般若心経ぐらい唱えたいと“一休禅師の般若心経”を開く(2008.1.30)

2008-01-30 17:46:12 | Weblog

今日、般若心経を唱えたい気持ちになりました。般若心経ぐらい諳(そら)んじていたいと思ったのです。ごく親しい知人のお葬式がありました。お身体が悪いと聞いていながら、お見舞いにいくこともできず、突然、その日が来てしまったのです。

お葬式は静かに、故人を偲べばいいのですが、時として、声を出したく、お経を唱和したくなる時があります。とは言っても厳粛な雰囲気を壊すことにもなりかねませんし、宗旨なんて無限にありそうですし、どんなお経をあげられるのかもわかりません。導師様のお経を、眼をつぶって聞くだけです。黙って見送るだけです。

わが家の宗旨は、真言宗そのものです。真言宗のお経は聞きなれています。親族の法事などには、小さな経典を秘かに持ち込んでお経を追うことがあります。今日のお葬式は、真言宗だったのですが豊山派。全く聞き覚えのないお経でした。

<おん さんまや さとばん、おん さんまや さとばん、おん さんまや さとばん>

法事で、般若心経を唱和してきたこともありますし、最近は、いやずっと前から、写経をする人たちのことを雑誌や新聞が大きく扱ったりするし、般若心経の解説本がたくさんあったりします。それで、般若心経ぐらいは、理解して、空で言えるようにしたいと、ずっと思っていたのです。

一冊だけ、般若心経の解説本を持っています。
この間です。昨年の秋ごろ買ったのです。<一休さんの般若心経>という文庫本です。
真言宗の宗徒(?)でありながら、禅にひかれることがあって、一休禅師(一休宗純)の生涯に関心があったこともありました。

*一休和尚による般若心経の注釈本

ずっと前に、京都の、たぶん、龍安寺の売店で、<一休和尚 般若心経図会>なる、一休和尚による般若心経の注釈本(の復刻本)を買って、ほんの少しだけ読んでいたのです。いうならば、この文庫本は、その注釈本の解説本なのです。
頭から、一応読んではいるのですが、その後も手近に置いて時おり、勝手に開いたページを気ままに読んでいることがあるのです。

  【おまけ】

*遥かかなたに旧庄和町役場

* 今日は、庄和町役場にお勤めの頃から、よくお話ししていた、木村松義さんのお葬式だったのです。天命といえば天命ですが、あんなに頑丈な人だったのにと思うだけです。

*入院中の木村さんのことを、このブログに書いたことがあります。<ここです>

* この前の土曜に、このブログで何故かいささか寂しい話を書きました。今日がお葬式ですが、お亡くなりになったのは、その土曜(1月26日)の明け方のことと聞きました。


パタゴニアのカタログの表紙に明治生まれの吉田博の版画(2008.1.28)

2008-01-28 22:29:10 | Weblog

*吉田博の版画<エル・キャピタン>右;パタゴニアのカタログの表紙を紹介する雑誌。一番右端に吉田博の版画<グランド・キャ二オン>。

この頃、お嬢さんたちのブランド志向への批判は下火になったようです。私にもけっこうブランド志向がありました。Patagonia(パタゴニア)なんて大好きなブランドでした。でも同じウィンド・ブレーカーを10年ぐらい平気で着る人だから、どうでしょう。第一パタゴニアを知ってる人もそうはいないでしょう。
パタゴニアのカタログは、むろん無料ですが、そこいらのアウトドア雑誌よりはるかに中身が濃く、よく読んでいました。

1971年創業のパタゴニアが持っている思想の発祥地は、アメリカ・シェラネバダ山系・ヨセミテです。いつだったか、好きなパタゴニアのカタログの表紙に、明治生まれの日本人の版画が使われたのを知って驚いたのです。
アメリカにさえ行くことが出来ない私にしては、明治人が、ヨセミテにまで出かけていることに、信じられない気持ちでした。そもそも吉田博という版画家の名を知ったのも、初めてだったのです。

一昨日(1月26日)、下の息子が帰ってきました。お正月に帰ってきた時に<熱海の美術館で吉田博の版画展をやっていて、1月14日まで>と話していたのです。“行ってきたよ”と、<吉田博 全木版画集(カタログ)>を買ってきてくれた。6000円!!です。ヨセミテやグランドキャ二オンの絵はがきとか複製版画があったら<高くてもいいから買ってほしい>といっていたのです。

*吉田博 全木版画集(カタログ)。版画は<レニヤ山、アメリカ>

版画展には、エル・キャピタン(ヨセミテ)やグランドキャ二オンは展示されていなかったようです。なぜなんだろう。しかし息子は、グラフィック・デザインの目で、“吉田博の版画は良かった圧倒された”と話していました。それは、ほんとに良かった。

昨夜から、その分厚い版画集を見ていました。日本アルプス好きの山歩き画家、国内・国外の旅好きの画家、吉田博の生涯がおよそわかりました。
吉田博は、明治9(1876)年、久留米藩士の次男に生まれ、明治24(189)1年、15歳で中学の図画教師(吉田嘉三郎)に画才を見込まれ養子に。そして17,18歳で、京都、東京の絵の先生に入門します。
明治32(1899)年10月中旬、23歳のとき、友人中川八郎ともに、東洋汽船のアメリカ丸でアメリカに向けて横浜を出発するのです。<とにかく自分の体を日本の外へ出してしまえ、あとは皿洗いでも何でもして・・・という決死の覚悟で、一年足らずの間に、もうこれ以上は持ちきれぬというぐらい描きためた水彩画を携えて横浜を出帆した>といいます。
当時の若い洋画家には洋行熱があったようで、水彩画が欧米人に受けるという知識もあって、売れるという気持ちもあったようです。明治30年代のことです。簡単な伝記からは、彼の苦労・苦戦は伝わってきません。明治34(1901)年25歳の夏に帰国します。

さて、このヨセミテ渓谷にある大岸壁エル・キャプテンの風景から、版画<エル・キャプテン>が作られることになった旅を調べてみました。
47歳になって、大正12(1923)年12月にアメリカ西部を旅行し、4月にはアメリカからイギリスに渡り、ヨーロッパ各地を歴訪し大正14(1925)年8月に帰国した。この欧米旅行で描かれた油彩画をもとに版画制作された、ようです。
この旅で、ヨセミテにでかけています。版画<エル・キャピタン>は大正14年に発表された。元の油絵であるのかどうかは、わかりませんが、版画集(カタログ)の巻末に吉田博の油絵が載っています。その中にヨセミテ風景の油絵がありました。

*吉田博の油絵。左;ヨセミテ公園、右;穂高。

この旅では、アメリカのグランドキャにオン、ナイヤガラ瀑布、レニヤ山の作品があります。ヨーロッパ・アルプスの版画も何枚か発表しています。

*吉田博の版画アルプス<ユングフラウ山>

明治30年代に、23歳の画家、あるいは画家をめざす若者が、自分の作品を売りながら、アメリカに旅して、大きく飛躍していくことに痛快を感じるのです。
むろん、その時代、美術の中心は、フランス・パリであったようでしょうし、もっと大物はパリに留学したのでしょう。

吉田博は、日本では、毎夏のように日本アルプスなどの山に登り、全国を旅して作品を残しています。感動的な作品を残したのです。戦争時期には、従軍画家もやっています。1953年、昭和25年、73歳で逝去しています。
私の好きな世界と言ってしまえば、それまでですが、彼の版画はいいですねえ。

