10月も最後だというのに、季節外れの台風の襲来の日でした。前夜から冷たい雨が降り続いています。今日(30日)は、知人のお茶会に参加することに決めていた日です。
ウチの家人は、大の茶の湯好きです。仲間内では、センセイと言われることもある人です。いつ頃だったでしょうか、春日部市に、これまた大の、おそらく春日部一の茶の湯好きの方、男性、がいらっしゃることを知ります。ワタシも、家人も、時をほぼ同じくして、別の場面から知ったのです。
その方の茶会の話を知り、私が家人を誘いました。3か月ほど前のことだったでしょう。
私は、家人の茶会のために、荷物の運搬係や写真係、まさに数限りなく手伝ってきました。茶の湯のことなんて“門前の小僧、習わぬ経を読み”状態です。
茶の湯の世界、そのスピリットは大好きでもありました。
前日の夕刻です。
“・・・男性だから、正客(しょうきゃく)に座るかも知れないな”と家人が言うのです。正客はお客様総代です。ただひとり、直接、茶会亭主からふるまっていただく役割です。
“・・・・・アンタ、濃茶(コイチャ)を飲んだことないでしょう”とも。そのとおりです。
朝、会場である越谷市の能楽堂は30分の所です。クルマを走らせながら、思います。
“お茶会の雰囲気は、正客次第で決まる・・・・”、“亭主と正客の問答を楽しまれる方さえいる・・・”。
どんなスピーチ場面でも、アドリブでとおしてきた私です。何百人の前でも平気でやってきました。予稿なんか作りません。
11時に始まりました。袴姿のご亭主が、私を正客の座に導かれます。お着物姿のベテランご婦人方が並びます。
まず濃茶。濃茶は、ご亭主が“茶をねる”のです。ほんとに近すぎるところで、亭主の所作を見ていました。お菓子が出ます。栗を透きとおる葛でくるんだ特別に美味しいお菓子でした。
そして茶碗が、私の膝前に置かれます。濃茶は、ひとつの碗のお茶を何人かで飲むのです。“同じ釜のメシを食った仲”と同じような意味でしょうか。席を同じくする人どうしの仲間の和です。自分の分だけ飲んで、茶碗の口もとをきれいに清めて、お隣のお方におくるのです。
薄茶は、ひとりでいただけばいいのです。好きなようにで、いいでしょう。ところが、濃茶は、そうはいかない、のです。
さいわい隣に、家人が座ってくれています。
長い正座も平気なはずでした。ウチで家人の茶をつきあうこともあって問題なしでした。ところがです。ご亭主が床の軸のお話をされたとき、ほぼ真後ろの軸を振り返って、向き戻った時から、しびれを感じます。それを直そうともがきます。だんだん不自然になっていきます。
茶の湯、正客体験はさんざんな体験になったのです。
茶の湯や禅の世界、自然観を凝縮した世界、小宇宙に魅かれることがあるのですが、“寝転がって本を読むこと”では、理解できないのだ、と実感しました。
研ぎ澄まされた形、作法、技が、どの世界にもあるのです。それが会得することが修行なんでしょう。
【おまけ】
*内輪の話です。クルマの中で、家人がニコニコしているのです。行きも帰りもそうなのです。茶の湯好きなのですが、その日は、茶席での亭主(ご亭主でなく)を見ることにも、別の楽しみがあったのかもしれません。
*茶会のご亭主(亭主でなく)は、“三楽茶会”と掲げられています。楽(らく)に行こうといわれていると解釈して、お許しを願いましょう。