド式カリーは食べた人に衝撃を与え飛ぶように売れて、中村屋の不動の名物料理になりました。>と、パンフレットにありました。

 その昔、<たけーっ>と叫んだ学食カレーの息子と食べたとき、何を話したか覚えていませんが、今日は、ただひとり、ゆっくり味わい、もっと時間をかけて珈琲を飲んでいました。

  【おまけ】

*私がよくいくスーパー“ヤオコー”にも、中村屋のインドカリーが並んでいます。

*60年代、70年代の新宿で、いつも中村屋でカレーを食べていたわけではありません。ただ、店頭のカレーパン、ピロシキには、お世話になってきました。


春日部市民劇団かざぐるま、の公演“背中から四十分”を観ました(2010.12.4)

2010-12-04 18:16:37 | Weblog

*開演10分前です。舞台、ベッドの右上に、さりげなく小さな額がかかっています(12月5日昼公演)。

 一年に一回、春日部でお芝居をみます。市民劇団かざぐるまの人情劇です。ざっと30年、ほぼ毎年、観てきました。
 今年は、今日12月4日(土)昼夜2回公演と明日5日(日)昼2時開演、会場は、春日部市中央公民館(東武野田線八木崎駅からすぐ)です。

 つらいお話でしたが、“背中から四十分”は、涙がにじむこともなく、1時間40分、一幕一場を、ゆったり楽しめました。重いテーマを軽妙にまとめてありました。
 今の世、人は誰でも、男も女も、辛い、人に話せない現場に生きています。

 ・・・例えば、ある時にはずみで、知人から、知人が持っているその辛い思いを聞かされたとしましょう。何の助けもできはしませんが、話してくれたという少しの嬉しさと、実は、自分も持っている辛さを結局は話せませんが、同じなんだという安心というか、慰めを持ちます・・・。

 “背中から四十分”は、そういう気持ちにしてくれます。後味のサッパリしたお芝居です。
 北のはずれの温泉地のホテルに夜更けに男が泊まります。そして、マッサージを頼みます。マッサージは、“背中から始めて40分間”が1コースなのです。
 お芝居は、マッサージをされる男と、する女の会話だけで進んでいきます

*真中に、出演の女と男。

 男;槇田友樹さんと、女;黒須優佳理さんが好演でした。
 昨年の中心キャストだった板橋弥生さんも少し登場します。プログラムには、小堺弥生さんと書かれていました。本業は、舞台監督です。

*右端に板橋さん。

 演出は、劇団代表の板橋理人さん。 板橋さんのご挨拶に、メンバーが少なくなった、とありました。

 春日部市に、市民劇団があることが、大切で必要なことだと思うのです。
 今日、明日、3度の公演に、毎回、客席をいっぱいにするのですから。

  【おまけ】

*舞台のかべ、すなわちホテルの部屋のかべに、一枚の絵のような文字が、さりげなく掛かっています。すぐに、丸茂さんの額だなとわかりました。

*その絵のような文字には、“どんなときにも、あきらめず”と書かれています。“どんなときにも、あきらめず”です。帰りの電車で、なんどもつぶやいていました。


荻原碌山の彫刻裸像“女”を触ってもいいですよ、といわれても・・・(2010.12.3)

2010-12-03 23:39:38 | Weblog

*さわってもいいと言われても、どこを、どうさわればいいのか。若い女性係員が、じっと、こちらを見ています。言葉に困って、写真を撮ってももいいのですね?と話しました。最新コンピュータ画像処理技術を使って作った複製です。

 10月ごろにNHKが日曜美術館の番組で扱っていましたが、今年が、碌山没後100年の年だったのだと知りました。

 安曇野の碌山美術館に、最初にでかけたのは、30年か40年前、松本の新聞社に1か月ほどいた頃でセンチメンタルに見ていました。2度目は、夏には、必ず北アルプスに家族で出かけていて、 常念岳・蝶が岳の帰り。子どもらは中学生でしたから、15年ほど前でしょう。

*荻原碌山の“女”

 碌山で、もっとも印象的な作品は、“女”の裸像です。 その“女”の裸像に焦点をあてた展示会が、東京芸大の美術館で開かれているです。

 行こう行こうと思いながら、終わり(12月5日)が近づきます。夜に飲み会のある昨日(2日)に行ってきました。 この“女”からの印象は強烈です。が、なかなか文章では、この“おちゃらけをモットーとする”ブログでは、書き表されません。

 展示会の解説ボードには、“目を閉じて眉をよせた苦しげな女の表情”、“内なる生命力あふれる作品”と、ありきたりの言葉が書いてあります。

 荻原碌山は、パリでロダンの下で学び、明治41(1908)年に帰国します。そして、わずか2年の後、明治43(1910)年に亡くなるのです。30歳でした。
 “女”は絶作です。重要文化財です。明治43(1909)年に、岡田みどりというモデルで制作を始めるのですが、最終的には、相馬黒光をイメージしたものと言われています。
 この作品は、碌山の相馬黒光への思いが凝縮されているようです。

 相馬黒光は、若い芸術家たちが集まってきて、中村屋サロンと呼ばれることになる、パン屋、新宿中村屋の主人の妻です。
 この像が、碌山と黒光の間を凝縮しているとすれば、見るものの印象はそれぞれでしょう。

 この展覧会には、“女”6体ほどが展示されています。
 私は、彫刻の作品制作過程をよく知らないのですが、展示会には、石膏原型と複数のブロンズが展示されていました。

①真ん中に置かれていたものは、碌山が粘土で制作し、碌山自身が石膏どりしたものです。1910年制作の石膏の本物です。東京国立博物館蔵 重要文化財。
②碌山急逝後、同1910年、同郷の山本安曇(1885-1945)によってブロンズに鋳造されたもの。東京近代美術館蔵。
③ 戦後になって、何体ものブロンズ像が鋳造されたようです。44年後、1954年に伊藤忠雄により鋳造。資金提供者であった相馬黒光により、碌山研究委員会に寄贈され、のちに碌山美術館が所蔵。
④1971年、17年後に伊藤忠雄が再びブロンズ像を鋳造。東京芸大蔵。

 彫刻は、粘土で作って、石膏どりをして、ブロンズで作成されます。まあ、いくつでもブロンズは作れるようです。
 本物の作品(原作)と複製の関係は、どう考えていいのかよくわかりません。 そして、現代の新技術、コンピュータの三次元画像処理技術は、全く新しい複製の作成を可能にしました。

 その複製が、一階のロビーにあった合成樹脂製の“女”です。入場料のいる部屋の展示と違い、無料のエントランスにありました。本物そっくりです。“ご自由に触れて下さい”とあるのです。

  【おまけ】

*芸大美術館のショップも楽しい、“女”がプリントされているクッキー(右)がありました。買わねばならないでしょう。800円です。(左)の、相馬黒光のことを書いた本を、15年ほど前に読んでいました。