木版画の場合、作品が何枚ぐらい刷られ完成されたのかよく知りません。パタゴニア社の創設者で代表の、イヴォン・シュイナートが購入、所有しているそうです。カタログ(作品集)によると、グランドキャニオンには、色調の違いの3種類あるとのことで、本物を見てみたい、と思っているのです。

  【おまけ】

*明治後期のガイドブック<ベデガ>
*ベデガの中の“ヨセミテ”のページ

* 明治時代のアメリカの観光ガイドブックを古本屋で買っています。その時代の世界的に著名な、ベデガ(Baedeker’s)で、夏目漱石もロンドンに持っていったというガイドブックです。私の持っているのはアメリカ(United States)編です。元の所有者が、明治43年9月に北米出張を命じられ丸善で購入と書き込んでいます。

* ヨセミテの大自然を守ったといわれるジョン・ミュアが初めてヨセミテ渓谷に入ったのは1869年、ヨセミテがアメリカの2番目の国立公園になったのは1890年です。それから30年後の1924(大正13)年に、吉田博がヨセミテに入ったのです。
私は、ヨセミテを紹介するとき、アメリカの上高地ということがあります。だから日本アルプスに登ってきた吉田博が、アメリカの自然をみようとヨセミテに旅することに感動するのです。私がヨセミテを知ったのは1960年代です。その頃に、ヨセミテを旅する日本人なんていないと思っていたのです。

  【おまけのおまけ】

*今日のお話に関することは、前にも書いています。

・ヨセミテ・ハーフドームからジョン・ミュア・ハウス(2007.8.10)<ここです>
・パタゴニアの創始者、イヴォン・シュイナートを特集した雑誌(2007.4.18)<ここです>
・ガンバレ春日部オシュマンズ(2006.10.13)<ここです>


エッセイ<親の家を片づけながら>を読みながら、ちょっとさびしく(2008.1.26)

2008-01-26 23:06:04 | Weblog

 

この本を、北千住駅構内の本屋で買ったのは、暮れも押し迫った日です。遠縁に不幸があってから、そう日がたっていなかったでしょう。
<親の家を片付ける>、タイトルを見ただけで買いました。遠縁の不幸が、姉妹をふたりだけにしたことと無縁ではないでしょう。

<父の亡きあと、ひとり暮らしをしていた母が逝った。私は途方に暮れた。あまりにも多くの“物”が、ここにある。今まで触れることすら禁じられていた両親の大切な私信や思い出の品々が・・・・・>

ひとり娘が、逝ってしまった母の家を片付ける日々を綴っていくのです。片付けながら出てくる、母のモノ、物に、いささかうんざりしながらも、心をかよわせていくのです。そして、的確に、結局は処分していくのです。
読みながら、けっこう感傷的になるのですが、一歩外から眺めることもできました。

私はすでに、とっくに両親をなくしていますが、“片付けた”経験はありません。
読みながら、私自身の部屋を片付けられている気持ちなっているのです。そこに出てくる、他人からみるとガラクタでも、私の思いはいっぱいつまっているのです。

もうちょっと前のことです。仕事をやめた頃、つまり人生をリセットした頃です。
“父の道具箱(Dad was a carpenter)”と訳されたエッセイを買って読んでいました。息子が、逝った父親の姿をガレージに探す話です。

父がいつもいて、何かしら作っていたガレージ、そこにある道具箱の父の道具。道具箱には、父そのものが詰まっていた、父と子の喜びも、父の悲しみも、すべてが残っていた、という話です。

このときもまた、私は、残された息子でなく、逝った親父の気持ちに立っていました。私が人生の最終盤に入ったことを意識した時だったからでしょう。

さあ、私も第4コーナーらしく準備を始めなければなりません。この先なんの役にもたたない物を捨てていかねばなりません。もう思い出として残すことにもなんの意味もないでしょう。
と、思いながらも、私のガラクタをどんな思いで、片付けるのだろうと、空想してしまうのです。片付けるのは、どちらの息子だろうか、娘だろうか、はたまた・・・・と。

 【おまけ】

*“親の家を片づけながら” リディア・フレム(友重山桃訳)ヴィレッジブックス2007年10月20日発行

*“父の道具箱” ケニー・ケンプ(池央*訳)角川書店2002年3月20日発行


チェト・アトキンス・モデルのギターがほしいなあ(2008.1.25)

2008-01-25 22:19:02 | Weblog

*チェト・アトキンス・モデルのギター(Gretch、神田商会)のカタログ

昔から、買いもしないのに楽器屋さんで高いギターを見ることが好きでした。
たまたま銀座に出た時には、4丁目の山野楽器には必ず寄っていました。何階か忘れましたが、ギター売り場で、ぼおっとギターを見ることができるのです。30万円、50万円のギターやベースを見ながら、目の保養をするのです。そして、せいぜい高額ギターのカタログを拾って帰るのです。

この間、暮れに出かけた時に、チェト・アトキンスが表紙に載っているカタログがありました。
私の好きなギター弾きは、チェト・アトキンスです、とブログに書いたことがあります。<ここです>
帰り電車の中で、その日本語のカタログを広げると、チェト・アトキンスのことがいっぱい書いてあるのです。いささか嬉しくなりました。

ギブソン、マーチン、フェンダー あるいはヤマハでも、ギターのカタログには、<私も使っています>とメジャーなギター弾きが登場します。
エリック・クラプトンなんていっぱい出てくるように思います。ロック系のギター雑誌には、ミュージシャンが使っているギターのメーカー・型番の特集があったりします。
しかし、ミュージシャン印(モデル)の<自分の好みにギターの仕様変更した>ギターは、そんなにありません。

米国のギター会社グレッチ(Gretsch)は、1954年にチェト・アトキンスにアプローチしたと書いています。
チェト・アトキンスは、自分のモデルのギターに、<シングル・カッタウェイのホローボディで、ディアルモンドのピックアップ、メタルナット、サスティーンを改造したブリッジ、サインの入ったピックガード>の仕様にしたそうです。
グレッチ6120チェト・アトキンス・モデル。このオールド・モデルが2007年に再発売されたというのです。


*ピック・ガードにChect Atokinsのサイン、それだけのことですが。

いいなあ、ビブラート・アームのあるギターを一度弾いてみたいと思っていたのです。30万~40万円ぐらいのようです。
まあ、カタログを大事にして見つめるだけでしょうね。

ギターを買いたいなあ、というだけでは、これ以上このブログを膨らませることもできません。それで、15歳のチェト・アトキンスが当時第一線の花形カントリー・ギタリスト、マール・トラビスに憧れ、研究していたというので、そのマール・トラビスのことで、少し水増しします。

*左;チェト・アトキンスとマール・トラビス、右;ジョー・メイフィスとマール・トラビス のギター・デュオアルバム(レコード)

*これも、ジョー・メイフィスとマール・トラビス のギター・デュオアルバムです。こんなカントリー・ギター・スタイルが“カッコ”いいな、と思っていた時もあったのです。

*右;一度だけコンサートに行きました。そのチラシです。左;マール・トラビス・スタイルのギター教則本です。これで練習したら、もうちょっとうまくなったかもしれませんが。

   【おまけ】

*10年前ぐらいに、マーチンのフォーク・ギターに、ジョーン・バエズ・モデルがあることをカタログに見つけ、買いたいと思ったことがありました。日本のショー・ウィンドウの中にあったら、たぶん買っていたでしょうね。30万円ぐらいだったでしょうが、その頃は働いていましたから買えました、たぶん。

*さっき、マーチンのホームページをみたら、まだ載っていました。でも、もう買えませんね、働いていないから。


アメリカン・コミュニティという本を春日部市立図書館で借りているのですが(2008.1.24)

