*子らよ、はばたけ、山崎まさの著、自費出版、1985年10月10日発行
昨日、ぼんやり街を歩いていて知人に会いました。突然一冊の本を、<こういう本、好きだと思うから、さしあげます>と渡されました。
新しい本ではありません。ハードカバーで、<子らよはばたけ=戦後の福祉に生きて>山崎まさの著でした。ポカンとしていたら、<“子供の町”の創始者・園長さんですよ>と、付け加えられました。
春日部市の旧庄和町エリアに住んで、“子供の町”の名を知らない人はいないでしょう。戦争孤児たちの住む施設であったことは、ぼんやりと知っていましたが、40年程、この町に住みながら“子供の町”のことを知る機会はありませんでした。
昨夜から今朝にかけて、もらった本を一気に読みました。
昭和24年、当時、40歳の女性・山崎まさよさんが、戦災孤児たちの母になって、この地に住み始めます。むろん山崎さん自身、昭和20年5月の東京空襲で家を焼かれています。この本が出版された昭和60年(1985年)著者76才、までの、“子供の町”の園長として、多くの子どもの母親をやっていく人生が優しい文章で綴られています。ありきたりの言い方ですが慈愛にあふれた文章です。慈愛にあふれた人生が読み取れます。むろん、出版されてから今日までに27年、その後のことは知りません。
<東京を朝出発して、日暮れ時にここ埼玉県の南桜井駅に降りたった。見上げる葛飾の空は暗かった。・・・生まれて初めての見知らぬ土地を、トボトボ歩いているのだと思うと寂しさがこみ上げて、心の中では泣いていたのかも知れません>。
この本の最初、すなわち昭和24年3月に、自分の子ども(珠美さん=現在の園長さんか)と8人の孤児たちと一緒の、南桜井村での第一歩を、こう書いています。
昭和20年、太平洋戦争時、南桜井駅周辺は、林が切り拓かれ、東京から疎開してきた軍需工場(セイコー)と従業員たちの寮がたっていました。終戦で工場は閉鎖、従業員寮は、外地からの引き揚げ者寮になっていたと聞きます。陸軍病院がありました。その病院の建物が、山崎さんと8人の孤児たちが住みはじめた“子供の町”なのです。
(なお、従業員寮付近は、三井不動産に払い下げられて(あるいは買い上げられて)、建売住宅として売り出されます。今の三井住宅あたりです)
*開園当時の“子供の町”(同書から)
*開園当時の“子供の町”看板(同書から)
こういう文章(p221)があります。
<発足当時、この地はのどかな緑の一寒村でした。無医村に等しく保育所もない、木造の村役場と小学校がはるか森の彼方にぽつんと浮かぶだけの文化果つる思いの村でした>
“子供の町”が開園した昭和24年3月は、ワタシが小学校に入学する直前です。ワタシと家族も岡山市の空襲で焼け出されていました。ワタシ自身、疎開した岡山県郡部、山中で育ったのです。戦争と敗戦後という時代には、どこの子も“子供の町”のこどもたちと紙一重の生活だったのです。
そうして1974年、ワタシは“子供の町”から500mほど離れた所に、小さな家を買い住むことになったのです。その頃もまだ、この地は<文化果つる地>でした。
山崎まさのさんの随想記・自分史は、年月を明記された随想になっていて、同時代記を読むような気持ちを持ったのです。慈愛・博愛に満ちた人生だったと感銘を深くしました。
【おまけ】
*むろん、私の無関心さから来るところですが、ほんとに近くにありながら、子供の町(今は、社会福祉法人)のことは全く知りません。本の後半には、民間施設維持の大変さがたくさん書かれています。町役場=行政も“子供の町”との関係も薄かったと感ずるのです。ただ、この町に住む子どもたちは、“子供の町”の子どもたちと、学校などで普通の接点があったのですが。
*随所に、東京に住まわれる高貴な方、皇族・旧華族の名前が登場します。“子供の町”の財政的な支援は、そういった方々からあったのではないかと伺わせます。ヨーロッパ伝統の<ほんとうの>ボランティア精神で支えられていたのでしょう。
*創設期の子供の町については、庄和高校地歴部が発行した<南櫻井村戦後史・1989年発行>、<疎開地からの報告・東京の子供達・1994年発行>を読んでいて、多少の知識あったのですが、それらの原典がこの本だったのです。
*別の知人に、“子供の町”の教職員さんの娘さんがいます、すなわち“子供の町”の中で育った人です。ほとんど話したことはありませんが、庄和高校地歴部発行の本を何冊かもらっています。<父の遺したものですが>と。