*一昨日(4月28日)は、春日部では「藤まつり」、東京では、日本が「主権を回復」して61年目記念の祝典、いや式典が開かれました。3月の政府発表の時から、異論があったようで、注目していました。
その日、出かける予定だったので、NHKの式典実況中継を、録画しておこうと思っていたのですが、<NHKの実況中継>はなさそうでした。
その夜、テレビニュースを見ることもできず、翌朝の新聞です。
こういう、新聞の論調が異なると思うときには、<コンビニで、各紙を買いに走ります>
ウチは、朝日と日経を購読していますから、コンビニで、読売、東京、埼玉の三紙を買いました。いつものように、毎日新聞は、近所のコンビニにおいていません。
大きく報道するだろうと思っていた読売新聞の小ささが目をひきます。東京新聞の<屈辱の日>が目立ちます。日経は、一面ではふれず、2面にタタミ記事です。埼玉新聞は、一面左肩(埼玉県は、副知事が代理出席でなく知事出席)です。
<1952年4月28日、日本はサンフランシスコ講和条約の発効によって、米英などの連合国の占領から脱した。だが、沖縄、奄美、小笠原は、米国の施政下のままで、沖縄では「屈辱の日」、奄美では「痛恨の日」とも言われる(朝日、2013.4.29、一面>。
奄美は、1952年12月、小笠原は、1968年6月に返還。沖縄は、さらに占領状態が、1972年5月まで20年続くのです。
オキュペイド・ジャパン から、オキュペイド・オキナワ です。
数日前(4月26日)の朝日新聞に、<「屈辱の日」はいつから、言われるようになったのか>、記者が探したという記事がありました。<条約発効の9年後。地元紙・沖縄タイムスが最初に「屈辱の日」と報じたのは、1961年4月29日だった>。61年4月28日、復帰協主催の県民総決起大会で、4月28日を「県民にとって屈辱の日」と宣言した時からのようです。
こういう記事を読むと、当時の新聞は、どう報じたのだろうか、と思ってしまうのです。
手近に、<激動の沖縄百年・新聞重要紙面 復刻版(1981年発行)>を持っているので、沖縄の新聞の一面にどう書いていたのか探せます。同じように、<重要紙面でみる朝日新聞90年 1879-1969>、<ニューヨーク タイムズ フロントページ 1896-1996>もあり、開いてみます。
これらでみる限り、沖縄の新聞も、朝日新聞も、<1952年4月28日の、サンフランシスコ講和条約の発効のこと、つまり<主権回復>のことは、<重要紙面>集には、収録していません。
半年前の、1951年9月8日付け朝日新聞には、サンフランシスコ講和条約調印が一面トップに載っています。沖縄の新聞、琉球新報の1951年9月10日付は、対日講和調印式のニュースが載っているが、一面トップは、日米安全保障条約調印のニュースです。
*本土・朝日新聞;一面トップは講和条約調印。左下脇に日米安保条約調印。
*沖縄・琉球新報;一面トップは日米安保条約調印。左下脇に講和条約調印。
日本にとって、ではなく、本土、沖縄にとっての、最重要ニュースはなんだ、ということでしょうか。
付け加えれば、米国ニューヨークタイムズの重要紙面集では、講話条約も日米安保条約の記事を見つけることはできません。
今年<本土>の新聞で、<主権回復式典>のニュース読んでみます。講和条約発効後の、変わらぬ「本土側の沖縄に対する歴史」が見えてくるように思えます。
<沖縄を返せ>という歌を知っています。今、本土で歌われることはなくなったでしょう。今、沖縄では、<沖縄を返せ、沖縄【に】返せ>と歌われていると聞きました。
【おまけ】*今インターネット、SNSの時代、フェースブックに、琉球新報の号外が載っていました。