2008-01-24 15:23:42 | Weblog

*アメリカン・コミュニティ(渡辺靖著)新潮社2007年11月発行

「アメリカン・コミュニティ」のタイトルを見て、迷わず借りました。ベッドで眠くなるまで読んでいる本です。もう、すぐ眠れます。
この本が、前の日曜(1月20日)の朝日新聞の読書面のトップに書評が載ったのです。見出しは<永遠に「革命」を続ける社会に肉薄>です。ふ~~~ん、それなら、ちゃんと窓際に座って読もう。

私は、たぶん20代初めから、つまり1960年代から、ずっとアメリカを見て生きて(というほどではありませんが)きたように思います。ただのアメリカのポップ・カルチャー好きです。いい悪いはともかく、日本はアメリカの後追いだったと思うのです。アメリカの今をみれば、日本の数年後がわかるというものです。
どうも私だけじゃなくて、日本政府もそのようです。国の政策そのものが追随しているように思えます。

カウンター・カルチャーという言葉があります。表でない、主流でない動きのことでしょうか。カウンターは、対抗、抵抗勢力という時の抵抗が近いように思えます。カルチャーは文化です。若者文化そのものを意味することもあります。アメリカの、もうひとつの文化、もうひとつの世界(国)なのです。私は、そこが好きなのでしょう。

1950年代はビート。60年代はヒッピー。だんだん一口に言えなくなりますが、70年代はコミューン(コミュニティ)、80年代はエコロジスト(自然を大切に)、90年代はネットワーク(人のつながり)、2000年代はインターネット、2010年代は、わからん。

*1980年代に、かってのマチやムラの地縁的な結びつきからの脱皮を示唆した<ヨコ型情報社会への潮流>

人の思いや行動はアナログです、変わっていき、あるいは変わらずに、流れていきます。
とりわけ70年代には、コミューン(コミュニティ)に関心がありました。思いを同じくするものが、一緒に(同じ地域で)暮らして(生きて)いこうとする世界です。ずっと昔からある、アーミッシュ・コミュニティのような村です。むろん、私自身が実践する勇気は持ち合わせませんでした。
そしてしだいに、物理的な場所を同じにするのでなく、気持ちを同じくするものがグループを作ろうとする、ネットワークするようになります。そして、今は、インターネット(ハードとしてのネットワーク)を使って、ネット上(時にはバーチャル世界)で人と人がつながるのです。

その昔は、平日にはネクタイ姿で過ごし、日曜にはヒッピースタイルでギターを抱えて路上にアクセサリーを並べていました。今では、日常の行動と別のところで、ネット世界で別の顔を持つということでしょう。

今の<アメリカの若者のもうひとつの世界>は何だろう、2000年代、2010年代は、何と言えばいいのだろう。

私が春日部市立図書館の新刊棚から、この本「アメリカン・コミュニティ」を持ち帰ったのは、一点、そこに関心があったのです。
ただし、読んでも、全くそれに答えてくれません。
その昔のコミューンと同じではむろんありませんが、同じ思いを共有して同じ地域に住んでいる、そういうような場所を訪ねる旅のレポートです。研究者(文化人類学者)のフィールドワークですが、私には、旅日記としか読めません。

*紹介されているアメリカン・コミュニティ

例えば、紹介しているロサンゼルス近郊のデーテッド・シティ(カリフォルニア州コト・デ・カザ)は、セキュリティを重視し、地域全体を囲って、ゲートの出入りを厳重にした地域(町)です。そのような、やや高収入者向きの分譲住宅の話です。多少のスケールの違いはあるでしょうが、日本の大型マンションなんて、皆そうでしょう。日本が参考にするような、斬新なコミュニティの実態が紹介されているわけでもありません。

今、私の住む町でも、地域コミュニティ、ネットワークづくり、が、まちづくりの基本だと、行政(市役所)が言います。
私にとっては、この町から24時間一歩もでることなく過ごすようになって、今思うコミュニティと、30年前に憧れたアメリカにあったコミュニティは、全く変わっていないのです。30年もたっているのにです。

アメリカがそうであったように、個人行動(プライベート)が重視される日本の現代には、求められるのは、地域割の団地自治会的コミュニティではなく、いやそれに併せて、地域横断的な、気持ちをより同じくする人たちをネットワークするコミュニティです。それこそが重要になると思うのです。

  【おまけ】

* のんきなブログですから、学者さんの著作に感想なんて言えませんが、ちょっとだけ批判的感想を書きたくなります。そういう朝日新聞の書評なのです。

* <重要なのは、著者がつねにアメリカに関する主流的なディスコース(言説)に対して距離をとり、紋切り型的なディスコースやイメージと齟齬(そご)をきたす(違和を表明する)カウンター・ディスコース=対抗的言説に繊細なまなざしを向けている、ということだ>

* <アメリカを「安易な烙印(らくいん)や批判を拒むと同時に、自らに足払いをかけながら、永遠に革命を続ける手強い(てごわい)社会」として理解していくこと―――それが、本書の主眼であるといえる>

* どうでしょうか。よくわかりますねえ。普通の大衆の読む新聞に載る書評ですよ、もっとわかりやすく書いてほしいな。評者の北田暁大さんは、東京大学の准教授さん。おそらく著者の渡辺靖さん(慶応大学教授)と学会の研究会などで一緒なのでしょう。この本自体もこんな書きっぷりなのです。だから滑らかに読めません。30、40代の先生でしょうか。その昔、1960年代の若い学者もそうだったなあ、その書きっぷりが、そっくりなのです。

* ならば私も、もっとまともな書評を書きたいところですが、朝日の書評の最後の部分を引用して終わります。<コミュニティという局所から「『アメリカ』という永久革命」へと肉薄しようとするスリリング一著である>なのです。もう、図書館に返してしまおう。


公民館、図書館にも指定管理者制度の流れ、春日部市はどうするのだろう(2008.1,22)

2008-01-22 19:38:45 | Weblog

*日経2008年1月21日付夕刊16面

昨日(1月21日)は、米国ではマルチン・ルーサー・キング記念日で、ブログの話題にするつもりだったのですが、変更することにします。
今朝から、知人のメールの問いかけに、はまってしまったのです、きっかけは、横浜市が図書館の管理運用を民間事業者(指定管理者)にまかせようしていて、市民に議論が起こっているいうものでした。

 ネットのWikipediaから引用します。<ここです>
<指定管理者制度とは、それまで地方公共団体やその外郭団体に限定していた公の施設の管理を、株式会社をはじめとした民間法人・NPO法人にもさせることができるという制度。なお「公の施設」には、いわゆるハコモノの施設だけでなく、道路、水道や公園等も含まれるとされている。地方自治法の一部改正で2003年6月13日公布、同年9月2日に施行された。小泉内閣発足後のわが国において急速に進行した、「公営組織の法人化・民営化」の一環とみなすことができる。>

春日部市でも一部すでに始まっています。
2008年4月には、春日部市の全ての体育施設、都市公園の運用管理を民間事業者に業務委託します。多分“大幅に”経費が削減できるのでしょう。
広報かすかべの2007年6月号で募集していたから、よく知りませんが民間企業が応募して、すでに業者が決定しているはずです。

庄和地区では、庄和総合公園、庄和球場、庄和体育館、テニスコートが、民間事業者の管理になります。利用する市民にとって、何が、どう変わるのか、よくわかりません。
(庄和総合公園にあったジュースなどの自動販売機が、春日部市と合併して、春日部市の方針と相容れないということで、撤去されたのですが、復活するかもしれません)

さて、その次です。世の中の流れは、公民館、図書館、博物館の社会教育施設の指定管理者制度導入の流れです。社会教育施設も管理運用が民間事業者に委託されます。すると自治体職員、たぶん社会教育専門職、図書館司書、博物館学芸員といった人たちもいなくなるかも知れません。

学校教育と同時に、社会教育をつかさどる文部科学省は、すでに2005年1月25日に、社会教育法上の問題はない、との見解を出しています。
ネットで調べてみると、すでにいくつかの市で、公民館、図書館に指定管理者制度の導入が進んでいます。指定管理者制度の導入とは、ようするに民間事業者に委託です。民間に委託することで、経費の削減を図ろうとするものです。

ネット上には、経費削減目的だけで、市民の大事な社会教育を売り渡していいのか、という議論があります。

なんでも市場の自由にまかせようとする新自由主義政策には、問題が多いかなと思っています。規制緩和、規制緩和、規制緩和に聖域なし、民ができることは民で、あらゆる分野にビジネス・チャンスがある、それが改革だ、という政策には、課題が多すぎると感じています。
現に、その結果、世の中が暗くなったと感じるのです。とはいっても政府の方針に、財政上締め付けられている地方の市があがらうことは、難しいでしょう。

だからと言って、公民館や図書館の指定管理者に、NPOでも作って手をあげる若さもありません。
心ある市役所の職員さんを助け、心ある市議会議員さんを応援することしかないでしょう。

  【おまけ】

* たまたま、昨日(1月21日)の日経夕刊に、やや大きなタタミ記事<変わる図書館>の連載が始まりました。“財政難でも理想を追う”“「民間任せ」見直す動きも”との見出しが目立ちますが、内容は、財政難に悩む自治体の指定管理者制度導入の流れを紹介しています。

* 兵庫県明石市の市立図書館の管理運営を担うのは、NTTデータが中心となった企業体である、と記事は書いています。コンピュータ・システム・インテグレーターのNTTデータがなぜ、図書館の運用管理に乗り出すのだろう、と思いませんか。

* 図書館にあるコンピュータシステムが狙いでしょう。どんな小さい図書館でもコンピュータシステムが導入されています。例えば、その更新は、ビッグなビジネス・チャンスなのでしょう。

* 本の一冊、一冊にITタグを貼り付け管理していくと、新聞記事に書かれたら、本好きの市民がどう集まっても、市民参加の春日部市、とあおられても、指定管理者に手をあげてもかなわないな、と思ってしまうのです。


ララガーデン春日部で知人らが藍染・手織・三人展をやっています(2008.1.21)

2008-01-21 21:49:50 | Weblog

ご近所のmさんから、友人さんと趣味(いや作品は趣味をこえています)の手織のグループ展を、11月に出来たララガーデン春日部でやっていますから、と案内をもらっていました。

ララガーデン春日部には、市民に開放するといわれていた部屋があると聞いていました。そのコミュニティルームを使うと聞いたので、状況視察も兼ねてでかけたのです。

2階のユニクロの近く、ちょっと奥まった所ですが、いくつか矢印案内板があって迷わず行くことができました。

かなり広い部屋です。落ち着いた色合いの作品が目に飛び込んできました。
ショール、マフラー、たベストリー、バッグ。そのまま使うことのできる手織りの作品です。藍染は、一転大胆なデザインが壁を彩っていました。
展示室は、女性作家さんらしい、細やかな気配りを感じられる和やかな雰囲気でした。

会場で、メッセージをもらいました。
<今はまだ、かたい冬芽の作品ですが、私達自身の中で、春がそこまで来ているのを感じています。
これを節目として更に成長できれば幸いです。
今年も大好きな糸や布に触れて生きていきたいと、決意も新たにしました>

この“藍染・手織 三人展”は、1月21日(月)~25日(金)午前10時~午後6時です。

  【おまけ】
*会場には、7,8台の手織り機が並んでいるコーナーもあって、マフラーぐらい出来そうです、いやその手ほどきをしてくださるので体験もできます。

*春日部市内で、手織サークル“茜”の教室の案内資料も置いてありました。教室の会場は、ハーモニー春日部と喫茶ゆめ色を使っているそうです。

*このララガーデン春日部のコミュニティルームを使って、サークルなどの展示会や発表会ができるな、と感じました。部屋の使用料は、<無料!!!>だそうです。

    【おまけの追加(1月22日)】

*昨日は、大寒、寒かった。ララガーデン春日部は、ストリートの作りです。街の寒さがそのままです。本屋さん・リブロも、無印良品も玄関開けっ放しです。閉めるわけにもいかないでしょう。
大変だったのは、中華料理屋さん。寒かったですね。まるで、寒風の屋台で食べてるようでした。心も冷え切るランチになりました。


わたしの故郷の岡山県“井笠鉄道のSL”のその後を探す(2008.1.20)

2008-01-20 18:15:44 | Weblog

*井笠鉄道さよなら運転(1971年3月31日)、この日の写真はネットに流れていないようです。

昨年末に、鉄道好きでカメラ好きの知人と話す機会がありました。
岡山県の私が育ったあたりを走っていた井笠鉄道が話題になったのです。井笠鉄道は、鉄道好きには評判の<ナローゲージ>、<軽便鉄道>だったようです。
その時に見せようとして、すぐに出てこなかった写真が、先日ひょっこり出てきたのです。

JR山陽本線で、岡山県と広島県の境に、笠岡駅があります。瀬戸内海に面しています。笠岡駅から北に向かう鉄道がありました。終点は井原駅です。そこに2つの支線もありました。これが井笠鉄道です。むろん今は廃線です。

*井笠鉄道路線図

私は、その井原近くで育ちました。この井笠鉄道を見ながら育ったのです。年に数度は乗る機会もありました。
おとなになって大阪に出てからの帰省時には、笠岡駅から井笠鉄道に乗って40分、終着の井原駅のひとつ手前の七日市駅でおり、30分ほど歩いていたのです。

子どもの頃、山陽本線に比べて小さな車両・鉄道を小馬鹿にしていたほど、親しんでいた、というべきか、生活の中に溶け込んでいたのです。
そこを、可愛い蒸気機関車がひっぱっていたのです。それをまだ、SLとは言わなかった時代です。 可愛いSLは、昭和29~30(1954~55)年にすべて、休車(廃車)され、機関庫などに放置されました。井笠鉄道は、気動車(ディーゼルカー)になったのです。

井笠鉄道が完全に廃線になったのは、昭和46(1971)年3月31日です。“さよなら運転”をしたようです。
その時、私は北海道で暮らしていました。北海道では、国鉄の大きな“本物”のSLが完全になくなりそうな頃です。
郷里井原の知人が、写真を送ってくれたのです。

*故郷の知人が送ってくれた四つ切りの写真2枚。SL1号機関車は、煙は出していますが、後の気動車に押されて走ったそうです。

写真の上とはいえ、“井笠のSL”とのなつかしいご対面になったのです。 その後、札幌から東京に出てきた頃には、新聞記事で“井笠のSL”に対面します。1975年に、なんと“あの有名な、都会の遊園地、西武遊園地を、“井笠のSL”が走るというニュースがあったのです。<田舎の“井笠”がメジャーになった瞬間です>

*1975年の新聞スクラップ。

*西武山口線を走る井笠鉄道の列車。

それから、ウン十年、私は、ついに一度も西武遊園地にいくこともなく、本物と<涙のご対面>はなかったのです。
そして、西武遊園地の“井笠のSL”は、老朽化、用立たずになって、1977年に実家に戻されます。
実家である井笠鉄道は、新山駅跡に記念館をつくり、その労をねぎらっているのです。私はまだ、その記念館にも対面にいったこともないのです。
暖かくなったら、井原の桜の頃に出かけてみようと思っています。

  【おまけ】

* 今日は、おまけの方が長くなります。井笠のSL(9両、10両かもしれません)の廃車後の流転の運命を追ってみます。人の流転にも似た悲しい運命があるのです。

* 鉄道好き・全国の井笠鉄道ファンが、ネット上に、たくさん書いています。参考にしました。

* ○は、保存・放置中で見ることができます。×は、消息不明です。

 ○1号機関車;>井笠鉄道さよなら運転>京都の円山公園>埼玉の西武・山口線>現在は笠岡市の井笠鉄道記念館

*西武遊園地の1号機関車
*井笠鉄道記念館の1号機関車
  (ドイツ・コッペル、大正2年(1913)年製Bタンクで昭和30年まで使われていた。静態保存されていたが、さよなら運転(気動車に押されて走った。その後、西武鉄道山口線に貸与、修復されて遊園地で活躍。昭和56年に井笠鉄道創立70周年に合わせて、旧新山駅の井笠鉄道記念館に展示されている)

○2号機関車;>現在は岡山市の池田動物園

*池田動物園の2号機関車
 (ドイツ・コッペル、大正2(1913)年製のBタンク、ナンバープレートは3は、動物園が希望したからという)

○3号機関車;福山市の赤坂遊園>現在は福山市新市町の新市クラシックゴルフ

*ゴルフ場(?)の3号機関車
 (ドイツ・コッペル大正2(1913)年製のBタンク、ナンバープレートは2)

×4号機関車;(ドイツ・コッペル)
×5号機関車;
×6号機関車;(7号機関車と同型)

 ○ 7号機関車;>姫路市阿賀線駅近くのナス畑>姫路のパチンコ百万ドル>DIYの駐車場>現在は長野県野辺山SLランド

*ナス畑のSLと呼ばれた流浪の7号機関車は、野辺山SLランドが安住の地になればよいのですが。
 (ドイツ・コッペル大正12年(1913製)のCタンク)

×8号機関車;

 ○9号機関車;広島県尾道市の高架下>井原線井原駅予定地>現在は井原市七日市公園

*井原線井原駅予定地にあった9号機関車
*七日市公園の9号機関車
 (ベルギー・コッケリル製昭和14年(1939)Bタンク、富士製鉄釜石鉱山専用鉄道で使われていた。23年4月購入。約1年半使用された後。24年10月休車、井笠最大の機関車。46年同社の廃止となり、尾道市の高架道路下に展示保存されていたが、井原に戻った)

* <おまけ>の写真などネットから引用しました。“井笠のSL”に関心を持たれた方、特に、訪ねてみようとお思いの方は、ネットWEBなどで現状を再確認してお出かけ下さい。


ジョン・レノンのヌードで販売部数アップをはかろう、私も(2007.1.18)

2008-01-18 15:14:05 | Weblog

毎日、同じ本屋(私の場合、TSTAYA南桜井店)に行っても、日々買いたい本があるわけじゃありません。そんな日が続くと、無意識に、無意味な雑誌を買ってしまいます。<また、ジョン・レノンの裸の表紙だ>と、一週間ほど、冷ややかに見ていた雑誌に、昨日(1月17日)手を出してしまったのです。

このジョン・レノンのヌードの表紙は、そもそもは、米国 Rolling Stone 誌の1981年1月22日号に載ったものです。ジョン・レノンが撃たれた後で、もうものすごく売れたのでしょう。後日知ったのですが、この写真が、撃たれた日(1980年12月8日)に撮影されたという伝説があります。ほんとうのようです。 その日の午前11時ごろ撮影です。

Rolling Stoneは、1969年創刊ですから、ざっと40年になります。通巻1000号を越えています。私の手元に、7,8冊あるでしょうか。古くは銀座のイエナとか、大手町の紀伊国屋で、表紙だけを見て買っていました。
昨秋Rolling Stone1000号記念に、表紙だけを編集した本(1000 Cover)が出版され,買いました。その表紙は、例のジョン・レノンのヌードです。

昨年秋には、Rolling Stoneの日本語版も創刊されました。正確には2度目ですから復刊号です。前にブログに書きました。<ここです> その創刊号を買ったのです。<ジョン・レノンのヌード>ポスターがついていたので、買ったのです。

それから、その雑誌を手に取ることもなかったのですが、また表紙が<ジョン・レノンのヌード>だったので、手を出し、買ってしまったのです。
いささか自己嫌悪に陥りそうです。

たぶん、この雑誌は売れ行きで苦戦していると思います。
だから、ニッパチ(売れない2月8月)の一発逆転を狙っての<ジョン・レノンのヌード>だろう、と思います。

正確には、違うようです。
1000号のうち、70年代(70年~82年で)の実に139号分の、表紙の撮影者、アニー・リーボヴィッツ(Annie Leibovitz)のドキュメンタリー映画が、この2月に、日本公開されるようで、その記念だそうです。
アニー・リーボヴィッツは、1949年生まれ、つまり一枚目の写真がRolling Stoneに載ったのは、20歳の時です。つまり彼女(アニー)の70年代は20代です。

・・・とすると、この映画を、見に行かなくてはなりません。すぐに終わるから、気をつけていなければならない。春日部市にくるわけはありません。
映画のタイトルは、「アニー・リーボヴィッツ=レンズの向こうの人生」です。

ところで、Rolling Stone 創刊 第1号の表紙は、ジョン・レノンです。
ついでに、ジョン・レノンが出てくる表紙は、12枚で、その中で、オノ・ヨーコさんと一緒が4枚、ヨーコさんだけが1枚です。
(さっき数えてみました。間違っているかもしれません、しかし暇だなあ、とつくづく思います)

“1000 Cover(表紙)”には、撮影者索引がついています。
撮影者=ジョン・レノンがひとつあります。1968年11月23日号です。
もういろんな、本・雑誌が掲載している写真です。だから私も、無断掲載します。

この写真がついているCDを持っています。
そのCDは、ジャケット・カバー(表)は、ジョン・レノンとオノ・ヨーコさんが真正面を向いています。

実は、このCDを、ロンドンの出張!時に見つけたときは、思わずにっこりでした。90年ごろでしょうか。普通のレコード屋さんで普通に買いました。
それまで、レノンのレコードやCDを一枚も持っていなかったのです。だから、この1968年に発売されたレコード(あるいは、CD)の日本の販売についてはよく知りませんでした。
 もちろんロンドンでも、ヘアだけでなく、丸出しで、店頭に並んでいたわけではありません。ちゃんと“腰巻”つけて並んでいました。
後日、日本の店頭、“正規盤”売り場で、顔の部分のみ丸く切り抜いて印刷したカバーになっているCDを見たことがあります。
今では、新宿あたりの外国盤屋さんには、丸出しを普通に売っているでしょう。

<ジョンとヨーコの初の共作アルバム。1968年5月19日夜、ジョンがヨーコを初めてウェイブリッジの自宅に招待し、夜明けまでに完成させた。・・・・・・ふたりの全裸のジャケット写真は・・・セルフタイマーを使って撮影。衝撃的なジャケットのためにEMIやキャピトルから拒否され、茶色の紙袋がかぶせられて別のレーベルから発売された>と書いている本(注)も、載せてるジャケット写真は<隠した盤>です。

今日のブログで、そのCDの写真を載せて、<部数=アクセス数>のアップをねらったのですが、どうも私の品格を問われるようなので、小さく掲載します。
今どき、ネットにはあふれているでしょう。

同時代のトップランナーとして、ジョン・レノンには注目していました。解説本(攻略本)はよく読んでいます。
でも、知っている歌、ただし熱狂的に歌える歌(?)は、Give Peace a Chance (日本語タイトルは、平和を我等に) 1969と A Happy Xmas (War is Over) (日本語タイトルは、戦争は終わった) 1971、の2曲だけ。ああ、イマジンも知っています。

だから、このCDを一度も聞いたことがないのです。“実は聞いていないロック評論家”状態です。
レノンやヨーコさんのヌードな思想が今もって理解できないのは、当然でしょうね。   

   【おまけ】

* 私の持っているそのCDは、SSI 9999でTwo Virgins Yoko Ono/John Lennon, Un finished Music No.1 1999 Made in USAになっています。

* (注)引用した文芸別冊“ジョン・レノン”に紹介しているアルバムは――――。未完成 作品第1集 トゥ・ヴァージンズ Un finished Music No.1 1968年11月29日イギリス発売、ビデオアーツ/ VACK-1125 。


自転車に子ども2人を乗せて、がんばるママを許してあげて下さい(2008.1.16)

2008-01-16 13:24:23 | Weblog

*本文と関係ありません。25年前の写真です。このブログに2度目の登場です。2人乗せても、全然問題ない。法で規制する程のことではないと思うのです。

私の知人です。首都圏のアパートに住んでいます。共働きです。子どもは2人。自転車の前後に、子どもを乗せて20分ほどの保育所に預けます。そしてパートに行きます。帰りは、子どもを迎えに保育所に寄って帰宅します。雨の日も風の日も。独身の頃に、持っていたマーチは手ばなしました。
長く待って、ようやく、やっと公立保育所に入れることができました。なお、2人の子どもはヘルメットをかぶっています。

この春から、自転車に子どもを2人乗せると、<2万円以下の罰金または科料の対象>になりそうなのです。
たぶん、多くの人が知らないうちに規則ができてしまうでしょう。

*朝日新聞2007年12月27日付夕刊一面です。正直、わかりにくい記事です。

暮れの新聞(朝日なら12月27日夕刊)に結構大きく載りました。
<警察庁は12月27日、自転車の正しい乗り方について教則を本格改正する方針を固めた。改正は来春ごろの予定で、自転車に関する教則の本格改正は、78年以来30年ぶりとなる>
自転車に絡む事故が増える傾向にあるからが、その理由らしい。

新聞も、1週間ほど前のNHK午後7時のニュースでも、ヘッドホンや携帯電話を使いながらの自転車禁止を大きく扱っています。ところが、よく読むと、傘をさしながらの自転車、もっと小さく、むやみにベルを鳴らすこと、幼児2人を前かごと荷台の幼児座席に乗せての「3人乗り」などについては、禁止・注意行為と定める、となっているようです。

携帯電話をしながら自転車で歩道を走るのと、子ども2人を乗せて懸命に生きるのを、一緒にしないで、と思ってしまいます。
“でも、注意行為”だから、現実には、おまわりさんが見逃してくれるだろう・・・・、かな。 ところが、です。

朝日の記事によると、<「3人乗り」は、「2万円以下の罰金または科料」の対象で、その他は主に警告となるという>と書いてあるのです。
3人乗りだけ罰金、と読めるのです。

 *3人乗りだけ罰金と読めませんか、この記事。

若い出産・保育世代は誰も、決して豊かではありません、せいいっぱいの生活です。
少子化、少子化対策といいながら、<がんばるママの支援>と逆の施策でないですか。春日部市長さんは、“日本一子育てしやすい市”をめざしています。
貯金ができてからでなく、若いうちに子どもを産んでガンバルことも、大切なことでしょう。
早くクルマを買えというのでしょうか。
環境<温暖化>対策は、なるべく乗らないことが、最優先策だと思うのですが。

そもそも、自転車による歩行者の事故の増加は、歩道の自転車通行を許したことにあるのでは、ありませんか。
念のためですが、私は、自転車を車道に戻せ、と言っているのではありません。そんな恐ろしいことは、言えません。

*これも、2度目の登場です。いい感じの大好きな写真です。“ここは、自転車だめだよ”、の写真のつもりでは、ありません。

罰金だ、なんて言うのじゃなくて、いがみ合うのじゃなくて、狭い歩道なんだから、譲り合って、ゆっくり行きたいと思うのです。


おめでた小野リサさん・ボサノバ・ソウル・越谷コンサートに行きました(2008.1.15)

2008-01-15 18:54:27 | Weblog

昨夜、いや開演が5時だから、昨夕、電車で新越谷のサンシティへ出かけました。この頃、コートを着る習慣がないので、マフラーだけで出かけたら、とても寒かったです。
6月頃、小野リサさんがご懐妊(チラシにこの言葉)発表で、予定のコンサートが延期になった振替公演です。ご出産まで延期ではなかったのです。安定・落ち着いたからコンサートでした。

*持ってるCDは、ベスト盤一枚だけ。

 12月下旬に、チケット予約しました。席なんてどこでもいい、参加に意義ありだったのです。まあ、その程度のファンです。持っているCDは、ベスト盤が一枚。
私は、ボサノバのリズムがよくわからないので、ギター練習用の小野リサさんです。4,5年前には、教育テレビのギター講座にも出ていました。ギターのボサノバのリズムを覚えようと真剣に聞くのですが、あのかぼそくあまい歌に、聞きほれてしまうので、いつもギターは聞いていないのです。

コンサートが始まりました。ちょっと後にそった、おめでた・スタイルで登場です。拍手!!!

一曲目は、おはこの“イパネマの娘”です。すぐに、そのあまったるい早口のポルトガル語の世界です。
はるかに遠いステージ、ギターの右手が見えない。お顔には、強い照明があったて、白とび状態です。ピアノ・フルート・ベース・ドラムスのバックも押さえて静かに弾いていますが、ギターの音がほとんど聞こえません。今日も、目をつぶって聞く状態です。今日の、コンサートは、“ボッサ・アメリカン・ツアー2007”です。ほとんどMCもなく第一部が終了。

第二部は、アメリカン・ソウルのステージだから期待しましょう。ロビーで、人を掻き分けてCD売り場に。ボサノバの小野リサさんが、カントリーやソウルのアメリカンを歌っているCDも知っています。私が、カラオケでシブシブ歌う“Take me home country road”も入っています。7月に出たカバー第2段のCD(Soul & Bossa)を手にして、収録曲を確認しました。あれっ・・・・うーん。

第二部の一曲目は、ジャンバラヤ。ハンク・ウィリアムスです。私らのバンドもやります。しだいに、ボサノバ調というか、小野リサ節にかわります、好きではないな。
演奏は、第2段のCDから続きます。ジョージア オン マイ マインド、アンチェイン・マイハート。だんだんコンボ・ジャズ・スタイルでいい感じになります。バックのフルートの女性がアルトサックスに持ちかえて、吹きまくる曲が一番良かった。曲名はわからない。
小野リサは、やはり癒し系です。大きなホールには合わないように思いました。
2部のコンサート中、待っていた曲があったのです。やりませんでした。<やってくれたら、CDを買って帰ろう>と決めていたのに、です。

7時には終わってしまいました。きっと身体を、気をつけておられるのでしょう。だったら、サイン会もないだろう。
さっとホールをでました。コートがなくて冷たさが身にしみました。 “まあまあだったな”とひとり、つぶやいて帰りました。

  【おまけ】

*その曲は3曲目です。9曲目には、I can't stop lovin' you. <IOCD-20215>

*眠る前に、パソコン立ち上げました。なんと、私がステージの中で待ちつづけた曲が、“ここからダウンロードして!”と、知人からメッセージが入っていました。ネット用語でなんというのか知りませんが、ライブ映像付のサイトです。聞くといつも、胸にくる、その曲名はあえて書きません。

*ここでは、泣けませんが、そのサイトのURLは、<ここです> ピアノを弾いているキャロル・キングが素敵です。ここには、いくつか別の演奏もあって、遅くまで聞いてしまいました。


情報理論のシャノンの定理を同時期に日本人研究者も証明していた(2008.1.14)

2008-01-14 23:49:59 | Weblog

*右;シャノン;コミュニケーションの数学的理論(長谷川、井上訳)明治図書、1969年5月発行。左;原著、Mathematical Theory of Communication (Univercity of Illinois Press) 第1版は1949年発行。

今日は、このブログにふさわしくないかもしれませんが、なんと情報工学の話題なのです。

毎朝、新聞の死亡記事を軽く眼をとおします。4,5日前(1月10日)に、<染谷 勲さん=元NEC常務。12月31日、急性呼吸不全で死去、92歳。葬儀は近親者で済ませた。喪主は・・・、連絡先はNEC・・・>と、ごく一般的な書き方の死亡記事がありました。
日経はこれで終わりでしたが、朝日には、ほんの少し追加があったのです。<アナログ信号をデジタル化する情報技術の基礎定理「標本化定理」を、米国のシャノンと同時期に独立に証明した> と。“えっ”と思ったのです。
ネットで、他の新聞を調べてみたのですが、<追加>しているのは、朝日だけのようです。さすが、朝日です。

*朝日新聞 2008年1月10日付

シャノン(クロード E シャノン;Claude Elwood Shanon)は、情報工学を勉強してきた者、あるいは関心のある者には、知らない人はいない程の、情報理論の考案者、大先駆者です。

私も30年ほど前に、シャノンの情報理論を本気に読んでいた時代があります。

 *7,8年前に、埼玉県立久喜図書館で廃棄されたシャノンの本を拾ってきました。この古典的名著が捨てられるのはたまらなかった。だから、わが家には2冊あります。

いくつかの<シャノンの定理>が知られています。
そのシャノンの定理のひとつ、標本化定理を、シャノンと同時期に、日本人が証明していたというのです。知らなかったのです。

ネットで調べると、<標本化定理は1928年にハリー・ナイキスト(Harry Nyquist)によって予想され、1949年にクロード・E・シャノン(Claude E. Shannon)と日本の染谷勲によってそれぞれ独立に証明された>と出てきました。

まもなく、今年2008年2月 “画像電子ハンドブック”が発行、発売されます。私は、画像電子年表を担当しています。<ここにあります>
画像電子ハンドブック(1993年版)も担当しました。つまり、ざっと20年間以上、画像技術史、情報技術史に関わっていたことにもなります。シャノンのことを書きながら、日本の染谷勲に触れていないのです。

情報技術が欧米を中心に発展したことは事実ですが、日本にも発展に寄与した研究者がいたのです。
やはり欧米の学会などでの積極的な発表の有無が重要になるのでしょう。

日々、情報研究室で励んでいる若い研究者さん、積極的に、欧米の学会に発表していくことも必要なのですよ、<まず、英語・・・・かな、余裕ができたら、英語でしょうか>

   【おまけ】
*この染谷さんのことを、ネットで調べようと検索していたら、慶応義塾大学の足立研究室のブログ(2007年5月29日)にヒットしました。<ここにあります>

*染谷 勲さん著 波形伝送 (足立研ブログから)。公立図書館では、とっくに廃棄しているでしょう。信州大学工学部の図書館、あそこには、ありそうな気がします。

*<ディジタル信号処理の基本である「サンプリング定理」は1949年に米国ベル研のシャノンと電電公社(現NTT)の染谷によって独立に提案された。染谷は「波形傳送」という本の中でこの定理を発表した>と、足立先生が、<著書「MATLABによるディジタル信号とシステム」(東京電機大学出版局,2002)でサンプリング定理誕生のエピソードを紹介したら、読者から,「染谷勲著:波形傳送」(昭和24年10月発行、390円)が突然送られてきた。送っていただいた方は電電公社に勤務されていた技術者で,退職後,この貴重な本をどこかに寄贈しようと思っていたところ,本を読んで慶應義塾大学 足立研究室に寄贈することに決めたとのことであった>

*私は、こういうお話が大好きなのです。私も蔵書というほどでもありませんが、本の山の一冊でも、こんな風に、あとから来る人に役立てることができたら至上の喜びなのです。


なぜ今日13日に成人式?まあいいか、おめでとう(2008.1.13)

2008-01-13 23:43:32 | Weblog

*右;Haさん、左;Ayさん。バックは、私が、大昔にもらったアルバムです。まだ、今も、持っていることが、やや恥ずかしい。今は、<紅白のお饅頭>をもらうのかな?、物のあふれる現代に、使われない“物”をもらっても、しょうがないでしょう。

今朝9時半頃、車のドアを閉める音がして、わが家のピンポンがなりました。宅急便がきたなと思って出ていったら、違いました。振袖姿でにっこりのご近所のayさん、だった。成人式に向かう前に、ちょっと寄ってくれたのです。 笑顔に嬉しさがあふれていました。

成人式は小正月(1月15日)にという古来からの伝統を破って、成人の日=祭日からただの休日に変えてから、年頃の娘がいない家には、いつが成人式の日かわからない。今年のカレンダーには。明日14日(月)が成人の日になっています。春日部市長の公務の都合なのかなあ。

私らの時代、うん十年前も成人式があったのですが、ボイコットというか、行かない人が大勢いたように思います。今は、皆、行くんでしょうね。

・・・・と書いて、<私は、成人式に仕事で、行けないので、写真だけ撮りました>と、メールに振袖写真を添付して送ってくれた知人Haさんを思いました。<二十歳には見えず,七五三みたいですね・・・・・・>と、書いていました。いや、なかなか可愛い・・・・・よ、と返信しました。

  【おまけ】

*まあ、いいお天気で何よりでした。<あなたちの成人を祝うように、暖かく晴れわたった春のような日になりました・・・・・>と、来賓の祝辞の、“マクラ”は、こうでしょう。地球温暖化だから、暖かいのですが・・・・。

*ウチのムスメの10年前の成人式は、ここ庄和町も大雪でした。徒歩3分の会場(正風館)までは、振袖+長靴(これは、ウソ)でした。お父さんが夏タイヤの車で送っていけないほどの大雪でした。ふたりの息子の時のことは記憶にありません。

*小さな町、わが庄和町の成人式で、私らスウィング・ベアーズがお祝い演奏したことがあります。10年前ぐらいでしょうか。若者向きに、そのころ流行っていた(私も好きだった)、“イノセント・ワールド”もやりました。
今も成人の日を迎えた皆さんには、<自分に、イノセント(正直)に生きてほしい>が、私からのメッセージです。


昨日亡くなったヒラリー卿がエベレストに立ち、新聞報道にされるまでに4日要した(2008.1.12)

2008-01-12 21:39:05 | Weblog

*左;2008年1月11日夕刊、朝日。中;同日夕刊、日経。右;National Geographic エベレスト50年特集(2003年5月)表紙のヒラリーさん。

エベレストやマナスルの初登頂のニュースは、私ら世代の子どもの夢と冒険だったと、このブログに書いた翌日(1月11日)に、エベレスト初登頂者、エドマンド・ヒラリーさんが亡くなった。
不思議といえば不思議、ただの偶然といえばただの偶然です。

ヒラリーさん(88歳)は、ニュージーランド生まれです。1956年のエベレスト登頂後、<85年からニュージーランドの駐インド、ネパール大使も勤めた。「ヒマラヤ基金」を設立、エベレストの南方にあるネパールのクンブー地方に学校や病院を建設する活動に力を入れ、自然保護についても晩年まで積極的に発言を続けた>(朝日)

1953年5月29日の英国隊による初登頂の、エドマンド・ヒラリーとネパール人のシェルパ、テンジン・ノルゲイ(1986年に死去)の名前は、子どもの頃から知っていました。子ども向き(岩波少年少女文庫)のエベレスト登頂記は、中学時代の私の愛読書だったのです。

 左;エヴェレストをめざして ジョン・ハント著 岩波少年少女文庫(1954年初版)、右;原著(1954年初版)、後に古本屋で見つけた。

むろん、たわいのない子どもの夢にすぎません。ただ、私は<書斎の岳人、書斎のエベレスト登山者>だったのか、その後の各国遠征隊の登頂記をよく読んでいました。
そのころ、ヒマラヤなど遠征登山には、新聞社が支援していました。たまたま、私も、報道関係で仕事をするようになって、ヒマラヤ登頂速報競争の、現場近くにいるようになっていたのです。

ナン十年か後に、自由を取り戻して、まずヒマラヤ・エベレスト見たいと、ネパールを1ヶ月ほどさすらっていました。
帰国して、ずっと読んできた埃まみれのエベレスト登頂記を読み返しているうちに、登頂時刻と新聞報道の遅れ(時間差)拾い出していたのです。
その頃、たまたまエベレスト登頂50年の年で、雑誌のエベレスト特集も盛んだったこともあって、ちょっこっと、ある雑誌に書いたのです。

いくつか拾い出します。
1956年5月29日午前11時30分(現地時間)のイギリス隊の初登頂のニュースが、英国バッキンガム宮殿から発表されたのは、6月1日夜。朝日新聞は、6月2日夕刊。4日後のことです。山頂での登頂写真(テンジンの写真)の新聞掲載は、6月23日夕刊で、なんと25日後のことです。

*右;エヴェレスト登頂(ジョン・ハント著)朝日新聞社 1954年初版。左;頂上のテンジン(この写真がカラーであることが今でも信じられない。National Geographic エベレスト50年特集(2003年5月)から。

1970年5月11日午前9時30分の日本隊の初登頂は、14日夕刊一面で速報!!された。3日後のことです。毎日新聞とNHKが支援していました。映像は2週間ほどしてフィルムが日本に到着してから放映です。

田部井淳子さんの女性による世界初の登頂は、75年5月16日午後12時30分。朝日は、17日夕刊で報道している。1日後です。

それまでは、ネパール側からの登頂です。80年には、中国側から登山が許可され、日本隊(読売新聞と日本テレビが支援)は、80年5月3日に登頂。登山経過は、毎日、日本に伝えられた。ここで新聞報道の遅れはなくなりました。

その後は、エベレストは、秋、冬の登頂競争になります。
88年には、読売、日本テレビが、総勢285名という日本・中国・ネパール三国登山隊を送った。私の読売新聞の友人も参加3ヶ月ほど、ベースキャンプに滞在、私を羨ましがらせたのです。このとき、日本テレビ(プロデューサーは岩下莞爾さん)が頂上から、テレビ生中継を実現。登頂は5月5日午後4時7分、放映開始は4時23分であった。

この後、エベレスト登頂がニュース報道されることはなくなったのです。
地球上の探検や冒険の、報道に意味がなくなったのです。

私が歩いていた2002年には、登頂者は1500名を越えました。
現在、山頂から、衛星電話システムを使い、世界中に電話し、メールを送り、自分のホームページに登頂写真を載せることも可能なのです。

   【おまけ】

*原稿につけた“エベレスト頂上付近概念図。上が南側(ネパール側)、下が北側(チベット・中国側)です。

*ネパール、中国の両方から登山ルートを描いてあるエベレスト概念図がなかったのです。どこか雑誌に載っているだろうと思っていたのですが、なくて、自分で作ったのです。そのまま雑誌に載っています。

  【おまけのおまけ】

*今日2008年1月13日では、エベレスト登頂者は、約3500人です。朝日新聞(13日付)の、ヒラリーさんを話題にした天声人語から。この5年間に、2000人増だから、この頃、年に500人が登っていることになります。

*一般のエベレスト登山は、ほぼ5月に限られます。ここに書いた、歴史的登山も登頂は、皆5月です。気がついていましたか。日本の夏休み時期は、ネパールの雨季です、だからヒマラヤを見ることもできないのです。


正月紙面は地球温暖化。私もヒマラヤに行きたい(2008.1.10)

2008-01-10 16:51:20 | Weblog

*朝日新聞2007年11月25日朝刊。写真、上の中央がエベレストです。

新聞にしてもNHKにしても、今年のお正月を“飾る”トピックスは、地球温暖化問題です。
朝日新聞は、正月紙面の特集に備えて、11月頃より記者を特派して、併せて“地球異変”の大型連載を始めていました。

11月25日付朝刊一面は、朝日新聞社機を飛ばし、エベレストとクンブ氷河を撮影、その写真と78年に名古屋大学が撮影した写真を掲載し、比較できるようにして、地球温暖化で“細る氷河”を示した。ヒマラヤの雪がとけ、氷河がとけ、氷河湖が決壊し下流に危機を生み、さらには、インド、バングラデシュの水資源確保に影響しかねない、と書いています。
朝日と名古屋大は、ヒマラヤ氷河の状況を、今後も共同調査をしていくらしい。

例年、2,3本は録画するテレビの年末年始番組も、今年はただの1本です。<エベレスト街道をゆく(12月27日夜7.30~NHK)だけなのです。5年前、ほぼ私が歩いた道で、必録の番組だったのです。
そこでも、地球温暖化で細る氷河が報告されていました。イムジャコ氷河湖の状況を慶応大学の福井弘道教授が解説していました。

私には、温暖化課題、それはそれとして、ヒマラヤ・トレッキング・ガイドなのです。

*朝日新聞2008年元旦付第4部。奥がマナスル、中央がアンナプルナです。

朝日の元旦号第4部には、朝日を浴びる、日本隊が初登頂したマナスル、そしてアンナプルナ山群の赤焼けの写真が表紙を飾っています。

日々、少し退屈しています。行きたいなあ~。
今度は、中国(チベット)側からチョモランマ(エベレスト)のベースキャンプまで行きたい、と初夢です。

   【おまけ】

*左;毎日グラフ、50円(写真は槇有恒隊長62歳)。右;マナスル登頂記 槇有恒 編著 昭和31年8月20日 毎日新聞社発行、200円。

*マナスル登頂は、日本人初めての8000m級登頂です。8125m世界第7位で、むろん未踏峰でした。5月9日午後零時30分(現地時間)、昭和31(1956)年のことです。イギリス隊によるエベレスト登頂は1953年5月29日です。
私ら、子どもの夢と冒険の世界だったのです。なお、その頃、ヒマラヤ支援は、毎日新聞社だった。

*朝日新聞社は南極支援だったのです。これら朝日紙面の航空写真は、南極越冬した武田剛写真部員です。 同じく南極越冬した中山由美記者は、温暖化の影響で、ガンジス川デルタ地帯の削られる島の課題を、バングラデシュからレポートしていました。興味深い記事でした(12月17日付)。